「新編武蔵風土記稿」巻之百三十
(新座郡之二)
野寺村
八幡社
除地、下に載る弁天の社地及別当寺境内とともに三町余、
村内南の山上にあり、
別当は満行寺なり、
彼寺の門と当社の入口と相対の間に路あり、
入口は寅卯の方に向ふ、
石階九級を登りて纔の平地あり、此所に鳥居を立、
左右に石灯籠ありて、又三級の石階を登りて、二十六七歩を行けば左右に老杉あり、
爰より又六七歩奥に北に向て石階あり、十六級を登りて社前に至る、
拝殿 三間に二間、
本社 二間に三間にして、茅葺也
満行寺縁起、云
当社鎮座の年歴は多くの星霜を経て詳ならざれ共、
祭神正八幡は本地三尊阿弥陀仏にて、行基菩薩神亀元年の作也、
康平六年に社の修復あり、
其比は屋根も瓦葺なりと云伝ふ、
当時のものと見へて、今に此山の辺にて古瓦の砕たるものを摭ひ得る事あり、
長治二年源義家奥州征伐の時、当社へ賊魁貞任宗任等調伏の立願あり、
此時本社を再造して北向に作りしより今に至りて同じ向なり、
すべての神社北向なるものなし、
日本国中に此社ともにわづか三社ありと云へり、
されどこの寺伝年代相違せり、古書を閲するに頼義の貞任等を誅せしは、康平五年の事なり、
又寛治五年に義家家衡武衡を滅す、長治は寛治五年より十五年の後也、
事蹟全く合はず、縁起の妄誕しるべし