玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮 式内社(上総国埴生郡 玉前神社〈名神大〉)
上総国一宮
旧・国幣中社
現在の祭神 玉依姫命
本地 娑迦羅龍王第三女

「一宮町史」

神社と祭礼

玉前神社 一宮字宮之台に鎮座する。 「延喜式神名帳」=醍醐天皇の延喜五年(905年)、藤原忠平などが勅を奉じて選修した文献=の巻九に『上総五座大一座小四座」埴生郡一座大」玉前神社名神大』とある古社である。
[中略]
祭神は、現在では玉依援というのが通説になっているが、古くは確立したものではなかったらしい。 「延喜式神名帳頭註」には、『上総国埴生郡玉前 高皇産霊孫玉前命也云不審也 今按高皇魂弟生霊子也 号前玉命 掃部連等祖也』とあり、また、「神名帳考証 上総」には、『玉前神社 今在一宮村 天明玉命、姓氏録云忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也 古語拾遺云 太玉命所率神明櫛明玉命』とあるように、国家神として格付が定まっていても祭神については定がなかったようである。
徳川時代においても、この説が継承されており、「大日本史 神紙十三」に、「前或作崎 今在長柄郡一宮本郷村 称玉崎明神 按諸鎮座 記云紀日大己責命 是蓋玉前以為前玉遂附会幸魂不可信也 神名帳頭註一宮記為高皇魂命孫玉前命 然玉前命古書無所見 或伝記海神玉依姫亦無確拠」と記されてある。 しかし、当地では古くから玉依媛として信仰され、本地仏は娑迦羅竜王(八大竜王の一、天海に住す)第三女とされていたもので、玉前の名称より混同された説と思われる。

寺院と民間信仰

観明寺とその末寺  <観明寺> 市街地西端の字院内にある。 古くから格式ある天台宗寺院であった。 現在、長南三途台長福寿寺末であるが、徳川時代以降において、しばしば本来関係の移動があった。 古文書に記載する本末関係をみると、上野東叡山末・長福寿寺末・延歴寺直末と一定していない。
寺伝によると、天平六戌甲年(734年)僧行基の開基・慈覚大師の中興と伝えられ、徳川時代には、御朱印十二石の領地を有し、玉前神社の別当職であった。 明治二年の分限書にも、「玉前神社一宇、但神主方仕配仕候。毎年祭例ニハ衆僧立会法要仕候」とあり、平安中期より千年以上にわたって玉前神社別当の地位を築いていたようである。 宝永六年(1709年)の由緒記によると「一宮玉崎明神、当寺ノ鎮守トナリ玉ヘル因ヲタズスルニ、仁明天皇ノ御宇嘉祥元年一沙門アリ。敬祟上人ト号ス。奥州口口ヨリ来リテ此ノ処ニ居ス。時ニ当時スデニ仏閣堂塔ヲ創建ストイエドモ、イマダニ鎮祠ヲ請セズ。本迹兼備ト謂フベカラズ。故ニ里人ハ慊然トシテ意ナオ満タサズ。宗子里人ノ意ヲハカリテ、寄勝ノ神ヲ請シテ以テ鎮宮トナサント欲ス。スナワチ一百日ヲ剋シテ毎日歩ヲ東浪見釣ケ崎ニハコピ、ハルカニ海上ヲナガメ龍神ヲ祈請ス。漸ク百日ニ満ツルノ暁、維時八月十三日明星ノ出ズル時、沙羅龍王第三女、玉依媛ト号ス、十二戈処ノ明神トトモニ千尋ノ漠洋ヨリ湧騰シ、波澗ヲ簸揚シテ以テ来現シ玉フ。(中略)神殿ヲ造営シ喜号ヲ敬献シ、モツテ当国一宮玉崎明神トナス。山ヲ龍頭山ト称ス。按ズルニスナワチ其ノ本ヲ表ワスナリ。今ハ改メテ玉崎山ト名ズク。」とある。 これは平安時代中期に天台・真言系の教学に基を発した木地垂迹思想によるものと云える。
[中略]
本地堂は、本来は玉前神社の本地仏を祭ったものと思われるが、現在ではこのような性格は失われている。 現存の仏像は、四臂の菩薩像で珍しい造像である。 弓・箭・杵・鈴を持った手形からみて金剛王と推定される。 いまは観音講の信仰対象になっている。

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

上総国

Ⅰ 一宮

1 玉前神社。
5 祭神は、社伝では玉依媛命といい、卜部兼倶の『神名帳頭註』では高皇産霊の弟生産霊の子玉前命としている。 『古今著聞集』の一宮託宣事には、延久2年(1070)に当社の神が懐妊後3年に及び、今国を治める時に臨みて若宮を生むと託宣し、海浜にあった明珠一顆が若宮といわれることから、当社の神は女神ともいわれる。 本地仏は婆迦羅[娑迦羅]竜王。
6 別当寺は観明寺。