手向神社 石川県河北郡津幡町倶利伽羅 国史現在社(手向神)
旧・郷社
現在の祭神 素盞嗚命
[合祀] 神功皇后
本地 倶利伽羅不動明王

「加賀能登神社由来書上」

手向神社

一、当寺者、養老弐年善無畏三蔵之開基ニ而御座候、 此大徳之比丘ハ、天竺之祖師渡日域行脚、竹橋ニ宿、 自是越中エ越申道有哉と尋給ヘバ、此峠ニハ化生有之、往来難成申候、 三蔵彼山エ登給所ニ化生、悪剣と依顕、 三蔵其時、倶利伽羅不動被勧請候得者、悪剣自退治、 自夫倶利伽羅山と名付申候

「越中志徴」巻二
(礪波郡)

手向神社

○手向神社  三代実録に、元慶二年五月八日癸卯。授越中国正六位上手向神従五位下。と、 此神社は、万葉集巻十七越中掾大伴宿禰池主の長歌に。「刀奈美夜麻。多牟気能可味爾奴佐麻都里。云々」とよめれば、礪波山に鎮座ありて、即ち倶利伽羅峠なる不動なることいちじるし。 故に明治維新の際、倶利伽羅不動を手向神社の旧号に復し、別当長楽寺住職復飾を命ぜられ、十握将監と改称し神官と成たり。
○手向神は、真福寺本和名抄に、道神。唐韻云。音揚。一音觴。道上祭。一云。道祖神。 漢語抄云。和名 太無介乃加美。と、 古事記に、岐神。此云布那斗能加微。とあり。 記伝に云、口决纂疏などに、此神を道祖神なりといひ、和名抄に、道祖佐倍乃加美とあり。 道祖と云ふ文字は、漢国にて行神を祖と云。 叉その神を旅だちに祭ることも祖と云。 故に此佐倍神に当たるのみなり。 叉和名抄に、道神多無介乃加美。とあるも同く此神なるべし。 こは旅ゆく人の手向する神なれば名づくるなりといへり。 されば此礪波山なる手向神をば、倶利伽羅不動と称せしも、そのかみ泰澄が倶利迦羅明王の法を行ひて、手向神の本地仏となしたるより、世人不動のみ称し、遂に手向神社の社号も失ひたるべし。 明治五年七月手向神社の旧社号に復古す。
[中略]
○倶利伽羅山長楽寺  真言宗の古刹にて、倶利伽羅不動の別当也。 然るに明治維新の初め、神仏混淆御廃止の御趣意に基き、明治二年復飾して十握将監と改称し神官と成、長楽寺の寺号を廃せり。

小倉学「礪波山手向の神考」

 以上四種の縁起の説く不動堂の由来を見るに、部分的には差異もあるが。大筋においては変らない。 すなわち養老の初め(二年三月とするのが宝集寺本・十握本である)、天竺の善無畏三蔵がこの地に来たって、山中の魔鬼の害を聞き、池辺で聖不動明王三昧法を念じて倶利迦羅竜王を召請、魔鬼は退治され魔界は仏刹となった。 その後、弘法大師が善無畏の旧刹を訪れ、手ずから倶利迦羅像を彫って本尊となし永く護国安民の霊場としたというのが縁起の大綱である。
 注意すべきは、山中の魔鬼が、剣刀を飛ばし熱砂を降らす(不動寺本)、剣輪を飛ばす(市立図書館本)、大剣に化して飛びつく(宝集寺本)というように、剣によって象徴されていることである。 宝集寺本では、善無畏三蔵が倶利迦羅竜王陀羅尼を誦すると大婆鬼の剣が飛び来たり、たちまち池中より大蛇(竜)が現れ剣を巻いて上天、二童子もこれに従い、大婆鬼の剣は大竜に捕らえられたという次第を詳述、魔鬼を表す剣が竜王に退治されたとするのである。 安永年間の稿だといわれる宮永正運(享和三年没、72歳)の『越の下草』巻二の倶利迦羅山長楽寺のところにも右と同趣の記載がある。
 これ等は、不動堂の本尊すなわち竜が剣にまといついた倶利迦羅不動の形相にむすびつけた説明だといえよう。 元来、剣は不動明王の持物で降魔の利剣、巻きついた竜は不動金縛りの羂索を表したものだとされる。 それを縁起は、倶利迦羅竜王の竜を主体にして剣をば降伏される魔鬼だとするのである。
 ところが十握本は、これとは逆に、剣は降魔の宝剣、竜は池に棲む悪蛇だとするのである。 善無畏三蔵が池辺で神剣を祈って降伏の秘法を修すると、天から宝剣が池中へ飛び下りた。 すると池の悪蛇が宝剣にまつわり、これを呑もうと忿怒の相を示して天へ登り、遂に降伏される。 この姿を三蔵が彫刻して「剣索不二倶利迦羅不動」と名づけた。 これが「日本一社倶利迦羅不動降魔出現国家之鎮護両部之守神竜王神璽」で、その本地は素戔鳴尊だとするのである。 記紀に見える素戔鳴尊が十握の剣をもって八岐大蛇を退治した神話にもとづいたものといえよう。
[中略]
 かように四種の縁起は、山中の魔鬼が善無畏三蔵の行法によって不動明王に降伏されたとして不動堂の由来を語るのであるが、どうして礪波山にかかる霊験譚が生じたのであろうか。 これは、往昔、礪波山のタムケにおいてなされた荒ぶる神の鎮祭と深い関係があると見なければなるまい。
[中略]
したがって、加賀・越中にまたがる礪波山の峠を占拠していた荒ぶる神・恐るべき神が四種の縁起に見える魔鬼に該当するであろうことはいうまでもあるまい。 この荒ぶる神を鎮祭したのが手向神社となったのであるが、縁起では魔鬼が不動明王の威力によって退治されたので、その霊験あらたかな不動を祭るとするのである。
 宝集寺本では、この両者を巧妙に習合して説明している。 すなわち善無畏三蔵が栗柄(倶利伽羅)峠の「手向の魔事を除」こうと山の池で古力迦竜明王を招請し、山の魔鬼が退治された。 よって明王を「手向の神」に祭ろうと、大竜が剣にまつわり童子が左右に侍立する姿を壁に画き遺した。 これが倶利迦羅不動明王で、大伴家持(池主の誤)が礪波山手向の神に幣まつるというのは、「峠の明王」に幣を奉ったのであると、どこまでも不動明王を中心に説くのである。 さらにまた弘仁三年(812)には弘法大師がこの峠に登り、善無畏三蔵の「明王神」を拝し、自ら古力迦竜王像を彫り、寺を建てて「日本一社道之神」と崇め、「御本地倶利迦羅不動明王」と称し、嵯峨天皇より「手向の道の神」との綸旨が下ったというのである。