「久能山記」
神君此御山に鎮座ましまし巍々たる霊場赫たる神光万代を照らします。
掛もかしこき、神君そのかみ豊葦原の荒振凶賊を亡し給ひ、一位太政大臣に任し給ひ、同四月十七日に神かくれし給ひ、此山に御霊廟を安鎮ましまし、是御遺言に因てなり。
正保五年四月十七日に、みことのりして東照宮と崇め給ふ。
誠に国家鎮護の神徳天地とともに彊りなかるへし。
[中略]
夫より又雁木坂六七十壇程ありて楼門有。
額は後水尾院勅筆にて、東照大権現とあり。
表のかた看長左右相対向。
裏に狛犬相対向。
御楼門左の脇に禰宜番所北向也。
同所御厩東向なり。
右の方に西向に弁才天堂・青面金剛の堂有。
同ならひて山王の社あり。
其前に御接木の蜜柑の樹有。
まはりに柵をゆふ。
其一壇高き所に護摩堂あり。
夫より又雁木坂六七壇あかりて唐銅の御鳥居あり。
左りの方五重の塔、右の方鐘楼あり。
又夫より七八壇雁木坂あり。
坂の左右石の瑞籬、左の方御供所・御内陣まて廊下つゝきなり。
右の方神楽所、奉納の絵馬ともあり。
右の手水盤あり。
中通り坂十四五壇あかりて御唐門、左右瑞籬有。
御幣殿唐戸金銀を鏤、御畳大紋縁、御拝殿三十六歌仙の絵、筆者 御畳両美縁、御石間御畳羽黒縁、御内陣御畳雲繝縁也。
御本社南向、四方廻廊あり。
向ひて左の脇唐戸の入口あり。
是より御宝塔道なり。
平人入るを禁す。
石坂二所にありて、石の御華表、又一壇坂ありて御宝塔西向なりといふ。
御供所の裏表の内に木の花表ありて、夫より山道いて行て石の鳥居中間にありて、愛宕の堂・稲荷の社あり。
御廟の後ろ山の嶺あり。
うしろの峯数十丈の絶壁けつりなしたる如くにて、眩て望みる事あたわす。
愛宕の入口鳥居の西に御土蔵あり。
夫より禰宜食所・薪部屋・御春屋相並ふ。
其向に御供所あり。
其北の方の峯を土器谷といふ。
土器を飛する、風に乗して谷底へ落る形、飛鳥に彷彿たり。
此所は武田信玄持の時代は搦手口の坂道ありし所なり。
此坂道を神君掘切せ給ふてより、数十丈の切峯となる。
番頭・諸役人見置所也。
御膳所の西に御築山并溜池ありて、其脇に御勝手道御門あり。
夫より出れは、御楼門の下へ出申なり。
御本社の右に御本地堂薬師如来也。
堂南向御本社とならふ。
西向に御宝蔵一つあり。
其一壇下に荒神の堂あり。
夫より下山すれは神楽所の脇へ下るなり。
惣而御堂社の荘厳金銀・珠玉を鏤め、美麗言語に述かたく筆紙に尽しかたし。
「静岡市史」第4巻
日枝神社
祭神 大山咋命
御本地堂と称へて東照公の本地仏と称する薬師如来を安置してあつたが、神仏混淆の禁止で明治三年十二月仏体を廃して〈四年十一月大谷村大正寺に交付した〉楼門内東側にあつた山王社を移祀して今日に至つた。