東照宮 愛知県名古屋市中区丸の内2丁目 旧・県社
現在の祭神 徳川家康
本地 薬師如来

「尾張名所図会」巻之一

東照宮御宮

御郭内の三の丸に御鎮座。 国祖源敬公、大僧正天海(号南海坊)を請待し給ひ、元和三年(己未)九年十七日、此御宮を創建し給ひて、中央に贈太政大臣正一位源朝臣家康公の御神像を安置し奉り、左に山王権現、右に日光権現を配享し給へり。
御本社(南向)・祭文殿・渡殿・中門・瑞籬・御供所・鐘楼・神輿殿・御宝蔵・御井・鳥居・楼門、何れも善美を尽し、或は朱粉丹青を施し、或は金銀銅鉄を鏤め、荘厳の美麗いふばかりなし。
御本地堂 薬師及び脇士・三菩薩・十二神将・四天王の像を安置す。
護摩堂 不動及び四天の木像・十二天の画像を安置す。
御神宝 御太刀三口、国行・正恒・宗近。又歌仙の色紙三十六枚は、青蓮院法親王の御筆なり。又牛玉一顆あり。 其外数多あれども枚挙に遑あらねばこゝに略す。

「名古屋市史 社寺編」

東照宮[LINK]

東照宮は西区長島町壱丁目の東側に在り、 那古野神社の西に接す、
[中略]
元和五年、徳川義直、城内三之丸天王社に西地を卜し、社殿を造営し(大工沢田若狭守藤原吉次)九月十七日家康の神像を奉安し、成瀬正成、竹腰正信を奉行として、神衣、甲冑、弓箭、太刀(宗近、正恒、国行)を納め、南光坊天海を導師、日増院権大僧正珍祐を別当となす、
[中略]
祭神は創建当時は中央徳川家康、左日吉の大神、右日光権現なり、 明治八年義直の霊を合祀し、三十一年また慶勝の霊をも合祀す、
[中略]
史料
寺領千石独礼
 天長山神宮寺尊寿院 天台宗         日光御門跡支配
    別当職大僧正小阿闍梨 権現坊ト称ス
            境内三千六百六十坪七歩  御除地
御本社南向
 東照宮 日光権現・山王権現 玉垣
 本地堂 本尊薬師如来并日光月光十二神ノ将像安置、寛永四年造立
 護摩堂 本尊不動明王并四天ノ木像、十二天ノ画像安置、同年造立
 神輿殿 渡り殿 祭文殿 中門 楼門 御供所
 御宝蔵 鐘搗堂 御井        〔金鱗九十九之塵〕

元和六年四月より始て、十六日に舞楽あり、同十七日朝音楽を奏、神輿行幸、御旅所も此年より初てはじまりし也、 其後寛永四年本地堂造営、本尊薬師如来、并日光、月光、十二神の将像を安置す、 護摩堂は同年造営、本尊不動并四天ノ木像、十二天の画像安置を安置す、 則天長山神宮寺と号、又尊寿院の号は開基慈眼大師の号せられしとかや

神宮寺[LINK]

神宮寺は天長山尊寿院と号し、又権現坊と称す、 三之丸東照宮の西に在り、 輪王寺門跡支配に属し、東照宮の別当にして、比叡山東塔南谷日増院、野田密蔵院を兼帯せり。 初め元和五年、藩祖義直、南光坊天海を請じて、東照宮を三之丸に鎮座し、同年、上乗院珍祐(是より先日増院、密蔵院に歴任す、寛永二十年十月二十八日寂す)を以て別当となす、 寛永四年、天海別当所を以て天長山神宮寺と号す、 乃ち天海を開基となし、珍祐を開山となす、
[中略]
本地堂(本尊薬師如来、夾侍二菩薩、十二神将及び四天王等の像を安ず)、護摩堂(不動明王及び四天王木像、十二天画像を安んず)