鳥頭神社 群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉 旧・村社
現在の祭神 大穴牟遅神・宇迦之御魂神
[配祀] 倭健命・建御名方命
[合祀] 大山津見命 <雨降社>
本地 聖観音

「神道集」巻第六

上野国児持山之事

北方は群馬の白井保の内、武部山に住みたまふ。 今は因位の昔の御名を児持御前と申したてまつりしかは、我れ住む所の山なればとて、武部山と云ふ名引き替へて、明神の御名なれば、児持山とは呼にけり。 児持山と書ては、子持山コモチヤマと読けり。 本地は如意輪観音にて御在なり。
御乳母子の侍従局は、大鳥山の北の手向に、羊手本鎮守と顕れて、本地は文殊なり。
若君は岩下と云ふ所の鎮守と成て、突東宮と申す。 本地は請観音なり
加若殿は見付山の手向に神と顕れ給ひ、名乗りを和理と申したてまつりしかは、和理大明神と申す。 和理と書て、和理スサトと読むなり。 本地十一面観音なり。 かの御名乗に付て、山をは和理嶽と呼ぶなり。
[中略]
加若殿は夫婦倶に神明の身と成せ給しかは、伊勢の国へ移りつつ、阿野権守の夫婦倶に神道の法を授けらせたまひて、津守大明神とて、伊勢太神宮の荒垣の内に在すは即ちこれなり。
その後伊賀の国へ超へて、加若殿の父母をも倶に神と成し進せたまひて、鈴鹿大明神とて、伊賀国には第三宮にて御在す。
尾張国御産宿とも、神道の法を賜ひて神と顕れて、鳴海浦に鳥居明神とて立たまへるは即ちこれなり。
児持御前の継母の女房も神と顕れて、阿野明神と呼ばるる。
上野国の目代、藤原成次も神法を賜て、尻高と云ふ処に山代大明神と申すは即ちこれなり。
山代の庄をは我妻に合せたりし祝の所なればとて、山代と云ふ名をは引替へて、吾妻とは呼れにけり。
阿野津より尾張熱田まで馬に乗り進て送りたてまりし人も、神と顕し、その馬の形を移して、岩尾山に駒形とて、今至と云ふ処に舎人も馬も一所に立ちて、白専馬大明神と申すは即ちこれなり。

「子持山縁起」

北方は群馬郡白井保の内、武部山に住給ふ。 明神の昔の御名を子持御前と申しければ、武部山を引かへて子持山申けり。 御本地は如意輪観音にてまします。
御乳母侍従局は鳥山の北、平向に半手木の鎮守とあらはれ給ふ。 本地文殊なり。
尾張熱田にて生給ふ若君は、岩下といふ所の鎮守となりて、鳥頭愛東宮とあらわれたまふ。 御本地は正観音となり
加若殿は見付山の麓に神とあらわれ、御名乗を和利と申したる其文字にまかせて、和理の大明神とぞ申ける。 本地十一面観世音。
[中略]
加若殿夫婦は明神の身となり、権守を神になしまいらせ、荒垣の内におはします、則あらはゝぎ是なり。
加若太夫夫婦ともに神となし給じて、伊勢国鈴鹿太明神とて第三の宮ましますなり。
尾張国熱田にて御産屋の夫婦を、神の法を給はり神となして、鳴海の浦に鳥井の太明神とて立給ふ。
さて子持御前の継母も神とあらはれ、阿野の明神とあらはれ給ふ。
上野の目代成次夫婦も神通の法を給り、おなじ国尻高と云所の山明神とあらわれ、本地十一面。
北方は川田朝日向笹尾の山に神とあらわれ、本地正観音なり。
山代の庄をば我妻に合たる祝言の所なれば、本の名を引かへて我妻の庄とよぶなり。
阿野津より尾張の熱田まで馬にのせまいらせたる人も、神とあらわれ、其の馬の形岩尾山にうつりて、駒形とて今里と云所に、とねりも馬も一所に立たもう。 白専馬太明神と申なり。 本地十一面也。