十和田神社 青森県十和田市奥瀬 旧・村社
現在の祭神 日本武尊
本地 聖観音

「十和田記」

奥州鹿角郡赤倉嶽十和田正一位青竜大権現と申奉るは、天長元歳奥州糠糘郡良現山と申に正観音の御堂有、此御堂と申は白鳳元年の頃に飛騨の内匠建立とかや。 近隣の民に善学といふもの、則別当をして此処に住宮なしむ。 しかるに善学の女房はいか成前世の因縁有事にや、此観音堂に七ヶ日籠り、弥勒の出世を一心ふらんに祈りける。 有夜の夢の中に、白蛇を呑と思ひ、夢覚め、結願の日も済み、我が家へ帰り、 [中略] 女房夢見て後、ただならぬ身とおもひなれりとて観音経昼夜読てくらされける。 月日に関守あらざれば、日数かさなり、きのうけふとは申せとも、早や、産月に成ぬれど、さらさらに産の心はなし。 是はいか成事共と心なやみてくらされば、十九ヶ月と申すには、唯やすやすと安産也。 御子を取上見給へば玉を磨たる若君也、善学よろこび手をかざし、善正と名をつけて養育し、神の告有る御子なれば、無難に育ち給ひつゝ早七歳に成給ふ。 しかるに生者必滅会者定離の世の中の習ひとて痛はしや善正の母、病ひの床にふしたまひ、なやみたもふぞ痛しき。 有夕暮に母は善正を近付け、いかに善正聞給へ、みずから弥勒の出世をねがひつゝ、観世音に祈りしに、夢中に白蛇を呑とみて汝を身籠り申成り。 みずからむなしく成るとても此事わすれたもふなと、かへすかへすも申置、終にむなしく成給ふ。
[中略]
善学心に思ふやう、母の菩提の為に、出家になさんとおもひつつ、北の郡五戸内七崎村に七崎山聖観世音の御堂あり、別当永福寺と申す御寺有けるが、此住職に月法院と申て、近代の名僧あり。 是を師と頼まんと七歳の秋、此七崎村へ召つれつゝ、かへすかへす頼まれける。 法院承知し、弟子となし給ふ。 善正を改名し南祖の坊と付給ひ、よきに学文を教給ふ。 誠に此の南祖の坊、生まれながら才能にて、一字を千字とさとりつゝ、神変不思議の事ども也。
[中略]
我大願を起しつゝ、母の仰を祈らんと、法院の御前にかしこまり、拙僧心におもひ立事の候得ば、熊野山へ参詣仕度候也。 しばらく御暇たまはれかし、との給へば、法院聞し召、尤也。 されば未だ幼少の事なれば、今しばらくと留給ふ。 南祖の坊は是を聞給ひ、追ては暇も願はずして、ある夕暮にしのび出給ひ、御歳十三才と申すには熊野山へ登らるる心の内こそ殊勝なれ。
[中略]
やがて熊野路や、三の御山に着給ふ。 夫熊野山と申奉るは御本地は弥陀・薬師・観世音、三社の霊験新也。 南祖の坊は一か所の御堂へ三七日づつ、三か所へ断食して日に三度、夜に三度の垢離を取、一心不乱に弥勒の出世を祈給ふ。 祈る日数を過ければ、是より大日本六十六か国を廻らんと心ざし、修行の行者の名札をおさめ、家内安全・武運長久と書しるす。
[中略]
諸々国々を修行して御歳十三歳より七十六の御歳まで熊野山へ三十三度御登山をぞなされける御信心のすさまじさ、たとへんやうこそなかりけり。 三十三度と申時、一七日通夜なされけるに結願の其暁、夢ともなくうつつともなく、白髪たる老人三人枕本に立寄「いかに南祖の坊、汝母の言葉を守り孝心深して弥勒の出世を願事不便也、はやく嶽嶺山々深山幽谷をまわるべし」と、かきけす如く失給ふ。 南祖の坊夢覚め、枕もとを見給へば、わらんじ一足・かり杖壱本有りかれば、さては大願叶ひしと御歓限なし。 ますます信心肝にめいじ、さあらば嶽嶺の残りなく何国の果迄も廻るべしと、三つの御山を始め奉り、大日本国中高山嶽々の残りなく掛廻りつつ、爰の滝にて御身を打せかし。 この堂にて断食して籠つゝ、さまざま無量の荒行をつとめ給ふ。 本より其御身は良現山観世音の御化身にてましませば、御年は七十にあまらせ給へとも、御形姿は二十八、九の達者にて大嶽大嶺を掛廻り給ひしは飛鳥なんどのごとくなり。
[中略]
赤倉が嶽・尽し森・小国嶽の其の間に満々堪々たる大潟あり、南祖の坊、此の体を御覧じて暫く見物されしに、召されたる散々に切れ、御杖も頻に重く成、突上んとして見給へども、すこしも動くけしきなし、南祖の坊此由を御覧じて、扨は此沼の主になれとも御故なり。 大願成就の時至れりや、あら有難きや、熊野山大権現三社の霊夢むなしからず、弥勒の出世待べしとの御神の御告こそ、此処也と思召、至誠信心に止観の御胸をきよめ、暫くたたずみ給ふ処に、驚風一変吹渡り、逆浪を起し、天のひびかす大声にて「汝爰に来り、此潟の主にならんとおもふぞ、おもひもよらぬ事ども也、我こそは此潟の主也、早く其場を立除くべし」と呼はりつつ、紅の舌を巻、十六の角をささげ、潟の大波蹴掛立蹴掛立天地も崩れ、こんちく(坤軸)もたをるるばかり震動し、顕出、南祖の坊に飛掛る、そのいきほひのすさまじさ、中々たとへんものぞなき。 南祖の坊御覧じてちっとも騒ぎ給ふ御けしきなく「浅ましき有様や、汝いかに狂ふとも及ぶべき事にあらず、我等は神の教にて日本六十余州、二島はおろか蝦夷が島、人さえかよわぬ嶋々迄めぐりめぐりて今爰に来るぞや、急き爰元を立去るべし。霊俄に及ばば、不便ながら征伐せん」とはったと白眼にらんで仰ける。 時に大蛇申すやう「我等此潟を開て住そめし事なれば、今何方にか立除ん、汝こそ早く逃去れよ、さもなく是にあるならば只一口の餌食ぞ」とくわっと見ひらく其眼はさながら満月をふたつならべし如くにて、突出す息は火焔の如く、ほのをはきかけ吹掛飛びかかる。 南祖の坊御覧じてさらば、不便の事ながら、法力加持の妙経に追払わんと数珠さらさらとおしもんで [中略] 貴き経文を読給ひて法花の八巻をなげかけなげかけし給へば、有難くも不思議やな、此御経の文字の数八万四千の刃と成、大蛇の五躰に立ければ、何とて暫時もこらゆべき、今は潟に居兼ずこそ大血を引て逃去つつ、何国ともなく行ければ、水の面もさやかに清々と澄渡り、日月御影曇なく、寂光浄土の境界かや。 又は蓬莱仙境の其の泉水の御潟かとおもふばかりに成りにけり。
[中略]
紫雲たなびきて、白雲ひとむら舞下り、髪つらゆふたる天童子壱人顕出「いかに南祖の坊、汝数年の難行苦行、願望此時に極りたり、いそぎ其姿にて此沼に入り、弥勒の出世を得べき也。潟の中に松の木のあらん処、汝が住家とおもふべし」との給ふかとおもへば、則、十和田山正一位青竜大権現と松の木へありありと文字すわりうつりける。 其時天童子、「我こそは汝が祈をたのむ熊野山の使なり」とかきけすやうに失給ふ。 南祖の坊は聞し召、さてこそ大願成就、嬉しや、と御跡三度ふしおがみ、是迄めしたる御衣と御袈裟を御立所の木の枝に掛、其儘、潟に飛入給ひ、潟の御主と成給ふ。 末世の今に至まで御さんご打場といふ所は御衣かけし所とかや、又小松倉と称するは御宝殿の所也、又赤根崎と申所は八郎太郎と戦ひ給ひ、法力経文の智慧の刃に八郎太郎敗北し、切砕かれて、血を流せしは末世に至り、土中に血のしみたるは今に色なる所とて、赤根崎とぞ申すとかや。

斉藤利男・十和田湖伝説の伝え方を考える会「霊山十和田」

①霊山十和田の世界 忘れられた霊場、聖地巡礼の道

 十和田湖が霊山として開山されたのは、平安時代の末期、平泉の奥州藤原氏の時代とみられる。 開山の拠点となったのが五戸七崎の永福寺で(現在の八戸市上永福寺の七崎神社・普賢院一帯の地、七崎神社の場所に本堂以下の伽藍が、普賢院の場所に本坊があったとみられる)、その僧侶と伝える南祖坊が伝説の開山上人であった。
 南祖坊は聖観音の生まれ替わりで、奴可の嶽(現在の八甲田山)の池に住む八つの頭の大蛇が支配していた十和田湖を、平和で穏やかな「仏の湖」に変え、大蛇に苦しめられていた十和田湖の龍女と夫婦になり、自らも青龍権現となって湖の主となったという。

③龍女を救い、十和田湖の「カミ」青龍大権現に 最古の伝説「三国伝記」の南祖坊

 本来の十和田縁起とはどのようなものだったのか、十和田湖伝説の最も古い話は、15世紀初め、近江国湖東地方で天台系の僧玄棟が編纂した説話集『三国伝記』の中の「釈難蔵、不生不滅を得たること」という物語である。
[中略]
 それによれば、昔、播磨国書写山に釈難蔵(僧難蔵、南祖坊のこと)という法華経の行者がいた。 生きている間に弥勒菩薩がこの世に現れる「弥勒の出世」に会いたいと願い、熊野山に三年間参籠して神のお告げを得る。 それに従い「常陸(陸奥の誤り)と出羽の境」にある「言両の山」(修験者の立ち入る霊山、十和田湖をさす)の頂にある大きな池に行き、池の畔で読経に励んだ。
 すると池の主である龍女が毎日聴聞にあらわれ、仏に結縁したいと願う。 難蔵は怪しんだが、龍は長命な生き物ゆえに、私と夫婦になれば龍となって、弥勒の出世に会うことができるという龍女の話を受け入れ、湖に入る。 ところが龍女から、自分は奴可の嶽(八甲田山)の八つの頭の大蛇の妻にされて困っていると打ち明けられる。 難蔵は法華経の力で九つの頭の龍となり、八つの頭の大蛇と七日七夜にわたって激闘。 敗れた大蛇は小蛇となって奴可の嶽に逃げ帰った。 龍となった難蔵は龍女と夫婦となって暮し、今でも、山人が池の畔に至ると、激しい浪の下から法華経を読む声が聞こえるという。
[中略]
 つまり本来の十和田湖伝説とは、十和田開山を行った南祖坊が(のち聖観音の生まれ替わりとされる)、さまざまな修行と苦難の末に十和田湖に入って入定し、十和田の「カミ」青龍大権現となった。 そして「荒ぶる神」(八つの頭の大蛇)が支配していた十和田湖を平和で穏やかな「仏の湖」に変え、人々に恵みをもたらしたという「霊山・霊場十和田」誕生縁起という話なのであった。

⑦真澄の道をたどる、その4 神秘に満ちた核心部 十和田御堂と占場(オサゴ場)

 現在は杉並木の中間約350mが失われ、町並みとなっているが、菅江真澄は「鳥居をくぐって参道に入り、杉並木の路を進んでゆくと、堂(仏堂)があり、青龍大権現の額がかかっている」(『十曲湖』現代語訳、要約)と記している。 現在の十和田神社の場所にあった「十和田御堂」(額田嶽熊野山十彎寺)である。
 この十和田御堂は、江戸時代の記録や古文書などから、十和田青龍大権現(人間であったときは南祖坊)を祀り、その本地仏・聖観世音菩薩を安置した、三間四面ほどの大きさの方形・宝形造の仏堂であったと推定される。
[中略]
 御堂(現十和田神社)の右奥、岩山を登った先の台地を湖岸に下ると、占場(オサゴ場)がある。 そこは深淵に臨む岩場に杉の巨木がそびえる神秘的な場所で、参詣者は南祖坊入定の地と伝える中湖と、カミの宿る山「御倉山」(御倉半島)や奥の院「御室」を正面に拝みながら「散供打ち」を行った。 「散供打ち」とは、銭や米を紙に包み、神に祈って湖中に投げる占いで、「オサゴ場」とは「御散供場」がなまったものである。