皷神社 岡山県岡山市北区上高田 式内社(備中国賀夜郡 鼓神社)
備中国二宮
旧・県社
現在の祭神 遣霊彦命・高田媛命・吉備津彦命・楽楽森彦命・吉備武彦命
[合祀] 天穂日命・大名持命・太玉命
本地
皷明神観世音菩薩
楽楽森明神歓喜天

「備中誌」(加陽郡 巻之六)

皷明神社[LINK]

皷明神社
延喜式神名帳云、皷神社〈備中十八社ノ一也〉。
神社古記云、抑当社明神ハ吉備津彦命の其後ノ神なり。 崇神天皇の御宇、彦命西道将軍と成て西国御発向の時、隨従して下向し給ふ、一名を遣霊彦臣と申し、行軍を司り給ふ良将なり。 彦命吉備国に至り万民安否を問に、其国に住老翁云、此国に吉備冠者と云者有、もと夷狄の王子なれとも、性悪にして其所業無状是也、 故に一葉の軽舟に乗せて風のまゝに放ちやられて、此の国に止り、嶮しき岩屋山に籠りて、生るを殺し、或ハ民屋に入て資糧を奪ひ、国民大ニ苦悩す、 殊更王威を恐れず、王制に従がわす、近国西国の貢賦の船を掠め取、其残忍あげて云難し、願くは将軍是を退治し給へと。 命聞し召莞爾給ひ〈此所を笑坂と云 今備前津高郡に在〉、我老翁の言に隨わんと、直に吉備の中山を遠津本陣とし、遺霊ノ臣を右陣となし〈今の皷山の峯なり〉、共に戦を専らとし給ふ。 彦命弓矢を以て攻給ふ。 国のさま中山より岩屋山の麓まで大海にて双方の矢途中にて喰合て落ぬ、 百たび放つもまたかくの如し、 海の中服部嶋の海中ニ落て、今田中村竹ノ下ニ矢喰の宮と申せる有此所也、 時ニ空中声有て、一矢に両矢を発ち給はゞ利有べしと。 命於是教の如く両矢を一度に放し給ヘバ、一ツの矢ハ喰合て海中に落、一矢ハ遠く飛て冠者に中る〈秀雄云海上浮舟ニて合戦し大将先に進んで戦ひ給ふにや〉。 冠者驚き怖れ、雉と化し深山に隠れんとす〈秀雄云宮内縁起都宇郡目指山の車方ニ陣取と有〉(此所偶言にや文意可察)。 命鵜と化して終に𤔩ミ上給ふ〈鬼城を落されて日指山の峯に陣し又敗軍して海中に隠れ漂ふ所を命生捕給ふにや〉。 即其所を祭りて鯉喰社と云。 此時冠者語り申に、我通力自在と雖も何ぞ王命に敵せんや、今命の為に命既に落んとす、一命を軽んじ名を惜むは勇士のならひ、君請、今より我名を奉らん空敷し給ひそといふて終に死之。 冠者如此なれば、眷属皆服従し、事故なく国治りければ、尊命此国に止り給ひ、やかて西の国々悉くに打平げ給ひ、御寿二百余歳にて薨し給ふ。 神廟を中山の峯に築き、後神と崇めて吉備津の宮と尊ミ奉る。 遺霊彦臣ハかゝる動功有し、其賞として大井庄ノ内五ヶ所下し給ふ。 其後神と崇め宮社を建、二ノ宮皷明神と称し奉りぬ。 本地観自在菩薩也。 実ニ国家安全の眉を開く事、偏に一宮二宮の深思なり。
[中略]
本社〈三間四方 高らん付〉、幣殿〈一間二間〉、拝殿〈二間三間〉、随神門〈一間ニ二間〉、鐘楼堂〈一間四方〉、皷若宮社〈一尺五寸二尺〉
社僧 清水寺三宝院。

楽々森明神廟[LINK]

楽々森明神廟 祭礼正月巳ノ日、十一月亥ノ日
[中略]
吉備津宮古記云、吉川の楽々森を軍の司として、吉川の城にやどりて窟山の麓に埒を作りて、明暮こゝを守りける云々。 温羅不叶して、水中を真魚の如くに泳りて逃行ば、楽々森彦命兼て水泳りに絶なりければ、浮つ沈ミつ鵜のごとく終に温羅をとらへて、尊の大前に参ると云々。
秀雄云、鯉喰社楽々森と温羅を祭りしと聞。 彼の社の像を拝するに、冠ハ斯の如く、装束ハ狩衣に似たり、中古作りなせる像にや、太古の形もあらんかし。 又吉川村今にも楽々森と云所、有彼地の神なるへし。 鯉喰宮にハ神像を安置し、此高田の社ニハ本地歓喜天の像を正体とせり。 猶吉川村の所に出せり。
本社〈四尺ニ五尺 三方エン有〉、拝殿、末社 弁才天〈一尺四方〉、疫神社〈小社也〉
社僧 実相坊。
明治41年、楽々森神社を皷神社に合祀。