東霧島神社 |
宮崎県都城市高崎町東霧島 |
式内論社(日向国諸県郡 霧嶋神社) 旧・県社 |
「三国名勝図会」巻之五十七
東霧島村にあり。
此処霧島山の支山、長尾山にして、実に霧島の東脚に当る。
因て東霧島権現と称ず。
かくて、此東の字、俗呼んでつまと唱ふ。
凡そ物の端を世につまといふ。
則ち当社は霧島東脚の山端に建つ。
故に東の字を訓て、つまと唱ふるなり。
奉祀伊弉諾尊。
合殿六座、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫、是なり。
抑此地は、伊弉冊尊、火神軻遇突智の為に灼れて、終り玉ふをば、伊弉諾尊、甚だ恨みて、軻遇突智を斬玉ひし址なりといふ。
即ち諾尊の帯び玉へる十握剣を、当社の神体に崇む。
其詳は下文の如し。
此を以て、高城は諾冊尊旧都なるを証とすべし。
かく諾尊に由あるの地なる故、初しめ諾尊を奉祀あり。
六座の合殿は、後の勧請なるべし。
或曰、高城は、瓊々杵尊も、皇居の所なれば、瓊々杵尊の御時、諾尊を崇奉し玉ふならんとぞ。
瓊々杵尊皇居の事は、下條神世皇都に詳なり。
【三代実録】に、天安二年冬十月二十二日己酉、授日向国従五位上高智保神従四位下。
又た【延喜神名式】に、日向国諸県郡一座、小、霧島神社とあり。
当社は霧島権現六社の一なり。
当社由来記曰、霧島山に四方門あり。
当山は東方発心門なり。
上古の神社は、霧島山上火発して焼亡せしに、性空上人当山に登り、当社を再建し、別当寺を創立す。
爾後文暦元年甲午十二月二十八日、又山上燃え、其火亦此社寺に及ぶ。
往古は、余多の神領寄附あり。
後世戦争の時亡しに、我代々の邦君、殊に崇仰ありて、若干の祭田を喜捨し玉ふ。
例祭二月中酉日、九月二十九日、十一月中酉日。
当社より南、九町余に八幡社あり。
当社の行祠なり。
二月の祭祀には、神輿を舁て神幸の儀をなし、其行祠に至る。
浜下りといふ。
往昔九月の祭には、笠懸四十二騎あり。
其後滅して十二騎となり、又省て六騎となる。
伊東氏干戈の後、断絶せしとぞ。
社司吉松氏、別当を勅詔院といふ。
○十握剣 前文に見えたる、伊弉諾尊の御剣にして、本社深秘至宝の神体なり。
長さ十把許。
社記云、宝永五年戊辰九月二十九日卯刻、東霧島廟火災あり。
所伝の宝物、悉く烏有となれり。
独十握剣、屹然として煨燼の中より出て、少しも燬ふ所なし云々と。
○末社 本社の左に、性空上人の両侍童乙若の社あり。
是を護法善神と崇む。
右に白山の社あり。
社殿より石階を下るに、左右善神社あり。
又一万社、十万社あり。
[中略]
○割裂神石 本社より辰巳方数十歩、故有谷といへる小池中にあり。
一名裂磐、又魔石と呼ぶ。
土人伝へ称ず、此石古へ魔魅にいして害をなす、是に因て霧島の神、十握の剣を把り、斬て三段となす、時に一段は雷となりて飛去ぬ、二段はこの所に留り、おのおの神となるといふ。
【日本紀】一書曰、伊弉冊尊次生火神軻遇突智時、伊弉冊尊為軻遇突智所焦而終矣。
又其一書云、伊弉諾尊恨之曰、唯以一児替我所愛之妹者乎、則而哭泣流涕焉、遂抜所帯十握剣、斬軻遇突智為三段、此各化成神云々。
又一書云、其一段是為雷神、一段是為大山祇神、一段是為高龗。
又曰、斬軻遇突智時、其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石、而因化成神、号曰磐裂神云々。
又土人の説に、此神石は、伊弉諾尊の斬玉へる遺跡にして、三段の内一段は、嘗て飛去て宮崎郡大島平原村にあり。
土人崇敬して神と崇む。
往時或人東霧島神意思を切し片段を、紙に写し、宮崎に斎し至りて合せ見るに、其屈曲せし処まで少しも違はずといふ。
今東霧島に現在残れる一段は、地を出ること、竪九尺余、横九尺五寸、厚一尺二寸、其一段は、地を出ること、竪横右に同じく、囲一丈八尺五寸あり。
東霧島村、東霧島権現社の辰巳一町許にあり。
本府大乗院の末にして真言宗なり。
本尊千手観音(木座像)、即東霧島権現の本地とす。
当寺は村上帝応和三年癸亥の歳、性空上人開基して、東霧島権現社の別当とす。