「三国名勝図会」巻之五十九
仮宿村にあり。
祭神木花開耶姫命(本田親盈【日州神社考】には、奉祀大足皇女立速主命と記す)。
勧請の年月詳ならず。
妻万神社は日向国五郡の郡ことに一社あり。
五郡に五社あるを以て、五社大明神と称ずといへり。
【三代実録】、天安二年冬十月二十二日、己酉、授日向国従五位上都万神従四位下云々。
建久八年、【日向国図田帳】、諸県郡妻万宮領九十八丁云々。
大岳公の時、坊津一乗院住持頼政法印の筆記に、守護社参の次第、薩摩総廟開聞、大隅総廟止上大権現、日向総廟五社大明神、号妻宮云々と記せり。
又当社縁起に、日向国五百余社、内妻宮五社大明神為宗廟云々。
此等の文を見て、当社は特に尊重なるを知るべし。
その所祀開耶姫は、瓊々杵尊の皇后なる故、往古はつまの宮と称ぜしなり。
今の里俗、文字に隨ひ、誤りてさいまんと呼べり。
初め当社は、隣志布志原田村にあり。
天文九年十一月三日、爰に遷宮せしとぞ。
原田村に旧社地あり。
今に旧宮といふ。
天文二十二年癸丑三月、肝付氏重建の棟札を蔵む。
天正十六年戊子三月、貫明公改造の梁文もあり。
当社は昔時火災に罹り、記録焼亡して、詳なるは伝はらざる事多し。
当邑の総鎮守にて、一宮といふ。
祭祀正月中申酉日、九月中酉日。
九月の祭日には、浜殿下りありて、流鏑馬を行ふ。
社司篠原氏。
○支社 五林大明神祠
△山王祠
以上当社の左側にあり。
△稲荷神社
△伊勢宮
以上当社の右側にあり。
△本地堂 華表の左にあり。
十一面観音を安ず。
往古別当寺ありし時の堂といふ。