「新編武蔵風土記稿」巻之二百五十三
(秩父郡之八)
山田村
恒持明神社
上郷西新木にあり、
本山修験、大宮郷今宮坊配下松本院持、
本地十一面観音、
村の鎮守にて例祭正月二十日、
扉内に縦横一尺許の石あり、
石面に、勅定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、
当村縁起曰、人皇五十代、桓武天皇の皇子、一品式部卿葛原親王の御子、高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の猶子として養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大蔵卿上総介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、
恒望王は従上四品太宰権帥にて、任国太宰府下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武蔵国に左遷せ玉ふ、
然るに延暦の頃までは、武蔵国曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父両郡に摂まれたる山里に、間居の地を卜し玉ひける、
その殿上の所を、武蔵の大内とぞ称しけるまゝ、今その遺名を大内沢村と呼べり、
平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望王罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の縁に因て武蔵権守に補せられ、従上四品は故の如く復し玉ふ、この大内沢より山田の郷に官舎を移し玉ふ、
されば官位田の地を恒望庄とぞ称しけるに、御諱字を憚て恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、
恒望王逝去し玉ひし時、延暦十二癸酉の年より大同元丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬ、
村長邑夫挙りて、其徳功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大内沢に便りたる清地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂と称しけるが、数多の星霜を経るがうち、御堂も破壊して村名にのみ残れり、
恒持庄は大内沢・御堂・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢等すべて十五ヶ村にて、惣鎮守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人の伝へきく声も遥に響き、山彦の谷も幽に成行て、神前の燈も漸にかゝげて、只衰敗をと歎けりと云々、
[中略]
諏訪社 稲荷社
丹生明神社
西神木にあり、
古へは小名向殿にありしが、いつの頃かここに移せり、
本地虚空蔵
村内の鎮守にして、例祭正月二日なり、
当社より犬除の守を出すと云へり、
祠官は坂本伊予にて村民の持なり