優婆夷宝明神社 東京都八丈町大賀郷 式内社(伊豆国賀茂郡 優婆夷神社、許志伎命神社)
旧・郷社
現在の祭神 優婆夷大神(八十八重姫)・許志伎命(宝明神)
本地
優婆夷大神聖観音
宝明神(五郎王子)薬師如来

「三宅記」

亦沖ノ島に置玉ふ后の御名をば八十八ヱとぞ申ける。 其御腹に王子五人在ます。 此の后かくれさせ玉ひぬれば、嫡子も次郎も二人手に手を取合思死に終らせ玉ひ、石となりて兄弟の尊とて立玉へり。 二人は未た幼少にて蔵させ給ぬ。 五郎の王子計澳島にて在ます。
[中略]
扨て代々過る程に、文武元丁酉より大宝元辛丑年迄に、島々后々王子王子、大明神の御誓願の如く衆生の願ひを満足せんと、各御願を立て玉ふ御姿を石に写し顕玉ひぬ。 王子の体は皆薬師に顕玉ひぬ。 [中略] イナバヘの后も聖観音と顕玉ひぬ。

「日本の神々 神社と聖地 10 東海」

優婆夷宝明神社(坂口一雄)

 優婆夷宝明神社(旧郷社)は、北部の底土港とならぶ島の表玄関八重根港に近い東山山麓に鎮座する。 このあたりを含む大賀郷は古くから島の中枢部をなし、当社は島の総鎮守とされてきた。 八丈島の式内社二座、「優婆夷神社」と「許志伎命神社」を合祀したものといわれ、石造・一間四方の本殿のなかに優婆夷神(女神)と宝明神(男神)を祀っている。 前者は『三宅記』の「イナハエノ后」、後者はその御子「五郎王子」に比定されており、近世の諸記録には主に「姥婆(大)明神」「宝(大)明神」として登場する。
[中略]
 一方、宝明神(許志伎命)については、西山(八丈富士)南麓の旧地名「コシキ(甑)山」と関連づけるのが通説である。 [中略] そして最も重要なことは、明治維新まで優婆夷宝明神社と密接な関係にあった宗福寺の山号が「甑峯山」であること、甑山の近くの寺山という地について『八丈実記』が「ムカシ宗福寺ノアリシ跡、今ニ礎ハ残ルヨシ」と記していることである。
[中略]
 はじめ西山の麓にあったが衰微し、文中にあるように永享年間(1429-41)津波によって破壊され大里原へ移転、永享十二年(1440)に甑峯山宗福寺と改称した。 当社との関係は深く、本地仏薬師堂の祭礼は当社神主と宗福寺寺僧の立会で行なわれたという。