熊野本宮 |
徳島県那賀郡那賀町木頭 |
宇奈為神社の境内社 |
「那伊瀬権現之垂迹并夢想託宣條々事」
記し奉る阿波国那西郡那賀山御庄北俣那伊瀬ノ権現垂迹、并に夢想託宣條々の事。
一 乾元二年(癸卯)正月二十五日夜、上座の夢に示されて曰く、道者社始て参ると。
度々示れる。
之に依て不思議の思を成す処に、同じ二十六日、当国牛牧庄より僧三人、夢想の如く浄法房、静日房、道智、御体を拝し奉る。
信偽を知らんが為め誠に巫有て舞ひ下ろし進せとも、権現更に下り給はず。
然る間、彼等曰く、御子に付き給ひ御託宣有る由を承り及て参詣すと申処に、神子答て曰く、此の守りには付き給ふまじきと申す之。
時に彼の僧等祈請申て後に七つの鬮書に無の字を六つ、有の字を一つこれを書く。
爰に童四、五人、又上座の娘の少女傍に有り。
歳十六云云。
若し此の中に字を取らん者を舞せよと曰ふ。
人に着き給ひ御託宣有るを権現と知り奉るべきの由を申し、捜り取る処に三番に当る。
時に上座の娘の字を取り当て、即ち彼の少女舞ふ。
皃色違て即ち舞ふ処に、種々の御託宣あり。
此の道は高野大師とこそ思へ。
此れより吾れ正覚を御座成す。
吾れ今始て当所に御垂跡御座すには非ず。
吾れ天竺摩訶陀国に有りし時、南閻浮提に閻浮檀金を積める山三つ有り。
当山を卜するは、其の一つ山也。
仏法破滅の時、始て当山に垂跡す。
仏法を崇るが故なり。
然れば当山は、弥勒の浄土也。
吾れ本覚の如来と同体たる上は、虚空とも同体なり。
衆生等は吾が実体を知るべからず。
化度利生の為に、草木瓦礫微細微塵共に化し、又禽獣類異類異形に現ずる也。
吾れ御前を空石と云ふ。
我れ摩訶陀国より筑紫の彦の峰へ飛し時も、石に化してこそ在り。
伊予の石槌、淡路の瑜譲羽、熊野山へ飛し時も、石に化してこそ有りし歟。
亦た白山の権現の本地は石にてこそ御坐す。
吾れ今生には福を授け、来世には弥陀の浄土へ導かんと誓ひ御座す広大の神明也。
吾れ御前に参らん時、南無帰命頂礼日本大霊験熊野三所権現と一時礼拝進する事七日、精進して参るべし。
又吾れ御前に通夜の時は、水舁し、又三月上旬諸国に披露有りて、道者詣るべし云云。
吾れ本山を出て七箇年の間、或は虚空に住し、或は山林に交り、海底河底に沈み、木葉萱葉に交り、青山の高き麓に居を卜し、今年五ヶ年なりと。
其の時に彼の僧等言く、本山を捨て御座す様はと問ひ奉る処に、答て御託宣に曰く、三山の者共は、男子女子の差別無く放逸邪見にして貪欲多し。
道者は煩しく無縁の族を顧ること無く、引箭兵杖を帯し、合戦闘諍隙無し。
物に能く能く譬れば雷の如し。
吾れ衆生を顧る利益、少無く思しめす。
其の上吾れ御前を射進せる間、吾れ血の涙を流し本山を出ると。
御託宣は同じ戌の時より寅の終迄、同じ二月十五日午の時に始め、舞ふ事一つ時許り。
其の後種々の秘印を結び、未の時に御託宣有り。
釈迦も弥勒も本地也。
誰か御弟子に成らざらん。
吾れ同位、本誓は成道果満、和光同塵なり。
今語りて聴聞せん。
釈尊出世し霊鷲山に一乗の教を説き給ふ。
浄梵大王には阿弥陀の法を授け給ふ。
昔雲を本体として分ち出でし星の御子共は御弟子也。
吾れ一万三千百八歳を持て後、六十六国を廻り、所々の霊崛雲峰に住して三山を定め給ふ。
釈迦湧出の霊山も、弥勒出世の都率天も当嶺に納れり。
此の砌に顕れ御座す神明は、万々九千三百三十三体也。
又御影向の諸神は、万々九千七百余なり。
又吾が御眷属は、越中の立山、淡路の瑜鶴羽に居を卜し給ふ。
又吾れ御前を訪ふ影向の諸神は、無量無辺なり。
吾れ筑紫の彦の御山に十年、伊予の石槌に七年、淡路の瑜鶴羽に二年なり、吾れ往昔の如来、万々九千歳に成る。
又霊神と顕るる時、大峰、葛木改め大峰、葛木の二の宿々を吾れ造り始め置けり。
又当山に四角八方、十万恒沙の諸仏御影向し、五大明王顕れ御座す。
四大天王守護し給ふ。
吾れ末世末代、又世の始る時、仏法擁護の鎮守として、七山に勝れ仏法の大顕領と御座す。
然れば堂四十八所有るべし。
当時の道者は、仏法の光を持て無相の処に留て無行なる程に其の悟り無し。
無相無念の処には、無相無念より離れ行ふにしかず。
万法を行ずる時もまた是の如し。
此の所に仏神下居し玉ふ。
東へ七万七千里に下居。
四方は是の如く下居し給ふ。
御正体、委しき旨これを記さず。
以上本宮。