「本所総鎮守牛御前王子権現略縁起」
抑武蔵国葛飾郡本所牛嶋惣鎮守牛御前ハ、人王五十六代清和天皇御宇貞観二年(庚辰)九月中旬、慈覚大師勧請の神霊也。
然に大師当国弘法之砌、此所におゐて日既に暮たり。
森の内に当て一ツの草屋あり。
立寄給ふに、位官の老翁優然として座せり。
大師扉にたたすミ宿を乞ヘハ翁悦請す。
大師翁に問給ふハ、如何成高貴の御方にてましますや、かかる辺鄙の御住所不審と尋給ヘハ、
翁答曰、我是素戔烏尊也。
東国に跡を垂国家ヲ守護せんとおもへとも、未だ人を得ず。
幸い今師に逢り。
我形を写して師に与へん。
我為に一宇の神社を建立せよ。
我影像に心を留めて国土に悩乱あらハ首に牛頭を戴、悪魔降伏の形相を現して天下安全の守護たらんと。
位官の影像を自画して大師にあたへ老翁ハ忽然と化去給ふ。
今牛御前垂跡之神躰ハ此尊像を崇なり。
大師感肝に銘じ、則神の告にまかせて国人を勧一宇を造立し、牛頭を戴て守護給ハん誓にまかせて牛御前と神号を奉る。
依て嶋の惣名を牛嶋と申伝へぬ。
大師随身之御弟子良本阿闍梨を留めて汝尊像を守り奉れとて、一宇を護給ひ、猶又牛御前本地仏大日如来を造立して本尊となし給ふ。
今の本地仏是也。
「江戸名所図会」巻之七(揺光之部)
牛御前王子権現社
同所(小梅村)、北の方にあり。
別当は最勝寺と号す。
牛島の総鎮守にして、祭礼は隔年九月十三日、北本所石原新町の旅所へ神幸ありて、同十五日に帰輿す。
祭神、素盞嗚尊(牛御前と称す)・清和天皇第七皇子(王子権現と称す)ともに二座なり。
相伝ふ、清和天皇の御宇貞観二年庚辰秋九月、慈覚大師東国弘法の頃、素盞嗚尊位冠の老翁と化現し、「このところに跡を垂れ、永く国家を守護せん」と告げたまふ。
よって大師一社に奉じ、上足の良本阿闍梨を留めてこれを守らしむ
(当社の本地仏大日如来の像は、良本彫刻といふ)。
また五十七代陽成院の御宇、清和帝第七の皇子当国に遷されさせたまひ、天慶元年丁酉九月十五日このところにおいて薨じたまふ。
よつて開山良本阿闍梨ここに葬り奉り、牛御前の相殿に合祭なし奉るといへり。
「新編武蔵風土記稿」巻之二十一
(葛飾郡之二)
須崎村
牛御前社
本所及牛嶋の鎮守なり、
北本所表町最勝寺持、
祭神素盞嗚素尊は束帯坐像の画幅なり、
王子権現を相殿とす、
本地大日は慈覚大師の作
縁起あり信しかたきこと多し、
其略に、貞観二年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、位冠せし老翁あり云、国土悩乱あらはれ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす、故に我形を写して汝に与へん我ために一宇を造立せよとて去れり、
これ当社の神体にて老翁は素盞烏尊の権化なり、
牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釈迦の石仏を彫刻してこれを留め、大師は登山せり、
良本これより明王院と号し、牛御前を渇仰し、法華千部を読誦して大師の残せる石仏の釈迦を供養仏とす、
其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て当国に遷され、元慶元年九月十五日当所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し参らせ其霊を相殿に祀れり、
今の王子権現是なり
「武江年表」巻之十
安政六年 己未
同[二月]十六日より六十日、牛島牛御前并相殿王子権現本地大日如来開帳。