内々神社 愛知県春日井市内津町上町 式内社(尾張国春日部郡 内々神社)
旧・県社
現在の祭神 建稲種命
[配祀] 日本武尊・宮簀姫命
本地 妙見菩薩

「内津山妙見宮由緒書」

内津社本記
尾張国春日部郡篠城庄正三位内内天神神社(俗に妙見祠と号す、宮寺妙見寺と称す、台家の僧これを守る)
祭神 尾張連祖建稲種命 一座
謹て按ずるに、景行天皇四十一年辛亥鎮座、
建稲種命は天香語山命(山田郡従三位尾張神社是也)の後裔小豊命(愛知郡熱田郷千竈庄千竈上神社是也、俗に元太夫社と号す)之子宮酢媛命(知多郡氷上姉子神社是也、又、熱田第四の相殿)之兄也、 母は尾張大印岐の女真敷刀媛命(千竈下神社是也、俗に紀太夫社と号す)、
延喜神名式に春日部郡内内神社
本国帳に春日井郡正三位内内天神と云云(初め従三位文治二年丙午三月勅命により正三位を奉らる、或説、神階二位云云、但二位奉進之年紀未考)
正六位上尾張連清稲が録する所の貞観十六年熱田記に云、日本武尊尾張に還り向ひ篠城に到り、進食之間、稲種公傔従久米八腹駿足に策て馳せ来り、啓して曰、稲種公海に入り没すと、 日本武尊乍てこれを聞て悲泣て曰く、現哉ウツツナレヤ現哉と、現哉之詞に依て、内津社と号す、今天神に録す、春日部郡に在り云云(日本武尊薨する年社を定む)、
稲種命は、日本武尊東征之時、勅命に依り、日本武尊に服従、凱旋之日、駿河之海中に没す、 凡そ稲種命の社、当国に四所有り、第一内津社、第二尾張戸社(当国山)、第三熱田第五の相殿、第四波豆社(知多郡師崎)、此外亦所々これを祭る、 宜哉、此命は、当国の氏社本居之霊にして日本武尊郷導武勇之神也、
妙見菩薩祠、中世諸国立之事、旧記に見たり、内津妙見祠も亦此類歟、猶考るべし、 夫れ妙見は、北辰之別称にして、其説七仏所説神咒経に見たり、 今内津社を以て妙見と為す、蓋し妙見菩薩を以て本地と為し、稲種命を以て垂跡と為す乎、 (釈家妙見の本地は釈迦牟尼仏、垂跡は北辰云云、本跡縁起神道流は妙見菩薩を以て本地と為し、稲種命を以て垂跡と為す、此例諸社多し矣)

「日本の神々 神社と聖地 10 東海」

内々神社(津田豊彦)

 当社は春日部郡の式内十二座(並小)のなかの「内々神社」に比定されており、建稲種命・日本武尊・宮簀媛を祀っている。 伝えによれば、景行天皇四十一年、日本武尊は東征を終え、信濃・美濃をまわってこの地に着いた。 そこへ建稲種命の従者久米八腹が駿馬を馳せて来て、建稲種命が駿河の海を渡る折、尊に捧げるためにミサゴ鳥を捕えようとしたとき、風が吹いて舟が傾いたため、海に落ちて亡くなった旨を申し上げた。 それを聞いた尊は悲しみ泣いて「現哉(うつつや)、現哉」と言われたので、この地をウツツと呼ぶようになり、ここに建稲種命を祀ったのが内々神社であるという(『寛平尾張国熱田神宮縁起』『尾張志』)。
[中略]
 神宮寺妙見寺は建稲種命の本地仏として嘉暦年間(1326-1329)慈妙上人によって創建され、妙見大菩薩をまつっている。