天満神社 和歌山県和歌山市和歌浦西2丁目 旧・村社
現在の祭神 菅原道真
本地 十一面観音

「紀伊国名所図会」巻之二

天満宮

東照宮御宮の西の山にとなる
正殿 菅神をまつる
拝殿 歌仙の絵馬は三藐院の御筆なり
楼門 額を扁して「高陽門」といふ。近衛信基公の御筆なり
末社 三宝荒神・伊勢両皇大神・白山権現・多賀大明神
牛の画 楼門を入つて左の庁の西側なる桁にあり。画の下に「貞享五年四月九日塩見小兵衛政誠」としるせり。この塩見氏なるものは、京師の人にして、そのころ蒔絵の名工にて、殊に牛を画くに妙なりしとぞ。またおなじ庁の東の桁にもあり。これは上に京の字を題して、「恋しくて我もみかへる京の字を田舎にそざな墨うしの顔 田舎氏書」としるしたり。ともに至つて妙画なり、なにの為になせしや、そのゆゑをしらず
観音堂 末社の南にあり。本尊十一面観世音なり。旧記に中興再建の施主慶長四己亥二月桑山治部法印宗栄としるせり
社伝旧記に曰く、当社は日域三聖廟のその一なり(いはゆる筑紫の宰府・京都の北野・当社を合はせて三つなり。うたに「和歌のうらの天満つみややひのもとのみつの名だたる一とこそきく」)。 菅公嘗て延喜元年の春、太宰府に左遷し給ふ頃、風波の為に御船をこの浦に寄せしかば
見左理津流みざりつる 伊爾之隨馬天母いにしへまでも 玖也之畿者くやしきは 和歌吹上能わかふきあげの 浦乃安気本乃うらのあけぼの
となん詠じたまふ、 その後、橘直幹宰府より帰洛の折から、この浦を過ぐるとて、深く神蹤のむかしを追想し、竟にこの地に宝殿を営築し、神霊を勧請したてまつり、崇敬いともおごそかなりしかば、たちまち冥助の応報を蒙りしこと、既に西上人が『撰集抄』にも載せられたり。 かくて星霜幾多にして、天正の兵火に、社頭すべて烏有となりしが、尋いで慶長十一年、浅野左京太夫幸長、ふたたびこれを新たにし、神田をさへ寄せられたり。 すなはち今現存する所の社殿これなり。 しかるに元和七年、国祖君当山において、東照神君の霊廟を創建なし給ふ砌、当社をもて地主とし、更に神田を増加して、神威を光耀し給へり。 これよりして世々国君の崇尊他に異にして、霊応また炳然たり。