和爾下神社 奈良県天理市櫟本町櫟本 式内社(大和国添上郡 和爾下神社二座)
旧・村社
現在の祭神
和爾下神社素盞嗚命・大己貴命・稲田姫命
摂社・若宮事代主命
末社・十二神社熊野大神
本地
治道社素盞嗚命薬師如来
大己貴命地蔵菩薩
稲田姫命観世音菩薩
若宮十一面観音
十二社十二神将

「垂迹美術」

垂迹画

84 伝柿本宮曼荼羅図  重要文化財 絹本着色 一幅
   縦100.33センチ 横57.9センチ 室町時代
   奈良市 財団法人 大和文華館蔵

 柿本曼荼羅の重文指定書には特に名称に「伝」が付されている。 このことはたぶん本図の添書の名称が「治道杜、歌塚、柿本寺図住吉慶恩筆、住吉内記広行鑒定」とあるところから柿本曼荼羅とはっきり判定を下されなかったのではなかろうか。
[中略]
 では治道杜とは何を意味するのであろうか。 治道杜とは東大寺山山麓にある古墳をいうのであって、治道の社がこの上に鎮座している。 社の祭神は素戔嗚命で牛頭天王社であり、社名を和爾下神社あるいは横田の治道宮(下治道天王)をふくめて、近世ここを延喜式内の和爾下神社二座と称され、現在は櫟本町の鎮守社となっている。 歌塚は和爾下神社の西麓の田の中にある小さな円墳で伝説では人麻呂が石見国で没したので妻の依羅娘女がここに夫の遺骨を持ち帰って葬ったので、これを歌塚と称したとある。 古くはこの塚を歌聖人麻呂の墓と称して初瀬の観音に参詣のみぎり特に籠を曲げる人も多かったという。 柿本寺は治道社の北西麓に建っていたが今はなくその跡には礎石の三、四個が土中からわずかに頭を出しているのが見られる。
[中略]
 図の構成を詳細にみると画面上方の山は高瀬山と東大寺山を描き、麓の古墳上に板玉垣で三方を囲い、楼門と社務所、鐘楼を回廊でつなぎ、左右の側面に祈祷所を描く正方形の境内は、折半して一段高き所に本社三殿人棟が西向に建ち、裏側には石灯籠と若宮を描く。 その上辺に本地仏を右から地蔵(一殿の大己貴命)薬師(二殿素戔嗚命)観音(三殿稲田姫命)十一面観音(若宮)の四本地仏を円相内に描き、楼門の前方は急な石段があり石段の終わるところの右方に十二社と弁才天社の二社と拝殿を描く、十二社には本地仏の十二神将を並立させ、二の鳥居と御旅所は南面して描き参道は桜、松、柳の並木道で参道に沿って流れる川を描くが、川は高橋川(高瀬川)といい、川水は東大寺領の櫟庄に水を引くための水路の役をはたしていた。 一の鳥居は図の最下方に描き、御旅所の上方に描く小さい塚は歌塚であり、その左上方の十数個の礎石は柿本寺跡である。