鷲宮神社 埼玉県久喜市鷲宮1丁目 旧・県社
現在の祭神 天穂日命・武夷鳥命
大己貴命 <神崎神社>
[合祀] 武御名方神・伊邪那美神・大山祇神・宇迦之御魂神・大山咋神・天照皇大神・加具土神・素戔嗚尊・菅原道真公
本地 釈迦如来

「新編武蔵風土記稿」巻之二百十一
(埼玉郡之十三)

鷲宮村

鷲明神社

当社は式内の神社にはあらざれど、尤古社なり、 祭神は天穂日命にて、大背飯三熊之大人天夷鳥之命を合祀す、 【日本書紀神代巻】に曰、 素戔嗚尊乃轠轤然解其左髻所纏五百箇統之瓊綸、 而瓊響瑲瑲濯浮於天渟名井、 囓其瓊端置之左掌而生児、正哉吾勝勝速日天忍穂根尊、 復囓右瓊置之右掌而生児、天穂日命、此出雲臣、武蔵国造、土師連等遠祖也と是なり、 故に土師宮と号すべきを、和訓相近きをもて、転じて鷲明神と唱へ来れりといへり、 又【羅山文集】に據ば、当社に昔縁起十巻ありて、有間王子良岑安世こゝに来て神となる、本地は釈迦なりと記したれど、全く浮屠の妄説なりと見えたり、 鎮座の年歴は詳ならず、
[中略]
本社 前に幣殿拝殿を建続く、幣殿の額は後西院の皇女の筆也と云、
神崎神社 社伝に天穂日命の荒魂を祝ひ祀る神の陵と云中略にて神崎と号すといへり、
本地堂 鷲明神の本地仏釈迦を安置す、座像長三尺、こは昔右大将頼朝南都招提寺へ寄附の像なりしを、後年故ありて当所へ移し安置すと云、
神楽堂
末社 太神宮 鹿島 素戔嗚尊 姫宮八幡若宮八幡香取合社 天王 天神 猿太彦命天鈿女命武内宿禰稲荷浅間駒形軍神御室山王合社

池尻篤「鷲宮神社の祭神 —近世における祭神変容の一事例—」[PDF]

本殿の祭神

 中世以前の祭神については史料がなく不明である。 わずかに窺える史料として、十四世紀半ば頃に成立したとされる『神道集』がある。 『神道集』には伊豆国の三嶋大社の項に鷲宮神社が登場する。 伊予国の三嶋大社が伊豆国に遷った際、その摂社であった鷲大明神も一緒に東国に遷り、武蔵国太田荘の鎮守となったというものである。 ここで登場する鷲大明神は、伊予国から阿波国に子供を連れ去った鷲が、後に三嶋大社の社前に鷲大明神として祀られたものとされている(三嶋大社は、鷲に連れ去られた子供が後に出世して、父母を祀った神社)。 ただし、あくまでも三嶋大社の主張であり、鷲宮神社が自社をそのように認識していたかは疑わしい。
 鷲宮神社の祭神について現在確認できる最古の史料は、『林羅山詩集』巻六に収められた次の紀行文の一節である。
【史料一】
幸手辺半里許有鷲宮 古来之霊社也 我雖聞其名知其社主以路迂故不往焉 我甞見其縁起十卷許有云 有間王子良岑安世来此為神云云 其本地釈迦也云云 室八洲事起於此 且富士山神奥津神其余処与此神同体云云
[後略]
 史料一は、林羅山が承応二年(1653)に江戸と日光を往復した際に見聞したものを記した一節である。 これによると、羅山がかつて見た鷲宮神社の縁起では有間皇子と良岑安世が祭神であり、その本地仏は釈迦であった。 また、東国の歌枕である室八島は鷲宮のことであり、富士山の神や奥津の神、その他の神々は鷲宮と同体であることが記されていたという。 後段で羅山は有間皇子等が鷲宮の本来の神ではないと考証しているが、鷲宮神社は自社の祭神を現在の出雲系の神々とは異なる間皇子等であると認識していたのである。
[中略]
 以上のように、鷲宮神社は承応から寛文期にかけて、『記紀』に登場する神々ではなく、歴史上の人物や富士山神などを祭神として認識していたのである。 しかし、元禄四年(1691)の供僧頭大乗院の縁起では有間皇子などは姿を消し、天穂日命に変わる。
【史料四】
武州崎玉郡太田庄鷲宮本地釈迦略縁記
抑(酉の町根元)鷲宮大明神本地釈迦如来は、源頼朝公開運成就守本尊也。(中略)
于時人皇七十八代永暦元年初春、頼朝公伊豆の蛭が子嶋に遠流せさせ給ひて廿一年の春秋ををくり、或夜丑ミつ頃老翁来て寝扉をたゝく。 公怪ミて見給ふに、齢八十有餘の翁也。 頼朝公に向て曰く、身命大切にいたすべし。前世宿縁あるによつて此釈迦を与ふ。誠に三国伝来の霊像なり。謹而信心いたす時ハ開運すミやかに成就すといへり。 貴方ハ何地より来る。 翁曰、西天釈尊則東土之天穂日命、鷲大明神と云いつて立去行方をしらず。(中略)
  元禄四乙未年十一月 鷲宮 大乗院
 史料四では、頼朝に釈迦像を与えた老人が自らを「西天釈尊則東土之天穂日命、鷲大明神」と名乗っている。 『林羅山詩集』と同様、本地仏を釈迦としているが、その垂迹の神は天穂日命と変容しているのである。 次いで、宝永四年(1705)の棟札では、天穂日命とともに相殿天夷鳥命が登場する。
[中略]
 これ以降に作成された鷲宮神社の縁起類や『新編武蔵風土記稿』(以下、『風土記稿』)などの地誌でも、本社の祭神は天穂日命と武夷鳥命の二柱となっており、今日まで続くことになる。

三 神崎社の祭神

 次に神崎社の祭神について検討したい。 神崎社は本殿と並んで配置されていることから、他の境内末社とは異なる特別な存在であることが窺える。 神崎社の祭神の初出は、前述した史料五の棟札と同年同月の次の棟札である。
[中略]
史料六では、「神崎太明神」を「本社荒魂」としている。 享和二年(1802)までに完成した『武蔵志』では 「本社ノ側ノ西ニ塚アリ 社ヲ建ツ 別殿トモ云 神崎ノ社トモ云 天穂日命ノ荒魂也ト云」 とあり、埼玉郡では文政三年(1820)に調査が行われている『風土記稿』でも 「神崎神社 社伝に天穂日命の荒魂を祝ひ祀る神の陵と云 中略にて神崎と号すといへり」とあり、地誌でも「神崎社」=「天穂日命荒魂」としている。
[中略]
 次いで、文政九年(1826)頃に記されたと考えられる『武蔵国造太田庄鷲宮大明神并私家之由緒書下書』には次のようにある。
【史料七】
(前略)
一 延喜式神名帳曰、前玉神社二座之内也、 前玉と幸魂、同万葉集武蔵国之歌、佐吉多万能津尓乎流布祢乃可是乎伊多美都奈波多由登毛許多奈多延曽祢、 旧事紀云、大己貴命乗天羽車大鷲而覓妻云云、 往昔高皇産霊尊、大己貴命ニ勅云、汝之祭祀を可主者天穂日命也と、 依之穂日命を新宮ニ奉招請然ルに大己貴命、大陶祇女、活玉依姫を娶て、終ニ三諸山ニ留給、依而穂日命を本宮ニ遷し奉り申候、右之謂ニ付于今大己貴命之祠三ヶ所ニ御座候
一 人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊当社御造営有之候砌、相殿大背飯三熊之大人天夷鳥命、別殿神崎社荒魂故ニ玉垣之内二社之神社と唱申候、 別宮末社十八社御座候(後略)
 史料七では、後に神崎社の祭神とされる大己貴命が登場し、「本宮」にいた大己貴命が三諸山(三輪山)に留まったため、大己貴命を祭るために「新宮」にいた天穂日命が「本宮」に移ったとしている。 この縁起だけでは「本宮」や「新宮」が現在のどの社に該当するのか分らないが、天保年間に記されたと考えられる『鷲宮旧正録』には次のようにある。
【史料八】
(前略)延喜式神名帳曰埼玉郡四座前玉神社二座のうちなり。 旧事紀云大己貴命乗天羽車大鷲而覔妻給ふ時に此処に遊行折ふし、未此地浮沼なりし中に、小高所ありて竹木生しけりて、蒼生ハ巣に住、穴に住習俗なりしを、大己貴命山林を披払磐境を定させ玉へて、宮室を経営て、(中略) 往昔、高皇産霊尊、大己貴命に勅て曰、汝の祭祀を主とるべき者ハ、天穂日命なり。是によりて穂日命を新宮に招請し奉り、(中略) 然るに大己貴命ハ、大陶祇女活玉依姫を娶て、終に三諸山に留まり給ふ。 仍て穂日命を本宮へ遷し奉る是神崎ノ社也事となりしも、元武蔵国ハ穂日命の造り給ふ故なるへし、(中略)
十二代景行天皇の御宇、日本武尊当社御遷宮あり、相殿にハ武三熊之大人天夷鳥命を祭り奉る。<今ノ本社是也>(後略)
内容としては史料七と変わらないが、「本宮」が神崎社であって、「新宮」が本殿であることが分かる。 つまり、大己貴命が未開の地であるこの地を切り拓いて宮殿(「本宮」=神崎社)を構えたので、大己貴命を祭る役目がある天穂日命が「新宮」=本殿に招かれた。 その後、神崎社にいた大己貴命が三諸山に留まったので、神崎社でも天穂日命が祀られるようになったとして、本殿・神崎社の両社殿に天穂日命が祀られていることを説明している。
 一方、天保十四年(1843)に記された『鷲宮迦美保賀比』には次のようにある。
【史料九】
(前略)
鷲宮大明神
 御本社 祭神 天穂日命 天夷鳥命
 神崎社 同 大国主命 (中略)
一 延喜式神名帳に埼玉郡前玉神社二坐とあるハ、御本社と神崎社をさしていふ、 たゝしこの郡のうち根古屋村・埼玉村等にも前玉神社と称する祠ありといへは、うたかふ人もあるへけれと、そハとまれかくまれ、我家ハ往昔よりたしかなるつたへありていふなり、 こハ御社のかうかうしさ古書ともに載せたるなとにても、大かたハ人しりぬへくこそ、 さて旧事紀に見えたることく、上ツ代大国主神天羽車の大鷲に乗て天の下を経営し給ひしをりから、此地に幸御魂の鎮まりしゝより、鷲の宮の号ハ起れるなりけり、(中略) この郡の名も此神の幸魂の御稜威四方に暉き、諸民霊徳をかゝふりけるゆゑ広く郡の名におひしを、和銅の勅宣(元明天皇)によりて、埼玉とハ書あらためしものなり(埼玉ハ借字也)、 扨神典に見えたることく、天穂日命ハ(書記云、是出雲臣武蔵国造土師連等遠祖也と見え、また矢田部公野望の哥に、天の穂日神のミおやハ八坂にのいほつすはるの王とこそきけ)高皇産霊尊の勅によりて、大国主神の祭祀をつかさとらむかために此所に御遷幸(中略)
一 十二代景行天皇の御世倭建尊、東夷御征伐の御時当社の神威をあかめ給ひ御造営あり、 其とき天穂日命ハ当国造の遠祖神なるを以て御舎をもことにいかめしく作り給ひて、天夷鳥命を祭り添給ふ(古事記云、天菩比命之子建比良鳥命ハ出雲国旡邪志国造上莵毛ヽ国造下莵毛国造伊自牟国造津嶋縣直と遠江国造等之祖也とあり) 是より大国主神の幸御魂を神崎社と斎祭て(神陵の中略なり、元禄年中の古図にハ四方に玉垣を結ひめくゝらして参詣の人々近よることを禁せしとミゆ)(後略)
 神崎社は大国主命(大己貴命)としており、史料七・八に見られる大己貴命が三諸山に留まって神崎社が空いたため本殿にいた天穂日命が遷ったという記述が消え、創建時より一貫して大己貴命が祀られていたことになっている。
 つまり神崎社の祭神は当初、天穂日命の荒魂とされていた。 文政期には、本殿と神崎社で同じ天穂日命の霊魂が祀られている説明として大己貴命の三輪山説話が採り入れられた。 天保期になると、神崎社に天穂日命の荒魂が遷された話は消え、創建時より一貫して大己貴命が祀られているとされたのである。