鷲尾神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山 旧・無格社
現在の祭神 大山祇神
本地
八王子十一面観音
牛頭天王薬師如来

「金峯山創草記」

諸神本地等

金剛蔵王(過去釈迦、現在千手、未来弥勒、或云大日、或云地蔵)
役行者(不動) 義学(阿弥陀) 義賢(弥勒)
天満天神(十一面)
佐抛(地蔵)
勝手大明神(縁起云、霊鷲山辰巳護法蔵王権現、大聖文殊垂迹云々、或云得大勢、或云不動、或云毘沙門)
矢護若宮(文殊)
大南持(薬師)
八王子(十一面)
子守三所権現(僧体阿弥陀、女体地蔵、俗体十一面、或云胎蔵大日云々)
三十八所(無量寿、或云金剛界三十七尊并胎蔵大日、或子守胎蔵大日、三十八所金剛界大日、或聖観音、或云如意輪観音、或云大勢至)
若宮(文殊、或云大勢至)
牛頭(薬師)
金精大明神(霊鷲山丑寅護法阿閦仏、或云釈迦、或云金剛界微細会大日)

首藤善樹「金峯山寺史」

八王子社

 八王子社は世尊寺と水分社の間にあった。 祭神ならびに創建不詳。 「大和国吉野山金峯山寺神仏勘文」(明治元年、東三箱六号)に 「八王子神社 神霊及ヒ鎮座ノ時代詳カナラス」 とある。
「金峯山秘密伝」には記載がないが、「金峯山創草記」の「諸神本地等」には「八王子 十一面」とある。 本地は十一面観音だった。 「金峯山創草記」の別の箇所には 「八王子 長日大般若経転読。法華八講、毎年三月比勤之、四ヶ日」 ともなる。 八王子社は鎌倉時代までに創祀され、八社明神には入らないが、長日大般若経転読がおこなわれ、毎年三月頃には四日間の法華八講がおこなわれるという盛んな社であった。
[中略]
 慶応四年(1868)五月二十四日、神仏分離にともない吉野山の三社の社号を改る願書を弁事伝達役所に提出したが、その中で八王子社を鷲尾神社と改称する案が出されたことがある(集成三部三八四号)。 現在、地元住民によって護持されている。

向村九音「創られた由緒 —近世大和国諸社と在地神道家—」

附論 『大乗院寺社雑事記』を中心に見る率川神社 —中世期に形成された像と機能—

第三節 中世における率川神社祭神にまつわる言説

 中世の率川神社祭神は吉野水分神社の祭神と重ねられて説かれる。 以下に、両社の祭神と本地の祭神と本地について記した『雑事記』の記事を引用する。
【8】長享二年(1488)二月二十四日条
一 吉野愛染之宝塔聖御嶽万タラ持来、拝見了、相語、上御前ハ戍亥向也、
 南本地十一面、女体也、率川也、
 中本地阿ミタ、
 北本地地蔵、三十八所也、
 下御前者北向也、勝手大明神、
 西本地文殊、
 東本地毘沙門、持太刀座像也、
 亦末社共金上大明神、本地大日、
 牛頭天王薬師、八王子地蔵
 佐ラケ地蔵、北野天神十一面、
一 奈良ノ子守社者南向也、云率川トモ云子守トモ、
 東十一面、女体、率川大明神、
 中地蔵、三十八所、子守大明神、
 西阿ミタ、住吉大明神、
  南円堂巡礼ノ時、向未申方、一言主・大窪・率川ノ大明神ト申是也、
一 春日若宮ノ南三所ヲ三十八所大明神ト申、則吉野上御前也、然者三所ノ御次第可為如吉野歟如何、

鈴木昭英「金峰・熊野の霊山曼荼羅」

吉野曼荼羅

 なお。ここで金峰・吉野諸社の尊名、神像形姿、本地仏の一覧を掲げることにしよう。 『私聚百因縁集』『金峰山秘密伝』『金峰山創草記』『小篠秘要集』『両峰問答秘鈔』『大乗院寺社雑記』長享二年二月二十四日条、及び金峰・吉野の諸神を描写した鏡像・懸仏や吉野曼荼羅などを全体的に照合して作成した。 本地仏の異説の多いのに驚かされる。

  神名 神像姿 本地
蔵王堂 蔵王権現 夜叉形 〔過去〕釈迦・〔現在〕千手観音・〔未来〕弥勒(または大日、あるいは地蔵)
上宮 子守三所権現 僧体 阿弥陀
女体 地蔵
俗体 十一面観音(または胎蔵界大日)
若宮姫明神 女体 阿弥陀
三十八所 俗体 千手観音
率川 女体 十一面観音
下宮 勝手大明神 夜叉形 毘沙門天(あるいは文殊、あるいは得大勢至、不動)
矢護若宮 童子形 文殊
末社 金精大明神 俗体 金剛界微細会大日(あるいは釈迦、あるいは阿閦仏)
牛頭天王 夜叉形 薬師
八王子 俗体 十一面観音(または地蔵)
大南持 俗体 薬師
雨師 俗体 如意輪観音(あるいは十一面観音)
佐抛明神 俗体 地蔵
天満天神 俗体 十一面観音