箭弓稲荷神社 |
埼玉県東松山市箭弓町2丁目 |
旧・県社 |
「武蔵国比企郡松山正一位箭弓稲荷大明神縁起」
爰に当社正一位箭弓稲荷大明神と申奉るハ往古久しき垂跡にて霊験感応枚挙遑あらず。
箭弓の名号の故を記せバ、頃ハ人皇六十八代後一條院の御宇長元元年、下総国千葉の城主前上総介平忠常謀叛を企、安房・上総・下総三ヶ国を切従破竹の勢ひにて威を八州に震ひ、四万五千余人の大軍を起し武蔵国へと押出たり。
此節冷泉院の判官代源頼信ハ甲斐守に被為任甲斐の国府に着玉ひし所、忠常追討の綸旨を賜り俄に軍の用意を調へ近郷の兵等を催し玉ふ。
此頼信朝臣ハ源家の棟梁多田満仲の御子にて頼光朝臣の御舎弟なりしかバ、軍略・武勇兼備して心賢き大将なれども、甲府に下りて間もなく万事心に任せぬ中に、平忠常が勢ひ遠近を靡く猛威盛の時なれバ、頼信の催促に隨ひ寄者儋なり。
然とて敵ハ程近き武蔵野へ操出し、寺院民屋を放火して直に都へ責登らんと乱妨甚しかりけれバ猶豫の軍配なりがたく、一族郎党近郷の地侍些に五千余人に不過小勢のまゝに甲府を立て武蔵国へ入玉フ。
平忠ハ入間郡河肥の地に押出す。
こゝにおゐて頼信朝臣ハ比企郡松山に陣を張、看使をもつて敵陣を窺ハせらるれバ、前上総介の軍兵ハ長元元年より三年以来の戦場に自なる軍の調練、元来烈しき関東の気質に備ハる武辺の勇惣軍既に五万に及び、月の名におふ武蔵野に輝したる星兜尾花に等しき鉾・長刀最晃しき形勢なれバ、源氏の小勢の不知案内容易追討なりがたく、さすが武門に誉ある頼信朝臣も心を悩し聊猶豫し玉へバ、其手に従ふ兵等も敵の大軍に聴怖し勇威も怠ミて看えたりしが、頼信朝臣の在ます本陣の傍に最年経たる祠有。
頼信是を見そなハして在所の老人を呼出し当社ハ何の神なりやと問ハせ玉ヘば翁答え、此御宮ハ野久稲荷大明神と申て此野に久しき御神にて、本地ハ十一面観世音に在ます由を答しかバ、頼信朝臣ハ聞し召て夫ハ僥倖の事にこそ野久ハ箭弓にて弓箭採身に因有。
殊に十一面観世音ハ神通の化現なり。
畏怖軍陣中衆怨悉退散の経説ハ空しからず。
遖れ神通力の冥助に依て怨敵退散なさしめ玉はと朝敵退治の願書を呈し、太刀一振・俊馬一疋を神前へ奉納せられ、一終夜の御祈願有て其暁に軍勢を調へ正し、最厳重に進発あれバ明行空に自ら雲の景色の白羽の箭と見ゆるが如く薄靡て、一陣の風颯と吹立敵陣の方へ彼雲ハ箭を射さまに飛行けバ、源氏の諸軍ハ勇立思ハず雄誥を上互に心を勵せバ大将頼信欣然と軍配とりて真先に走出し、神力応護の勝軍ハ此奇瑞にて知らるゝぞ、進々と下知あれバ宦軍一同に勢ひ烈しく心を一致に五千余騎、平忠常が屯に押寄唯一戦に敵の大軍を討破り、頓て賊党を三日三夜追討し悉く亡しかバ、偏に箭弓の神徳と頼信喜悦不斜、社殿を再建仕玉へり。
「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」
箭弓稲荷神社
東松山市箭弓町2-5-14(松山字箭弓)
歴史
「正一位箭弓稲荷大明神略縁起」は、本殿拝殿造営成就の記念として天保十一年(1840)九月、別当福聚寺法印順性が記した由緒書きである。当社の社名由来伝説と別当福聚寺創建を述べている。
社名の由来については、長元元年(1028)に下総国千葉城の城主平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三か国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した。
これを受けて源家の棟梁多田満仲の子であり、甲斐国守を務める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。
しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。
その時、頼信の布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。
問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃滅することができた。
一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。
この神恩に報いるため、社殿を再建した。
以来、野久稲荷は箭弓稲荷と号せられるようになった。