| 現在の祭神 |
高皇産霊大神 [配祀] 建速須佐男神・大国主神 |
「山田町史」
第四章 第一節 寺社と農民の信仰・講[LINK]
当時の、山田町地域における神仏習合のようすをみると、まず、山倉神社があげられる。
山倉神社は、山倉の大六天と言われるように、仏である大六天が勧請され、真言宗山倉山観福寺別当として、祭祀が継承されてきた。
これは、祭神である高皇産霊大神、建速須佐男大神、大国主大神が垂迹で、大六天が本地仏ということである。
民俗生活編 第一節 祭礼と寺院行事[LINK]
観福寺沿革
宗派は新義真言宗豊山派に属し、弥勒寺の末寺である。
寺伝によれば、弘仁二年(八一一)霜月初卯の日、天台宗の宗祖円頓和尚此地に来り、除疫済民の為に大六天尊を勧請し、其の後、真言宗祖空海師東国巡錫の途次、此の霊場をあらに尋ねられ、恰も当時地方疫癘流行のため衆生病厄苦相を愍み錫をここに止めて、除疫修行すること一夏九十余日に及んだ。
満願の日に神仏感応して、寄瑞があった。
即ち龍宮より龍燈を献進し、又犠として鮭魚を供せられた。
後年霜月初卯を大祭日とし、贅魚を献する恒例の出来たのは、これに縁起したものである。
[中略]
なお、観福寺住職椎名師の説明によれば、本寺は山倉山観音地院観福寺と称し、弘仁二年、円頓和尚がこの地を訪れたとき、白髪の老婆と会し、話し合われた結果、除疫済民のために本地仏として聖観世音菩薩を勧請したのが、本寺のおこりだという。
さらに弘仁五年、真言宗祖空海師が四十一歳の砌この地に来られ、ここに大六天尊を勧請したのが大六天と呼ばれる所以だという。
そして明治二年五月二十四日、山倉大神と分離独立して、大六天尊を本寺に奉遷し、旧に復したという。