山崎神社 | 和歌山県岩出市赤垣内 | 旧・村社 |
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現在の祭神 | 大市比売命・大山津見命・須佐之男命 [合祀] 奥津彦命・奥津姫命・火加具土命・大年神・水波能売命・八衢彦之命・八衢姫之命・久那斗之命・誉田別命(応神天皇)・八王子神・伊弉冊命・天児屋根命・上筒男之神・市杵嶋姫命・天照皇大神・三筒男之神・猿田彦之命・大倭姫之命・日本武命・稲背脛彦命・興玉命・瀬織津姫命・速秋津姫命・速佐須良姫命・気吹戸主命・大雀命(仁徳天皇)・栲幡千千姫命・蛭子神 |
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本地 | 十一面観音・薬師如来・釈迦如来 |
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○大市姫神社 境内周三町二十間
本社 拝殿 庁 神楽堂
護摩堂
末社十社
大神宮 住吉社 春日社
総社明神社 諸神社 三部社
八王子社 舟渡明神社 牛神社
蔵王権現社
村中南の方に在り 古は大市姫一座の神を祀る 後世素盞嗚ノ命大山祇命を合せ祀り三坐の神となせり 赤垣戸曽屋馬場中野黒木金池相谷湯窪波分尼辻金屋新在家十一箇村の産土神なり(此の十一箇村の内波分尼辻は弘田ノ荘に属す 其の余は皆山埼ノ荘なり 然れば波分と尼辻は古は山埼ノ荘に属せしならん) 社家相伝へて降雲大市姫ノ神社といふ 中世以来両部に祭り本地を十一面観音とす 雷除の神符を出す 荘中に雷の落ちる事なしといふ 古ヘ社領二町五段あり殿舎備りしに天正の兵火に悉ク焼亡し社領も亦没収せらる 寛文記にいふ 当社に弘法大師川越の額といふあり 大師湯窪村に百日居住し当社に日参せらるゝ時大師の母刀自尋来けれは大師これを避て川を渡て南せられしに俄に水漲りて渡りかたし 兼て額字を書すへきの約ありし故に川を隔てこれを請ふに額を立てさせて川を隔てゝ筆を投げて市姫大明神と書されたりといひ伝う この額根来乱の時焼亡す その余宝物旧記此の時皆亡ふといふ 当社の事詳に考定部に出たり 神主宮本氏あり
別当 円福寺
真言宗新義根来寺末 古は七堂伽藍の地なりといふ
大市姫神社
右山崎荘赤垣内村にあり 大市比売は大山津見神の女須佐之男命の后神にて御子大年神次に宇迦之御魂神を生し給へる事古事記に見はる 神名帳伊勢国安濃郡大市神社と同神なり
[中略]
此地に斎祀りし由は詳ならされとも明暦記には山崎荘十六箇村の産土神といひ今は山崎荘十二箇村の産土神といふ 明暦記に曰 本地は十一面観音 脇立東は薬師西は釈迦
[中略]
又円福寺といふ別当寺旧は村中にありしか今は本社の境内にありて其書出せる趣は境内に十一面観音護摩堂一宇古は伽藍の古跡なれとも今は退転して縁起旧記もなし
[中略]
抑此御神は神名を以て直に称名として称来れは一座の神なる事著きなるに後世三座の神となし其説又一様ならす
東 牛頭天王 本地 薬師如来
中 婆梨采女 同 十一面観音
西 若宮部類 同 釈迦如来
右応永二十年祭文に出つ 陰陽家の説に素戔嗚尊を牛頭天王とし婆梨采女を牛頭天皇の后とす 因りて大市姫を婆梨采女にあてしなり
左 素戔嗚尊
中 大市姫命
右 大山祇命
右神主より書出せる説なり 此説祭文と名は異なれとも実は同し 大山祇命は大市姫の父神なり 此一神は祭文と異なり
左 大山祇命 本地 釈迦如来
中 大市姫命 同 十一面観音
右 八島士奴美命 同 薬師如来
右別当より書出せる説なり 八島士奴美命は素戔嗚尊の御子にして稲田姫の生みませる神なれは大市姫の為には親子神なりこれを合せ祀るれりといふ事いと謂なし
赤垣内集落の南部、森の中に鎮座する。 祭神は大市姫命・素戔嗚命・大山祇命。 旧村社。 古くは大市姫神社と称し、近世山崎荘内九ヵ村・弘田荘内二ヵ村の産土神であった。 当社は市場の神として成立したようである。 中世以上、降雲大市姫神社と称し、本地は十一面観音(続風土記)。 鳥羽上皇熊野御幸の時、御幸を妨げた雷神を当社の神が鎮めたと伝えている(山崎神社史)。 また「続風土記」は寛文記にいうとして、当社にかつて弘法大師川越の額があり、「大師、湯窪村に百日居住し、当社に日参せらるゝ時、大師の母刀自尋来けれは、大師これを避て川を渡て南せられしに、俄に水漲りて渡りかたし、兼て額字を書すへきの約ありし故に、川を隔てこれを請ふに額を立させて川を隔てゝ筆を投て市姫大明神と書されたり」と記す。 しかし天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの兵火にあい、すべて焼失したという。
近世には別当円福寺があった。 真言宗根来寺(現岩出町)末で、本尊は当社本地仏の十一面観音。