「新編武蔵風土記稿」巻之百十二
(多磨郡之二十四)
小岩組(檜原村)
牛頭天王社
除地一段六畝十二歩、内社地十五六歩、
南の方字玉子城の山上にあり、
山下に調屋及び木の鳥居を建て、
それより石階百級を上りて社前に至る、
本社の高欄をうちまはせし宮造の小社なり、
本地弥陀の木像長六寸余、最古色の像なり、
縁起を閲るに当社の神号を一に十二王子神社といへり、
是は素盞烏尊を十二王子と称するによれりとなり、
又縁起によるに当社は人皇七十代後冷泉院の御宇、
源義家奥州安部貞任兄弟を討せらるゝの時、
当所檜原の城主たりし宿辺少将高安なるもの、
行軍の押へたりしに、をりふし城中の兵士疫病をやみて死するもの多かりしかば、
高安いたくこれを患ひて、其由きこえ上て、京都より申下して勧請せりといへり、
此こと然らんには古き社なるべし、
中古以来おとろへしにより、すべての伝を失へりと云、
去にても疫癘守護の神なるしるしは、
寛保年中近郷大きに疫病行なはれし比、当社を鎮守とする農民のみ、曾て一人も其わづらひなかりしにより、
近郷の人まで仮に当社の氏子となれば、其人猶恙なかりしゆへ、いよいよたうとみ信心の輩最多しなどくはしく縁起にのせたり、
例祭二月十二日、
乙津村住居の社家をむかへて、中臣の祓を修す、
百姓の持