風土記稿の記事 |
巻之九十六(村里部 鎌倉郡巻之二十八)
坂之下村
○御霊社
鎌倉権五郎景政が霊を祀ると云ふ、
土人は五霊社と唱ふ
(按ずるに此神主小池氏の旧記に據るに、
桓武天皇の後胤、平良兼四世の孫を、村岡五郎忠通と云ふ、
忠通五人の子あり、一男為通、二男景成、三男景村、四男景通、五男景政と号し、五人五家に別る、
忠通卒して、五家々門栄盛の為に、鎌倉に一宇を草創して、忠通の霊を祀る、
故に五流宮と唱へ、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇むとなり、
土人の五霊と唱るは、此により、又扇谷葛原岡及び梶原村にも、古昔此社ありと云ふ、
葛原岡の里老の話に、昔梶原景時が先祖鎌倉権守景成は、鎌倉並梶原村辺を領しける頃、此葛原ヵ岡も、梶原村の地にして、其頃迄は名もなき軍原にて有しが、権守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王菅氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも、御霊社とも称し、此岡に鎮坐なし奉りけり、
文字は同じけれど、唱を替て、くつは方の御霊社と申せしなり、
梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、
されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり、
又其後鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりと云へど、今葛原岡・梶原村共に其道蹤を伝へず、
且神主の旧記、里老の口碑、其據どころ無に非ざれど、【保元物語】を閲するに、
義朝白河殿夜討の條に、大橋平太、同三郎懸出名のりけるは、御先祖八幡殿、後三年の御合戦に、鳥海城を落されし時、生年十六歳にて、右の眼を射させ、其矢を抜ずして、答の矢に敵を射て、名を後代に揚ぐ、今は神といはれたる、鎌倉権五郎景□、五代の末葉にて候云々、
と見ゆれば、景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、
前に云所の二説、恐は牽強附会の説なるべし)
景政は奥州の役に義家に従ひ、敵に左の眼を射られしが遂に其矢を抜かずして其敵を討て高名を顕す、
故に眼を患る者此社に祈誓するは往々其験ありと伝ふ
【海道記】にも当社の名見えたり、
文治元年八月当社鳴動するにより頼朝参詣ありて神楽を奏す、
建久五年正月奉幣あり、
十一月此前浜に於て、千番小笠懸あり、
建保三年六月又社檀鳴動す、
建長四年一月、御祈として、社前の浜に於て七瀬祓を行はる、
別当は極楽寺村成就院なり、
神主は鶴岡の職掌小池新大夫兼職す、
例祭九月十八日巡行の儀あり(祭祀の式鶴岡巡行の式に倣へり、祭器も鶴岡の神器に、模倣して造れり)
△末社 石上 金毘羅 地神
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