神社名 森戸大明神
現在の祭神 事代主神・大山祇神
所在地 神奈川県三浦郡葉山町堀内1025
風土記稿の記事

巻之百八(村里部 三浦郡巻之二)

堀内村

○森戸明神社  小名森戸の海浜にあり、 【東鑑】には杜戸と記す、 葉山郷の総鎮守なり、 縁起略曰、此地元山王の社地なり (縁起略曰、治承四年、頼朝三島明神を勧請す、 頼朝豆州配流の日、源家再興の事を三島の神に祈り遂に志を得たり、故に此挙ありと、 是年頼朝未豆州にあり、十月に及びて初て鎌倉に至る、忽劇の間恐らくは此事あるべからず、 又所蔵に治承四年九月頼朝の寄進状あり、其写を蔵し本書は失へりと云は又疑はし)、 本社慶長二年十二月再興の棟札を蔵せり、 祭神大山祇命なり、 神躰は鏡面に鋳出せし像なり、 例祭九月八日 社領七石の御朱印を賜ふ、時に天正十九年十一月なり、同年制札を賜ひしとて其写を蔵す、
[中略]
△本社 六尺五寸に一丈一尺、
[中略]
△幣殿 二間に九尺、
△拝殿 二間に三間、
[中略]
△末社 四神合祀(浅間・大神宮・姫大神・水垂明神の四座なり) 山王(即当社の元宮なり、今石の小祠を置く)
[中略]
△御殿蹟 社後の海浜を御殿原と云、相伝ふ頼朝別館の跡なりと 按ずるに将軍頼朝・実朝・頼経の諸公屡此地に遊覧の事【東鑑】に見ゆ、 然ば此館当時休憩の為に設られしなるべし、
[中略]
△神主守屋出雲 当社勧請の初より神職たりしと云、 前に出せし院宣に刑部助物部恒光とあるは則先祖なり、 今家系を失ひて詳ならず、 中古の祖を物部宗重と云、其子刑部儀重其子刑部富重、富重は寛永十八年歿す、 是より八代にして今の出雲に至る