『神道集』の神々

第二十二 出羽国羽黒権現事

出羽国鎮守の羽黒権現は三社から成る。
中御前の本地は請観音である。
左は軍陀利夜叉明王である。 この明王は南方宝生如来の化身である。
右は妙見大菩薩で、東方阿閦如来の化身である。
羽黒山は能除大師の草創で、人皇三十四代推古天皇の御代に顕れた。

羽黒権現

出羽三山神社(山形県鶴岡市羽黒町手向)
月山・羽黒山・湯殿山は羽黒三山(あるいは羽州三山)と総称され、羽黒派修験道の根本道場として崇敬された。 月山と湯殿山は冬期の参拝が困難であることから、羽黒山頂の羽黒山寂光寺大堂に三山の本地仏(聖観音菩薩・阿弥陀如来・大日如来)を安置した。 神仏分離以降は大堂を三神合祭殿と改め、以下の三山の祭神を合祭している。

出羽神社
祭神は伊氐波神・倉稲魂神。『羽黒山縁起』『睡中問答』『羽黒山伝』等では伯禽州姫命(玉依姫命の異名、あるいは鸕鷀草葺不合尊の娘)、『先代旧事本紀大成経』(神社本紀)では羽黒彦大神とする。
式内社(出羽国田川郡 伊氐波神社)。 旧・国幣小社。
三神合祭殿の前の御手洗池(鏡池)を御霊代とする事から、"いけのみたま"として崇敬された。

月山神社(東田川郡庄内町立谷沢)
祭神は月読命。
式内社(出羽国飽海郡 月山神社名神大)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』大同元年[806]牒の「月山神 二戸」。
月山本宮は月山山頂に鎮座する。 本宮は御室とも呼ばれ、神仏分離以前は暮礼山月山寺と称した。

湯殿山神社(鶴岡市田麦俣六十里山)
祭神は大山祇命・大己貴命・少彦名命。一説に彦火火出見尊。
旧・国幣小社。
湯殿山本宮は湯殿山の中腹の梵字川渓谷に鎮座する。 神域には社殿がなく、御神湯を湧出する赤褐色の巨岩(御宝前)を御神体として裸足で登拝する。 この巨岩は大小二つの頭部を有しており、大きい方を胎蔵界大日如来、小さい方を金剛界大日如来とする。 巨岩全体としては胎金一致の大日如来あるいは金胎両部の大日大霊権現として崇敬された。
羽黒派古修験道の"三関三渡"の修行では、羽黒山は観音菩薩の補陀落浄土(現在)、月山は阿弥陀如来の極楽浄土(過去)、葉山は薬師如来の浄瑠璃浄土(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、湯殿山の大日如来の密厳浄土(三関を超越した世界)で即身成仏の妙果に至るとされた。
なお、葉山が三山から離れた後は、薬師岳の薬師如来を湯殿山に勧請合祀して三山としている。
(参考文献 戸川安章「出羽の信仰と歴史」、『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』所収、佼成出版社、1982)

『羽黒山縁起』によると、崇峻天皇の第三皇子は参拂理大臣と呼ばれ、醜悪な容貌にして悪声であった。 無智文盲で仏法を知らなかったが、修行の志が有り、勝照四年[588]に抖擻修行の行者と成って諸国を廻り、同年六月十一日に羽黒山に入った。 一羽の大烏により阿久谷に導かれて三年間修行し、烏のとまった杉の下に観世音菩薩を感得した。
山中で修行をしていた皇子は猟師の隆待次郎と出会い、その依頼により大泉庄の国司の長年の腰痛を般若の智火で治した。 崇峻天皇五年[592]、その霊験が天聞に達して羽黒山寂光寺の号が宣下され、六月十五日に同寺が山頂に建立された。 また、人々の苦を能く除いたので、"能除太子"の名を賜った。
その頃、北海の酒田の湊に浮木があり、夜毎に光を放った。 太子はその木で妙見大菩薩と軍荼利明王を造像し、聖観音と併せて羽黒三所権現として伽藍に奉斎した。
推古天皇元年[593]四月八日に太子が月山に入ると、補陀落の如来が金色の光を放って山林を照らし、十方世界を浄土とした。 太子は山頂に登って阿弥陀如来の来迎を拝した。
その後、太子が大日如来を拝すために湯殿山の谷に入ると、合向という嶮岨な坂に湯殿山権現が顕現した。 権現の御身から出た火は、太子の膚に燃ついて三毒を消滅させ、天に上って宝珠となった。 太子は宝珠を羽黒山奥の院の荒沢に納め、不動明王と地蔵菩薩を本尊とした。 今の常火堂である。 太子は湯殿山を月山・羽黒・葉山の三山の奥院として、秘所と定められた。

『羽黒山神子職之由来』によると、参拂理大臣は世間を厭う志があり、聖徳太子と相談して柴垣宮を出た。 船で由良に着くと、岩室に美しい八人の女童がいた。 大臣が問うと、一人の女童が「ここは伯禽島姫の宮室で、この国の大神の海幸の浜である。これより東方に大神の鎮座する山がある」と教えた。 大臣はその教えに従って東方に進み、二羽の山烏の導きにより大神の山に至った。 八人の女童がいた浦を八乙女浦と号し、山は羽黒山と名付けられた。
(参考文献 内藤正敏「羽黒山・開山伝承の宇宙観」、『千年の修験 ―羽黒山伏の世界―』所収、新宿書房、2005)

『出羽国風土記』巻二[LINK]によると、羽黒大権現は景行天皇二十一年[91]六月十五日に初めて皇野に祀られ、その後に阿久谷に鎮座し、後世には大堂で本地仏と合祭された。
旧記によると、景行天皇二十年に武内宿禰が勅命を受けて北陸道方面に下向した際、由良の巌窟に至ると神楽の音が聞こえた。 窟内に入ろうとした時、塩土老翁が忽然と現れ「巽の嶽は葺不合尊鎮護の峯、東の麓は玉依姫基瑞の霊場である。艮の頂には豊玉姫が鎮座される湖水が有る。神楽はここで奏されている」と告げて去った。 宿禰はこれを帝に奏上し、翌年六月十五日に皇野に神祠を草創し、皇納賀原三神と号した。

寛政十八年[1641]、羽黒山別当の宥誉は江戸の天海僧正の弟子となって天宥と改名。 羽黒山は天台宗山門派に帰属し、本山派・当山派とは異なる羽黒派修験道として独自の伝統を主張した。
明治初年の神仏分離により羽黒山寂光寺は廃寺となり、大堂は出羽三山神社の三神合祭殿、宝塔山瀧水寺の五重塔は末社・千憑社となり、その他の堂舍もほとんど廃絶もしくは摂末社に転じた。
羽黒山奥の院の荒沢寺は修験寺院として存続し、昭和二十一年[1946]に羽黒山修験本宗として独立。 現在、羽黒派修験道は出羽三山神社と羽黒山修験本宗に分かれ、それぞれ独自に峰入修行を行なっている。
垂迹本地
羽黒三所権現伯禽州姫命聖観音
羽黒彦命軍荼利明王
玉依姫命妙見大菩薩
羽黒三所権現の垂迹神には諸説あるが、ここでは戸川安章「出羽の信仰と歴史」に依った。

能除大師

羽黒派修験道の開祖。 『羽黒山縁起』は崇峻天皇の第三皇子と伝える。 史書にはその名は見えないが、江戸時代初期に羽黒山別当の宥俊や天宥は蜂子皇子(崇峻天皇の第一皇子)の異名と考えた。
文政三年[1820]に羽黒山別当の覚諄は能除太子に対する菩薩号の勅許を願い出て、同六年[1823]二月十三日に"照見大菩薩"の諡号を賜った。
明治になって、羽黒山の開山を蜂子皇子とする説が新政府により正式に認められ、羽黒山上に蜂子皇子墓(宮内庁管理)が設けられた。
現在、羽黒山上には蜂子神社(旧・開山堂)が有り、蜂子皇子を祭神としている。