『神道集』の神々

第三十三 三嶋大明神事

伊予国三嶋郡から荒人神が顕れた。 その神を三嶋大明神という。
昔、伊予の国に、平城天皇の末裔で橘朝臣清政という長者がいた。 清政は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。
清政夫妻は大和国長谷寺に大船六艘分の財産を寄進し、十一面観音に参籠した。 三七日の満願の夜、夢枕に観音が示現し、二人には過去世の報いで子種が無い事を告げた。 清政はそれに納得しなかった。 再び夢枕に観音が示現し、「別の女に授ける子種が有る。お前の財産をこの女に与えるなら、替りにその子種をお前に授けよう」と云った。 これを聞いた清政が承諾すると、観音は水晶の玉を授けた。 清政はこれを女房に与え、女房がそれを口に入れると目が覚めた。
間もなく女房は懐妊し、美しい若君が生まれた。 清政はこの子に玉王と名付けた。 観音との約束で財産はすべて無くなったので、わずかに残った錦と絹で産着をこしらえた。 清政は山で木の実を拾い、女房は野辺の若菜や浦のワカメを取って暮した。
ある日、女房がワカメを取っていると、鷲が赤子を捕らえて与那の大嶽の方に飛び去った。 清政夫妻は必死で山谷を探したが、赤子の骨すら見つからなかった。
鷲は与那の大嶽を飛び越え、阿波国板西郡の頼藤右衛門尉の庭先の枇杷の木の三俣に赤子を挟んで飛び去った。 頼藤右衛門尉は玉王を五歳になるまで育て、阿波の目代(国司代理)がこの子を貰い受けた。 七歳の時に阿波の国司が貰い受け、十歳の時に帝が貰い受けた。
玉王は十五歳で蔵人に任じられ、十七歳で太宰大弐に任じられた。 領国検分のために筑紫に下向しようとしていると、四国から京見物に上った人々が自分の噂をしている所に遭遇し、自分が鷲にさらわれた子である事を知った。
玉王は実の父母を探すために国司として四国に下向した。 国司は阿波国の頼藤右衛門尉の邸で七日七夜の不断経を開き、人々に集まって聴聞するよう命じたが、その中に鷲に子供を取られた人はいなかった。 次に伊予国三嶋郡尾田の清政長者の旧宅で不断経を開いたが、やはり鷲に子供を取られた人はいなかった。 一人の役人が、与那の大嶽の南の真藤の岩屋の老夫婦が不断経を聴きに来ていないと報告した。 国司はその老夫婦を連れて来るよう命じた。
役人は山に入って老夫婦を捕らえ、伊予国三嶋郡の国司の所に連れて来た。 国司が尋ねてみると、老婆は生後百日余りの赤子を鷲に取られたと云った。 老婆が胸をはだけて左の乳房を搾ると、その乳は国司の口に飛び入った。 国司は老夫婦に自分が鷲にさらわれた玉王であると名乗った。
国司は都に戻って帝に報告し、老いた実の父母に孝養を尽くしたいと願った。 帝は玉王を四国の惣追捕使に任じて、伊予国三嶋郡を領地とした。
その後、玉王は伊予中将となった。 中将が三十七歳の時、清政夫妻が亡くなった。 その三回忌が終わって中将は都に戻り、帝の婿に決められた。 中将は父母の墓所の上に神社を建て、三嶋大明神と号して祀った。

その後、中将夫妻は伊勢太神宮に参詣して神道の法を受け、伊予国一宮として顕れた。
讃岐国一宮は中将の乳母の高倉蔵人の女房である。
阿波国一宮は玉王の養父の頼藤右衛門尉である。
鷲も神道の法を授けられて鷲大明神となり、伊予国一宮の社殿の前に祀られた。
その後、三嶋大明神は東国に渡り、伊豆の国に移り住んだ。
鷲大明神も東国に飛び移り、武蔵国太田庄の鎮守となった。

三嶋大明神

三嶋大社(静岡県三島市大宮町二丁目)
祭神は大山祇命・積羽八重事代主神で、阿波神・伊古奈比咩命・楊原神を配祀。
式内社(伊豆国賀茂郡 伊豆三嶋神社名神大 月次新嘗)。 伊豆国一宮。 伊豆国総社。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』大同元年[806]牒の「伊豆三島神 十三戸 伊豆国 宝字二年[758]十月二日九戸 同十二月四戸」。

三嶋大社の創建に関しては、三宅島からの遷座説と伊予国からの勧請説がある。
前者は『三宅記』[LINK]に基づくものである。 同書によると、天竺の帝王に光生徳女という后が有ったが、子宝に恵まれなかった。 后は薬師如来に祈願して懐妊し、王子を産んだが、その子が七歳になる頃に亡くなった。 王子は継母の讒言により父王の不興を蒙り、孝安天皇元年[B.C.392]に日本に到着した。
王子は富士山頂で神明に安住の地を求め、神明は王子に伊豆半島を与えた。 王子がより広い土地を求めると、神明は海中の土地を焼き出して住むように云い、その前に天竺に戻って父王に勘当を解いて貰うよう勧めた。 王子は天竺に帰国して父王に無実を訴え、父王は勘気を解いた。 王子は再び日本に戻り、宿を求めて一つの庵を訪れた。 そこには年老いた媼翁が住んでいた。 翁は媼にこの人は只者ではなく薬師如来の化身であると告げ、王子を歓待した。 翁は王子に伊豆の海を焼き出して住むよう勧め、三島大明神と名乗るよう申し上げた。
三島大明神は媼翁の息子の若宮(普賢菩薩)・剣の御子(不動明王)と娘の見目(弁財天)の三名を伴って伊豆に着いた。 若宮は火の雷・水の雷、剣の御子は高根大頭龍など大小の神々、見目は白龍王・青龍王など多くの龍たちを集め、同二十一年[B.C.372]に七日七夜で初島・神集島(神津島)・大島・新島・三宅島など十の島々を焼き出した。 三島大明神は三宅島に宮居し、五人の后を大島・新島・神津島・三宅島・沖ノ島(八丈島)に住まわせた。
その後、箱根の湖辺に住む老夫婦の三人の娘を大蛇から救い出し、新たな后として三宅島に住まわせた。
ある時、三島大明神は東遊・駿河舞の伎芸を習得した壬生御舘(壬生氏の始祖)と出会った。 壬生御舘は三宅島に渡来し、戸田の地に石で築地を造った。 推古天皇二年[594]正月三日、三島大明神は壬生御舘に三宅島の祭政を託し、五百年後に日本の守護神となる事を宣言した。 そして、同八日午之時に凡夫の姿を石に写して垂迹した。 その後、三島大明神は白浜(下田市白浜の伊古奈比咩命神社)に遷座した。

一方、伊予国からの勧請説は、例えば『東関紀行』[LINK]に「伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。此の社は、伊予の国三島大明神を遷し奉ると聞く」と記されている。

また、『予章記』[LINK]によると、諸山積大明神は大山積大明神の第一王子で、伊豆三島の事であり、本地は薬師仏である。 同書によると、伊予皇子(孝霊天皇の皇子・彦狭島命)と和気姫の間に三つ子が生まれた時、それを恥じて棚無小船三艘に乗せて海に放った。 長子の船は伊豆国に着いて諸山積大明神(本地は阿閦如来)と成った。
(大山祇神社の本地仏である大通智勝仏の十六王子の第一は阿閦如来であるが、この仏はしばしば薬師如来と同一視される)
垂迹本地
三嶋大明神薬師如来

伊予国一宮

大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)
祭神は大山積神。一説に天神第六代の面足尊・惶根尊。
式内社(伊予国越智郡 大山積神社名神大)。 旧・国幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』(天平神護二年[766]四月甲辰)の「伊予国神野郡伊曽乃神・越智郡大山積神並授従四位下。充神戸各五烟」。

『伊予国風土記』逸文(『釈日本紀』に引用)[LINK]によると、大山祇神は別名を和多志大神と云い、仁徳天皇の御宇[313-399]に顕現した。 百済国から津国の御島(大阪府高槻市三島江の三島鴨神社)に渡来し、後に伊予国越智郡の大三島に鎮座した。

『三島宮社記』によると、推古天皇二年[594]に大三島瀬戸(今治市上浦町瀬戸の横殿宮)に奉斎された。 大宝年間[701-704]に越智玉純が神託を受けて文武天皇に奏聞し、霊亀二年[716]に現在地の榊山に社殿を造営、養老三年[719]四月二十二日に遷座した。
垂迹本地
大山積大明神大通智勝仏

讃岐国一宮

田村神社(香川県高松市一宮町)
祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命)
式内社(讃岐国香川郡 田村神社名神大)。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』(嘉祥二年[850]二月癸丑)の「奉授讃岐国田村神従五位下」。

『讃岐国大日記』[LINK]によると、和銅二年[709]に香川郡大野郷に正一位田村定水大明神として創建された。 典祀伝によると、祭神は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫である。 神殿の下に深淵(定水井)があるが、誰も見る事はできない。

香西成資『南海通記』[LINK]の伝える巷間の説によると、此の地は往古の川淵であった。 水神が邑里の不浄を咎め祟りが酷かったので、その淵を清浄にして水中に筏を浮かべ、浮橋に社を造り供物を供えて祭祀を行ったのが当社の始まりである。
垂迹本地
田村定水大明神聖観音

阿波国一宮

一宮神社(徳島県徳島市一宮町)
祭神は大宜都比売命・天石門別八倉比売命。
式内論社(阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社名神大)。 旧・県社。
史料上の初見は『続日本後紀』(承和八年[841]八月戊午)の「奉授阿波国正八位上天石門和気八倉比咩神・対馬島無位胡禄神・無位平神並従五位下」であるが、この天石門和気八倉比咩神が現在の一宮神社・上一宮大粟神社(名西郡神山町神領)・八倉比売神社(徳島市国府町矢野)の何れに該当するか定かでない。

『名東郡一宮村一宮大明神』によると、大宜都比売命は別名を大粟姫命と云い、元は伊予国大三島に鎮座していた。 伊予国丹生之内から、阿波国神領(上一宮大粟神社)、同国鬼籠野に遷座し、成務天皇の御宇[131-190]に息長田別王が阿波国造になった時に現在地に奉斎した。 弘仁年中[810-824]、弘法大師が四国巡拝中に一宮神社を四国八十八箇所霊場の第十三番札所と定めた。
(神仏分離以降は旧別当寺の大栗山大日寺が札所となり、本地仏の十一面観音像は同寺の本尊となった)

なお、阿波国一宮に関しては、大麻比古神社(鳴門市大麻町板東)とする説もある。
垂迹本地
一宮大明神十一面観音

鷲大明神

鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮一丁目)
祭神は天穂日命・武夷鳥命で、建御名方神・伊邪那美神・大山祇神・宇迦之御魂神・大山咋神・天照皇大神・迦具土神・素盞鳴尊・菅原道真を合祀。
別宮(神崎神社)の祭神は大己貴命であるが、古くは天穂日命荒魂とされた。
旧・県社。
史料上の初見は『吾妻鏡』(建久四年[1193]十一月十八日辛巳)[LINK]の「武蔵国飛脚参申云、昨夕、当国太田庄鷲宮御宝前血流、為凶怪之由云、則卜筮之処、兵革兆云々」。

『林羅山詩集』所収の日光紀行[LINK]に言及された鷲宮神社の古縁起によると、有間王子と良岑安世が此の地に来て神と成った。 本地仏は釈迦である。 また、富士山神や奥津神などの神々と同体である。

『武州崎玉郡太田庄鷲宮本地釈迦略縁記』によると、鷲宮神社の本地仏の釈迦如来像は源頼朝の守本尊である。 永暦元年[1160]、伊豆に配流された源頼朝の前に老翁が示現し、 「前世宿縁あるによつて此釈迦を与ふ。誠に三国伝来の霊像なり。謹而信心いたす時は開運速やかに成就す」 と告げた。 老翁は釈尊の化身の天穂日命(鷲大明神)であった。

『鷲宮迦美保賀比』によると、上代に大国主神が天羽車の大鷲に乗って天下を経営した際、当地にその幸魂を鎮祭して「鷲宮」と称した。 景行天皇の御代、日本武尊が東征の際に鷲宮の神威を崇めて社殿を造立し、武蔵国造の遠祖である天穂日命を祀り、武夷鳥命を配祀した。 また、大国主神の幸魂を神崎社に斎祭した。
(参考文献 池尻篤「鷲宮神社の祭神 ―近世における祭神変容の一事例―」、駒沢史学、76、pp.99-114、2011)
垂迹本地
鷲大明神釈迦如来

長谷寺

豊山神楽院長谷寺(奈良県桜井市初瀬)
真言宗豊山派総本山。 西国三十三所観音霊場の第八番札所。
本尊は十一面観音(長谷観音)。

『長谷寺縁起文』[LINK]によると、朱鳥元年[686]、天武天皇の勅願により、道明上人が初瀬山の西丘(本長谷寺)に三重塔を草創した。
それ以前、近江国高島郡三尾の白蓮華谷に長さ十余丈の楠の倒木があった。 継体天皇十一年[517]、洪水でこの木が流されて大津に漂着し、里人に祟りを為した。 その後、この霊木は大和国当麻郷から初瀬郷に曳き置かれた。 徳道上人が十一面観音像を造る為にこの霊木を貰い受け、神亀六年[727]、稽文会と稽主勲という二人の仏師(地蔵菩薩と不空羂索観音の化身)に十一面観音立像を彫刻させた。 暴風雨により初瀬山の東丘(後長谷寺)の地中から金剛宝磐石座が出現したので、十一面観音立像をその石座に安置し、聖武天皇の勅願により伽藍を造立した。