『神道集』の神々

第三十三 三嶋大明神事

伊予国三嶋郡から荒人神が顕れた。 その神を三嶋大明神という。 此の御神の由緒を委しく尋ねると、以下の通りである。
昔、伊予の国に、平城天皇の末裔で橘朝臣清政という長者がいた。 清政は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。
清政夫妻は大和国長谷寺に大船六艘分の財産を寄進し、十一面観音に参籠した。 三七日の満願の夜、夢枕に観音が示現し、「汝ら夫婦は昔は牛だった。この御堂を造立した時、淀より材木を運んだ牛が庭に繋がれた。その時、我が前に一本の菊が有った。玄弉三蔵が中天竺の摩訶陀国から花の種を持ってきて、長安城から日本の内裏に伝わり、我が宝前に移植された。天下第一の宝だったが、この菊の花を妻の牛が食べ、汝が角で根を掘って枯らしてしまった。御堂の材木や供養の布施物を運んだ功徳により、人間に生まれて長者となったが、菊を枯らした罪により子種が無いのだ」と告げた。 夢から覚めた清政は泣きながら「自分で腹を切り、仏の頸に食いついて狂死したい。この御堂を大魔王の住処として、参詣する人を取り殺そう」と云った。 再び夢枕に観音が示現し、「別の女に授ける子種が有る。お前の財産をこの女に与えるなら、替りにその子種をお前に授けよう」と云った。 これを聞いた清政が承諾すると、観音は水晶の玉を授けた。 清政はこれを女房に与え、女房がそれを口に入れると目が覚めた。

間もなく女房は懐妊し、美しい若君が生まれた。 清政はこの子に玉王と名付けた。 観音との約束で財産はすべて無くなったので、わずかに残った錦と絹で産着をこしらえた。 清政は山で木の実を拾い、女房は野辺の若菜や浦のワカメを取って暮した。
ある日、女房がワカメを取っていると、赤子が鷲にさらわれてしまった。 鷲は伊予・讃岐・阿波・土佐の四ヶ国の境にある白人城を飛び越えて、与那の大嶽に入った。 清政夫妻は必死で山谷を探したが、赤子の骨すら見つからなかった。
鷲は与那の大嶽を飛び越え、阿波国板西郡の頼藤右衛門尉の庭先の枇杷の木の三俣に赤子を挟んで飛び去った。 頼藤右衛門尉は玉王を五歳になるまで育て、阿波の目代(国司代理)がこの子を貰い受けた。 七歳の時に阿波の国司が貰い受け、十歳の時に帝が貰い受けた。
玉王は十五歳で内蔵人になり、十七歳で太宰大弐に補され、西海道の九国と二島を賜った。 領国検分のために筑紫に下向しようとしていると、四国から京見物に上った人々が自分の噂をしている所に遭遇し、自分が鷲にさらわれた子である事を知った。

玉王は実の父母を探すために国司として四国に下向した。 国司は阿波国の頼藤右衛門尉の邸で七日七夜の不断経を開き、人々に集まって聴聞するよう命じたが、その中に鷲に子供を取られた人はいなかった。 次に伊予国三嶋郡尾田の清政長者の旧宅で不断経を開いたが、やはり鷲に子供を取られた人はいなかった。 一人の役人が、与那の大嶽の南の真藤の岩屋の老夫婦が不断経を聴きに来ていないと報告した。 国司はその老夫婦を連れて来るよう命じた。
役人は山に入って老夫婦を捕らえ、伊予国三嶋郡の国司の所に連れて来た。 国司が尋ねてみると、老婆は生後百日余りの赤子を鷲に取られたと云った。 老婆が胸をはだけて左の乳房を搾ると、その乳は国司の口に飛び入った。 国司は老夫婦に自分が鷲にさらわれた玉王であると名乗った。
国司は都に戻って帝に報告し、老いた実の父母に孝養を尽くしたいと願った。 帝は玉王を四国の惣追捕使に任じて、伊予国三嶋郡を領地とした。
その後、玉王は伊予中将となった。 中将が三十七歳の時、清政夫妻が亡くなった。 その三回忌が終わって中将は都に戻り、帝の婿に決められた。 中将は父母の墓所の上に神社を建て、三嶋大明神と号して祀った。

その後、中将夫妻は伊勢太神宮に参詣して神道の法を受け、四国に下向した。 御年八十一歳にして神明として顕れ、「我が生国なので、この国に住もう」と云って伊予国一宮となった。
讃岐国一宮は中将の乳母の高倉蔵人の女房である。
阿波国一宮は玉王の養父の頼藤右衛門尉である。
三嶋大明神は「我が子は枇杷の枝に捨て置かれて助かったので、氏人は枇杷の木を疎略にしてはならない。我が子は鷲にさらわれ、後に民の王となった。その鷲を疎略にして良かろうか」と託宣した。 鷲も神道の法を授けられて鷲大明神と号し、伊予国一宮の御殿の前に祀られた。
その後、三嶋大明神は東国に渡り、伊豆の国に移り住んだ。
鷲大明神も東国に飛び移り、武蔵国太田庄の鎮守となった。

三嶋大明神(伊予国)

大山祇神社[愛媛県今治市大三島町宮浦]
祭神は大山積神。 一説に天神第六代の面足尊・惶根尊とする。
式内社(伊予国越智郡 大山積神社〈名神大〉)。 伊予国一宮。 旧・国幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第二十七の天平神護二年[766]四月甲辰[19日]条[LINK]の「伊予国神野郡伊曽乃神・越智郡大山積神に並に従四位下を授く。神戸を充つるに各五烟」。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(七)[LINK]には、
「伊弉諾尊、剣を抜きて軻遇突智を斬りて、三段に為す。其の一段は是雷神と為る。一段は是大山祇神と為る。一段は是高龗と為る」
とある。

第五段一書(八)[LINK]には、
「伊弉諾尊、軻遇突智命を斬りて、五段に為す。此各五の山祇と為る。一は首、大山祇と化為る。二は身中、中山祇と化為る。三は手、麓山祇と化為る。四は腰、正勝山祇と化為る。五は足、䨄山祇と化為る」
とある。

『伊予国風土記』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)に引用〕[LINK]には、
「乎知郡の御嶋(越智郡の大三島)に坐す神の御名は大山積神、一名は和多志大神なり。難波高津宮御宇天皇(仁徳天皇)の御世[313-399]に顕れましき。此の神、百済国より度り来坐して、津国の御嶋(三島鴨神社[大阪府高槻市三島江])に坐せり」
とある。

『予章記』[LINK]には、
「此の孝元天皇の御弟を伊予皇子と申す〈母は皇后細姫命、磯城県主大目の女なり。孝霊天皇の第二王子。御諱は彦狭島尊〉。此の比、南蛮・西戎動き之を蜂起せしむ間、此の御子を当国ゑ下給ふ。仍ち西南の藩屏将軍と云ふ印を以て宣下せる、故に伊予皇子と号す」
「三島大明神は、天神第六代面足・惶根尊也。天照皇大神宮の御祖父也」
「(伊予皇子は)和気姫を娶て三子産給ふ。世間耻とて棚無き小船三艘に乗せ、海上に放ち奉る。此の和気姫は海童の女也。三島大明神の御天下以前に、和気郡沖島へ下り給ふ。故に母居島と号す。此に三子を産み、御子の船を海上に放ち、此の島に住み給ふ。嫡子の御舟は伊豆国に著く。彼の所に大宅有り、爰に御生長有り。即ち大明神と現じ給ふ。従一位諸山積大明神と申すなり。御本地は阿閦如来なり。伊豆国は歓喜国なるべし。其孫大宅氏と云ふ。[中略]第二の王子の御舟は、中国の吉備山本に付く。備前の小島也。其処に家三つ有りに、養い奉る。仍て其の子孫を三宅氏と号す。[中略]第三の王子の御舟は、当国和気郡三津浦(現・愛媛県松山市の三津浜地区)に著き給ふ。 即ち国主崇め奉り、小千の御子と称す。[中略]此の御子を始祖として、御諱を以て氏と為し、宗廟神と崇め奉る。七歳にして、天子の勅を蒙り都に上り、四州に主なり。即御帰有りて、当国越智郡大浜(現・愛媛県今治市大浜町)著て、御館を造て住み御坐す」
「守興の子玉興〈散位、伊与大夫、伊与大領と号す〉。人王四十二代文武天皇御宇大化五年[649]己亥ママ、役優婆塞、葛城山久米の岩橋を懸とて諸神を咒寄て、一夜に中に渡すべき約束有けるに、渡すを得ず夜明ければ、行者怒りける事あり。[中略]諸神腹立たして行者を讒奏申されければ、御逆鱗有て行者を流刑に処せらる。玉興、行者に御過無よし陳し申されければ、同罪に行はれける。去る程に、玉興も行者も同途にて、摂州へ下給ふ。難波辺流浪し玉ふ。昔は王命重き故、勅勘の人などには舟借す人もなかりければ、徒に徘徊せられたり。其より此処を三島江と云ふ。さて、「行者は何方へ行玉ふべきや」と問玉へば、「伊与国に見島有り、彼への便船を尋るべし」と宣ふ。[中略]爰に亦唐船二艘見へたり。玉興便船を乞玉へば、「其の国に入れば、其の国の政に随ふべきなれば、勅勘の人には如何」とて借さず。今一艘に御佗ありければ、「御頼あるを甲斐なく申し放つべきや」とて、即ち領掌(了承)す。纜を解て両人乗りて漫々たる西海を差て漕出玉ふ。津々浦々にも勅命を恐て寄せざりければ、水に渇して苦む間、備中の沖にて、玉興御弓の弭を以て海潮をかき廻し、「此の内に水有るべし、呑んで見よ」と宣ければ、船挙て是れを呑めば即ち清水也。各渇を止て蘇生の心地しけり」
「此の時、玉興、船主に向ひて「是れ程難義を極めたるに、不意の便船に依りて、今の命存せる事希代の縁也。さて何の国の人ぞ」と問ひ玉へば、船主答へて「我は唐土越国の者也。我が母は遊女なりしが、一年日本より蒙古退治の為に御渡り有りし大将伊予の大領守興と申す人、我が母と御妻愛有りて、程なく懷妊する也。守興御敵を退治し御帰リ有りて、母は越国にて二子を儲け候也。[中略]母さへ逝去する間、孤子と成りて有る程に、越国の住居も懶て、様々思ひ立ち、此の地に渡り着けども、案内を知らざる間、尋ね寄るべき方もなく、徒に日を送る処に、便船の御頼に依りて此の如く也。今一艘辞退せしは我が兄也。父御前にも逢ひ奉らばやと、諸共に契りたり。今は我を待たるべき也」とて、跡を返り見て、涙を流しけり。玉興はつくづくと聞き玉ひて、「扨は我が弟也。何の験有りや」と宣へ玉へば、「御重代の物なりとて、御剣等井に御手跡なども有り」とて、取り出し、御目に懸ければ、疑ひ無く守興の御手跡也」
「只今探得つる水は、伊与国高縄山より流れ出したる水の末なり。彼の高縄山は観音菩薩霊験の地也。当初十六人の天童、彼処の来遊し玉ふ、即ち三島大明神十六王子の霊跡有る也。新宮(高縄神社[愛媛県松山市宮内])と号す。其の廟下より流れ来る水也」
「さて此の三人は三島へ落着きぬ。行者下向の時見し島とありし故に見島と云ふ。[中略]行者是れより伊豆国に渡給ふ。此の人を、初め神達は「王位を傾けんとせらるゝ」と讒奏有しによつて流刑にせられけるが、[中略]君の御恐在りて行者を召返せらる。大宝二年[702]御帰洛有しに、同時に玉興も参洛し玉ふ。此の時奇瑞有て、三島大明神造営あり。抑も三島大明神、御天下崇峻天王御宇端正二年[590]庚戌、当国迫戸之浦(愛媛県今治市上浦町瀬戸)に天降り玉ふ。故に此の浦に社壇あり。今に横殿と号す。其の時迄は見島也。大宝二年壬寅、文武天皇御尋に付て、当社の深秘を奏建有る間、勅号を成され、正一位大山積大明神と額に之を銘せらる。[中略]玉興は老後の雲上立栖懶とて、御暇を申し、帰国あつて彼の島に住す。越人を舎弟ながら猶子にして家を譲与し奉り、御名を玉澄と申しける」
「霊亀二年[716]丙辰、勅裁を以て宮作あり。大祝安元之を奉り造進せしに、日ならず事成て遷宮の砌に、蓬莱・方丈・瀛州の三島出現し、天仙来臨ありしより三島と改定せらる」
「称徳天皇御宇[764-770]迄は造宮の義無し。只瑞籬計曳結て置けるに、此時宝殿・社壇等を造など造進せらる。仍叢祠露の如く瑩き松烟風の如く仰ぐと云々。即三島大明神と称せらる」
とある。

『三島宮社記』[LINK]には、
「人皇第七代孝霊天皇御宇、天地和せず、寒暑時を失ふ。五穀熟せず、万民愁苦す。[中略]或夜、天皇の夢に一の神人有りて、之に訓へて曰く、「天皇若し国の治まらざるを憂ふなれば、宜しく面足尊・惶根尊・大山祇神を敬祭すべし、必ず当に五穀成就し、天下自ら平ならん」。天皇問て曰く、「此の如く教ふる者は誰ぞや」。答て曰く、「我は是れ地神大己貴神也」。是に於て、天皇夢訓に随ひ、面足・惶根尊・大山祇神を大殿の内に祭祀す」
「同御宇六十一年[B.C.230]春、神託に因り、第三皇子彦五十狭芹命を以て、面足・惶根尊・大山祇神の御杖代と為し、伊予国比々喜宮に斎き祭る」
「十代崇神天皇御宇七[B.C.91]庚寅年春二月望月(十五日)、[中略](大物主神が倭迹々日百襲姫命に憑って)又、教て曰く、「彦狭芹命を遣して、面足・惶根尊・大山祇神をを祭らしめば、則ち五穀豊饒にして、百姓安寧也」。天皇問て曰く、「其の面足・惶根尊・大山祇神、宮殿は何処に在りや」。答て曰く、「二名洲の内、蒼海四周せる三島の小汀に在り」。[中略]乃ち彦狭芹命を以て三島大神の祭主と為し、二名洲に降さんとす」
「(崇神天皇十月[B.C.88])九月丙戌朔甲午[9日]、四道に分て将軍を遣す時、彦五十狭芹命を以て西南道に遣す。[中略]彦五十狭芹命は路を発し、吉備国に到り、尽く西国の荒戎を誅す。又、舟師を帥して吉備の小島を発す。而して二名洲風早浦(現・愛媛県松山市の北条地区)に到り、行宮を起し以て之に居す。是を遠土宮と謂ふ。此の後、彦五十狭芹命、地形の嶮易を巡見して、命に逆ふ者は之を誅し、帰順する者は仍ち褒美を加ふ。進み弘保嶋に至る時、一の老翁有りて其の前に詣ず。彦五十狭芹命見て問て曰く、「汝は誰也」。対て曰く、「臣は是れ大山祇神の裔、伊予津彦の子、風早国分彦と名く。天皇の御子、三島大神を祭りて、此の国を治めんと欲すと聞く。臣の家、世に天瓊矛を蔵し伝ふ。以て之を進め奉らんと欲す。故に詣で来れり」。[中略]国分彦を導人と為し、瀬戸之浦に渡り三島大神を敬祭す。然る後、風早浦に帰り、宮室を建てて留住す。旦夕に大神を敬祭し、遂に国分彦の女和気姫を娶り、妃と為して小千命を生む」
「同御宇十七[B.C.81]庚子年夏、彦狭彦命の王子の小千命を以て、二名国造に賜ひ定めて、三島大神の祭主と為す。時に年七歳。長ずるに及び、当国の大浜郷に館を造り住す。是れ越智の始祖也」
「三十四代推古天皇御宇二[594]甲寅年五月、勅有り、本島迫戸浦に座し、大山積神社を造営し、𡷣岵殿宮(横殿宮)と号す」
「四十二代文武天皇御宇大宝元[701]辛丑年夏六月、大旱。大山積大神に幣帛を奉り、越智玉澄に命じ、𡷣岵殿宮に雨を祈らしむ。此の時、天皇の夢に奇異の告げ有り。之に因て、玉澄に勅して宮地を求めしむ。玉澄、大宮造営の地を当島西北の辺礒浜に撰定し奉る〈今の宮地、是れ也〉」
「同(大宝)二[702]壬寅年夏六月、伊予国に命じ宮所を造る為、辺礒浜の草木を苅掃す。時に彼の処に人を呑む大蛇有り。毒気を吐き、諸人咸瘁。是に由り、玉澄、龍神社を安地山(安神山)の嶺に鎮座し、其の除難を是れに祈る。彼の毒蛇、潜蟄能はず、而て海中の孤嶋に去る。世人因て其の嶋を名けて蛇嶋と謂ふ〈蛇は余古と訓む〉」
「同(文武天皇)御宇慶雲四[707]丁未年、越智玉澄の二男越智安元を以て三島宮祭主と為し、太祝に任ずべしとの宣旨を賜ふ」
「同(元正天皇)御宇養老三[719]己未年夏四月二十二日、勅を奉り、太祝越智宿禰安元、御正体を戴き奉り、迫戸浦𡷣岵殿宮より辺礒浜榊山の瑞籬内の新宮に遷し奉り、而して高御座に鎮座し奉る」
「七十五代崇徳院御宇保延元[1135]乙卯年、天下卒に暗夜の如し。雲霧靉靆、人民日月光を見ざること三日に及ぶ。 此の時、虚空に合戦の声あり。其の響き雷霆の如し。人民大に驚き患ふ。 時に大山積大明神の託宣に曰く、「吾、諸天神地祇を率ひて、之を掃い除く也」。 少頃有りて天晴れ静謐なり。[中略]此の事遂に叡聞に達し、藤原忠隆朝臣勅使と為し、当社末社迄悉く造営の宣旨を賜ふ。別に宮殿二宇を立て、雷神・高龗神を斎き祭り、三社を以て本宮と為し三島宮と崇むべしとの宣旨を賜ふ」
とある。

神供寺の創建について、『三島宮御鎮座本縁』[LINK]には、
「七十五代崇徳院御宇保延元乙卯年、[中略]此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。亦は本寺堂と云。是れ神供寺の初め也」
とある。

土居通安『水里玄義』[LINK]には、
「当国々府小千郡三島〈亦御島及び見島と号く〉に垂跡有り。正一位大山積大明神と額にこれ銘す。本地は大通智勝仏。又、額に正一位諸山積大明神と書す。十六王子のうち第一皇子〈伊豆三島の御事。当浦戸に於て御前と号す〉は本地薬師仏」
とある。
(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』化城喩品第七[LINK]によると、大通智勝仏の十六王子の第一は阿閦如来であるが、この仏はしばしば薬師如来と同一視される)
垂迹本地
大山積大明神大通智勝仏

三嶋大明神(伊豆国)

三嶋大社[静岡県三島市大宮町2丁目]
祭神は大山祇命・積羽八重事代主神で、相殿に阿波神・伊古奈比咩命・楊原神を配祀。
式内社(伊豆国賀茂郡 伊豆三嶋神社〈名神大 月次新嘗〉)。 伊豆国一宮。 伊豆国総社。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]の「伊豆三島神 十三戸 伊豆国(宝字二年十月二日九戸 同十二月四戸)」。
『伊豆国神階帳』[LINK]には「正一位 三島大明神」とある。

『日本後紀』逸文の天長九年[832]五月癸丑[22日]条〔『釈日本紀』巻第十五(述義十一)に引用〕[LINK]には、
「伊豆国言上す、三島神・伊古奈比咩神、二前を名神に預る、此神深谷を塞ぎ、高巌を摧き、平造の地二千町許、神宮二院・池三処を作し、神異の事勝計すべからず」
とあり、伊豆三嶋神社は元々は伊古奈比咩神社[静岡県下田市白浜]と同所に祀られていたと考えられる。
秋山富南他『増訂 豆州志稿』巻之九上(神祠 三)の伊古奈比咩神社の条[LINK]には上記の引用に続けて、
「即此地にして神宮二院とは此二神の宮殿なるべし(寛保度までは二院並ひ立り。延享度[1744-1748]改造の時より一院とす)」
と付記する。

三嶋大明神に関しては伊予国からの遷祀説があり、例えば『三島宮社記』[LINK]には、
「同年(宝亀十年[779])冬十二月、大山積大神、伊豆国加茂郡に勧請す」
とある。

『伊予三嶋縁起』[LINK]には、
「四十二代文武天王位大宝元年壬丑[701]、東国済度を為す。第一王子本地薬師如来也。伊豆国に祝ひ奉る、三島大明神是れ也」
とあり、大山積大明神の第一王子とする。

『予章記』[LINK]には、
「(伊予皇子の)嫡子の御舟は伊豆国に著く。彼の所に大宅有り、爰に御生長有り。即ち大明神と現じ給ふ。従一位諸山積大明神と申すなり。御本地は阿閦如来なり。伊豆国は歓喜国なるべし」
とあり、諸山積大明神(大山積神社の摂社・十七社に祀られる)と同体とする。

一方、『三宅記』[LINK]は三嶋大明神を三宅島からの遷祀とする。
天竺の帝王に光生徳女という后が有ったが、子宝に恵まれなかった。 后は薬師如来に祈願して懐妊し、王子を産んだが、その子が七歳になる頃に亡くなった。 王子は継母の讒言により父王の不興を蒙り、天竺を出て唐土・高麗を経て、孝安天皇元年[B.C.392]に日本に到着した。
王子は富士の絶頂で神明に逢い、神明は「あれに見えたる嶽の南に此ころ池につき出たる処」に住むことを認めた。 王子がその地に行くと、嶽の南に楠の大木が有ったので、そこで休憩して水を湧出させた。 神明は「此地狭くして住み憂かるべし。海中を如何程も参らすべし。地をも焼出し心良く住せ玉へ」と云い、その前に天竺に戻って父王に勘当を解いて貰うよう勧めた。 王子が天竺に帰国すると、王は王子の無実を認め勘当を解いた。
王子は再び日本に戻り、宿を求めて柴の庵を訪れた。 そこには年老いた翁媼が住んでいた。 翁(天児屋根命)は媼に「此御方は只人にましまさず。薬師の化身にて在すぞ」と云って王子を泊め、その夜の暁に「殿は天竺の王子にて在ますが、東の海伊豆国の沖中に地を焼出し住玉ふべし。殿の名をば三嶋大明神と申奉へし。正体は薬師如来にて在ますとの御告を蒙りたり」と申した。
三嶋大明神は翁媼の息子の若宮・剣の御子と娘の見目の三名を伴って伊豆に着いた。 若宮は火の雷・水の雷、剣の御子は山の神や高根大棟梁など大小の神々、見目は海龍王に命じて白龍王・青龍王など多くの龍たちを集め、孝安天皇二十一年[B.C.372]に島を焼き出し始めた。 七昼夜で十の島々が焼き出され、順番に初島・神集島・大島・新島・三宅島・御蔵島・沖ノ島・小島・ヲウゴ島・十島と名づらけられた。
三嶋大明神は三宅島に宮を作り、見目・若宮が五人の后を連れて来た。 ハブの大后(波布比咩命)を大島に置き、太郎王子(阿治古命)と次郎王子(波治命)が生まれた。 御途口の大后(久爾都比咩命)を新島に置き、大宮王子(多祁美加々命)と弟三王子が生まれた。 長浜の御前(阿波咩命)を神集島に置き、タダナイ(物忌奈命)とタウナイが生まれた。 天地今宮の后(阿米都和気命)を三宅島に置き、アンネイゴ(安寧子)とマンネイゴ(満寧子)が生まれた。 八十八重の后(優婆夷神)を沖ノ島に置き、五人の王子が生まれた。 嫡子と次郎は母の没後に死んで石(兄弟の尊)と成り、二人は早世し、五郎の王子(許志伎命)だけが島に居る。
ここに一つの不思議が有る。 箱根の湖辺に三百七十歳になる翁姥と三人の娘が住んでいた。 翁は湖に釣りに出たが魚が得られず、「此湖の底に主有ば魚を得させ玉へ。 其悦には三人の娘の中にて何れ共とも心に任せ与へん」と云った。 大蛇はこれを聞いて翁に魚を与えた。 翁の三女は鳩の姿になって逃げ、富士の絶頂で三嶋大明神に助けを求めた。 大明神は三女を三宅島の御嶽に隠した。 大蛇が御嶽に追って来ると、見目がこれを出迎え、アンネイゴ(飯の王子)・マンネイゴ(酒の王子)が飯酒を進め、大蛇が酔ったところを、剣の御子・大三の王子(大宮王子)・弟三の王子が斬り殺した。
三嶋大明神はこの三姉妹を新たな后とした。 嫡女(伊賀牟比売命)を三宅島の西の方に置き、四人の王子が生まれたが、御途口の大后を嫉み、幼少の王子を抱いて伊ヶ谷の海に飛び入り石と成った。 一人は丑寅の海、一人は辰巳の汀で亡くなり、一人は大明神に付き添っている。 次の后(伊波乃比咩命)を未の方に置き、二人の王子が生まれた。 一人はウラミ子と云い大明神の側を離れず、もう一人は二ノ宮と云い母御前の処に居る。 三女(佐伎多麻比咩命)を丑寅の方に置き、ナゴ(南子命)・カネ(加弥命)・ヤス(夜須命)・テヰ(氐良命)・シダヰ(志理太宜命)・クラヰ(久良恵命)・カタスゲ(片菅命)・ヘンズ(波夜志命)の八王子が生まれた。
ここにまた一つの不思議が有る。 富士の絶頂に壬生御館という人がいた。 天竺の波羅奈国から日本に渡り、東遊駿河舞の技芸を習得していた。 壬生御館は三嶋大明神が島々を焼き出した話を聞き、大明神に随って来島した。
年月が流れ、役行者が大島に流刑になり、数多の神々が行者を訪ねて来臨した。 その中で、ある神が太郎王子に「私は凡夫の頃は伊予国三嶋郡の橘清政と申し、大和国初瀬(長谷)の十一面観音に祈って男子を授かりましたが、その子を鷲に取られてしまいました。それから十六年間山中に籠って垂迹と成り、伊予国三嶋郡の三嶋大明神と申します」と物語り、一つの峯を授かった。
推古天皇五年[597]正月三日、三嶋大明神は壬生御館に「汝は神集島大別当の娘雨増の姫に嫁ぎ子を儲けて、我后々王子を守護せしめよ」と仰り、手印として石笏を授けた。 そして「我は是地神の仰により、今より五百歳を過ぎて日本の守護神と成べし。[中略]此の日(八日)に我社へ参者には、諸願満足せしめ、日の難月の難を除き、病難に於は薬師の化現を以て是れを治し、又他国より此処を奪んと襲来ば、我は鎧・腹巻・弓箭と成て此の難を払べし。海中に荒き風吹て波の難有とも、吾神力を以て静べし。亦命終ん時、薬師如来の誓を以て浄土へ引導致べし」と誓願し、推古天皇二年ママ正月八日午時に凡夫の姿を石に写して垂迹した。 大明神の側の王子二人も姿を石に写して垂迹し、八王子の母御前は十一面観音、見目は大弁才天、若宮は普賢菩薩の姿を顕した。
壬生御館は雨増の姫を娶って子息を儲けて実正と名づけ、祭祀の心得と東遊駿河舞を伝えた。 五百三十七歳になった壬生御館は大明神の手印を実正に譲り、本国に帰ると言い残して姿を消した。
文武天皇元年[697]から大宝元年[701]にかけて、島々の后や王子たちも誓願を立て、姿を石に写して顕れた。 王子たちは皆薬師如来、大島の大后は千手観音、御途口の大后は馬頭観音、神集島の后は如意輪観音、天地今宮の后は聖観音、八十八重の后も聖観音、伊ヶ谷の后(三姉妹の嫡女)と坪田の后(同次女)は女躰で顕れた。
三嶋大明神は壬生実正に亀卜の術や物忌の教えを授けた後、「我此島を広く成んが為に常に焼べし。末世の衆生おそるる事なかれと云ひ伝べし。此島焼時は丸も亦神々も其苦しみ有り。一日に三度御供参すべし。此の事末世の衆生に伝べき也。我は常に白浜に在るべし」と告げて、白浜に飛び遷った。

吉田東伍『大日本地名辞書』の三島の項[LINK]に引用する旧神官矢田部氏系図には、
「大化五年[649]、賀茂郡の海中に火炎出づ、焼出る島を興の島と号す、時に大明神此島に現ず。慶雲元年[704]又申島を焼く、これを大島と号す、伊豆国司矢田部宿禰金築を惣神主として、興島より大島に遷座す。天平七年[735]、神告により府中に遷祠す」
とある。

『宴曲抄』巻中の「三嶋詣」[LINK]には、
「豊崎の宮の古[652-686]は興津島根に跡を垂れ、文武の賢き御代[697-707]には幼稚の童男に託して、暫く賀茂の郡に鎮座す。それより以来終に聖武の御宇には、天平聖暦[729-749]の事かとよ、叢祀を府中に遷され、枌楡の影を仰いしより、神徳年々に威光をそへ、威応益々盛なり」
とある。

『曾我物語(真名本)』巻第七には、
「南無帰命頂礼、当社明神と申すは、神威掲焉、天地感動して神火大海を焼きしより以来、人王四十代天武天王の御宇、朱鳥元年[686]乙酉ママの年、始めて伊豆国の鎮守と顕れ給ふ。その時より以還、代々の帝も崇敬し奉り給ふ。その後人王五十三代淳和天王の御時、天長六年[829]己酉の年、七月八日の夜半ばかりに、信濃国水内郡中条郷(長野県長野市の中条地区)竹葉村の上人法泉沙門と云人に託宣して、我はこれ伊豆国の鎮守三嶋大明神これなり。本地は薬師なり。后妃は十一面の観音なり。王子はまた本地地蔵尊これなり。今は伊豆国賀茂郡河津の里(静岡県賀茂郡河津町)に立てり」
とある。

『大日本国一宮記』[LINK]には、
「三島大明神〈大山祇命〉伊豆賀茂郡」
とある。

『二十二社本縁』の賀茂事[LINK]には、
「葛木の賀茂は鴨と書けり。都波八重事代主の神(鴨都波神社[奈良県御所市宮前町])と云。賀茂家の陰陽道の祖神とて斎き奉る也。此地神にて坐す。伊豆国賀茂郡に坐する三島の神、伊予国に坐する三島の神、同躰にて坐すと云えり」
とある。
平田篤胤は『古史伝』二十五之巻[LINK]にこれを引用して、
「此書にのみ、葛木鴨神と同体と云ること、最も珍しき説の正説にぞ有ける」
と述べ、三嶋大社の祭神を事代主神とする根拠とした。

萩原正夫『事代主神御事蹟考』[LINK]には、
「事代主神此世を避けましゝ後の事蹟、古典にも載せじ、世にも伝はらねども、多くの証跡によりて考ふるに、此神眷属随従の諸神を率ゐ、出雲国より、伊豆国海中の三島に渡り来まして、宮居を構へ給ひ、此ところにて后妃の御腹に、あまたの御子を生ましめ給ひし事、疑ふべきもあらず。[中略]かく世を避け隠りましゝ後の事なれば、おのづから真の御名は伝はらずして、人々たゞ三島の神とのみたゝへまつりしならむ。さて後に、三宅島に祠を建てゝ鎮め祭りしを、白浜の地に移し、復国府の地に遷祀せるにて、今三島町にある官幣大社三島神社これなり。然るに従来、此神社を伊予国三島より遷したりと云ひ、大山祇神を祭れるなりと伝へたるは、いみじき謬なり」
とあり、明治六年[1873]一月六日付[LINK]で祭神を大山祇神から積羽八重事代主神に変更した事が記されている。
(現在は、大山祇命・積羽八重事代主神の両神を祭神としている)。
垂迹本地
三嶋大明神薬師如来

伊予国一宮

通説では伊予国一宮とは大山祇神社を指すが、松本隆信は『神道集』における三嶋大明神と伊予国一宮を別の所の神と考え、後者を新居浜の一宮神社に比定した。
(松本隆信「本地物草子と神道集 —三島の本地をめぐって—」、文学、44巻、9号、pp.98-109、1976)

一宮神社[愛媛県新居浜市一宮町1丁目]
祭神は大山積神・雷神・高龗神。
旧・県社。

『一宮社記』〔太田亮『姓氏家系大辞典』の新居の項に引用〕[LINK]には、
「当社神主、昔越智宿禰守興が第二の子にて、越智宿禰玉守と号す、是れ元祖也。父守興、異賊退治の為め、在唐の時、兄玉澄・玉守と同じく彼の土に生るゝ也。守興帰朝の後、二子守與を追墓し、各々一船を営みて日本に渡りて、守興を尋ね、難波津に漂泊して数日に及ぶ。此の時、越智守興の長子玉興(守興、予州に在りて生む所の子にして、玉澄・玉守が異母の兄也)、京に在りて聊か逆鱗に遇ひて本国に退んかと欲して難波津に至り、便船を求む。偶ま玉澄・玉守に遇ふ、然りと雖、其の異母の兄弟なるを知らず、玉興先づ便を玉守に請ふ、之を許さず、又玉澄に請ふ、玉澄之を許して纜を解きて備前の海上に至る。時に風雨に遭ふ、数日止まず、舟中水に渇す、二船甚だ之に窮困す。玉興、丹心を起して神明に祈リ、且つ本国守護神三島大神に誓して、冥助を請ふ。時に一少船ありて、老翁二人、其の中に在リ、一人は矛を携へ、一人は弓矢を持ち、船舷に寄りて曰く、「汝等必ず水に苦しむ勿れ、吾当に水を授くべし」云々。矛を携ふる老人、「吾は是れ伊予国越智郡三島に住む所の神にして、汝家の守護神也」と、また矢を持つ老人、語リて日はく「吾は是れ伊予国神野郡王円浜に住む所の神也」と」
とある。 王円浜は新居浜の古名である。

『愛媛県新居郡誌』[LINK]には、
「当社は孝霊天皇第三皇子彦狭島命(一名伊予皇子)の創設に係ると云ふ、後ち推古天皇の御宇[593-628]越智益躬(伊予皇子裔)社殿を造営し、建武年中[1334-1336]河野九郎左衛門尉、観応年中[1350-1352]河野対馬入道、明徳年中[1390-1394]金子氏皆共に相次で崇敬し、後ち元和六年[1620]毛利長門守に至りて更に社殿を建立す」
とある。

讃岐国一宮

田村神社[香川県高松市一宮町]
祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命)
式内社(讃岐国香川郡 田村神社〈名神大〉)。 讃岐国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十九の嘉祥二年[850]二月癸丑[28日]条[LINK]の「讃岐国田村神に従五位下を授け奉る」。

『讃岐国大日記』[LINK]には、
「元明帝和銅二年[709]、讃岐国香川郡大野郷に、始て正一位田村定水一宮大明神の社を建る也。典祀伝に云ふ、此の神は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫也。神殿の下に深淵有りと雖も、今古の人見ること無し」
とある。

香西成資『南海通記』巻之十九[LINK]には、
「閭巷の説に曰、此の地は往古川淵也。水神在て邑里の不浄を咎め祟りある事酷し、故に其の淵を清浄にして、水中に筏を浮べ其の浮橋に社を造り、供物を饌て祭祀を拝奠す。是れ其の始め也と云へり」
とある。
これらの伝承に有る深淵は「定水井」と呼ばれ、現在も奥殿の御神座の下にある。

元は四国八十八箇所の一で、澄禅『四国辺路日記』の承応二年[1653]十月十八日条には、
「一ノ宮、社壇も鳥居も南向。本地正観音也」
とある。 神仏分離後の札所は神毫山一宮寺[香川県高松市一宮町]となった。
垂迹本地
田村大明神聖観音

阿波国一宮

一宮神社[徳島県徳島市一宮町]
祭神は大宜都比売命・天石門別八倉比売命。
式内論社(阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社〈名神大〉)。 阿波国一宮(論社)。 旧・県社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十の承和八年[841]八月戊午[21日]条[LINK]の「阿波国正八位上天石門和気八倉比咩神・対馬島無位胡禄神・無位平神に並びに従五位下を授け奉る」であるが、この天石門和気八倉比咩神が現在の一宮神社・上一宮大粟神社・八倉比売神社[徳島県徳島市国府町矢野]の何れに該当するか定かでない。

佐野之憲『阿波誌』巻之三(名東郡)[LINK]には、
「一宮祠 一宮山上明神峯に在り。天正以後北麓に移す。或は阿波女神と称す。即ち神領村一宮(上一宮大粟神社[徳島県名西郡神山町神領])の別廟なり。下一宮と称す。旧鬼籠野村(名西郡神山町鬼籠野)に在り。其神大宜都比売命、又埴生女神と称す、又大粟姫命と、又保食神と。古事記に云ふ、伊予の二名島を生む、身一にして面四あり、粟国を大宜都比売神と謂ふと」
とある。

『名東郡一宮村一宮大明神』[LINK]には、
「当社は大宜都比売命を祭り奉る社にして御座候。此神、粟を創り初め給ふ故、大粟姫命とも申奉る。御神系は伊弉諾尊・伊弉冉尊二柱の御神の御子にして、伊予国大三島に御鎮座。始は伊予国丹生之内より神領村に御鎮座あり。其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明。 其後人皇十三代成務天皇御宇[131-190]、日本武尊の御子息長田別皇子、阿波国造となり給ひ、府中村(徳島市国府町府中)に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ、一宮村に鎮座なさしめ給ふよし。[中略]其御四十五代聖武天皇勅願として、天平年中[729年-749]諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命を阿波国一宮大明神と成らせらる候由。之に依り地名も則一宮村と申候。其後五十二代嵯峨天皇御宇弘仁年中[810-824]、弘法大師四国順拝の時、一宮大明神を十三番札所に入。則詠歌に、
 阿波の国一宮とはゆふたすき かけてたのめよこの世後の世」
とある。

『四国辺路日記』の承応二年[1653]七月二十五日条には、
「一ノ宮、松竹の茂たる中に東向に立玉へり。前ニ五間斗のそり橋在り。拝殿は左右三間宛也。殿閣結構也。本地十一面観音也」
とある。 神仏分離後の札所は大栗山大日寺[徳島市一宮町]となり、本地仏の十一面観音像は同寺の本尊となった。

阿波国一宮に関しては大麻比古神社[徳島県鳴門市大麻町板東]とする説もある。
垂迹本地
一宮大明神十一面観音

鷲大明神(伊予国)

現在の大山祇神社または一宮神社には該当する摂末社は存在しない。

古名を「神野山」と呼ばれる鷲ヶ頭山は、大山祇神社と深い結びつきのある信仰の山として古くからあがめられてきた。 愛媛県の有形文化財に指定されている大山祇神社の古図は、曼陀羅形式で描かれており、天部には三つの山があってそれぞれ本社(神野山)・上津社(安神山)・下津社(小見山)に比定されている。
鷲ヶ頭山の由来については、仏典にその起源を求めるものもあるが、神道集「三嶋大明神の事」によると考えるのがより具体的である。
(『大山祇神社略誌』、第1章 大山祇神社、第4節 鎌倉時代、第1項 鷲ヶ頭山、1997)

鷲大明神(武蔵国)

鷲宮神社[埼玉県久喜市鷲宮1丁目]
祭神は天穂日命・武夷鳥命。
別宮(神崎神社)の祭神は大己貴命。 一説に天穂日命荒魂とする。
旧・県社。
史料上の初見は『吾妻鏡』巻第十二(建久四年[1193]十一月十八日辛巳条)[LINK]の「武蔵国の飛脚参り申して云く、昨日当国太田庄鷲宮の御宝前に血流る。凶怪たるの由と。則ち卜筮するの処、兵革の兆しと」。

『天文鈔本新古今倭謌集』には、
「此煙(室の八島の煙)は昔こゝに長者あり。娘あり。国司に約束する。有間王子此所に流浪ありし時、立寄り給ひしなり。逗留ありし。此娘に琴を教へ給ふ。相対あり。懐妊す。国司しきりに所望有し。長者此女頓死すと申て、王子連れて御出有し也。葬送の儀式を為して、このしろと云実を焼く。其煙なり。又は水の煙とも云。然に王子女房を連れにひし時、琴を横にしてわたりし。こゝを琴橋と云。下総国にあり。武蔵野の草のもとにて産出し。有時、国の侍狩をしけるに、此女房を見付けて連れていぬ。子をば捨る。此子を鷲がとりて育てたるとかや。太田の鷲の明神是也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。
(片山享「『天文鈔本新古今倭謌集春夏』について」[LINK]、甲南国文、30号、pp.1-14、1983)

『林羅山詩集』所収の「癸巳日光紀行」[LINK]には、
「幸手の辺半里許り、鷲宮有り、古来の霊社也。我、其の名を聞き、其の社主を知ると雖も、路の迂なるを以ての故に往かず。我、嘗て其縁起を見るに十巻許り有り。云く、有間王子・良岑安世、此に来て神と為る云々。その本地釈迦也云々。室の八州の事、此に起る、且つ富士山の神・奥津の神・其の余処々、この神と同体云々」
とある。

『武州崎玉郡太田庄鷲宮本地釈迦略縁記』には、
「鷲宮大明神本地釈迦如来は、源頼朝公開運成就守本尊也」
「于時人皇七十八代永暦元年[1160]初春、頼朝公伊豆の蛭が子嶋に遠流せさせ給ひて廿一年の春秋ををくり、或夜丑三つ頃老翁来て寝扉をたゝく。公怪みて見給ふに、齢八十有余の翁也。頼朝公に向て曰く、「身命大切にいたすべし。前世宿縁あるによつて此釈迦を与ふ。誠に三国伝来の霊像なり。謹而信心いたす時は開運すみやかに成就す」といへり。貴方は何地より来る。翁曰、「西天釈尊則東土之天穂日命、鷲大明神」と云て立去行方をしらず」
とある。

『鷲宮迦美保賀比』[LINK]には、
「旧事紀に見えたるごとく、上代大国主神天羽車の大鷲に乗て天の下を経営し給ひしをりから、此地に幸御魂の鎮りまりしゝより、鷲の宮の号は起れるなりけり。されば世に鷲宮と称する社所々にあれど、当社を以て本とする故に、皇国本宮といふ也。この郡の名も此神の幸魂の御稜威四方に暉き、諸民霊徳をかゝふりけるゆゑ、広く郡の名におひしを、和銅の勅宣によりて、埼玉とは書あらためしものなり。扨神典に見えたることく、天穂日命は高皇産霊尊の勅によりて、大国主神の祭祀をつかさとらむかために此所に御遷幸」
「十二代景行天皇の御世倭建尊、東夷御征伐の御時当社の神威をあかめ給ひ御造営あり、 其とき天穂日命は当国造の遠祖神なるを以て御舎をもことにいかめしく作り給ひて、天夷鳥命を祭り添給ふ。是より大国主神の幸御魂を神崎社と斎祭て、祭主は穂日命の遠裔も武蔵国造なりしか、世々をかさねるに随ひ、国造の官名もいつかすたれしにより、先代庁に告て大宮司となれり」
とある。
(池尻篤「鷲宮神社の祭神 —近世における祭神変容の一事例—」、駒沢史学、76、pp.99-114、2011)

『新編武蔵風土記稿』巻之二百十一(埼玉郡之十三)[LINK]には、
「当社は式内の神社にはあらざれど、尤古社なり、祭神は天穂日命にて、大背飯三熊之大人天夷鳥之命を合祀す、【日本書紀神代巻】[LINK]に曰、「素盞嗚尊乃轠轤然解其左髻所纒五百箇御統之瓊綸、而瓊響瑲々、濯浮於天渟名井、囓其瓊端、置之左掌而生児、正哉吾勝勝速日天忍穂根尊、復囓右瓊、置之右掌而生児、天穂日命、此出雲臣、武蔵国造、土師連等遠祖也」と是なり、故に土師宮と号すべきを、和訓相近きをもて、転じて鷲明神と唱へ来れりといへり」
「神崎神社 社伝に天穂日命の荒魂を祝ひ祀る」
「本地堂 鷲明神の本地仏釈迦を安置す、座像長三尺、こは昔右大将頼朝南都招提寺へ寄附の像なりしを、後年故ありて当所へ移し安置すと云」
とある。
垂迹本地
鷲大明神釈迦如来

橘朝臣清政

『予章記』[LINK]には、
「彼の唐浜にて便船を進めざりしは家の兄なれども、其の時の恨に依て、玉興と御中違ひ也。然れども玉澄心得にて当国に渡り、新居郡に居住して新居とぞ申ける。明神も河野の朝日弥高、新居の夕日弥低と仰せけるを恨み申して、其の比、橘長者清正と云ふ人、当国々司にて下りけるに契約して、姓をさえ橘と改めらる」
とある。

『一宮社記』『矢野系図』など〔『姓氏家系大辞典』の橘の項に引用〕[LINK]には、
「玉守-益興-益連-実連-実遠(是の時、勅により神野郡を改めて新居郡と為す。之により実遠の家名を改めて新居殿と称する也) 弘仁二[811]辛卯年、伊与国神野郡一宮神に勅して正一位を叙し、神額を献じて正一位一宮大明神と云ふ矣。是の時の勅使、当国々司橘長者清正也。此の御宇一宮を尊崇する、余の社に異れり。是の時、実遠、越智姓を改めて橘姓と為す」
とある。

『越智系図』『予章記』『矢野系図』『一宮社記』などの資料に、伊予国の国司として橘長者清正の名が見え、新居殿(越智玉守またはその玄孫・実遠)に橘姓を賜ったとされる。 この橘長者清正は実在の国司ではなく、説話上の人物が伊予橘氏の系図に関連付けられたと思われる。
(松本隆信「本地物草子と神道集 —三島の本地をめぐって—」)

長谷寺

豊山神楽院長谷寺[奈良県桜井市初瀬]
本尊は十一面観音(長谷観音)。
真言宗豊山派総本山。 西国三十三所観音霊場の第八番札所。

『長谷寺縁起文』[LINK]によると、朱鳥元年[686]、天武天皇の勅願により、道明上人が初瀬山の西丘(本長谷寺)に三重塔を草創した。
それ以前、近江国高島郡三尾の白蓮華谷に長さ十余丈の楠の倒木があった。 継体天皇十一年[517]、洪水でこの木が流されて大津に漂着し、里人に祟りを為した。 その後、この霊木は大和国当麻郷から初瀬郷に曳き置かれた。 徳道上人が十一面観音像を造る為にこの霊木を貰い受け、神亀六年[727]、稽文会と稽主勲という二人の仏師(地蔵菩薩と不空羂索観音の化身)に十一面観音立像を彫刻させた。 暴風雨により初瀬山の東丘(後長谷寺)の地中から金剛宝磐石座が出現したので、十一面観音立像をその石座に安置し、聖武天皇の勅願により伽藍を造立した。

白人城

『予章記』[LINK]には、
「(小千御子は)天帝に礼忠節有て諸民に仁恵を施し、国家安全に治め給ふ。此時土佐の鬼類をいけどり、白人城に蔵給ふ」
とある。

『予陽郡郷俚諺集』[LINK]には、
「白人城〈土佐境に有〉 開化天皇御宇、田上の昆谷と云八十鳧師、国中をなやまし王命に叛く。依て大矢田の根雄大将として、節刀を賜ふ。当国に下り、此城に数日を送り給り、終に根雄討死す。小千御子、有田藤市主と云者を以て計策をなし、昆谷を生捕、此城に押籠給ふ。帝叡感あつて南国の大将に任ず。此時有田には此城を預らる。土佐の吏部に定たりとぞ」
とある。