『神道集』の神々

第三十八 橋姫明神事

橋姫は日本国内の大河・小河の橋を守る神である。 摂州長柄の橋姫、淀の橋姫、宇治の橋姫など数多いが、今は長柄の橋姫の事を明らかにして、他の橋姫はそれに准う事とする。

人皇三十八代斉明天皇の御代、摂州長柄橋がかけられた時、人柱が立てられ、その河の橋姫と成った これに依り、河で死ぬ人はみな橋姫の眷属に成るという。
この橋は度々架けられたが長持ちしなかったので、人柱を立てようと内談されていた。 そこに膝の破れを白布で縫付けた浅黄の袴を履いた男が妻子と共に通りかかった。 男は橋材の上で休みながら、「膝の破れを白布で縫付けた浅黄の袴を履いた者を人柱を立てれば良い」と言った。
橋奉行がこれを聞き、男とその妻子を人柱に立てた。 身を投げる時、妻は歌を詠んだ。
 物いえは長柄の橋の橋柱 鳴かずば雉のとられざらまし
この女は橋姫と成り、人々は長柄橋の近くに社を建て橋姫明神として祀った。

長柄の橋姫

古代の長柄橋は摂津国西成郡に在ったと伝わるが、その所在地は定かではない。 また、その一帯に橋姫を祀る神社は現存しない。

『日本後紀』巻第二十二の弘仁三年[812]六月己丑[3日]条[LINK]には、
「使を遣はして、摂津国長柄橋を造らしむ」
とあり、これが史料上における長柄橋の初見とされる。

『摂津名所図会』巻之三[LINK]には、
「長柄橋跡 此橋の旧跡古来さだかならず」「長柄橋は、孝徳帝豊崎宮の御時より、かの島々に掛け架して皇居への通路なり。[中略]一橋の名にあらずして、島より島へ架して、橋の数数多あれども、地名によりてみな長柄橋といひならはしけり。委しきは長柄豊崎橋なるべし。古来よりも今の北長柄(現・大阪府大阪市北区の長柄地区)より豊島郡垂水庄(現・大阪府吹田市の南西端)に至るまでを、長柄の橋跡といふ」
「其後、嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月、再び長柄橋を造らしむ。人柱は此時なり」
とある。
また、同書・巻之六[LINK]には、岩氏の人柱伝説を記す。
「雉子畷 垂水村社頭西の方にあり。諺に言ふ、むかし長柄川に橋をつくるには、人ばしらなくてはなりがたしとて、其人をえらみけるに、継したる袴をきたるものをとらへて人柱にしづむべしと、官家よりおほせあれば、新関を立ててこれを改む。こゝに岩氏長者といふ者あり。これをしらず袴の継したるを着て通るに、関守とらへてゆるさず、つひに水底にしずむ。これによって橋なりけり。かの岩氏にひとりの娘あり。容顔世にすぐれて艶しく、紅粉を嚫さずして、色いつくしく、朝日にかゞやく国色なり、此ゆゑに世の人光照前とぞ称しける。然るに成長までも不言ずして唖の如し。母悲歎かぎりなく、ふかくかくしけり。こゝに河内禁野といふ里の男、此女を恋ひて垂水よりこれを迎ふ。辞しがたくや有りけん、禁野の家に行く。なほも不言ざること久し。夫怪しんで、女をつれて母のもとへおくりぬ。此畷を通るに雉子啼きければ、夫ねらひよりこれを射る。於是女はじめて言ふて歌をよむ。「ものいはじ父はながらの橋ばしら なかずばきじも射られざらまし」とくりかえしこれを諷ふ」

『二川分流記』〔『大阪府誌』第五編(名勝旧蹟誌)の大願寺(橋本寺)の条[LINK]に引用〕には、
「古老伝、長柄橋は河辺郡長柄村にかゝる、其濫觴詳ならず、仁徳帝高津宮に御座時にや、往古は難波の岸と垂水の間南岸の口頽岸の患多かりしを、垂水の岩氏人柱に立しより此橋患なかりしとぞ。因て岩氏が冥福の為推古帝の御時[593-628]難波豊崎宮の旧地に往生院を建て給、橋本寺と号せらる、今の大願寺是なり。初め本尊は金銅の地蔵なりしが、橋絶て後、再興の時橋柱を刻て是に換らる」
とある。
大願寺[大阪市淀川区東三国1丁目]は本門法華宗の寺院で、境内には巌氏(岩氏)の墓と伝えられる五輪塔が現存する。

上野国における橋姫明神信仰について、近藤喜博は以下の様に述べている。
「成程摂州長柄の橋姫の話であつたが、橋供養と云つた宗教的な営みが、仏教化してしまつても、在来の橋姫明神への鎮霊の効果を期待して、橋姫明神の語り物を口唱してゐた神人団が上州には居たらしい。それらが語つたのが恐らく神道集「橋姫明神事」の原態に近いものであつたらう。しかしそれには証明が要ることである。私は、その証明は邑楽郡に三十八社、新田郡に四社、合計四十二社を数へる長良明神(又は稀に長柄)を追究することによつて遂げられると考へる。これらの長良神社は上州とは何の関係もない藤原長良を祀ると伝へるが、これは伝説の歴史化にすぎないのである。しかもこれら長良神社は、神流川・烏川・吾妻川・広瀬川の諸流を集めて流れ下る、利根川流域に臨む村々にあることは重大な着眼点でなくてはならぬ。ここら辺は時として水禍の見舞ふところ、水の横流するところ、従つてそこらの橋は供養し鎮霊して守護されねばならぬ。かう云つた地点には、人々の要求もあり早くより神人団の流入を見、摂津長柄の橋姫の唱導を行つてゐた。それが唱導の正本だる神道集にも採られたのであるとされるやうだ」
(近藤喜博編『神道集 東洋文庫本』、「上州の語り物覚書」[LINK]、角川書店、1959)

淀の橋姫

淀川に架けられた古橋としては、日本三古橋の一つに数えられる山崎橋が挙げられる。 この橋は現在の京都府乙訓郡大山崎町と八幡市橋本とを結んでいたとされるが、橋姫を祀る神社は現存しない。

藤原盛徳・惟宗光之『勅撰作者部類』の行基大菩薩の条[LINK]には、
「神亀二年[725]九月、諸弟子をひきいて行き山崎河に到る。船渡を得ず仮に掩留す。河中に一大柱の有るを見て、大菩薩問て曰く、彼の柱知る者有りや。或人申て曰く、往昔尊船大徳の度す所の柱なり云々。爰に大菩薩発願して、同月十二日より始て山崎橋を度す」
とある。

皇円『扶桑略記』第六の神亀三年[726]条[LINK]には、
「同年、行基菩薩山崎橋を造る。故老相伝へて云ふ、橋を造り畢て後、菩薩橋上に於て、大に法会を設る。洪水俄に至り、橋流れ人死す」
とある。
国史でもこの橋は度々水害を受けた記録が残っており(例えば、『日本文徳天皇実録』巻第二の嘉承三年[850]九月丁酉[23日]条[LINK]に「七月大水、山崎橋断」とある)、橋供養・鎮霊の信仰が有った事が考えられる。

宇治の橋姫

橋姫神社[京都府宇治市宇治蓮華]
祭神は瀬織津比咩神。
旧・村社。

『古今和歌集』巻十四(恋歌四)[LINK]には、
「さ筵に衣片敷き今宵もや 我を待つらむ宇治の橋姫」
の歌が載っている。 古今集注釈の世界では、この宇治の橋姫に関して様々な説が説かれた。

例えば、『毘沙門堂本古今集注』には、悪阻の妻に頼まれた男が海辺へ和布を取りに行き、龍神の聟にされる話が記されている。
「山城国風土記云、宇治の橋姫七尋の和布をつはりに願ける程に、おとこ海辺に尋ね行て笛を吹けるに龍神めでゝ、聟にとれり。姫夫を尋て海のはたに行けるに老女の家あるに行て間程に、さる人は龍神の聟に成ておはするが、龍神の火をいみて此にて物を食するなり、その時にみよと云ければ、かくれ居て見るに龍王の玉の輿にかゝれて来て供御を食しけり。さて女物語してなくなく別れけり。遂にはかへりて彼女につれたりとぞ」

また、『古今為家抄』には、惶根尊の娘が住吉明神と契る話が記されている。
「宇治の橋姫と云ふ事、日本記ニ云、惶根尊御娘、津国浜に出て遊び給ひけるを、住吉大明神行遇奉り、契給ひて宇治へ行かんと言けるか、行玉はすして思遣りてよみ給ふ哥也、此橋嬪有処の河にて、向に男のありけるに、逢んとし給ひけるに、川をわたる事不叶、逢事なかりけれは、誓て橋を守る神となり給ひけり、さて宇治の橋守りて、橋嬪と云はれ給ふ、又は玉姫とも云ふ」
(渡瀬淳子「「剣巻」の「創作」態度 —宇治の橋姫をめぐって—」、早稲田大学教育学部学術研究. 国語・国文学編、54、pp.13-24、2005)

一方、『平家物語』剣巻[LINK]には、公卿の娘が生きながら鬼女に成る話が有る。
「嵯峨天皇の御宇[809-823]に、或公卿の娘、余に嫉妬深うして、貴船の社に詣でて、七日籠りて申す様、帰命頂礼貴船大明神、願くは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ、妬しと思ひつる女、取り殺さんとぞ祈りける。明神、哀とや覚しけん、誠に申す所不便なり、実に鬼になりたくば、姿を改めて、宇治の河瀬に行きて、三七日漬れと示現あり。[中略]斯の如くして、宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船社の計にて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし」

藤元元『前太平記』巻十七の「洛中妖怪事附渡部綱斬捕鬼手事」[LINK]によると、天延四年[976]に洛中で多くの人が姿を消す怪異が起きた。 安倍晴明を召して占わせたところ、宇治橋下の鬼女(上述)の霊と藤原忠文の霊が夫婦と成って怪異を起こしていた事が判り、晴明は「往し弘仁年中[810-824]、摂州西生郡に長柄橋を渡して、傍に橋姫宮を移す。山崎・浜名の橋も亦此の如し。今此妖孼を鎮めんとならば、宇治橋の下に小祠を建てゝ、橋姫宮と祝ひなば、悪霊忽ち納得して、洛中の安堵、子細なく候はん」と奏した。

『都名所図会』巻五(前朱雀)[LINK]には、
「橋姫社は宇治橋の西づめにあり(はじめは二社なり。一社は洪水のとき漂流す。いま礎存せり)」
とある。
また、上記『古今和歌集』の歌について
「この歌の評説をもつて祭る神をしるなり。〔袖中抄〕に、住吉大明神橋姫の神にかよひ、詠みたまふ歌なりとぞ。清輔の説には、山には山の神あり、橋には橋の神あり。姫とは佐保姫、龍田姫などに同じ。旧妻を橋姫になぞらふとなり。一条禅閤(兼良)の御説には、離宮の神夜毎に通ひ給ふとて、暁毎におびたゞしく浪のたつ音のするとなん。玄恵法印の日く、むかし嵯峨天皇の御時、をとこにねたみある女、貴船のやしろに七夜丑の時参して、この河瀬に髪をひたし悪鬼と化す。これを橋姫といふなり。宗祇の説には、おもひかはしたる妻、立ちわかれて恋しきまゝに、なれも我をまつらんと、はし姫を妻によそへてかこちいへる儀なるべし」 「又逍遥院殿(三条西実隆)の御説も、清輔、宗祇のいふところに同じ。佐保姫、龍田姫、橋姫、これを三姫というて、深き口授のあるよし、歌道の師によりて明らむべし」
と諸説を述べる。

橋姫神社の「由緒」(『平成祭データ』所収)には、
「孝徳天皇の御宇大化二年[646]、南都元興寺の僧道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流桜谷(滋賀県大津市大石中一丁目の佐久奈度神社)に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ今の三の間と称するは、即ち其鎮座の跡なり。後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年[1870]洪水の為め社地流出してより此の地に移す」
とある。