この蛇毒気神というのもよく判らない神です。
— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年7月22日
『扶桑略記』の延久二年(1070)の祇園感神院(現在の八坂神社)の火災に関する記事https://t.co/4eE6OiKTCyから、この頃には同社に八王子ならびに蛇毒気神・大将軍が祀られていた事が判ります。 https://t.co/JTPI42W4Gu
『扶桑略記』延久二年の記事https://t.co/4eE6OiKTCy:
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「十月十四日辛未、戌時、感神院大廻廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す、但し天神御躰之を取り出し奉る」
「十一月十八日乙巳、官使を以て感神院八王子四躰ならびに蛇毒気神・大将軍御躰焼失の実否を検録す」
『二十二社註式』の祇園社の項https://t.co/1AGJk5jS5b:
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「西間 本御前、奇稲田媛垂跡、一名婆利女、一名少将井、脚摩乳手摩乳女」
「中間 午頭天皇、号大政所、進雄尊垂迹」
「東間 ?毒気神龍王女、今御前也」
蛇毒気神は牛頭天王の后(今御前)と解釈できます。
『??内伝金烏玉兎集』には「右 八将神とは牛頭天王の子なり」「第八豹尾神は蛇毒気神、本地は三宝大荒神なり」と書かれています。
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つまり、蛇毒気神(=豹尾神)は牛頭天王の子と解釈出来ます。
『??内伝金烏玉兎集』の注釈書『??抄』には「龍宮ニテ七人ノ王子ヲ生シ給フ時、衣那ト月水ヲ血逆ノ池へ捨給フ、彼レガ集テ蛇毒気神ト成給フ」とあります。また、牛頭天王が七王子を連れて帰朝する途中、海上に蛇毒気神が出現した時、王子と認めて一緒に帰朝した事が記されています。
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『神道集』の「赤山大明神事」には「また此の天王に十種の変身あり、一は武答天神王、二は牛頭天王、三は倶摩羅天王、四は蛇毒気神王、五は摩耶天王、六は都藍天王、七は梵王、八は玉女、九は薬宝賢明王、十は疫病神王等これなり。此の十種の変身は皆これ一体にして、衆生を利益す」とあります。
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蛇毒気神が牛頭天王と関係の深い神である事は諸説一致していますが、后だったり王子だったり変身だったり……どうもよく判りません。
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