蜂子皇子は『日本書紀』に名前が有るので多分実在しただろうと思うのですが、羽黒山開山伝説の能除太子と同一人物であるというのは、江戸時代初期に宥俊や天宥が言い出して、何故か明治になって公認されました。
写真は2014年に能除太子像が特別開扉された時に羽黒山に行った時のものです。 pic.twitter.com/JsUsNMHHpZ

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月3日

『神道集』の「出羽羽黒権現事」には「彼の御山と申すは能除大師の草創也。日本の人王卅四代、推古天王の御時に顕れたまふ」と記されています。ただし、能除が崇峻天皇の皇子であるといった記述は見られません。 https://t.co/NtRp2Sr8Yb

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月4日

『羽黒山縁起』には「崇峻天皇第三の皇子を参払理の大臣と申せり」「人の苦を能く除きたまへば、能除太子とせらる」と記されています。ただし、蜂子皇子の名は見えません。

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月4日

江戸時代の『三山雅集』には「崇峻帝一男、蜂子皇子まします。これ能除太子か。追て考ふべし」と記されています。蜂子皇子が能除太子であるという説を反映していますが、断定はしていません。

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月4日

羽黒山上に有る現在の蜂子皇子墓については、いつからそう言われているのかよく判りません。
『三山雅集』では山麓の皇野の条に「能除太子禁闕を出でて、この所に修行ましまし、終に昇天有りけるより、民俗一塚を築きてこれを祠る」と有りますが、羽黒山上の墓には言及されていません。

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月5日

内藤正敏『修験道の精神宇宙』には以下のように書かれています。
「羽黒山頂にある蜂子皇子陵は、明治の神仏分離以後に新しく造られたものである。ただし羽黒山東麓の皇野には、能除太子の墓といい伝える場所があったり…」

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月5日