伯耆大山の下山明神と本地仏の十一面観音に関しては、「下山縁起」(『山岳宗教史研究叢書18 修験道史料集U』所収)にその由緒が記されています。 pic.twitter.com/9jFXwd372C

— k.hisadome (@HisadomeK) 2017年8月11日

備中国浅口郡江原庄の郡司・渡辺日向守は老年になっても子が無かった。郡司はこれを愁いて観音菩薩に百日間参籠し、一人の男子を授かった。子供は成長して智勇を備えた武士となり、源五郎照政と号した。照政は大智明権現を深く信仰し、数十年にわたって月詣でを怠らなかった。

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後醍醐天皇の元徳二年、照政は山を下る途中で鈴木某と諍いになり、決闘して殺された。照政の遺骸を埋めた塚頭に白狐が棲みついて群れを成し、神託を下すようになった。ある時、「永く守護神となって大山の衆侶を擁護しよう」と神託があり、文殊堂の傍に照政の霊を祭り下山善神と称した。

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後光巌院の文和元年、大智明権現の右側に下山善神の社殿を建てるよう神託があり、その地を掘ると土中より十一面観音の金仏が湧出した。下山善神の父の郡司が観音を信仰して子を授かった伝承と符合するので、大山の衆徒はこの十一面観音を下山善神のご神体と称した。

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『伯耆民談記』の大山の条https://t.co/paqieR7EPLによると、「作州の住人下山源五郎と云ふ者」が鈴木某に殺され、その霊魂が祟るので神として祀ったのが下山神社です。以後、"鈴木"姓の者は登山を許されず、無理に登山すると忽ち害災が有ると記されています。

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