「赤城山検定テキスト(2019年度更新版)」https://t.co/u5mQvTGuUk
赤城山の歴史・伝説・文化・動植物・行事などについてまとめたもので、『神道集』についても言及されていますが、気になる点が数ヶ所見つかりました。

— k.hisadome (@HisadomeK) August 25, 2019

p.33「平安時代に編纂された『延喜式神名帳』では、三夜沢赤城神社は上野国(かみつけのくに:群馬県の古式名)の二之宮(一之宮は富岡市の貫前神社)となっています。」
→上野国に限らず、『延喜式神名帳』には「一之宮」「二之宮」に関する記述は有りません。

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また、三夜沢赤城神社は式内社・赤城神社の有力な論社ですが、確定はしていません。三夜沢赤城神社以外の論社としては、二宮赤城神社と大洞赤城神社が挙げられます。

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p.37「大洞の名前は、806(大同元)年、「神庫山(ほくらやま:地蔵岳)の中腹にあった地蔵尊を大沼湖畔に移して社殿を建て替えた」という『神道集』の記述に由来します。」
→『神道集』には、そんな記述は全く見当たりません。

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なお、大洞赤城神社の公式ページの「由緒」https://t.co/srd9s95Gsf
には「大同元年(806年)に小沼から見あげる神庫岳(後の地蔵岳)の中腹より、大沼の畔に御遷宮されたという記録が残されております」と記されていますが、「地蔵尊を大沼湖畔に移し」という記載は見当たりません。

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p.22「覚満淵の名前は、平安時代、この地で比叡山延暦寺の高僧 覚満が法会を行ったという、南北朝時代(文和・延文年間:1352−1361 年)に編纂された『神道集』の記述に由来しています。」
→以下で説明するように、覚満淵の名前は『神道集』の記述には由来していません。

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『神道集』の「上野国赤城山三所明神内 覚満大菩薩事」には「人王第二十代允恭天皇の御時、比叡山西坂下に二人僧有り、兄弟なり、兄をは近江竪者覚円と云、弟をは美濃法印覚満と申」と書かれています。
つまり、『神道集』では覚満は允恭天皇(在位422-453)の御代の僧とされているのです。 pic.twitter.com/mlARa84u0S

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もちろん、允恭天皇の時代には日本に仏教は未だ伝来していません。「主上上皇の御国諍い」は「保元の乱」を思わせ、この説話が平安時代のイメージで物語られていることは確かです。しかし、『神道集』の「上野国赤城山三所明神内 覚満大菩薩事」の時代設定は平安時代ではないのです。

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また、『神道集』の「上野国赤城山三所明神内 覚満大菩薩事」で美濃法印覚満が法会を行った場所は、赤城沼の岸で黒檜嶽の西麓、つまり現在の黒檜山登山口の辺と思われます。一方、覚満淵は大沼の南東600メートルくらいの場所ですので、『神道集』の記述とは一致しません。 pic.twitter.com/bMAMwnog4H

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では、覚満淵の名前の由来を説く資料は何かというと、赤城地方の浄瑠璃(お国浄瑠璃)『赤城御本地(上野国赤城山御本地)』(天保二年写、国会図書館蔵)です。『神道集』の「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」と同じく赤城大明神の由来を説きますが、内容はかなり相違します。

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『赤城御本地』の時代設定は『神道集』より古く、仁徳天皇(在位313-399)の御代とされます。上野国主・高鍋左大将家成(『神道集』の「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」の高野辺左大将家成に相当)の後見の中に「浅間坊覚満とて、大力ふ勇の法師也」として名が挙がられています。 pic.twitter.com/dZ6Ys5Op8c

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『神道集』の「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」と同様、高鍋左大将家成の後妻・かつらの前は、夫の上洛中に前妻の生んだ三人の姫を川に沈めて殺害しようとします(三人の姫は龍神に救出されます)。都から戻った家成は三人の姫が天狗にさらわれたと聞かされ、赤城山を捜索中に落命します。

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浅間坊覚満は家成の後を追って、自らの首をかき切り入水します。「彼覚満か、死骸をば、水葬にしたりける、去るによりて、此池を、覚満淵とそ名付ける」、これが覚満淵の名前の由来です。
なお、『神道集』の美濃法印覚満と異なり、『赤城御本地』の浅間坊覚満は物語中では神格化されていません。 pic.twitter.com/tgTQoVyocY

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つまり、覚満淵は「『神道集』の美濃法印覚満が法会を行った場所」ではなく「『赤城御本地』の浅間坊覚満が入水して水葬にされた場所」なのです。おそらく、『赤城御本地』の浅間坊覚満の名は『神道集』の美濃法印覚満から創作されたものでしょうが、時代設定も物語も異なり、同一視するのは無理です。

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p.99の検定問題例。
正答は
 28 平安
 29 神道集
のようですが、上記のように問題例としては不適切だと思いますね。 pic.twitter.com/KAbRbtR2Er

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覚満淵の現地案内板(2016年に撮影)
「允恭天皇の御代(5世紀中頃)、比叡山の高僧、覚満法師が同地において七日七夜にわたり大法会を行ったことから覚満淵とよばれるようになったといわれています」と書かれており、ここでも覚満淵の「覚満」を美濃法印覚満と解釈しているようです。 pic.twitter.com/UX8tkOkhrX

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