ベンチのある文芸
 
音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」

寺田寅彦
 
この音楽的映画の序曲は「パリのめざめ」の表題楽で始まる。まず夜明けのセーヌの
川岸が現われる。人通りはなくて朝霧にぬれたベンチが横たわり、遠くにノートルダ
ームの双生塔がぼんやり見える。眠りのまださめぬ裏町へだれか一人自転車を乗り込
んで来て、舗道の上になんだか棒のようなものを投げ出す。その音で長い一夜の沈黙
が破られる。この音からつるはしのようなもので薪(まき)を割る男が呼び出される。
軒下に眠るルンペンのいびきの音が伴奏を始める。家の裏戸が明いて早起きのおかみ
さんが掃除(そうじ)を始める、その箒(ほうき)の音がこれに和する。この三つの
音が次第に調子を早める。高角度に写された煙突から朝餉(あさげ)の煙がもくもく
と上がり始めると、あちらこちらの窓が明いて、晴れやかな娘の顔なども見える。屋
上ではせんたく物を朝風に翻すおかみさんたちの群れもある。これらの画像の連続の
間に、町の雑音の音楽はアクセレランドー、クレッセンドーで進行して行って、かく
して一人の巨人としての「パリ」が目をさましてあくびをする。これだけの序曲が終
わると同時に第一幕モーリス住み家の場が映し出されるのである。この序曲はかなり
おもしろく見られ聞かれる。試みに俳諧連句(はいかいれんく)にしてみると


朝霧やパリは眠りのまださめず
 河岸(かし)のベンチのぬれてやや寒
有明(ありあけ)の月に薪(たきぎ)を取り込んで
 あちらこちらに窓あける音

                  (昭和七年十一月、キネマ旬報)
 より