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			|  | 長文:るーさんの十字軍講座 | -2003/10/14- |  ルーフェンでございます。ごきげんよう。
 クルセイダーとしてスキルも覚え、だいぶ成長してきました。なにより盾と重装甲がなかなかいい感じです。まるでトルメキア兵のようですな。
 
		ナウシカのトルメキアといえば装甲兵とあの自走砲。独のIII号突撃砲と仏のシャールB1と英のマチルダIIと洪のズリィーニィーを足して4で割ったようなそのフォルム(わけわからん)がたまりません。
 
・・・脱線しました。 
では、以前のお約束であった長文を中の人がようやく書き上げましたのでお披露目です。結構長いし、画像もないので面倒な方はスルーしてくださいませ。 
さて、十字軍とは広義には中世欧州におけるキリスト教徒の異教徒・異端者との戦いを指し、狭義には1096年から13世紀後半にかけての7回(1270年のルイ9世によるチェニス攻撃を含めれば8回)にわたる西欧諸国のキリスト教徒による聖地エルサレム(現パレスチナ周辺)回復のためのトルコ遠征を指します。 
結論から先に言えば、十字軍遠征は第1回と第5回に一応成功しています(エルサレムを奪還しましたからね) 
そもそもの発端は、1095年に教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で遠征を宣言、十字架の記章を戦士の標識と定めたのが最初。 
これはセルジュク朝トルコによるエルサレム占領・東ローマ帝国への攻撃に起因する東ローマ皇帝アレクシウス1世からの援助要請を受けたことによるもの・・・なのですが、ほんとのところイスラム教徒はキリスト教徒の聖地巡礼にむしろ友好的だったとか。破竹の勢いで近隣に迫っていたトルコのセルジュク朝の脅威を感じたアレクシウス1世は、ヨーロッパ諸国の援軍を取り付ける為に、大義名分としてイスラム教徒の蛮行を吹聴したというのが実際のところらしいです。
 ・・・この陰謀家め。
 このことが後々東ローマ帝国に災厄となって襲いかかります。
 
でもってこのあたりの事情もまた複雑でして。当時東ローマ帝国(俗に言うビサンツですね)は、自分のところがキリスト教の中心と言っていました。ローマ時代にキリスト教を正教として認めたプライドゆえです。
 で、当然のことながらローマにあった西ヨーロッパのキリスト教の総本山、ローマ教会と仲が悪い。しかし好き嫌いをいえる状況ではない、といったところ。
 そこに各々の思惑が複雑に絡みます。
 
信仰心篤い人たち:「神のためなら命も捨てよう!」ローマ教皇:「ビザンツ教会を統合してキリスト教一本化のチャーンス!」
 西ヨーロッパ諸侯:「人口が増えたから土地が欲しい、チャーンス!」
 北イタリアの商人達:「貿易拡大のジャンピングチャーンス!」
 
で、このウルバヌス2世の演説というのが、聖職者にあるまじきブッシュも驚愕の「異教徒皆殺し論」だったとか。おおこわ。 
そして熱くなった連中によって始まる、人類史上例を見ない人員とエネルギーを傾けた無駄使い大事業。完全成功してたらプロジェクトXも真っ青です。 
第1回は1096年に開始。仏の騎士団を中心に破竹の勢いでなだれ込み、アンティオキア公領、エデッサ伯領を建設。
 1099年には念願のエルサレムを占領、エルサレム王国を建設。ついで周辺に1102年、トリポリ伯領を建設。
 テンプル、ヨハネ両騎士団はこの頃に結成されました。
 
第2回は1147年。トルコ軍の攻撃により植民地であったエデッサが陥落したことが発端。
 フランス国王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世がダマスカスを攻めるが失敗。どうもこのあたりから十字軍内部での対立が始まるようです。
 
第3回は1189年。英雄、名君が綺羅星のごとく集うオールスターキャストで歴史を盛り上げる、一番十字軍の眼目といっていいでしょう。
 アスルーフの戦い、ハッティンの戦いなど著名な会戦も多く発生しています。
 ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を興したイスラム一代の英傑、サラーフ・アッディーン(サラディン)によって、いとも簡単にエルサレムを奪回されてしまったために発生。
 英仏独が騎士団を派遣するも、15万の兵力を率いたドイツ皇帝(赤髭王=バルバロッサ)が小アジアで溺死。なんと腰ほどの水位の川を馬で渡河中に落馬してしまったとか。時に皇帝67歳。まさに年寄りの冷や水です。
 4万にまで激減した独騎士団をあてにはできず、結局は英仏連合で戦わざるを得なくなり(ドイツ皇帝の息子、シュヴァーベン公フリードリヒはそれでも参戦していましたが、さっさと戦死して退場)アッコン攻略がスタート。
 ここで戦争バカ一代の英王、リチャード1世(獅子心王=ライオンハーティド)が大暴れするも、仏王フィリップ2世(尊厳王=オーギュスト)はそれが気に入らなかったようで(もともと英と仏は当時から潜在的な敵同士)仏王はアッコン陥落後、やってられんとばかりに帰国。
 その後リチャード1世は単独でエルサレム奪還に挑むも断念し、疲弊しきった両軍は3年間の休戦協定(リチャード-サラディン協定)を結んで終了。
 サラディンが十字軍との交戦中に見せた人道義的態度もエピソードの一つ。というか、残っている話を半分として聞いてもサラディンは世界でも屈指の名君だったかと。なお、サラディンは協定締結から半年後に55歳でマラリアのため没します。
 
以後、遠征は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるようになります。 
第4回は1202年。ところがこの遠征ではイスラム教徒との戦争はありませんでした。
 この時十字軍はなんと、ヴェネチア商人の誘導で東ローマを攻撃。コンスタンティノープルを奪いました(建前としては東ローマを救うことも十字軍遠征の目的であったのに、ここへきて本音が出たようです)
 この行為に激怒した時の教皇インノケンティウス3世は遠征軍全体を破門します。破門された軍は占領地に「ラテン帝国」を築きました。
 東ローマの人々は小アジア半島に逃亡して、「ニケーア帝国」を建設します。そして1261年、ヴェネチアの宿敵ジェノバと連合しコンスタンティノープルを奪回します(敵の敵は味方だったわけです)
 しかし、考えてみれば東ローマ帝国皇帝の陰謀で十字軍が発生したことを考えると、因果応報だったのかも。悪いことはできませんねー。
 
第5回は1217年。フランス貴族ブリエンヌらがエジプトのアイユーブ朝を攻めるも敗北し、全軍が捕虜に(まだだ、まだ終わらんよ)
 
第6回は1228年。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉で一時エルサレムを回復するも、ホラズム・トルコに再奪還される(悲しいけどこれ、戦争なのよね)
 
第7回は1248年。フランス王ルイ9世が指揮してエジプトを攻めるも王自身がダミエッタで捕虜となり、終了ー(坊やだからさ)
 
いやはやなんとも・・・。ここまでくるとどうでもよくなっていますね。
 まあ、一般的には西欧文化とイスラム文化の出会いがあり、様々な文化や人、物の交流を深めたという側面がありますが・・・それにしても壮絶です。
 昔の人はスケールが大きかったんですね。改めて調べてみてびっくりです。
 
さて、十字軍騎士団として名高いのが修道騎士、なかでもテンプル、ヨハネ騎士団でしょうか。ついでにそこいらへんもまとめてみました。 
[テンプル騎士団] 
テンプル騎士団は中世西欧の三大騎士団の一つであり、正式名を『キリストの貧しき騎士修道会とソロモンの神殿』といいます。これはその本部がソロモン王の寺院跡にあったのでこの名がついたというのが定説。
 
巡礼者の保護と軍務を任務とし、11世紀から13世紀にかけて行われた十字軍遠征で活躍しました。先の広がった赤い十字架を縫いつけた白い外套がポイント。しかし、その寿命は意外と短いものでした。
 
1118年 第1回十字軍の時、シャンパーニュの騎士ユーグ・ド・パイヤンほか数名がエルサレムで聖地巡礼者保護のために結成。1128年 教皇直属の騎士修道会として正式認可。聖地に堅城を築き十字軍の主戦力として活躍。
 1291年 キプロス島に撤退。
 1307年 フランス国王フィリップ4世の陰謀により全員逮捕。
 1314年 ビエンヌ公会議で解散を命じられる。会員・財産はヨハネ騎士団に移された。
 
で、なんでこんな末路になってしまったかというと・・・。結局のところ、各国の王などから莫大な献金を受け取り(聖地奪回のだめの浄財ですな)それを元に高利貸しを始めてしまったようでして。「ヨーロッパの金庫番」とも呼ばれた彼らは、要は中世の武富士みたいなことをやっちまって目をつけられたらしいです。
 
それでも残された騎士団の人々は夢を捨て切れなかったようで、1917年12月9日に英国のアレンビイ将軍によってエルサレムが陥落した際、彼らの後継者たちは聖堂騎士像に月桂冠を被せたそうな。彼らが700年以上も切望したこと−聖地奪回−がこの日なされたからだそうです。ロマンですねぇ。
 
余談:テンプル騎士団は後の異端審問によって解体させられた事実から、オカルティズムの世界ではフリーメイソンと同系列の秘密結社の香りを漂わせていることが多いようです。これは後年の創作と思われますが、石工の協同組合であったメーソンと修道騎士階級の彼らとは実はものすごい犬猿の仲だったとか(そりゃそうだ)
 
[聖ヨハネ騎士団] 
病院騎士団(ホスピターラー騎士団)とも後の経緯からマルタ騎士団とも。『エルサレム洗礼者聖ヨハネ病院騎士修道会』というのが正式名称。
 医療と軍務が主な任務で、先端が2つに分かれた白十字を着けた黒色の外套がポイント。
 
1048年 アマルフィ市の商人が設立したエルサレムの聖ヨハネ病院の団体が起源といわれる。1113年 聖地エルサレムに本部が建設される。
 1291年 アッコンの陥落を最後に聖地を放棄した騎士団はキプロス島へ避難。
 1308年 ロードス島へ本拠を移す。
 1522年 オスマン帝国のスルタン、スレイマン1世によりロードス島を追われる。
 1523年 マルタ島に本拠を移す。
 1798年 ナポレオン1世のエジプト侵攻の際、攻撃を受けて降伏・解体、以後修道会に改組しローマに本拠を置く。
 
・・・なんか撤退の歴史ですね。近代化に伴って、古きよき騎士のスキームが時代に合わなくなり、追われていく様が見えるようです。
 ナポレオンの時代まで生き残っていたことがむしろ不思議。
 
しかし、彼らはしぶとく生きています。修道会の組織そのものはイギリスに属していますが、本部はローマにありながら主権を持ち、独自の国籍を保有してパスポートを発行し、領土のない謎の国家形態を維持しています。現在でも本部はローマ・コンドッティ通りに、またウィーンのケルトナー通りに教会などがあり、世界各地の災害救助などで無償の奉仕を行っている模様です。
 
なお、ここいらを詳しく知りたくなったら、 
G・オーデン著「西洋騎士道辞典」青池保子著「サラディンの日」
 塩野七生著「ロードス島攻防記」
 
などをお読みになるとよろしいかと。ロードス島といっても水野某の
 クソッタレたファンタジー小説とは関連がありませんので悪しからず。 
さて、ずいぶん長くなりましたが、大体こんなところかと。それにしても歴史の探訪というのは楽しいものです。知的好奇心もいい娯楽になります。機会があれば皆様もどうぞ。
 
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