プロジェクト・エデン特別篇

狙われ街 完結篇

LARGEFIRE.GIF (47162 バイト)

 

 静かに倒れていったシグルドの姿が、ヘイ

ムダルの目にスローモーションのフィルムの

ように焼き付いていた。その一コマ、一コマ

に彼女の無念と哀しみが宿っていた。

  わき上がる感傷を打ち消すかのように、ヘ

イムダルはゆっくりと首を振った…。

  「シグルド…」

 倒れた彼女を見ながら、ヘイムダルはパラ

ライザーの銃口を下げた。

 同じ科学技術アカデミーの先輩として、シ

グルドの名を知らない訳がない。事実、ヘイ

ムダルは彼女に憧れていたこともあった。

 だが、彼は撃った。そうすることが未来の

ためだと信じていたからである。そして、ミ

レニアム帝国に味方する彼女を、同じアカデ

ミーの人間として許せなかったのだった。

 「これで邪魔者は消えたな…」

 指揮官を失った以上、工作員たちが動くこ

とはない。シグルドが最後に下した命令を忠

実に守って、物陰に身を潜めているだけだ。

 新たな命令がインプットされるまでは、永

遠にそこに隠れていることだろう。

 「あれもまた、帝国が落とした影か…」

 ロボットのような工作員たちの姿を見つめ

ながら、ヘイムダルはつぶやいたのだった。

 

 ピーッ、ピーッ、ピーッ!

 突然鳴り響いた甲高いシグナルに、忠夫は

飛び上がるほどに驚いた。シグルドたちがヘ

イムダルの隠れ家を急襲する少し前である。

 「な、何だッ?」

 忠夫が慌てて音の出所を探る。

 「お兄ちゃん、追跡装置よ!」

 唯が忠夫からひったくるようにして、追跡

装置を手に取った。確かにディスプレイの中

に見えている波形は、今までとは全く違った

パターンを表示していた。

 「お兄ちゃん!」

 唯がディスプレイを忠夫に見せる。

 「つ、ついに見つけたぞッ!」

 忠夫は思わず歓喜の叫びを上げた。

 疲れ果てた二人がもう諦めかけていた時、

急に追跡装置が反応を始めたのであった。

 「は、反応の強いのはどっちだ?」

 「う、うーんと、こっちよ」

 唯が指で示す。そっちは虹ヶ崎市の中心部

より、やや外れた場所だった。

 ピーッ、ピーッ、ピーッ!

 ポケベルなんかよりも激しい音で、追跡装

置が鳴り響く。うるさくてスイッチを切りた

くなるほどの大きさだ。

 「か、かなり強い反応だな…。もしかする

と、すぐ近くなのかもしれない」

 「お兄ちゃん。付いてるダイヤルを調整す

ると場所が詳しくなるって、ロキが言ってな

かったっけ?」

 「あ、そう言えば…!」

 忠夫が慌ててダイヤルを回す。すると、機

械の表示が拡大されるように映し出される。

 ディスプレイの中で光る光点は殆ど中央に

位置し、忠夫たちの現在位置と同じだった。

 「す、すぐ近くじゃないか…!」

 忠夫は強い反応を示す方角へと目を走らせ

た。そこには、小さな雑居ビルがいくつか立

ち並んでいるのが見える。

 「どうやら、あの辺りみたいだな…」

 忠夫の声はやや震え気味だ。それは恐怖で

はなく、武者震いに近いものかもしれない。

 「うん、そうみたいだね…」

 唯も緊張した面持ちで応える。生唾を呑み

込むようにゴクリと喉が動いた。

 「絶対に許さねぇぞ…!」

 唯は忠夫のその言葉を、街を守るために言

っているのだと思った。だが、忠夫の心の奥

ではアスラの仇を討とうとする気持ちが、炎

のように渦巻いていたのだった。

 「よし、行くぞ!」

 意を決したように、忠夫が駆けだす。

 「待って、お兄ちゃん!」

 「何だよ、唯。どうかしたのか?」

 忠夫が足を停め、振り向いた。

 「ねぇ、これをここの木に巻き付けておこ

うと思うんだけど…」

 そう言って、唯はアスラとの連絡に使う真

っ赤なスカーフを取り出した。唯は常にそれ

を持ち歩いたようだった。

 「これに地図のメモを一緒に付けておくの

よ。そうすれば、アスラに場所を伝えられる

でしょ」

 ミニ手帳のページを破って、唯は簡単な地

図を記した。それをスカーフの端に結び付け

るようにする。

 「ここは、いつもの木じゃないんだぞ」

 「アスラなら気づいてくれるわよ」

 「気づくわけないだろ…」

 「大丈夫よ。アスラだもん」

 唯はスカーフを手に木へと近づいた。

 「やめとけよ、唯!」

 「何で?」

 唯が振り向く。

 「そ、そんなヒマあるかよ」

 「で、でも、アスラに連絡しなきゃ…」

 唯は一生懸命に木に登ろうとするが、中々

うまく登れずにいる。必死につかもうと伸ば

した手が小枝をつかんだ途端、ポキンと折れ

て、唯は尻餅をついてしまった。

 「お兄ちゃん、手伝ってよ!」

 「……」

 忠夫は迷う。すでにアスラはこの世にいな

いかもしれないのだ。忠夫が唯の行動を止め

ようとしているのは、それが大きな理由なの

だ。結局アスラが現れずに、ショックを受け

るのは唯自身であるからだった。

 「お兄ちゃん、お願い…!」

 唯が忠夫に向かってスカーフを差し出す。

 スカーフを握りしめた小さな手が小刻みに

震えているのが見えた。唯もまた、自分の心

を奮い立たせようとしているのだ。

   アスラはきっと来てくれる…!

 その言葉にわずかな希望を託して…。

 そんな唯の気持ちは痛いほどに分かった。

 「……」

 忠夫は黙って唯に歩み寄り、紅いスカーフ

を手に取る。そして、そのまま木へと登りは

じめるのだった。

 「お兄ちゃん…」

 唯の見ている前で、忠夫は大きくジャンプ

して太めの枝に取りつく。懸垂の要領で身体

を持ち上げながら、器用に幹の凹凸に足をか

けて登っていく。木の表面に足がズルリと滑

る場面もあった。

 「お兄ちゃん、気をつけて!」

 忠夫は黙ってスカーフを張り出した枝へと

ギュッと結び付けた。

 「……」

 風に揺れるスカーフを見ながら、忠夫の胸

に言いようのない切なさが去来する。

 「……」

 目を閉じれば、瞼の奥にアスラの顔が浮か

び上がる。忠夫はギュッと唇を噛みしめた。

   (アスラ…!)

 心の中で名を呼ぶと、忠夫は木を滑り降り

た。

   感傷は戦いの終わった後だ!

 「さ、行くぞ!」

 「うん」

 二人は走りだす。その背後でスカーフが風

にはためいていた。

 

 夏の嵐の到来を告げるように、徐々に風は

強まっている…。

 ゴロゴロと雷の響きは確実に近づいてきて

いた。風はヒヤリとした湿り気を伴い、やが

て雨になると予想された。

 「あと少しだな…」

 トールハンマーの上部にあるエネルギーイ

ンジケーターを見ながら、ヘイムダルは言っ

た。エメラルド色の目盛りはすでに半分以上

が紅く染まり、すでに充填は60%を超えてい

ることを示している。

 「父さん、母さん…。もうすぐだ…」

 そのつぶやきは寂しそうでもあり、哀しみ

の声でもあった。そこには破壊者というより

は、迷子になった子供のような表情を浮かべ

たヘイムダルの顔があった。

 「…!」

 不意に気配を感じて、ヘイムダルは窓辺へ

と駆け寄った。すると、敷地内へと入ってく

る忠夫と唯の姿が目に入る。

 「また、あのガキどもか…!」

 舌打ちするも、20世紀の子供がここを嗅ぎ

つけたことに苦笑してしまう。

   中々、見どころのある連中だと…。

 「しかし、これ以上邪魔はさせないぞ」

 ヘイムダルはパラライザーをゆっくりと構

えた。忠夫たちは倒れているシグルドに気づ

いたらしく、彼女を抱き起こしている。もち

ろんシグルドは意識不明であり、全身も麻痺

している状態だ。グッタリしているシグルド

を何度も揺すりながら、心配そうに唯と相談

している様子が見えた。

 「おいおい、その女は敵だろうが…」

 本当にシグルドを心配しているような二人

に、ヘイムダルは思わず独り言ちた。敵の介

抱をする忠夫たちの気が知れなかった。

 「…ま、いいか」

 ヘイムダルはパラライザーの照準を忠夫へ

と合わせた。鋭く尖った切っ先の向こうに忠

夫の横顔が固定された。

 「首を突っ込んできたお前が悪いのさ…」

 ゆっくりとトリガーにかけられた指が動い

た瞬間だった!

 ビュッと風を切る音と共に、小石がヘイム

ダルの手の甲を打った。そのショックで照準

がズれ、発射されたオレンジ色の光線は忠夫

の頬を掠めるようにして、地面へと刺さる。

 「クッ…、誰だッ!」

 痛みをこらえるようにして、ヘイムダルが

振り向く。パラライザーを落とさなかったの

は、さすがと言うべきであろう。

 「忠夫さんたちを傷つけるのは、許しませ

ん!」

 暗い部屋の中に凛とした声が響く。

 「お、お前は…」

 雑然と積み上げられたオフィス用品の向こ

うに見える入口に立つ人影。例えシルエット

であっても、その小柄な人物が黒い服に身を

包んでいるのが判る。そして、ゆっくりと歩

いてくるにつれて、首もとの紅い色が鮮やか

に見えてきた。

 「ア、アスラ…!」

 ヘイムダルが驚いたように叫ぶ。

 そこにいたのは、病院の爆発で死んだ筈の

アスラであった。いつもの黒いスーツに身を

固め、首には鮮やかな真紅のスカーフが巻か

れている。それと別に、右腕の上腕部にも真

紅のスカーフが巻かれていた。

 「お、お前…、死んだのでは?」

 「別に幽霊じゃありません。ちゃんと足も

ついています」

 「どうして…?」

 「個人用バリアーはあなたの専売特許じゃ

ありません。あの爆発の中で、咄嗟に私もバ

リアーを張ったのです」

 アスラは爆発の瞬間を思い出しながら言っ

た。強力な破壊力を持つティルミット爆弾を

見た瞬間、彼女は腰のベルトにあるバリアー

発生装置のスイッチを入れたのだった。次の

瞬間に押し寄せた紅蓮の炎と凄まじい衝撃波

はバリアーに遮られ、崩れ落ちるコンクリー

トに耐えながら、アスラは九死に一生を得た

のである。

 「なるほど…。お前を少し甘く見ていたよ

うだな…」

 ヘイムダルは青黒く痣の浮かんだ手の甲を

さすりながら、ニヤリと笑う。

 「もう終わりです。あきらめて、トールハ

ンマーを止めてください」

 「未来を救う唯一の手段だ。それをお前は

止めろと言うのか?」

 「そんな物を使わなくても、未来を救うこ

とは出来るはずです!」

 「そんな戯れ言を信じろと言うのか?」

 「私は必ずキルケウイルスの感染源を捜し

出して見せます。信じてください」

 「クックック…。信じろと言うのは簡単だ

が、信じさせるだけのモノがなければな」

 ヘイムダルが皮肉な笑いを浮かべた時、

 「どこだ、ヘイムダル!」

 大きな声がして、ダダダと廊下を駆けてく

る足音が響いた。忠夫の声だ。

 「ここかぁッ!」

 バーンと扉を蹴破るような迫力で飛び込ん

できた忠夫だったが、部屋の中を見た瞬間、

その顔は驚きに塗りつぶされた。

 「ア…、ア…!」

 アスラと言いたいのだろうが、胸にこみ上

げてくる思いに言葉が出ないようだ。

 「忠夫さん…」

 アスラが優しい微笑みを忠夫に向ける。

 「ア…、アス…」

 忠夫の足がピクリと動いた時、

 「アスラ、無事だったのね!」

 忠夫を押し退けるようにして飛び込んでき

た唯がアスラに抱きついた。涙でクシャクシ

ャになった顔をアスラに押しつけるようにし

て、その感激を表現する。

 その様子を見ながら、忠夫はボーッと立ち

尽くしてしまう。唯に先を越されてしまった

ために、タイミングを失ってしまったのだ。

 「どうして、ここに?」

 唯が尋ねると、アスラは笑って右腕に巻い

たスカーフを指さした。それは先程、木に巻

き付けておいた物だ。

 「やっぱり、分かってくれたのね」

 「ありがとうございます。私の代わりにヘ

イムダルの居場所を捜してくれたのですね」

 「だって、アスラはきっと来てくれると思

ってたもの」

 唯が本当に嬉しそうな笑顔で言った。

 「ア、アスラ!」

 今までボーッとしていた忠夫が言う。

 「い、生きてたのなら、何故連絡をくれな

かったんだ?」

 「…すみません」

 抱きついていた唯を放しながら、アスラは

申し訳無さそうに頭を下げた。

 「あの病院での爆発の時、咄嗟にバリアー

を張ったとは言え、コンクリートの瓦礫に埋

もれてしまったのです」

 「あそこは、警察が調べてたはずだよ」

 「廃屋だっただけに被害者は誰もいないと

思っていたのでしょう。事故調査はしても、

コンクリートの瓦礫を掘り返してまでの調査

はしませんでした」

 「なるほど…ね」

 「それで、病院の廃墟から抜け出してこれ

るまでに時間がかかってしまったのです」

 「あ、あの瓦礫の山の下にいたのか?」

 「守ってくれているバリアーのエネルギー

が切れるまでに脱出しなければならなかった

ので、さすがに焦りました」

 よく見れば、アスラの顔に幾つかの小さな

痣が見える。元々色白の可愛い顔だちだけに

その傷が痛々しい。

 「その傷、大丈夫かい?」

 忠夫は詰問していたのも忘れて、心配そう

な表情になる。

 「…心配してくれるのですか?」

 「べ、別に…。ちょっと気になっただけだ

よ!」

 照れたように言い訳する忠夫を見るアスラ

の顔も、ちょっと赤くなる。いつも冷静で固

いイメージのアスラにしては、とても珍しい

ことであった。

 「…ありがとう」

 アスラの言葉に、今度は忠夫が顔を真っ赤

にする番だった。

 「再会を喜び合うのは、そこまでだ」

 急にヘイムダルの声が響いた。別に忘れて

いた訳ではないが、つい意識の外に置いてし

まっていたらしい。いつの間にか、手にした

パラライザーは忠夫やアスラの方へと向けら

れていた。

 「ヘイムダル…。もうやめて下さい」

 「無駄だ、アスラ。もう動きだしてしまっ

た時間の流れは止められないのだ」

 「時の流れを止められなくても、変えるこ

とは出来るはずです。その機械を作動させて

も、待っているのは悲劇の未来だけです」

 「お前は変えられると言っていたな」

 「ええ」

 「何を根拠に、そんな事が言える?」

 「彼らです」

 アスラは横に立つ忠夫や唯を示した。

 「この人達のような若い力がある限り、決

して未来は悪い方向には向かいません!」

 アスラはキッとヘイムダルを見つめる。鋭

く真剣な眼差しであった。

 「フン…。詭弁だな」

 ヘイムダルがせせら笑う。

 「ヘ、ヘイムダル!」

 横から割り込むように忠夫が叫んだ。

 「その機械を止めろッ!」

 忠夫がビシッと人指し指を向けるが、ヘイ

ムダルは動じた様子も見せない。

 「言ったはずだ。これは20世紀の人間の出

る幕ではない。ましてや、子供などにな!」

 「うるさい。子供だからって、バカにする

なよ!」

 飛び出しかけた忠夫をアスラが飛びつくよ

うに押し倒した。すると、忠夫が今立ってい

た空間をオレンジ色の閃光が走り抜ける。

 「うまく逃れたな…。だが、次はそうはい

かないぞ。邪魔はさせない!」

 ヘイムダルはパラライザーをゆっくりと向

けた。銃口の先には重なり合うように倒れた

アスラと忠夫がいる。不自然な体勢のために

次の一撃からは逃げられそうにない。

 「終わりだな…」

 トリガーを引こうとした瞬間、その間に唯

が大きく手を広げて、立ちはだかった。

 「ダメ!絶対にそんなことさせないッ!」

 「唯ッ!」

 「唯さんッ!」

 忠夫とアスラが同時に叫んだ。だが、唯は

ヘイムダルをジッと見つめたまま、その場を

動こうとはしなかった。

 「健気だな…。撃たれることが怖くないと

でも言うのか…?」

 「怖いに決まってるじゃない!」

 「では、何故?」

 「私が撃たれたって、きっとお兄ちゃんや

アスラがみんなを助けてくれるもの!」

 唯は震えながらも、精一杯に手を広げて言

うのだった。

 「クックックック…」

 急にヘイムダルは笑いだした。

 「何がおかしいの?」

 唯が不審そうに尋ねる。

 「聞いたか、アスラ。この女の子は自分を

犠牲にして、お前たちを守ろうとしている」

 ヘイムダルは勝ち誇ったように言った。

 「最低限の犠牲で、自分が信じる未来を守

ろうとしているのだ。虹ヶ崎市民を犠牲にし

て、未来の多くの人々を守ろうとしている俺

の考え方とどこが違うと言うのだ!」

 「……」

 アスラは黙ったまま、ゆっくりと起き上が

った。次いで忠夫も立ち上がる。

 「いいか、アスラ。大きな目的の為には、

多少の犠牲はやむを得ないのだ。お前なんか

よりも、20世紀の女の子の方がよく分かって

いるようだな!」

 「違います!」

 アスラが遮るように叫ぶ。そして唯を優し

く後方へと下がらせた。

 「唯さん、ありがとう。もう大丈夫ですか

ら、私たちも一緒に戦います」

 アスラは唯にそう言うと、ヘイムダルの前

へと進み出た。

 「唯さんを犠牲にするつもりなんか、あり

ません。私たちは全員で、あなたと戦ってい

るのです。全員が生き残るために…!」

 「フン…、そんな虫のいい話があるか」

 「誰かの犠牲の上に成り立つ平和に生きる

人々は、心に罪の十字架を背負って生きてい

かねばなりません。誰も犠牲にせずに平和を

勝ち取ってこそ、幸せな未来なのです」

 「その言葉に騙されて、何人の人間が犠牲

になったと思っているんだ。そんな嘘には、

二度と騙されないッ!」

 ヘイムダルが満面に怒りをたたえて、銃口

をアスラへ向けた。キラリと切っ先が光る。

 「さらばだ、アスラッ!」

 暗い部屋の中を真紅のルビーに似た光が走

る。それは、今まさに撃とうとしていたヘイ

ムダルの手を撃ち抜いた。ガランと音をたて

て、パラライザーが床に転がる。

 「そこまでにしておきなさい…!」

 そう言ってブラスターを手に現れたのは、

フレイヤであった。

 銀色のブラスターを手にしたフレイヤは、

入口からゆっくりと入ってくる。

 「さすがに自分が撃とうとする時に、バリ

アーを張る人はいないものね…」

 かってヘイムダルのバリアーに防がれた事

を教訓にし、二度も同じミスを繰り返さない

フレイヤならではの言葉だ。

 「や、やはりお前も生きていたか…」

 ヘイムダルは撃ち抜かれた手から流れる血

を押さえながら、呻いた。

 病院爆発で死んだと思っていたアスラが生

きていたからには、当然予想できたことであ

る。

 「残念だけど、私はアスラみたいに甘くは

ないわ。必要とあれば、あなたの頭をブチ抜

くことだって躊躇わないわよ」

 ブラスターを構えながら、フレイヤは冷や

かな口調で言った。

 「フレイヤ…」

 アスラが静かに声をかける。

 「危機一髪だったわね。ちょっと基地の方

に寄っていたものだから…」

 「いえ、助けてくれてありがとう…」

 「お互いさまよ。あの爆発の時、あなたが

バリアーを張ってくれなければ、私は助から

なかったのだから…」

 そう言って、フレイヤは微笑する。

 「アスラ…。お前がフレイヤを助けたと言

うのか?」

 ヘイムダルが驚いたように聞く。それに対

して、アスラはコクンとうなずいた。

 「へっ…、やはりお前は裏切り者だったと

いう訳か。道理で、この未来を救うための計

画に力を貸さないはずだ…」

 ヘイムダルは、ペッと唾を吐き捨てた。

 しかし、その目は密かにトールハンマーへ

と注がれている。すでにエネルギー充填のイ

ンジケーターは90%を超えていた。満タンに

なれば、いつでもトールハンマーを作動させ

ることが可能となる。ヘイムダルは悟られな

いように、その時を待っていた。

 「私は裏切っていません!」

 「ハハハハ。今更、誰がそんな言葉を信じ

るものか!」

 アスラの言葉を嘲弄するヘイムダル。しか

し、その笑いを遮る者がいた。

 「よく言うわよ。この詐欺師が…!」

 フレイヤであった。冷やかな眼差しは、氷

点下の厳しさを漂わせていた。

 「だ、誰が詐欺師だ!」

 「何度でも言ってあげるわ。何が未来を救

うためよ。あなたの目的は、ただの復讐に過

ぎないじゃない」

 「…!」

 ヘイムダルがハッとしたように黙った。

 「復讐?」

 「そ、そりゃ、どういうことなんだ?」

 アスラと忠夫がビックリしたように、フレ

イヤに聞く。フレイヤはヘイムダルを見下す

ようにして、その問いに答えた。

 「ヘイムダルはね。自分の両親が逮捕され

たことを逆恨みして、このトールハンマーを

盗み出したのよ。自分が両親の罪を密告した

くせにね…」

 「両親が逮捕? それはどんな理由で?」

 アスラが聞く。

 「彼の両親はトールハンマーを破壊しよう

としたのよ。人間の尊厳を脅かす悪魔の機械

だと言ってね…」

 「トールハンマーを破壊…?」

 「確かに人間のあらゆる感情を破壊してし

まうトールハンマーは、人道的にも許されな

い兵器かもしれない。でも、それを使わなけ

れば、キルケウイルスに侵された人間の暴走

を止めることは出来はしない」

 「それは違います!」

 アスラが遮った。

 「人間の心を破壊するなんて、決して許さ

れるものではありません。トールハンマーは

作ってはならない物だったのです」

 「そうかもしれないわね。でも…」

 フレイヤは自嘲めいた微笑を浮かべた。

 アスラの言葉は、かって彼女がシグルドと

話した内容に似ていたからである。

 「アスラ、この世にはなければならない悪

も存在するのよ。それを使いこなすのが、人

間に課せられた責任なのよ」

 フレイヤは言った。

 その言葉はフレイヤ自身に向けられたもの

でもあった。

 それが自分なりに出した結論だったのであ

る。科学者として様々な発明や研究を行って

きた彼女にとって、それが意図に反した目的

に使用されるリスクは仕方ないものである。

 誤った使い方を恐れて何も生み出さないこ

とは、人の明日を奪うことになる。

 考えた挙げ句、フレイヤはそう自分に言い

聞かせたのだった。

 「この世に生み出されるモノには、何かし

ら理由があるものなのよ…」

 フレイヤはさらに言葉を続けた。

 「……」

 アスラは答えなかった。フレイヤが言って

いるのがトールハンマーのことではなく、キ

ルケウイルスのことを暗に示しているのだと

気づいたからであった。

 だが、それを認める訳にはいかなかった。

 未来永劫の平和を存続させるために、人間

の自由意思を奪うことが正しいとは思えなか

ったのだ。帝国の考える平和は偽りの平和で

あり、真の平和ではない。悩みや苦しみを消

しても、幸福は訪れない。

 それが、アスラの信念であった。

 「クックック…」

 不意にヘイムダルが笑いはじめる。

 「何がおかしいの?」

 「笑わせるぜ…。トールハンマーを使いこ

なすのが人間の使命だと…」

 ヘイムダルの顔から笑みが消え、憎悪に満

ちた眼差しをフレイヤへ向けた。

 「俺は確かに親父やお袋の企みを帝国に密

告したさ。だが、それは二人の命を助けるた

めだった!」

 「どういうことなんです?」

 アスラが聞いた。

 「トールハンマーを破壊してしまえば、そ

れは理由がどうあれ死刑になってしまう。だ

けど、その前なら逮捕だけで済む。俺はそう

言われて、両親の罪をバラしたんだ」

 「帝国の人間に?」

 「そうさ。両親の命を助ける代わりに、息

子の俺に計画を明かすように言ったんだ」

 「それで…、言ったのですね」

 「ああ…」

 当時のことを思い出したのか、ヘイムダル

は悔しそうに唇を噛む。口の端から、細く血

が顎へと滴った。

 「しかし、俺は間違っていた…」

 苦渋に満ちたつぶやきが漏れる。

 それは自分の両親を売ったことに対する良

心の呵責によるものなのだろうか…?

 ヘイムダルの心を読み取れず、アスラとフ

レイヤは顔を見合わせた。

 「両親を助けるためだったのだから、密告

も仕方ないことよ。トールハンマーを破壊し

ていれば極刑は免れないわ」

 フレイヤが徐に話しかけた。

 「その言葉に、俺は騙されたのさ…」

 うつむいたまま、ヘイムダルは答える。

 「騙された?」

 アスラが聞いた。

 「ああ…」

 「だが、お前の密告で逮捕はされたけれど

も、処刑はされなかったはずよ」

 フレイヤが言う。だが、その言葉を聞いた

途端にヘイムダルがバッと顔を上げた。

 「ふざけるなッ!」

 その目は充血し、潤んでいた。あたかも、

血の涙を流しているように見える。

 「あれが処刑しなかったことになるかッ」

 「何を言っているの?フェンリル将軍に問

い合わせてみたけど、お前の両親はヨーツン

ハイムの政治犯収容施設にいるじゃない」

 「ああ…、確かに生きているさ。ただし、

肉体だけがなッ!」

 ヘイムダルの血を吐くような叫びが、そこ

にいた全員の心を戦慄となって吹き抜けた。

 「ど、どういうこと…?」

 アスラは恐る恐る尋ねた。だが、心の奥で

は恐ろしい予測が確信となっていた。

 「俺の両親は…、トールハンマーで心理破

壊処理にかけられたんだッ!」

   それは悲痛すぎるほどの叫びだった…!

 グワッシャアァァァン!

 同時に凄まじい雷鳴が轟き、世界は一瞬白

に包まれた。窓外にきらめいた稲妻が、そこ

にいた全員を白い彫像のシルエットのように

焼き付けていく。足元のコンクリートの床が

ビリビリと震えるのが分かった。かなり近く

に落ちたらしい。

   ゴロゴロゴロゴロゴロ…!

 落雷の後、遠ざかるような余韻を残して雷

鳴が響く…。それは悪魔の叩くドラムのよう

に低く、心を不安にさせる。やがて、

   ザァァァァ…!

 激しく叩きつけるような雨が降り始めた。

 まるで滝を浴びているかのような激しい雨

であった。道路のアスファルトに跳ねる雨し

ぶきが靄となり、やがて一面の霧のようにな

って街を覆い隠していく。灰色の雨のベール

に霞む街並みは泣いているようにも見える。

 夏の終わりを告げる雷雨だった。

 しかし、それはヘイムダルの心を吹き荒れ

る嵐を物語っているようであった。

 「ま、まさか…」

 凍りついた空気の中で、最初に口を開いた

のはフレイヤだった。

 「信じられないわ。フェンリル将軍は収容

所で生きていると言ってたわ!」

 「フェンリルは『生きてる』と言ったんだ

ろ。それは生物学的に『生きている』と言っ

ただけのことさ」

 「……」

 「単に心臓が動いているだけの人間。まだ

治癒の見込みがある植物人間の方がマシだと

思えるよ。トールハンマーで破壊された心は

決して元には戻らないのだからなッ!」

 ヘイムダルの叫びにフレイヤの顔が蒼白と

化す。フェンリル将軍に真実を教えられなか

ったこともあるが、それ以上に帝国の処断に

戦慄を禁じえなかったからだった。

 「どうして…?」

 つぶやいたのは唯だった。

 「どうして、そんな事に?」

 「収容所に拘束しても、優れた頭脳を持っ

た科学者を信用できなかったのさ。下手に脱

獄されて、レジスタンスになるのを恐れたん

だよ…」

 ヘイムダルが幽鬼のようにユラリと立ち上

がる。そして、忠夫たちを睨みつけた。

 「お前ら、20世紀の人間どもがキルケウイ

ルスなんてモノを生み出したからだ。そのた

めに未来は、地獄になったんだッ!」

 再び、窓の外に雷鳴が轟いた。雨は一層激

しさを増し、虹ヶ崎の街を叩きつける。

   ザザアァァァ…!

 大河の激流を思わせるような雨音だけが鼓

膜を震わせる。無限に続くが如き豪雨と雷鳴

の中で、不気味な沈黙の刻が流れた…。

 シクシクシク…。

 静かな嗚咽が、雨音に混じって聞こえる。

 唯が泣いているのだった。彼女が悪い訳で

はないのだが、この重苦しい空気に耐えきれ

なくなったのであろう。あるいは、優しい唯

の心にヘイムダルの恫喝は、余りにも無慈悲

な一撃であったのかもしれない。

 「泣いたって、無駄だ。お前たちは自らの

過ちに責任を取らねばならないッ!」

 そう叫ぶや、ヘイムダルの手が素早く動い

た。

 「ああっ!」

 バシッと音がして、一瞬の内にフレイヤの

手からブラスターがもぎ取られていた。

 伝えられた意外な真実に茫然自失していた

フレイヤの隙をついての、早業であった。

 「形勢逆転だな…」

 ブラスターの銃口を向けながら、ヘイムダ

ルはニヤリと笑った。今度はパラライザーと

は違って、一撃で強力な殺傷能力を持つ武器

を手にしたのだった。

 「おとなしく見ているがいい。神の鉄槌が

お前たちに裁きを下す様をな…!」

 不気味に光を放つブラスターの銃口をちら

つかせながら、ヘイムダルはジリジリとトー

ルハンマーへと近づいていく。

 「キルケウイルスを生み出す可能性のある

危険な人間は、全て抹消してやる。それで、

幸せな未来が約束されるのだ!」

 すでにトールハンマーのエネルギーインジ

ケーターは真っ赤に染まっている。すでに満

タンになった証拠であった。

 「十分な効果を得るには、120%のフル

チャージにする必要がある。もう少し、待っ

ていてもらおうか…」

 ヘイムダルは歪んだ笑いをこびりつかせた

まま、アスラや忠夫たちに言う。

 「く、くそ…」

 忠夫が一歩を踏み出そうとする。

 「動くなッ!」

 忠夫の足元にブラスターの熱線が突き刺さ

った。コンクリートが瞬時に融解し、白い煙

がユラリと立ちのぼった。

 「待っていろと言っただろう…」

 ブラスターの銃口をちらつかせながら、ヘ

イムダルが笑う。忠夫は悔しそうに、その拳

を握りしめるのだった。

 「あなたには失望しました…」

 不意にアスラが言った。

 「何だと…?」

 ヘイムダルが険しい目つきになる。だが、

アスラは構わずヘイムダルへ向かって歩き出

した。

 「最初は、あなたも未来の運命を憂える人

物なのだと思っていました。未来を救う為に

あえて虐殺者の汚名を甘受しようとする決意

を秘めた人間だと思っていました…」

 アスラはゆっくりと足を進める。

 「動くなと言っただろうッ」

 ブラスターが吠えた。灼熱の光がアスラの

頬を掠めるように走る。

 ツウ…とアスラの頬に朱色の線が浮かび、

そこから細く血が流れた。

 それでもアスラはヘイムダルを見つめたま

ま、その歩みを止めようとはしなかった。

 「でも、それは違っていました…」

 静かな口調の中に、絶対零度の炎を思わせ

るような響きが感じられる。

 「ど、どう違うと言うんだ…?」

 その迫力に押されるように、ヘイムダルが

うろたえたように聞く。

 「目的の為には手段を選ばない…」

 アスラが一歩前へと進む。

 「多くの罪もない人々を犠牲にする…」

 またも一歩、足を進めた。

 「そして平和の為だと偽り、自分の行為を

正当化しようとする…」

 厳しい眼差しがヘイムダルを捉える。

 「しかし、その心の中には深い闇しか存在

していない…」

 ヘイムダルはジリッと後ろへ下がった。

 「それでも、自らの闇を決して認めようと

はしない…」

 アスラの歩みが停まる。そして、ゆっくり

と人指し指を前方へと向けた。

 「貴方はミレニアム帝国そのものです!」

 アスラが叫ぶ!

   グワッシャアァァ…ンン!

 激しい雷鳴が鳴り響いた。

   ゴロゴロゴロゴロ…!

 雷鳴の余韻が、アスラの処断する叫びに呼

応するかのようにその場にいる人々の心臓を

ビリビリと震わせていった…。

 「な、何を言うのだ…?」

 ヘイムダルの声も心なしか震えている。

 「あなたの両親は将来の危険性を理由に、

ミレニアムに心を破壊された。今、あなたは

同じ事を虹ヶ崎の人々にしようとしている」

 「……」

 「それが、未来を救う行為なのですか?」

 「……」

 「それが、両親の復讐なのですか?」

 アスラは言葉を続ける。ヘイムダルが激し

く狼狽している様子は、誰の目にも明らかと

なりつつあった。

 「もう、両親の復讐を誓う息子でもありま

せん。今のあなたはミレニアム帝国の出来の

悪いコピーに過ぎないのです!」

 アスラの言葉こそが、ヘイムダルへと振り

下ろされた鉄槌であった。断罪の指が向けら

れ、彼のこめかみを冷たい汗が伝う…。

 「お、俺が、ミレニアムのコピーだと…」

 乾いた声だった。それには答えず、アスラ

は厳しい視線を送りつづける。

    ……沈黙が流れた。

 激しい雨音だけが聞こえる。

 しかし、忠夫にはヘイムダルの動揺する心

臓の鼓動が聞こえるような気がした。

 「う、うるさいッ!」

 その空気に耐えられなくなったのか、ヘイ

ムダルは絶叫した。その手がトールハンマー

の作動スイッチへと伸びる。

 「全ては未来が証明してくれる。俺の行為

が正しかったことをなッ!」

 その指がスイッチを押そうとした。

 「待ちなさいッ!」

 鋭い叫びに、指は寸前でピタリと停まる。

 ヘイムダルは強張った表情でアスラを振り

返った。

 「そのスイッチを押せば、あなたは数えき

れない絶望を生み出すのですよ」

 「何…?」

 「この街の人間の心を破壊すれば、それに

関わる親戚や友人など、多くの人達が悲しむ

ことでしょう。そして、暗い憎悪の炎を心の

中に燃やすことになります…」

 「そ、そんなことはない」

 「心を闇に覆われた人達は、やがて絶望を

生み、キルケウイルスを生み出します。あな

たは、無数の感染源をこの世界に生み出して

もいいのですか?」

 「バ、バカな…」

 ヘイムダルの指はスイッチの上で震えてい

る。唇は渇ききり、汗がジットリと額にこび

りついている。

 「お願いですから、もうやめて下さい」

 アスラは静かに言った。

 「アスラの言う通りよ。もう、やめて!」

 唯が叫んだ。

 「さあ、どうするの?」

 フレイヤが冷やかな視線を向ける。

 「お、俺は…」

 ヘイムダルの目は焦点を失ったように、目

の前にある機械の上を彷徨う。その作動の時

を待つかのように、低いドライブ音を響かせ

ながら、トールハンマーは鈍い銀色の光を放

っていた。点滅する操作パネルの輝きが、ヘ

イムダルを誘う悪魔の囁きに見えた。

 「俺は…」

 ヘイムダルが呻く。

 「俺は…、未来を救うんだあッ!」

 勢いよくヘイムダルの手が振り上がった。

 すぐに叩きつけるように、その腕が振り下

ろされる。その下にあるのはトールハンマー

の作動スイッチだ!

 「バカ野郎ッ!」

 スイッチが押される瞬間、忠夫が叫んだ。

 オーバースローの形で、彼の腕から凄いス

ピードで何かが投げられた。

 「ギャアッ!」

 それはスイッチを押そうとした手を砕き、

そのままの勢いでトールハンマーの操作パネ

ルへと突き刺さった!

 まさにスイッチが押される寸前。そのタイ

ムラグはコンマ数秒もなかっただろう。

 血まみれの手を抱えて倒れるヘイムダル。

 手を離れたブラスターが、床の上をカラカ

ラと転がっていった。

 「忠夫さんッ!」

 アスラが忠夫の方を向く。

 忠夫は腕を振り抜いたままの姿勢で、ハァ

ハァと息をついていた。

 「お前の好き勝手にさせるかよ…。俺たち

の未来は、俺たちの手で守ってやる!」

 手を押さえて苦鳴を上げるヘイムダルに向

かって、忠夫はつぶやくのだった。

 彼が投げたのは床に落ちていたコンクリー

トの塊であった。何処かの壁が崩れたもので

あろう。

 「ト、トールハンマーが…!」

 フレイヤの短い叫びが聞こえた。

 見れば、コンクリート塊のめり込んだ操作

パネルが激しく放電を始めていた。薄く煙を

噴きながら、青いプラズマのような光が四方

へと迸り出ている。機械全体が身を震わせつ

つ、低い唸りを発し始めていた。

 「ど、どうしたの?」

 唯がうろたえた声を出した。

 「ま、間に合わなかったのかッ?」

 忠夫も愕然とした様子で、放電を放つトー

ルハンマーの巨体を見守った。

 バリバリバリバリ…!

 怒り狂うドラゴンの吐き出す舌のように、

妖しい輝きを放つプラズマが部屋の中を嘗め

るようにして走った。

 積み上げられたデスクが放電に撃たれて、

火を放つ。事務用の椅子が、プラズマに触れ

た瞬間に木っ端微塵に吹っ飛んだ。

 「キャアアアッ!」

 唯が悲鳴を上げ、しゃがみこんでしまう。

 それを庇うように、忠夫が慌てて唯の身体

を抱き込んだ。彼の頭を掠めるように、プラ

ズマが走り抜けていく。

 「フレイヤ…」

 アスラはその光の乱舞の中に立ち、横にい

るフレイヤを見た。フレイヤもまた、無言で

アスラの視線にうなずく。二人には何が起こ

っているのかが判っているようだった。

 忠夫が投げたコンクリートの塊は、トール

ハンマーのメインコンピューターを破壊した

のである。その結果、動力部であるテスラド

ライブが暴走し、トールハンマーそのものを

破滅へと導こうとしているのだった。

 もはや、虹ヶ崎市の住民全ての心を破壊す

ることなど出来はしない…。

 ゴオオオオ…!

 部屋に発生した炎は次々に置かれていた事

務用品に燃え移り、激しい熱と煙を噴き上げ

ている。

 「フ、フフフフ…」

 その炎に照らされるようにして、ヘイムダ

ルがユラリと立ち上がった。

 「やってくれたな…」

 ヘイムダルは笑っていた。

 ヨロヨロとトールハンマーの傍へと近づい

ていく。その途端、機械上部に取り付けられ

ていたエネルギー循環パイプが外れ、白い蒸

気のようなものを噴き出した。

 「もう、トールハンマーは終わりだ…」

 そのつぶやきが示すように、エネルギーイ

ンジケーターは瞬く間にその輝きを失ってい

った。急速にエネルギーが消失していく。

 「アスラ…」

 激しく放電するトールハンマーに寄り添う

ように立つヘイムダルが呼びかける。

 「ヘイムダル…」

 アスラもまた沈痛な面持ちで応える。

 「フフフ…。お前はきっと後悔する」

 「……」

 「今、この時にトールハンマーを作動させ

なかったことをな…」

 「…後悔なんかしません」

 「いいや…。お前は未来を救うチャンスを

自分の手で葬り去ったのだ。今、誰かが行動

を起こさなければいけないんだ…」

 「……」

 「誰かが救わなければいけないんだ…」

 ヘイムダルは苦しそうな息を吐いた。放電

と炎の中で、その身は徐々に傷ついていく。

 「アスラ。お前は、未来を救えるのか?」

 ヘイムダルが問う。

 アスラは一瞬、答えなかった。

 「どうなんだッ?」

 「私が未来を救うのではありません。私と

忠夫さんと、唯さんと…。いえ、この時代に

生きる人々の手で救うのです」

 アスラは、そう答えた。

 「クックックック…」

 ヘイムダルが呆れたように笑いはじめる。

 「まったくの甘ちゃんだな…。お前がそう

信じるのなら、そうすればいい…」

 血に濡れた手がトールハンマーへと伸び、

側面に付いていたスイッチを押した。

 カチリ…と音がして、トールハンマーは激

しい唸りを上げはじめる。

 「結果はいずれ聞かせてもらうさ。お前が

正しかったのか、俺が正しかったのか。その

答えをな…」

 ヘイムダルは大きな声で笑いはじめる。

 その途端、崩れ落ちたデスクや椅子が炎を

噴き上げ、二人の間を遮断する。

 「ヘイムダル!」

 アスラの叫びに応えたのは、笑い声だけで

あった。だが、その笑いにはどことなく哀し

い響きが含まれているような気がした。

 ブウウウウウゥゥゥ!

 トールハンマーの狂ったような唸りが響き

だす。さらに青白いスパークが炎と黒煙の中

にきらめいた。

 「じ、自爆装置を作動させたんだわ!」

 フレイヤが叫んだ。

 「ヘイムダル!」

 アスラは叫んだ。だが、炎のカーテンの向

こうに消えたヘイムダルは笑い続けている。

 轟音と炎の中で、その笑い声だけが妙にハ

ッキリと聞こえていた。

 「アスラ…」

 唯がアスラの傍へ来て、その手を握った。

 「……」

 アスラは黙ったまま、炎の壁の向こうを見

つめていた。その横顔には、どことなく哀し

そうな雰囲気があった。

 「…行きましょう」

 「え、でも、あの人は…?」

 アスラの言葉に、唯が炎の向こうを見なが

ら言う。ヘイムダルを助けないのかという疑

問が、その顔に現れていた。

 「逃げて下さい!」

 そう言いながら、アスラは唯の手を引っ張

るようにして駆けだす。慌てて、忠夫も駆け

だした。フレイヤが続く。

 4人は必死に走り、階段を駆け降りる。

 「急いでッ!」

 「そんなこと、言ったって…!」

 忠夫がハァハァ言いながら、走る。

 「もっと、早くッ!」

 雑然と物が散らばる階段や廊下に、何度も

転びそうになりながらも、4人は建物の外へ

と向かって走った。

 「早く、シグルドを運び出しなさい!」

 途中、一階部分で待機していた工作員たち

にフレイヤが指示を出す。ここに来た時に、

倒れていたシグルドを工作員に命じて確保さ

せていたらしかった。

 「早くしなさいッ!」

 フレイヤの指示に、工作員たちも急いでシ

グルドを抱え上げると、走りだす。

 まるで団子のような状態で、一同は建物の

外へと走り出た。

 「唯、急げッ!」

 「もっと走ってッ!」

 「ダメッ、間に合わない。伏せてッ!」

 アスラの声に、みんなが一斉に雨に濡れた

地面へと転がるように伏せる。

   その瞬間…!

 ドッグワァァァァンン!

 凄まじい大音響と共に、さっきまでいた階

が紅蓮の炎に包まれた。

 「キャアアッ!」

 「ウワアアッ!」

 大地が震え、衝撃波が襲いかかり、炎とコ

ンクリートの破片が降り注ぐ。忠夫たちが必

死の叫びを上げた。

 炎を吐き出す窓から、同時に不気味なプラ

ズマ放電が走り、やがて消えていく…。

 何度も誘爆のような小爆発を繰り返しなが

ら、その度に閃光と轟音が炸裂した。

 ゴゴゴゴゴゴ…。

 やがて爆発は途絶え、代わりに燃える炎の

鈍い響きだけが敷地内を支配した。

 「み、みんな、大丈夫ですか…?」

 煤まみれになった顔を上げて、アスラが周

りを見渡す。

 「だ、大丈夫じゃねぇよ…」

 ムクリと起き上がりながら、忠夫が言う。

 地面に伏せた部分はグッショリと濡れ、逆

に背中にあたる部分には焼け焦げがあった。

 「また、お袋に怒られちまう…」

 忠夫が情けなさそうな顔をする。

 「怪我がなくて、良かったわよ」

 唯も起き上がり、服の煤を払いながら言った。

 「お前…。こんな時でも、笑っていられる

んだな…」

 「もう、笑ってないわよ!」

 唯がプンとムクれた。

 その向こうでは、フレイヤたちも起き上が

っていた。工作員たちも無事のようだ。

 「ねぇ、アスラ…」

 不意に唯が言う。

 「ヘイムダルはどうなっちゃったの?」

 「……」

 アスラは黙って、建物を見上げた。窓は今

なお炎を噴き出していた。

 もうトールハンマーも、ヘイムダルも…。

 未来から訪れた全ての証拠は、炎の中に消

えてしまったことだろう。何事もなかったか

のように…。

 「可哀相…」

 唯がまた涙ぐむ。

 「……」

 アスラは何も言わない。

 例え、ヘイムダルがトールハンマーを作動

させたとしても、彼は同じように死を選んだ

であろう。アスラはヘイムダルを断罪しなが

らも、それだけは判っていた。

 「未来から来た者の宿命…」

 誰の耳にも届かないようなつぶやきを、ア

スラは漏らした。まるで、全てが夢であった

かのように消えていったヘイムダルの姿に、

己の未来を重ねたのかもしれない…。

 パッパァー!

 車のクラクションが響き、緑色のクラシッ

クな車が敷地内に入ってきた。

 「フレイヤ隊長、よくご無事で!」

 運転席からロキが顔を出した。煤と泥で汚

れたフレイヤたちと違って、雨にも濡れた様

子がない。恐らくはギリギリまで基地に隠れ

ていたのであろう。

 「遅かったわね、ロキ」

 フレイヤがため息まじりに言う。

 「いやぁ、道路が混んでまして…」

 悪びれた様子もなく言うロキに、フレイヤ

は苦笑するしかなかった。

 「早く、シグルドを車に運びなさい」

 「はっ、わかりました」

 ロキは工作員に命じて、グッタリしている

シグルドを車へと運び入れる。

 「あの姉ちゃん、大丈夫なのか?」

 それを見ながら、忠夫が聞いた。

 「パラライザーで撃たれて、身体に麻酔を

かけられたようなものよ。安心しなさい」

 フレイヤが微笑する。敵の心配をする忠夫

を可愛く思ったのだった。

 「何も覚えてないのかな?」

 「たぶんね。ヘイムダルの本当の目的も理

由も知らないはずだわ」

 「教えるの?」

 忠夫の問いにフレイヤは一瞬迷った後、静

かに首を横に振った。

 この判断が後に二人の運命を大きく分ける

ことになるとは、誰も予想にしていない。

 「隊長!」

 そこへロキが寄ってきて、コソコソとフレ

イヤに耳打ちをした。

 「?」

 忠夫たちが怪訝な表情で見守る。

 「…わかりました。車へ戻りなさい」

 ロキが敬礼して、車へと戻っていく。

 それを見て、フレイヤはアスラを向いた。

 「どうかしたんですか?」

 アスラは、複雑な表情のフレイヤを見て尋

ねた。

 「ヘイムダルの両親が死んだそうよ」

 「…!」

 「原因不明の衰弱死だったそうよ…」

 「そうですか…」

 「心が死んでしまった時、肉体も死を迎え

ずにはいられないのかもしれないわね…」

 フレイヤは静かに言った。

 かってトールハンマーが兵器として使用さ

れた時の記録は抹消されていたと言う。その

消された過去の中で、何が起きていたのかを

フレイヤは確信したような気分だった。

 「でも、それで良かったのかもしれないわね…」

 フレイヤは次第に小さくなっていく建物の

炎を見ながら言った。

 アスラは黙ったままであった。

 「あなたたちも、車に乗っていく?」

 フレイヤが空気を切り換えるように言う。

 「いいよ。俺たちは歩いていくから」

 忠夫が答えた。

 「そう…。じゃあ、次に会う時はまた敵同

士になるわね」

 「アスラがいる限り、負けないさ」

 忠夫は、力強く言った。

 フレイヤはその姿に、クスリと笑った。

 そしてクルリと身を返すと、車の方へと歩

き去っていった。

 二度と振り返ることなく…。

 

 フレイヤたちの車が走り去り、遠くから消

防車のサイレンが聞こえはじめる。

 3人は建物を後にして、雨の中を家へと向

かって歩いていた。いつしか、雨は小降りと

なり、止みそうな気配になっている。

 雷はすでに遠ざかり、もうその雷鳴もほと

んど聞こえなくなっていた。

 「なぁ、アスラ…」

 歩きながら、忠夫が言った。

 「何でしょうか?」

 「これで、本当によかったのかな?」

 「…?」

 アスラが不思議そうに振り返る。

 「あいつがトールハンマーを作動させてい

れば、アスラたちの未来は救われたのかもし

れないよな…」

 忠夫は立ち止まり、ジッとアスラを見た。

 「……」

 アスラは黙って、見つめ返す。

 「……」

 忠夫もそのままアスラの言葉を待った。

 「私たちの未来は、私たちの手で救ってみ

せます。そう言ったのは、忠夫さんですよ」

 「……」

 「きっとキルケウイルスの感染源を見つけ

出してみせます!」

 アスラがウンとうなずきながら言う。

 「そうだよな…。まだ戦いは終わってない

んだもんな」

 忠夫の顔がゆっくりと笑顔に変わる。

 アスラも優しい目で忠夫を見つめた。

 二人の間に穏やかで暖かな空気が流れる。

 「アス…」

 忠夫が言いかけた時、

 「そうよ。がんばらなくっちゃ!」

 唯が忠夫の背をバンと叩きながら言った。

 「……」

 またもタイミングを外された忠夫は、ムッ

とした顔を唯に向けた。

 「お兄ちゃん、私がついてるわよ」

 「その笑った顔で言われても、なんか説得

力がないんだよなぁ…」

 「笑ってないわよ」

 「いや、笑ってるよ」

 「笑ってないッ!」

 唯が大声を出した。

 やがて、二人は大笑いを始める。

 アスラもややはにかんだような顔を浮かべ

ていた。

 明るい笑い声に誘われるかのように、いつ

しか空は晴れ渡った青空へと変わっていた。

 夏の終わりを告げる嵐は遠ざかり、柔らか

な秋の気配を包んだ風が、さわやかに街の中

を吹き抜けていく。

 澄み渡った青空を小鳥が鳴き交わすように

通りすぎていく。穏やかな一時だった。

 太陽が雲間から顔を出す。

 その日差しを受けながら、虹ヶ崎市はいつ

もとかわらぬ姿を見せていたのだった。