プロジェクト・エデン特別篇

 

   幸福が棲む谷

 

   第二回 あり得ない報せ

 

 夜明けを迎えた街に、少しづつ音が戻って

くる。夜の静寂から、騒がしい日常に…。

 家々の窓の向こうでは、そろそろお母さん

たちは起きはじめている頃だろう。学校へ行

く子供たちのために、会社へ出掛けるお父さ

んのために、眠い目をこすりながら朝食の支

度をし始めているに違いない。

 まだ人通りも少ない通りを、軽快なバイク

が走っていく。新聞配達のバイクだった。

 時刻は、午前5時30分を回ったところだ。

 新聞配達が行われるのは早い所で4時半ぐ

らいから、6時前まで…。人々が起ききるま

でに済ませなければならない。効率の良い配

達を計算した所定のルートを、いつものよう

に配達人が回っていく。

 今日も虹ヶ崎の街は、いつも通りの朝を迎

えていた…。

 

 虹ヶ崎市。

 東京近郊に位置する人口80万人ほどの一大

ベッドタウンである。横断する私鉄沿線を中

心に放射状に道路やバス網が整備され、空間

を埋めるように分譲宅地やマンションが造ら

れている。そして、人々の生活を支える大き

なショッピングセンタ−やディスカウントの

量販店が次々に誕生しているのだった。

 だが、そのニュータウンとしての表情だけ

が虹ヶ崎市の特徴ではない。

 昭和の時代を思わせる住宅街や、懐かしさ

を漂わせる商店街。そこかしこに残された鮮

やかな緑と、豊かな水を湛える川辺…。

 古き良き時代の香りを残しつつ、新しい時

代が運んでくる風を受け入れ、微妙な調和を

かもし出しているのが、虹ヶ崎の街なのだ。

 人は街を愛し、街を人を愛する。

 その都市と人間の最も良い関係を成り立さ

せているのが『虹ヶ崎市』という街なのだ。

 だからこそ、守り抜かねばならない。

 この街を覆いつつある悪夢から…。

 虹ヶ崎市に人知れず、その暗い魔手を広げ

つつある謎の病原体…。キルケウイルス。

 絶望した人間の心を支配し、無気力化し、

その鬱積した感情を暴走させる悪魔…。

 世紀末。この街を中心にて広まっていった

キルケウイルスは全世界を席巻し、ついには

人類滅亡戦争の引き金となるらしい。

 そして、荒廃と死に満ちた地獄の時代を経

て、「永遠の平和と幸福」と引き換えに「自

我と自由」を失った人間たちの新世紀が始め

るのである。

 幸福を標榜する神聖なる人類の帝国…。

 その名を「ミレニアム帝国」と言う。

 あらゆる自由な思考を放棄する代わりに、

人は「悩み苦しむ」ことがなくなったと言わ

れる。それこそが「幸福」であると宣言する

人たちを、絶対批判できる人間は決して多く

はないはずだ。

 それを「正しい」と判断できるかどうかは

遙か未来の歴史家のみなのかもしれない。

 だが、現実の世界に生きる人々にとって、

後世の歴史家の批評などは問題ではない。

 『いかに今を生きるか?』

 それだけが、目の前にある課題なのだ。

 課題を乗り越えるために、いかに全力を尽

くしたかが問われるのである。その過程こそ

が「人間が生きるということ」なのかもしれ

ない…。だからこそ、人は一生懸命に日々を

生きていくのである。

 キルケウイルスの発生を食い止め、人間の

自由を守り抜く戦いを決意した少女がいる。

 未来からたった一人で戦いに来た少女…。

 その名を「アスラ」と言う。

 剽悍な表情の奥に哀しみと優しさを隠し、

命を駆けて戦う若き戦士である。

 そして…。

 彼女と共に戦うことを決めた兄妹がいる。

 兄妹の名は、「中山忠夫」と「唯」。

 平和な時代の、ごくありふれた子供だ。

 彼ら3人は、虹ヶ崎市を襲うキルケウイル

スの恐怖に敢然と立ち向かい、数々の事件を

解決してきた…。

 だが、キルケウイルスの感染源を消滅させ

るという目的は、いまだ達していない。

 そして今…。

 彼ら3人は、これまで予想にもしなかった

戦慄の朝を迎えようとしていた…。

 

 中山家の朝は慌ただしい。

 その騒々しさと言ったら、戦争という表現

すらもおこがましいほどである。

 「お兄ちゃん、パン焦げてる!」

 目玉焼きを焼きながら、唯がオーブントー

スターの中に気づいて叫ぶ。

 「おおっ、いけねえっ!」

 コップに牛乳を注いでいた忠夫が、慌てて

オーブンに駆け寄る。その拍子にコップを倒

してしまい、白い海がフローリングの床に広

がっていくのだった。

 「何やってんのよ!」

 目をつりあげた唯だったが、その瞬間に手

元が狂ってしまう。

 「ああん!」

 目玉焼きだったはずのそれは、スクランブ

ルエッグにメニューを変更を余儀なくされる

こととなった。

 「全く、少しは落ちついたらどうだ?」

 堂々とした声を出したのは父親である。

 「親父は落ちつきすぎなんだよ!」

 「少しはお父さんも動きなさいよ!」

 間髪いれず、忠夫と唯のステレオ反撃が浴

びせられた。それもそのはず、当の父親はダ

イニングテーブルにドッカリと腰を下ろし、

悠々と新聞を広げているのだった。

 「店から帰ってきたばかりなんだぞ。少し

はゆっくりさせろよ」

 「ゆっくりするのは、俺たちが学校に行っ

てからにしろよ!」

 「そうよ!」

 「そうはいかないよ。この後は掃除と洗濯

をしておくように、母さんにキツく言われて

るんだ」

 父親は反論する。

 「ああ、そうかい。ついでに朝食も作れ、

って言われたはずだろ!」

 「いつも、そうやって怠けるんだから!」

 一言反論すれば、2倍になった反撃が返っ

てくる。父親は諦めて、沈黙した。

 母親の方は、今は店の方に出ている。

 24時間スーパーを営むだけに、両親が揃っ

ていることは滅多にない。常にどちらかが店

に出ているので、一家揃っての団欒を味わう

ことは奇跡に等しい。

 この朝の混乱ぶりを見れば、「団欒」とい

う言葉がいかに縁遠いかが判るだろう。

 ドタバタとやっている内に、黒焦げパンと

スクランブルエッグ、牛乳の代わりにウーロ

ン茶となった朝食が開始された。とは言え、

壁にかかった時計の針を見つめながらの早食

い競争である。

 食う、食う、食う!

 飲む、飲む、飲む!

 「TVチャンピオン」さながらのバトルが

ダイニングキッチンに繰り広げられる。

 そのバトルを盛り上げるかのように、時計

の針が容赦なく時を刻み続ける。

 遅刻へのカウントダウンであった…!

 常識からすれば、「もっと早く起きればい

いのに…」ということになるのだろうが、朝

のまどろみに費やされる5分〜10分はとても

魅力的な至福の時間なのである。

 そんな時、

 「あれ?」

 黒焦げパンをウーロン茶で胃袋に流し込ん

でいた忠夫が素っ頓狂な声を上げた。その目

は父親が手にしている新聞へと注がれている

ようだ。ちょうど折り返すようにして読んで

いるので、事件報道の社会面が忠夫の方へと

向けられていたのだった。

 「どうし…?」

 どうした、と父親が問い掛ける間もなく、

忠夫が新聞を奪い取る。プロのスリ顔負けの

早業であった。

 「おい、忠夫!」

 父親の抗議も聞こえてないのか、忠夫は食

い入るようにして、新聞の紙面に見入ってい

る。表情が強張ってた。

 「どうしたの、お兄ちゃん?」

 不思議そうに唯が新聞を覗き込む。

 「どうせ、アイドルが結婚したとか言う記

事でも出てたんだろ」

 そう笑う父親だったが、覗き込んだ唯の表

情も一瞬にして、凍りついたものに変わる。

 「そんな…」

 そう言うのが、精一杯だった。

 忠夫の喉がゴクリとなる。口の中に溜めて

いたパンとウーロン茶の混合物を一気に飲み

下したのだった。

 「こんなこと、あり得ない…」

 忠夫も、そうとしか言えなかった。

  ×      ×      ×

 『遭難者の首筋に、謎の3つのホクロ』

  ×      ×      ×

 大きな見出しで、そう書かれている。

 さらに忠夫と唯は記事を読み進めた。

  ×      ×      ×

 『山梨県の妙神山麓で遭難していた大学生

のパーティは、全員が無事に救出された。し

かし、8人全員が意識を混濁させており、完

全な無気力状態になっている。遭難事故にお

ける強いショックが原因とも考えられるが、

首筋に共通した3つのホクロが確認されてい

る。それは計ったような正三角形に並んでお

り、大きさも尋常ではない。このような症状

が8人全員にあるだけでも異常であり、これ

が何らかの原因となっているのではないかと

病院関係者による、治療と分析が進められて

いる。なお、遭難場所となった妙神山は…』

  ×      ×      ×

 「お兄ちゃん…」

 そこまで読み進めた時、唯が言った。表情

が青ざめている。

 「うん…」

 忠夫はそうとしか言わない。そうとしか答

えられなかった。

 「……」

 二人の間に沈黙が落ちた。…その時、

 ビビイイィィィ・・!

 凄まじいブザー音が鳴り響き、忠夫と唯は

思わず飛び上がった。サイドボードに置かれ

た目覚し時計の音だった。遅刻ギリギリのタ

イムリミットに合わせてあるのだ。

 「いけねえっ!」

 忠夫が慌てて立ち上がる。唯も同じように

して、カバンをひったくるように掴む。

 ダダダダ・・・!

 けたたましく地響きを立てながら、忠夫が

玄関へと走っていく。

 「おい、忠夫。新聞…!」

 父親が呼び止める。忠夫の手には、朝刊が

握られたままだったのである。

 「悪い。これ、もらっていくから!」

 そう言い残して、忠夫の姿はドアの向こう

へと消えてしまった。

 「お…、おい…!」

 呆気にとられる父親の横を、今度は唯が猛

スピードで走り抜けていく。

 「ゴメン。朝ゴハン、片づけといてね!」

 「ええっ?」

 抗議の声をあげる間もなく、ガシャンと音

と共にスチール製のドアが閉まる。

 「……」

 後には、グチャグチャになったままのダイ

ニングキッチンにたたずむ哀れな父親の姿が

ポツンと取り残されていた…。

 

 団地の中の道を忠夫と唯が走っていく。

 虹ヶ崎団地は総数55棟を数えるマンモス団

地であり、白亜の建物が連なっている。

 その中をうねるようにして、忠夫たちは学

校への道を急いでいる。二人の表情が強張っ

ているのは、単に遅刻の危険性からではなか

った。新聞に書かれていた記事が、心に魚の

骨のように突き刺さっていたからだ。

 「お兄ちゃん、どういうこと?」

 息をきらせながら、唯が尋ねる。

 「俺に分かるわけないだろ!」

 忠夫がぶっきらぼうに答える。

 「もう、すぐに怒るんだから!」

 「怒ってないよ!」

 「ほら、怒ってるじゃない!」

 唯がプンとムクれる。しかし、本来が可愛

らしい顔だちの唯では、その仕種も毒を感じ

させない。逆にそれが忠夫の癇に触った。

 「お前こそ、よく笑ってられるよな!」

 お決まりのセリフが飛び出る。

 「笑ってないわよ!」

 「笑ってるって!」

 「笑ってないっっ!」

 「☆○△…!」

 「…!…!」

 「ハァハァ…」

 「フゥフゥ…」

 さすがに全力疾走しながらのバトルトーク

は体力を消耗してしまうらしい。次第に言葉

は少なくなり、息切れだけが残った。

 「…と、とにかく。学校が終わったら、こ

の新聞をアスラに見せてみよう」

 ゼェゼェ言いながら、忠夫が言う。

 「そ、そうね。そ、それがいいよ…」

 唯も喘ぎながら、そう返した。

 何も事情を把握できていない自分たちが、

あれこれと思いを巡らせても仕方ないと判断

したからである。それよりもアスラの意見を

聞いてみることが一番に違いなかった。

 できれば、間違いか何かであってほしい。

 唯も忠夫も、心の中に抱いているものは同

じだった。もし、不安が事実になれば…。

 それは、恐ろしい結果を生むからである。

 互いの不安を感じ取ったのか、ふと忠夫と

唯は視線を交わした。そして、思わずニコリ

を微笑みを交わすのだった…。

 (間違いだったら、いいね…)

 口に出さない、目と目での会話だった。

 そうこうしている間に、道の向こうに白い

校舎が見えてくる。二人が通う「虹ヶ崎市立

虹ヶ崎小学校」である。

 キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン!

 校門まで50メートルという所で、無情にも

チャイムが鳴り響いてしまう。

 「やばい、急げ!」

 「お兄ちゃんこそ、走れぇっ!」

 一気にスピードを上げる二人。

 校門へと駆け込む中、忠夫はもう一つの不

安が芽生えるのを感じていた。

 新聞を見たのは、俺たちだけじゃない…。

 きっと、あいつらも…!

 そんな考えが頭をよぎる。

 新たな戦いの幕が上がろうとしていること

を信じさせる確かな予感だった…。

 

 虹ヶ崎の駅近くにある私塾「青雲塾」にも

朝刊は届いている。世間の情報を入手するの

に、新聞とテレビほど便利なものはない。

 だが、中山家と同様に今朝の新聞は想像以

上の驚きをもたらすものであった…。

 妖しい光の揺らめくミレニアム秘密基地。

 青雲塾の地下に極秘理に建設されたミレニ

アム帝国の最前線拠点である。30世紀から持

ち込まれた最新技術を駆使した情報管理シス

テムと研究分析設備を有している。

 その中心部にあるコントロールセンター。

 エメラルドグリーンに染まるモニターパネ

ル類の前に、フレイヤは立ち尽くしていた。

 「これは…、どういうことなのっ?」

 そう叫び、手にしていた新聞を指揮デスク

に叩きつけた。バシッと大きな音が響く。

 「隊長、どうしたのです?」

 そばにいたシグルドが不審気に尋ねる。

 「どうしたも、こうしたも…」

 フレイヤは動揺の余り、言葉を続けられな

いでいる。黙って、デスク上の新聞を指さす

のが精一杯であった。

 「…?」

 シグルドが新聞を手にし、その紙面に目を

走らせた。と同時に、短く声にならない叫び

を上げてしまう。

 「こ、これは…?」

 シグルドの顔も蒼白になった。

  ×      ×      ×

 『遭難者の首筋に、謎の3つのホクロ』

  ×      ×      ×

 その文字が、目に飛び込んでくる。あたか

も、形をとらないハンマーとなって脳天を直

撃したかのようだった。

 「隊長。キルケウイルスは、虹ヶ崎市内か

ら発生したものではなかったのですか?」

 たまらずにシグルドが言う。

 はるか未来、30世紀のミレニアム帝国から

フレイヤやシグルドたちが派遣されている目

的はただ一つ。帝国の始祖たる、キルケウイ

ルスの感染源となる人物を保護することだっ

た。そして、その人物は虹ヶ崎市に住む子供

だと言われていた。

 「確かに30世紀に残された記録では、キル

ケウイルスは虹ヶ崎市の子供から発生したと

言われているわ…」

 「しかし、この新聞に書かれた記事では、

山梨県で感染者が出たと…」

 「まだ感染者と決まった訳ではないわ」

 「でも、3つのホクロが…!」

 シグルドの声は悲鳴に近かった。

 3つのホクロ…。

 それこそは、キルケウイルス感染を示す悪

魔の紋章である。その紋章が浮かび上がった

者こそ、絶望の淵に囚われた者であり、希望

に背を向けてしまった人間なのだった。

 フレイヤやアスラたちは、この3つのホク

ロを手掛かりに感染者を探しているのだ。

 「あなたの言うように、3つのホクロが出

たという事実は否定できない」

 「じゃあ、やっぱり…」

 「でも!」

 肯定しようとするシグルドの言葉を、フレ

イヤが一喝で断ち切った。驚いたように身を

すくませるシグルドに、フレイヤは徐に優し

く語りかける。

 「…でも、それがキルケウイルス感染と関

係しているかどうかを、この時点で判断する

ことは難しいわ。調べなければ…」

 そこまでで、フレイヤは言葉を切った。後

は思慮に沈むかのように、黙り込む。

 「虹ヶ崎市以外で感染者が出るなんて事が

あり得るんでしょうか?」

 「あり得ないはずよ。少なくとも、30世紀

における記録では…」

 「統帥府にあるマザーコンピューターの記

録が間違っているということは…?」

 「そんなはずはないわ!」

 「では、何故…?」

 「わからない…」

 フレイヤは短く答え、頭を抱えてしまう。

 シグルドもそれ以上はツッこむことも出来

ず、口を閉じる。

 これまで、フレイヤたちは感染源が虹ヶ崎

市にいるものと想定して、捜索活動を続けて

きた。当然、ミレニアム帝国の統帥府にある

マザーコンピューターに記録された史料を信

じきっての行動である。

 それを疑ったことなどなかった。

 だが、新聞に報じられている事件がキルケ

ウイルスによるものだった場合、全ては根底

から覆されてしまうのである。

 まさに、由々しき事態と言えるだろう。

 「…………」

 コントロールセンターを重苦しい沈黙が包

んでいく。ウィィンというコンピューターの

稼働音や、ピピッという微かな電子音が妙に

大きく聞こえた…。

 「とにかく…」

 フレイヤが口を開く。

 これ以上考えていても仕方ない、という判

断からであった。

 「この遭難者たちを調べるしかないわね」

 と、新聞を手にする。

 「一人一人を調べるんですか?」

 「相手は全員、病院に収容されてしまって

いるわ。探す手間ははぶけるけど、潜入する

のは難しいわね」

 「では…?」

 「いきなり病院から連れ出す訳にもいかな

いしね…。どうするか…」

 フレイヤはしばし考え込んだ。そして、ふ

と気づいたように口を開いた。

 「まずはこの記事を書いた記者に接触して

みるのが一番だと思うわ。どうやら発見現場

にも同行していたみたいだし」

 「記者ですか?」

 「ええと…。大東新聞の…、高沢記者。こ

の人物にまずコンタクトしてみましょう」

 「なるほど」

 シグルドも、それが建設的な意見であるこ

とを認めた。「案じるより、生むが易し」と

いう言葉もある。悩んでいる時は、とにかく

動いてみることが一番であった。

 「では早速、山梨に…」

 「ええ。でも、今の段階で基地を空けるこ

とは出来ないから、あなただけで調べてもら

えないかしら?」

 「了解しました」

 シグルドはピッと敬礼し、準備のために部

屋を出ていこうとする。

 「そう言えば、ロキはどうしたの?」

 不意にフレイヤが呼び止めた。

 「姿を見かけませんが…」

 振り返って、シグルドが答える。

 「この緊急事態に、何をやっているの?」

 「…そうです…ね。恐らく、駅前の屋台に

出掛けているのではないかと…」

 「また、たこ焼き?」

 フレイヤが眉間に皺を寄せる。

 何かと言うと、「たこ焼き、たこ焼き」で

ある。職務を放り出して、買いに行っている

のも一度や二度ではない。

 「ええ。毎朝、開店直後のモーニングサー

ビスは欠かさないようでして…」

 「モーニングサービス?」

 「午前10時まで、半額なんだそうです。今

では、ロキ大尉の日課みたいなものになって

います」

 「くだらないっっ!」

 思わず怒鳴り声になってしまう。シグルド

に怒鳴っても仕方ないのだが、抑えきれない

ものがあった。

 「すみません…」

 謝ってしまうシグルドもシグルドである。

 お人好しな性格が、モロに出ている。軍人

には向いていない娘であった。

 「まぁ、いいわ…」

 すっかり恐縮しているシグルドの様子に、

フレイヤは大人気なかったことに気づく。

 「報告は欠かさないようにしてね。何かあ

れば、すぐにそっちに向かうから」

 「了解しました」

 シグルドはニコリと微笑み、敬礼する。

 そして、足早にドアの向こうへと消えた。

 自動ドアがウィィンとスライドして、閉じ

る。シグルドの気配が遠ざかっていった。

 「…さて」

 フレイヤはコンピューターの所へ向かう。

 「まずはフェンリル将軍に、事の次第を報

告しなければならないわね」

 そう言いながら、コンソールを操作する。

 通信回線が接続される音が、カチカチと響

いた。モニターに月軌道と周期を示すデータ

が表示され、ブラックホールタイムの影響を

受けていないことが判る。後はシステムが自

動的に超時空通信回路を起動し、30世紀にい

るフェンリル将軍へとつないでくれる。

 現代でいうところの、インターネットとモ

デム回線のようなものである。

 自動接続作業を続けるコンピューターの様

子を見ながら、フレイヤの脳裏には一人の少

女の顔が浮かんでいた。浮かぶ顔は、いつも

フレイヤをにらみつけている。笑顔を見たの

は、いつの日だっただろうか…。

 「恐らく、あの子も動き出すはず…」

 それは、確信に満ちたつぶやきだった。

 

 午後の日差しを受けて、水面がキラキラと

輝いている。さわやかな風が川を渡り、よう

やく伸び始めたススキの穂を撫でていく。

 ゆったりと流れる川の上を、白いサギに似

た鳥が舞っていた。

 「遅いなぁ…」

 川面に石を放りながら、忠夫がつぶやく。

 目の前に何度目かの波紋が浮かび、そして

消えていった。

 「もうすぐ来るよ」

 そう言って、唯は川岸に立っている松の巨

木を見上げる。その枝に真っ赤なスカーフが

揺れていた。

 木の枝に結び付けられた真紅のスカーフ。

 それは、神出鬼没のアスラと中山兄妹とを

結ぶ連絡方法であった。事件が発生した時、

危険が迫った時、忠夫たちはアスラを呼ぶス

カーフを木に結ぶのである。

 だが、結び付けて2時間…。いまだにアス

ラは現れていなかった。

 「あいつは、いっつもこれだ!」

 忠夫はかなりイライラしているようだ。

 「未来を変える、とか言ってて、無責任す

ぎるんだよ!」

 「そんなことないわよ。きっと、アスラも

忙しいのよ」

 唯がたしなめる。

 「忙しい? こんな大問題が起きているの

に、他にすることでもあるのか?」

 忠夫が皮肉っぽく、問い返す。

 「それはわからないけど…」

 さすがに唯もムッとした感じである。

 唯は完全にアスラの味方である。忠夫がア

スラの悪口を言うと、真剣に怒りだすのが常

であった。

 「アスラにだって、事情があるのよ!」

 「そんな事言ってる場合か? きっとミレ

ニアムの連中だって、動いてるはずだぜ」

 「そ、それは…」

 「連中に先を越されてみろ。俺たちの未来

は終わってしまうんだぞ!」

 「アスラも分かってるわよ。も、もしかす

ると、ミレニアムに捕まったのかも…」

 唯が心配そうな顔をする。アスラ捕縛がミ

レニアムの重要任務の一つであることは、彼

女たちにも分かっている。

 「そ、そんなこと、あるもんか」

 忠夫が即座に否定する。ちょっと、声に動

揺が見えた。すぐに否定したのも、そんな気

持ちが働いてのことだろう。

 「で、でも…」

 「どうせ、どっかでサボってるのさ…」

 唯の言葉に取り合わず、忠夫はそばにあっ

た小石を思いっきり、川面に投げた。

 それが大きく飛沫を上げる瞬間、

 「そんなこと、ありません」

 不意に、凛とした声が響いた。

 ハッと忠夫が振り向く。

 黒い機能服に身を包んだ少女が、スッと松

の巨木の陰から現れるのが見えた。

 見た目は忠夫たちと同じ小学生ぐらいにし

か見えない。だが、可愛らしい顔だちにはめ

こまれた瞳には強い意思の光が宿っている。

 オシャレとは縁遠い黒い服は、耐熱防弾に

優れた戦闘用のユニフォームであった。

 「アスラ!」

 喜びの声を上げたのは、唯だ。

 「遅くなって、申し訳ありません」

 無表情に言って、アスラは頭を下げた。

 紅いヒモで結んだポニーテールが揺れる。

 「何やってたんだよ!」

 忠夫が立ち上がりながら怒鳴る。とりあえ

ず怒鳴ってしまうのは、いつものことだ。

 もちろん、アスラの方は表情一つ変えない

でいる。それも、いつもの通りだった。

 「アスラ、大変なのよ!」

 唯が割り込むように言う。

 「わかっています」

 落ちついた様子でアスラが答える。

 「何だと?」

 忠夫がいきり立つ。丁寧かつ冷静すぎる仕

草の一つ一つがシャクに触るのだ。

 「忠夫さんたちが言いたいのは、これのこ

とですね?」

 そう言って、アスラは新聞を取り出す。

 問題となっている大東新聞の朝刊だった。

 表にした紙面に、例の「遭難者の首筋に、

謎の3つのホクロ」の見出しがある。

 「わかってるなら、話が早い」

 忠夫が新聞をひったくるように取る。

 「これは、どういうことなんだ?」

 見出しを指さしながら、尋ねた。

 「私にもわかりません」

 「わからない?」

 「ええ。こんなことが起こるはずがないか

らです」

 「現実に起こってるじゃないか!」

 忠夫がまたもや怒鳴る。元々が短気な男な

のだ。冷静なアスラとは対照的である。

 「一応、遭難事故について書かれている他

の新聞記事も確認したのですが…」

 アスラが口を開く。

 「3つのホクロを記事に載せているのは、

この大東新聞だけでした」

 「え?」

 忠夫が驚く。さすがに他の新聞記事までは

調べていなかったからだ。キチンとリサーチ

しているアスラに意表をつかれた形で、忠夫

は毒気を抜かれてしまう。

 「どういうこと?」

 唯は不思議そうに尋ねる。

 「この記事そのものが誤報だったという可

能性もあります」

 アスラが考えながら、言葉をつむぐ。

 「そうか、間違った記事だったのか!」

 単純に喜ぶのは、もちろん忠夫である。

 しかし、すぐにキッパリとした声が彼の脳

天気さを打ち砕いた。

 「いいえ、もう一つの可能性もあります」

 「え?」

 「この事実に気づいた記者が一人しかいな

かったという可能性です」

 より強い口調であった。

 「ど、どういうことだ、そりゃ?」

 「普通の記者ならば、首筋にある3つのホ

クロと遭難事故を結び付けようとは思わない

はずです」

 「そりゃ…、そうかもなぁ…。キルケウイ

ルスなんて、知るはずないし…」

 「でも、大東新聞の記者だけは3つのホク

ロを不自然だと思ったのでしょう」

 「……」

 「そして、記事にしたのです」

 淡々と説明するアスラの言葉が一つ一つ、

忠夫の心に響く。誤報なんかよりも、はるか

に強い説得力があった。

 「この『取材・高沢』と書いてある人ね」

 忠夫の手から新聞を取った唯が、記事に目

を落としながら言った。

 「その高沢という記者だけが、重大な意味

に気づいたのかもしれません。3つのホクロ

が持つ恐ろしい意味に…」

 「そうだとしたら、すごい人ね」

 「かなり優秀な記者と言えるでしょう。そ

の新聞社でも一目も二目も置かれている人で

はないでしょうか?」

 アスラは見たこともない記者に思いを巡ら

すように言った。当然アスラは、高沢が左遷

されて、山奥の小さな村の駐在記者をやって

いるとは夢にも思っていない。

 「その…高沢とかいう記者のことはともか

くさ。キルケウイルスが虹ヶ崎以外で発生し

たことについては、どうなんだよ?」

 忠夫が肝心のことについて、尋ねる。

 「そうですね。あり得ないことだとは思い

ますが、確認する必要があります」

 「どうやって?」

 「遭難事故が起こった山に行ってみようと

思います」

 「アスラが?」

 「ええ」

 短い答えだったが、そこには事件を解明し

ようとする強い意思が表れている。

 「じゃあ、俺たちも行くよ」

 忠夫が提案する。指をポキポキ鳴らして、

意欲満々の構えである。

 「ダメです」

 アスラはあっさりと言った。

 「どうしてだよ?」

 せっかくのやる気をそがれて、忠夫が不満

をぶつける。

 「私はこれからすぐに向かうつもりです」

 「だから、一緒に行くよ」

 「それは無理ですよ」

 「なんで?」

 「忠夫さんたちは学校があるじゃないです

か?」

 「あ…」

 忠夫は言葉が続かない。当然の事なのに、

すっかり忘れていたのだった。

 「学校をサボる訳にはいきませんよね?」

 「……」

 忠夫の負けだった。プンとムクれて、そっ

ぽを向くしかなかった。

 「…とにかく、私だけで調べてきたいと思

います。いいですね?」

 クスッと笑いながら、アスラが言う。忠夫

の様子が、妙に可愛らしかったからである。

 「一人で大丈夫?」

 心配そうな顔を浮かべたのは、唯だった。

 「大丈夫です。まだキルケウイルスが原因

と決まった訳ではないのですから」

 そう言いつつ、アスラは優しく唯の肩に手

を添える。心配させないようにしているのが

忠夫にも分かった。

 そうした小さな配慮に、見た目ではない年

齢差を感じてしまう忠夫だった。

 (アスラに比べると、俺も子供だな…)

 そう思わずにいられない。

 見た目も実年令も変わらないはずなのに、

それだけの差がアスラとの間にはあった。

 「では、後は頼みますね」

 そう言い残し、アスラがスッと唯の側を離

れた。そのまま足早に、夕闇迫る情景の奥へ

と走り去っていく。

 すでに太陽は西の彼方へと没しつつあり、

広い川原は暗さを増している。アスラの姿も

その中に溶けるように消えていく。

 「何かあったら、連絡しろよ!」

 「はい、必ず」

 忠夫の呼びかけに、短く返事がある。

 アスラの気配が次第に遠くへ消えていくの

が感じられた。それに合わせるように、唯が

忠夫の手をキュッと握る。

 「大丈夫さ…。きっと…」

 忠夫は優しく唯の手を握り返すのだった。

                                        

                                              つづく