プロジェクト・エデン特別篇

「幸福が棲む谷」

 

    第三章  地図にない村

 

 そこは鬱蒼とした森の中だった。

 リーリーリー。

 秋の夜長を歌う虫の声が響いている。

 細い葉の上にキリギリスに似た虫がとまっ

ているのが見えた。月光に透かされた薄緑色

の羽が微細に震えている。短い命を精一杯に

謳歌しているのであろう。

 妙神山山麓。

 富士山系へと連なる連峰の一角を担い、日

本列島中央部を印象づける山岳地帯を形成す

る山の一つである。古くは林業が盛んな地域

ではあったが、今では静かなハイキングコー

スとして知られている。

 それは秋月に浮かび上がる美しいなだらか

な峰や渓谷を見ても、明らかである。

 しかし、山は魔物である。

 古来、人々は山に神が住むと信じ、畏怖し

てきた。レジャーだの、アウトドアだのと言

って、気軽に入ってはいけない場所があるこ

とを知っていた。

 そこは、神の棲む聖域なのだと…。

 ハイカーや林業関係者が立ち入らないよう

な深奥に何が潜んでいるのか…。それは禁断

の地を踏んだ者にしか、分からない…。

 キェッ!

 何処かで山鳥が鳴いた。

 山上にかかる半月を、ゆっくりと雲が覆い

隠していく。木々の合間から漏れ注いでいた

月光がスウッと消えていく。

 バサバサバサバサ…!

 先程の鳥だろうか、何かに追われたような

羽ばたきが遠ざかっていった。

 ………………。

 そして、虫の声が止んだ…。

 ハッ…ハッ…ハッ…ハッ…。

 激しい息づかいが、闇に沈んだ森の中に聞

こえる。小枝や落ち葉を踏みしめる足音が、

それに被さった。

 ハッ…ハハッ…ハッ……ハッ…。

 苦しげに、痛ましげに、乱れた息づかいが

鬱蒼とした森に響く。

 パキパキと小枝の折れる音がした。と同時

に、漆黒の闇から白い人影が吐き出される。

 白い着物に身を包んだ少女であった。

 闇に浮かぶ純白の着物は、葬られる者が身

につける「死に装束」のようだった。

 いや、どう見ても「死に装束」である。

 歳は13〜14ぐらいだろう。可愛らしい顔だ

ちに、艶やかな黒髪が揺れる。

 だが、その顔には怯えが張りつき、焦燥感

に彩られていた。

 木々をすり抜け、茂みをかき分けながら、

必死に闇の中を逃げていく。

 異様な気配が森の中に満ちていた。

 それは殺気であり、狂気であり、鬼気とも

いうべき戦慄を伴っている。

 ザザザザザザ…!

 激しい葉擦れの音が聞こえた。

 少女の背後から、何かが迫っていた。

 そそり立つ木々の樹上を、幾つもの影が走

る。それは信じられないスピードで、逃げる

少女に近づいていくのだった。

 「キャアアッ!」

 たまらず、少女は悲鳴を上げた。

 木々の間をよろめくように逃げていく。

 まるで、追われる子鹿を思わせるように痛

ましげであった。

 ザザザザザザ…!

 漆黒の影の動きに合わせて、樹上から葉が

舞い散る。ヒラヒラと散らされる木の葉は、

少女の運命を暗示しているかのようだ。

 「痛っ!」

 小さな悲鳴と共に、少女が転倒する。

 その足首に木の根が絡んでいた。引き裂か

れた白い肌に、赤く血が滲んでいる。

 「うっ…」

 起き上がろうとした途端に、激痛が走る。

 どうやら、捻ってしまったらしい。

 少女の顔に絶望が浮かぶ。恐怖と哀切に歪

んだ哀しい表情だった。

 ザザッ…!

 その頭上から、木の葉が舞った。

 いつしか無数の気配が少女を取り囲んでし

まっていた。突き刺すような視線が四方八方

から降り注いでいた。

 「あ…、ああ…」

 少女は動けない。ただ、絶望に満ちた喘ぎ

を漏らすだけに過ぎない。

 「ギギィッ!」

 何かが鳴いた。

 無数の気配が一斉に動く!

 「キャアアアアアッッ…!」

 張り裂けんばかりの絶叫が響いた。

 その叫びは木霊となり、静かな山に哀しい

余韻を響かせたのだった…。

 

 「どういうことだっ!」

 すさまじい怒鳴り声が部屋に轟いた。

 周囲でファックスや記事に目を通していた

人々が一斉に振り返る。その眼差しには「そ

れ見たことか」という嘲りや、「バカなやつ

だなぁ」という憐れみが混じっている。

 その視線を一身に集めている男は、飄々と

した態度で耳の穴をほじっている。

 大東新聞の記者、高沢堅吾であった。

 「高沢、聞いてるのかっ?」

 先刻から怒鳴り続けているのは、大東新聞

甲府支社のニュースデスクを務めている森崎

編集長である。その目の前には、例の記事を

載せた新聞が広げられていた。

 「何が問題なんです?」

 高沢が逆に聞き返す。

 「この記事の内容だ!」

 ドンと森崎がデスクに拳を振り下ろした。

 「まずかったですか?」

 「当たり前だ。朝から苦情がひっきりなし

に寄せられているぞ。どう責任を取るつもり

なんだ!」

 「記事については、デスクもチェックした

ことじゃないですか」

 「お前の話では、謎の3つのホクロが遭難

事故に関係しているとのことだった。だから

記事にする許可を出したんだ」

 「なら、いいじゃないですか」

 高沢は耳をほじった指をフッと吹く。その

人を食った態度が森崎を激昂させた。

 「バカもん!」

 ドドン、と先程の倍以上のパワーで森崎が

机を叩く。吸殻が山積みになった灰皿が跳ね

上がり、細かな灰が撒き散らされた。

 「遭難者が収容された病院では、あのホク

ロと事故の因果関係を立証できないと言って

いるぞ」

 「それはまだ検査段階ということであり、

因果関係が否定された訳ではありません」

 「だが、主治医はほとんど関係ないとのコ

メントを出している」

 「いや、デスク。あの3つのホクロは明ら

かにおかしい。絶対に関係ありますよ」

 「どうして、そう言えるんだ?」

 「これは俺の記者としての勘です」

 「お前の勘なんか、アテになるものか!」

 「じゃあ、何で遭難者たちは無気力化して

しまったんですか?」

 「事故によるショックだと、病院側では考

えているようだ。実際に他の社では同じよう

なコメントを載せている」

 森崎は他社の新聞をドサリと投げ出した。

 確かに遭難事故を扱った一連の記事では、

全て遭難によるショックで茫然自失に陥って

いるとの内容が書かれている。

 「これでは納得のいく説明にはなっていま

せんよ。現代医学の最先端医療を駆使してい

るのに、遭難者全員が無気力状態から回復し

ていないんですよ」

 高沢は記事を一瞥して、言った。

 「救出されてから、まだ2日だ。回復する

には時間がかかるだろう」

 「変だと思いませんか。遭難者は救出され

ると、歓喜と安堵が入り交じったリアクショ

ンを何かしら示すものです。それなのに、彼

らは全くの無反応だった」

 「ショックが大きすぎたとは…?」

 「いくら混乱していても、自分が助かった

ことぐらいの認識は出来るはずです」

 「……」

 森崎が沈黙する。高沢の言っていることは

理路整然としており、もっともであった。

 「デスク。あの山を調べさせて下さい」

 高沢はここぞとばかりに切り込む。

 「…この記事が出てから、伝染病ではない

かという噂が広まってしまっている。細菌兵

器の流出というデマさえな…」

 「パニック映画の見すぎですよ」

 高沢は冗談めかして言ったが、その目は笑

っていない。新聞記事が世間に及ぼす影響に

ついては、十分に理解している。

 野菜がダイオキシンに汚染されていると報

道されれば、誰も買わなくなる。魚の奇形が

工業排水によるものと言われれば、徹底的に

工場を攻撃する。それが真実であるかどうか

を確認することなく、民衆はマスコミに踊ら

されていくのだ。そして、それはレミングの

行進にも似た狂った群集心理に発展してしま

うのである。

 「無用なパニックを引き起こすわけにはい

かない、というのが上からの見解だ」

 「無視してしまうのは、もっと危険です」

 高沢は断言する。ジャーナリストとしての

責任だった。

 「デスク。あの山を調べさせて下さい」

 「駄目だ」

 「絶対にあそこには何かあるんです!」

 「取材は認められない。後は警察による事

故の原因究明を待つだけだ」

 「警察は単なる事故として処理してしまう

はずです。しかし、事件の根はもっと深いと

ころにあると思われます」

 「警察を信用しないのか?」

 「それはデスクも知っているはず…」

 高沢はそう言って、森崎をジッと見る。

 二人はかって、東京本社で席を並べていた

間柄であった。いくつもの事件でコンビを組

み、敏腕記者として知られていた。その中で

警察の捜査が必ずしも完璧ではなかった事実

を何度も見ている。結果、隠された真実を暴

いたのは二人のジャーナリストだった。

 そして今、一人はニュースデスクとして出

世街道を歩み、もう一人は山奥の寒村で駐在

記者をさせられている…。

 「調べさせてもらえませんか?」

 「本社ではあくまでも普通の遭難事故であ

ると考えているんだ。それなのに、伝染病や

細菌漏れとかのデマを後押しするような報道

が出来るわけないだろうが」

 「しかし…、何らかの病気であることの可

能性が否定された訳では…」

 「高沢、いいかげんにしろっ!」

 森崎が怒鳴った。

 「すぐにお前を鹿間村に戻せという指示も

出ているんだ」

 「……」

 「……」

 高沢と森崎はにらみあった。そのまま無言

の時間が過ぎていく。…そして、

 「高沢。鹿間村へ帰れ…」

 「森崎!」

 「これは命令だ。鹿間村の駐在記者である

お前に、これ以上関わらせる訳にはいかん」

 「……」

 高沢が森崎を睨む。

 森崎はその視線から顔を外した。そのまま

窓の方へと向かって、外を眺める。手にした

クシャクシャになったタバコの箱から一本取

り出し、火を点ける。ゆったりと紫煙が部屋

の中に流れた。

 「高沢…」

 背を向けたまま、不意に森崎が言う。

 「何でしょう?」

 「お前にはしばらく休暇を取ってもらうこ

とにした。山歩きで疲れたことだしな…」

 「休暇?」

 高沢が不思議そうな顔をする。

 「そうだ、休暇だ。ま、せっかくだから山

梨を見物してから帰るといい。ちょうど、妙

神山の辺りは紅葉もきれいだしな…」

 森崎はそう言いながら振り返り、意味あり

げにニヤリとする。高沢がハッとする。

 「森崎…!」

 「現場から外されたんだから、そんなに嬉

しそうな顔すんなよ」

 高沢の笑顔に森崎が苦笑する。

 「…悪いな」

 高沢は頭を下げた。その動作に、深い感謝

と友情が込められている。そして、ジャケッ

トをひっつかむと、部屋の出口へと向かう。

 ドアの所で、ふと振り返った。

 「持つべきは、良き友だな」

 「良き上司だろ?」

 森崎はそう返した。高沢はフフと微笑みを

浮かべる。

 「さっさと行け、疫病神!」

 シッシッと森崎が手を振り、高沢は部屋を

出ていった。それを見送って、森崎は紫煙を

ゆっくりと吐き出した。その顔には悪戯小僧

にも似た笑みが浮かんでいた…。

 

 一階のロビーまで下りてきた高沢は、その

まま受付へと足を運んだ。レンタカーを手に

入れるためである。

 長くハンドルを握っていないが、それでも

運転免許ぐらいは持っている。昼間から酒を

飲む癖があるので、自然と車を運転する機会

が少なくなっていただけであった。

 「四輪駆動で山道にも耐えられるのを…」

 そのように受付の女の子に言う。受付の女

の子がレンタカー会社に電話するのを待ちな

がら、高沢はロビーを見回した。

 新聞社のロビーはいつもの通りにごった返

している。記者だけでなく、様々な業者や関

係者が出入りしているからである。

 新聞社の主な収入源は新聞販売によるもの

だと考えられがちだが、実際は紙面における

広告収入の方が大きいのである。良い記事が

書けても、収入基盤が成り立たなければ新聞

社そのものの存続が危ぶまれてしまう。

 ロビーの隅で携帯電話をかけている地味な

スーツ姿の男は、何処かのメーカーの営業マ

ンだろう。パリッとした感じの男は商社マン

の雰囲気であり、ポスター見本を両手一杯に

抱えたのは広告代理店の人間だ。

 こうした人々によって、新聞社は成り立っ

ている。記者だけでは成立しないのだ。

 そんな風景を見ながら、高沢は本社時代の

ことを思い出していた。鹿間村では見ること

のない様子であった。

 (ま、あの村には村なりの良さもある…)

 そう思った時、一人の女性が高沢の方へと

近づいてくるのが見えた。

 「…?」

 見覚えはない。ショートヘアの可愛らしい

女性であった。まだ20代前半だろう。

 「あの、高沢記者ですね」

 高沢の前まで来ると、女性はそう尋ねた。

 「そうですが、あなたは?」

 「私は佐藤かすみと言います。遭難した大

学生の友人なんですが…」

 そう言って、ペコリと頭を下げる。

 シグルドだった。佐藤かすみという名前は

青雲塾で使用しているものだ。20世紀社会で

の活動においては、この名を使用している。

 「どうして私のことを?」

 「先程、近くを通った記者の方に教えてい

ただいたのです」

 高沢の顔は大東新聞社のメインコンピュー

ターをハッキングして、社員名簿で確認して

おいた。あらゆるメカに精通したシグルドに

とっては朝飯前のことである。

 「そうですか。で、私に何か?」

 誰か通ったっけ、という疑問は別にして、

高沢はシグルドに尋ねた。

 「実は病院を訪ねたのですが、面会謝絶に

なっておりまして…」

 これも病院のコンピューターから盗み出し

た情報であった。原因不明の昏睡に加えて、

高沢の記事の影響もあって、大学生たちは面

会謝絶の隔離状態となっていた。

 「そうですね。まだ検査や何やとあるみた

いですから」

 「ええ。それで、高沢さんに色々と事情を

お聞きしたいと思ったのです」

 「私もよくは分からないんですよ」

 「しかし、高沢さんが第一発見者だったと

お聞きしております」

 「それはそうですが…」

 高沢は頭をボリボリと掻いた。困った時の

癖である。ニュース情報をそう簡単に漏らす

訳にはいかないからだ。

 「当時の状況を教えてください」

 シグルドが訴えかけるような目で高沢を見

る。幼さの残る無垢な顔だちなので、つい助

けたくなるような気持ちにさせられる。そこ

がシグルドの強みでもあった。

 「仕方ない。他言無用ですよ」

 と、高沢は発見に至るまでの経緯をかいつ

まんで説明し始めた。

 山狩り隊に参加したところから、山の中を

進んでいったあたりまで。そして、林道にぶ

つかったところで遭難者に出くわしたことを

話していく。

 「ちょっと、待ってください」

 シグルドは肩から下げていたセカンドバッ

グから、ゴソゴソと小さな手帳のようなもの

を取り出す。それは小型のノートパソコンで

あった。ただし、シグルドのそれは20世紀で

市販されているものを改造したものだ。

 スイッチを入れると、ビュウンと音をたて

て初期画面が表示されていく。

 「へぇ…」

 普段からコンピューターをいじくったこと

もないだけに、情報機器を使いこなす人を偉

い人のように思ってしまうのだ。

 「その林道というのは、どの辺りになるの

でしょうか?」

 キーボードをカチャカチャと操作していた

シグルドが、画面を高沢の方に向けながら尋

ねる。画面には、妙神山を中心にした精密な

立体地図が表示されていた。

 「おお、こりゃすごい!」

 高沢が驚いたのも無理はない。その地図は

衛星写真を処理したもので、まるで空から眺

めているようなリアルさと精密さを兼ね備え

ていたからである。

 「さ、最近のコンピューターは、こんなこ

とも出来るんですか?」

 「え? え、ええ、そ、そうですよ」

 シグルドが慌てたようにうなずく。

 はっきり言って、市販のコンピューターに

それだけの機能もスペックもある訳がない。

 シグルドの持っているコンピューターは、

第6世代コンピューターと呼ばれる超AIを

搭載したものなのだ。20世紀で汎用されてい

るCISC(複合命令型情報処理)をさらに

発展させたRISC(縮小命令情報処理)を

完全実用化している。さらに20世紀では開発

段階だったメソスコピック・エレクロトニク

スと呼ばれる電子工学をすでに実用段階にま

で高めてあった。現在のトランジスタの1千

倍の高速処理が可能となる半導体電子波デバ

イスや超伝導FET(電界効果トランジスタ

装置)が組み込まれているのである。

 「へぇ、こりゃすごい。まるで人工衛星か

ら見ているみたいだ」

 高沢は興奮したように見入っている。

 「そ、そうですか?」

 「うーん、最近はこんな情報まで手に入れ

ることが出来るんだ。こんな小さいのにすご

いんですねぇ」

 「は、はぁ…」

 シグルドは複雑な表情のまま、ごまかすよ

うに微笑した。でも、心の中では高沢が機械

音痴であったことに感謝していたのだった。

 どんなに発達しても、あらゆる要求を満た

すだけの情報がコンピューターの中に集積さ

れる訳がない。全てはミレニアム秘密基地の

メインコンピューターからの情報なのだ。

 高沢がコンピューターに詳しい人間だった

ら、画面に表示されている地図がデータバン

クからダウンロードされていることを不思議

に思ったに違いない。何しろ、シグルドの手

にしているコンピューターは電話回線にすら

つながっていないのだ。

 それは21世紀の通信と呼ばれたB−ISD

Nをさらに発展させたN−ISDNによるも

のだった。無線情報通信処理システムとも呼

ばれるそれは、人工衛星を仲介させて、シグ

ルドのポケットコンピューターと基地のメイ

ンコンピューターを無線直結させているので

ある。この時代ではアメリカの軍事衛星の回

線を無断借用していた。

 「あらぁ、木の一本一本までが見えるみた

いだなぁ…」

 当然である。日本上空に静止しているアメ

リカの秘密軍事衛星をハッキングしている映

像なのだから。画面に出ている妙神山一帯が

紅葉していること自体が不自然なのだ。

 「あの、高沢さん…。その…、発見場所を

教えていただきたいのですが…」

 感心しまくっている高沢に、シグルドが催

促する。強く言えないあたりが、彼女のお人

好しすぎる性格を表していた。

 「あ、ああ、場所ね…」

 どうやら、忘れていたらしい。

 「えーと、この辺りかなぁ」

 高沢が鬱蒼と茂る木々の間を指でたどって

いく。その中に林道らしき、白い筋のような

ものが見えていた。

 「…これだと思うよ」

 シグルドが高沢の示した地点をすぐにマー

キングする。これで、山に入ってもGPS装

置(衛星座標管理装置)によって、自分の位

置や目的地を見失わずに済むはずだ。

 「君はここへ行くつもりなのか?」

 高沢はシグルドの様子を見て、尋ねた。

 「まだ考えているところです」

 シグルドは無難な回答で誤魔化す。

 「やめといた方がいいと思うよ。あの山道

は女の人じゃ、無理だよ」

 「でも、この山はハイキングコースと聞い

ていますが?」

 「この林道の辺りはハイキングコースから

大きく外れているんだよ。ここまで行くには

山を一つ越えなくちゃいけないんだ」

 「そ、そうなんですか?」

 「ああ。だから、やめといた方がいい」

 高沢の脳裏に山中での強行軍の嫌な思い出

が甦ってくる。

 「…では、彼らは何故そんな所にいたんで

しょうか?」

 シグルドが当然の疑問を口にする。

 「そこが不思議なところさ。あんな軟弱な

大学生連中が、わざわざ行くとは思えないか

らね。…あ、君の友達だったっけ?」

 気づいて、高沢があわてる。

 「別にかまいません。でも、高沢さんはそ

の辺りについてどう考えているんですか?」

 「そうだなぁ…。自分で入っていったとい

うのでなければ、誰かに連れていかれたと考

えるべきだろうな」

 「では、何者かが大学生たちを遭難した場

所まで拉致したと言うんですか?」

 そうシグルドが言った時、ドヤドヤと数人

のグループがロビーへと走り出てくる。記者

とカメラマンで構成された取材班のようだ。

 「妙神山だったっけ?」

 「車は用意できているのか?」

 「地図を忘れるなよ!」

 そのような声が漏れ聞こえてくる。

 高沢はその内容に敏感に反応した。

 「ちょっと失礼…!」

 高沢はシグルドのそばを離れ、出発しよう

としている取材班の方へと向かった。

 ザワついているグループの中に顔見知りの

カメラマンを見つけ、近づく。

 「よお、ハルちゃん」

 「あれ、高沢さん。どうしたの?」

 声をかけられた春山カメラマンが高沢の顔

を見て、笑顔になる。かって青木ヶ原樹海に

無断で作られた新興宗教施設の潜入ルポをし

た時に同行した仲であった。「森羅万象を司

る天狗に生まれ変われる」というチラシを見

た若者たちが、青木ヶ原樹海で集団生活を開

始した事件は、高沢の経験の中でも最も奇異

なものの一つだった。

 「これから、取材かい?」

 「ああ。さっき帰ってきたばかりだと言う

のに、大変だよ」

 「あんまり無理するなよ。歳食ってからの

山登りはこたえるぜ」

 「俺だって、登りたくないよ」

 春山が苦笑する。

 「ハルちゃん、妙神山の方でまた何かあっ

たのかい?」

 高沢はさりげなく切り出す。

 「うん、事故らしいけどね」

 「事故?」

 「そっか。例の遭難事故の記事を書いたの

は高沢さんだったっけ?」

 「ああ。それより事故って…?」

 高沢はせかすように言った。

 「女の子が川に落ちて、溺死したというこ

となんだが…」

 「妙神山と言うと…、あの臥竜渓谷のあた

りか。あんな事故があったのに、また入り込

んだ連中がいたのか?」

 「いや、地元の人間らしいぜ」

 「地元? あそこは産業林だけで、人は住

んでいないはずだろ?」

 「いいや、臥竜渓谷の奥まった所に小さな

村があるらしいぜ。そこの住人から警察に届

けが出ていたらしいんだ」

 「あんな所に村が?」

 「いわゆる林地村というやつさ。え−と、

確か、赤神村とか言ってたな」

 「赤神村…」

 高沢はその名前を頭に刻みこむ。

 林地村は、別名を林隙村(りんげきそん)

とも言う。林業の盛んな地域に見られる形態

で、森林を切り開いて作られた開拓村のこと

である。開通させた林道の両側に家が立ち並

び、その後背に耕地や森林を有している。中

世のドイツ開拓地であるザクセン地方などが

発祥となった林産資源経済共同体である。

 「そんな村は聞いたことがないな」

 高沢は記憶を辿りながら言った。

 「そうだろうな。さっき上で地図を見てき

たんだが、市販の地図には載ってなかった」

 「地図にない?」

 「ああ。おかげで資料室を引っかき回す羽

目になったよ。バイト総動員でね」

 「で、あったのか?」

 「林野庁が業者向けに出している特別な地

図に載ってたよ。しかし、今時そんな隔絶さ

れた村が存在することが驚きだね」

 「そんな村が、今の日本にあるなんて信じ

られないな。行政だって、困るだろう」

 「俺も信じられなかったが、普通の行政村

や政治村とは異なった自然村という自治体を

構成しているらしい」

 「いわゆる大字と呼ばれる地域と同じ、と

いうことなのか…」

 「そんなの生易しい方さ。この赤神村とか

いう地域は、完全な自給自足の生活さ」

 「今の時代にそんな場所があるものか!」

 「ところが、あるんだな。現在の市町村制

度の網から漏れ、明治以前の旧態を維持し続

けている『地図にない村』がね…」

 「地図にない村か…」

 高沢はそうつぶやき、うなずいた。

 自然村とは行政や政治によって区分される

村落とは異なり、地縁や血縁的な共同体とし

ての社会集団を指す。明治23年に施行された

市町村制度によって統廃合されたはずだった

が、以前と同じような形態を固持し続けてい

る村も存在するとのことであった。

 明治における制度改革は都市部を中心に進

められ、かなりの混乱を招いた。その対処に

追われた行政は、幕府も把握していなかった

ような山奥の寒村にまで目が行き届かなかっ

たのである。そして、村は消えた。

 さらに大正、昭和と経て、戦後の混乱から

も隔絶された地域、これまで存在していなか

ったはずの村をいまさら高度経済社会に組み

込むことは至難を極めた。そして、地域行政

におけるブラックボックスが生まれた。

 つまり世間から忘れ去られ、時代の波から

も絶たれた、完全自給自足の形態を採ってい

る「地図にない村」が存在するのだ。

 こうした土着的な村落に関しては、行政も

黙認するケースが多い。税金さえ納めれば問

題なしとする考えもあるが、ほぼ社会から消

し去られた小さな村落に構っているほどの余

裕は行政にないのである。

 「俺がいる鹿間村は、まだいい方だったん

だなぁ…」

 高沢がしみじみ言う。そんな場所に左遷さ

れていたら、社会からの抹殺に等しい。

 「その鹿間村とは、山一つを隔てての隣り

合わせになるんだぜ」

 「うそだろ」

 「うそじゃないさ。妙神山から連なる信玄

岳、あれと臥竜渓谷の3つが重なる地域に赤

神村はあるんだ。信玄岳を越えれば、お前さ

んのいる鹿間村じゃないか」

 「な…るほどね。お隣さんだったのか」

 高沢が感心したように、うなずく。

 その時、パパァッと玄関の方でクラクショ

ンがけたたましく鳴った。

 「ハルさん!出発するぞ!」

 玄関の所にRVが来ており、記者らしい男

が手招いている。

 「おっと、車が用意できたみたいだ。それ

じゃ高沢さん、また後でな」

 走りだそうとする春山の腕を高沢があわて

てつかんだ。

 「悪い、ハルさん。俺も現場に連れてって

くんないかな?」

 「高沢さんも?」

 「今から女の子の遺体が上がった現場に行

くんだろ?」

 「ああ。臥竜渓谷の下流だけど…」

 「頼むよ。気になることがあるから、俺も

見てみたいんだ」

 必死に頼み込む高沢の様子に、春山は困っ

たような表情になる。だが、それも一瞬だっ

た。すぐに苦笑した顔になる。

 「駄目だって言っても、来るくせに。わか

ったよ、俺たちの車についてきてくれ」

 「え、でも、まだレンタカーが届いていな

いんだよ」

 さっき受付の女の子にレンタカーの手配は

頼んでおいたが、すぐに届く訳ではない。

 「俺のを使えよ。シルバーグレーのパジェ

ロが、右側の駐車場に停まってる」

 そう言って、ポケットから取り出したキー

を高沢へと放る。

 「ハルさん、悪いな!」

 「急げよ!」

 言い残して、春山は車へと向かう。遅れて

はならないと高沢も駐車場へと走る。

 「あ…!」

 外へ出掛けて、さっきまで話していた佐藤

かすみ=シグルドのことを思い出す。

 「あの…!」

 声をかけようと振り向いた高沢だったが、

さっきまでの場所に女性の姿はなかった。

 「あれ、おかしいな…」

 見回すが、どこにも見えない。

 「ま、いいか」

 そのまま高沢は駐車場へと急ぎ、春山の教

えてくれたパジェロに乗り込むのだった。

 

 「……」

 エンジンを唸らせ、マフラーから排気煙を

上げるパジェロを見つめる目があった。

 「動きだすみたいね。見失わないように追

跡するのよ」

 車の後部座席から指示を出すのはシグルド

であった。運転席には工作員の姿がある。

 「……」

 工作員が無言でエンジンをスタートさせ、

ギアを入れる。駐車場の隅に停まるダークブ

ルーのワゴン車がゆっくりと動きだす。

 「さて、ここで何が起きているのかを確か

めさせてもらわないとね…」

 シグルドはそう言いながら、駐車スポット

から動きだすパジェロを見つめた。

 ギリギリの段階まで話を聞いていた限りで

は、どうやら臥竜渓谷の奥まった所に「地図

にも載っていないような村」が存在するらし

かった。これから向かう少女の水死事故が前

回の遭難事故とどう結びつくかは分からない

が、全ては妙神山と臥竜渓谷を中心といた地

域に集中している。

 「でも、何かイヤな予感がするなぁ…」

 ポツリとシグルドがつぶやく。それは背筋

を震わせる微かな予感だった…。

 駐車場を出ていく取材班のRV、その後に

続く高沢のパジェロ。その後方をシグルドた

ちの載ったワゴン車がついていく。

 それだけではなかった。その後ろからやや

遅れるようにして、小さなスクーターがつい

ていく。乗っているのは、ジーンズを履いた

小柄な少年のように見えた。

 フルフェイスのヘルメットに隠れた顔はよ

く判別できないが、その下からは束ねられた

長い髪が垂れている。その髪を留める赤い紐

が印象的であった…。

               

                                                                          つづく