プロジェクト・エデン特別篇

「幸福が棲む谷」

 

 第五回 亡霊の棲む森

 

 妖しい光が揺らめくミレニアム基地。

 青、赤、緑、紫…。空間を埋める白い霧の

ような蒸気に、オーロラにも似た光のカーテ

ンがユラユラと踊っている。

 ビュウウウ…。

 どこからともなく電子ノイズみたいな音が

響き始めた。エンジンの回転数を上げていく

ように高まっていく。

 「時間ね…」

 空間に一人立つフレイヤはつぶやいた。

 パッパッパッパッパッパッ…。

 床に空港の滑走路灯のようにライトが灯っ

ていく。不気味に渦を巻く蒸気の中から立ち

のぼる黄色い光線はまるで、ギリシャの神殿

を飾る石柱のようだった。

 ビュウウウウ…ンンッ!

 大きな音がして、イエローライトで作られ

た花道の彼方に一人の男の姿が現れた。

 黒に近い濃紺を基調にした服の胸元には、

ミレニアム帝国軍のエンブレムである双頭龍

が銀糸であしらわれている。重たそうな白銀

のマントをバサッと翻す動作一つからも、何

とも言えない威圧感が伝わってくる…。

 ミレニアム帝国の全軍を統率する最高司令

官、フェンリル将軍その人であった。

 「……」

 鋭く厳しい眼光がキロリとフレイヤへ向け

られた。フレイヤがビシッと敬礼を施す。右

腕を胸元に当てるミレニアム式敬礼だ。

 「フレイヤよ。その後の状況はどうだ?」

 静かだが、重々しい声が響いた。

 「はい。シグルドを問題の妙神山へと派遣

しましたが、まだ具体的な何かを得るには至

っておりません」

 「そうか…。もう少し調査を続ける必要が

あるようだな…」

 フェンリル将軍は目を細めると、考え込む

ように目を閉じた。

 「ところで、将軍。例の件は調査いただけ

ましたでしょうか?」

 フレイヤが尋ねた。

 「うむ、そのことだが…。30世紀にあるメ

インコンピューターの記録にも妙神山に関す

るものはなかった」

 フェンリルは静かに目を開き、その炯々た

る眼光をフレイヤに注いだ。

 「なかった…?」

 「そうだ。キルケウイルスが発生した形跡

は妙神山はおろか、どの地域でも確認されて

おらんのだ」

 「そんな…。実際に感染の証拠である3つ

のホクロが遭難者の首筋に…!」

 「フレイヤよ。儂にはまだ、キルケウイル

スが虹ヶ崎市以外で発生したということが信

じられないのだが…」

 先日、フレイヤは妙神山で発生したという

遭難事故についての報告を行った。それには

無気力化した遭難者たちの首筋に3つのホク

ロがあったことも含まれている。

 しかし、キルケウイルスは虹ヶ崎市で発生

したということが30世紀世界の常識となって

おり、フレイヤやフェンリルもそれを疑った

ことはなかった。そこでフレイヤはミレニア

ム帝国のメインコンピューターに記憶されて

いるキルケウイルスに関する情報を、再度確

認することを申し入れていたのである。

 「信じられないのは、私も同じです。それ

に今回の事件の原因がキルケウイルスである

かどうかは、まだ分かりません…」

 「しかし、納得がいかんのだろう?」

 「はい。感染の証拠となる3つのホクロが

現れた以上、見過ごす訳にはいきません」

 現場指揮官としての責任と決意が、フレイ

ヤの言葉には込められていた。生真面目な彼

女らしいが、それは逆に融通のきかない諸刃

の剣でもある。そのことがいずれ、彼女の身

に大きな悲劇をもたらすことになるのだが、

フレイヤは気づいていない。

 「…そうだな。大きな事件のきっかけは全

て些細なことだ。少しでも疑いがあれば、そ

れを見過ごす訳にはいかん」

 「その通りです」

 「うむ、お前の意気込みは分かった。今後

の展開に期待しよう…」

 「恐れ入ります…」

 フレイヤは一礼を返した。

 「それにしても…、今回のことに関しては

さっぱり分からんな」

 フェンリルが首をひねる。

 「将軍はどう思われますか?」

 「……」

 フェンリルは答えなかった。ジッと考え込

んでいる様子に、フレイヤは言葉を続ける。

 「将軍。この妙神山の遭難者がキルケウイ

ルス感染者であることが事実であれば…」

 「…それは恐るべき事態となる」

 言葉を継いだのは、フェンリルであった。

 「もし、最悪の予想が当たれば…。我々が

キルケウイルスを生み出した始祖を特定し、

保護するという計画は不可能になる」

 フェンリルの言葉にフレイヤがうなずく。

 キルケウイルスの感染源となる人間が子供

であり、虹ヶ崎市内に住んでいるということ

だったからこそ、これまで探索に取り組んで

こられたのである。もし、対象が無制限とな

ってしまえば、事実上の探索は不可能となっ

てしまうのである。

 「……」

 「……」

 事態の深刻さに二人とも言葉を失い、重苦

しい沈黙が基地空間を包んだ。お互いに今後

の展開に思いを巡らせる。

 「……まあいい。とりあえずは調査を続行

するしかないだろう」

 「はい。引き続き、現地のシグルドに情報

を集めさせます」

 フレイヤの回答に、フェンリルが満足そう

にうなずく。

 「不幸中の幸いだったのは、調査の対象が

妙神山麓に限られていることだな」

 「はい。シグルドの報告によれば、極端な

過疎化が進んだ閉鎖地域とのこと。おのずと

調査範囲は絞られてきます」

 「失敗は許されん。分かっているな?」

 「…はい」

 フレイヤは短く答えた。これまでの度重な

る失敗は、現場指揮官である彼女の責任であ

る。これ以上の失態は許されない。

 「ところで…」

 フェンリルが不意に話題を変えた。

 「アスラの動きはどうだ?」

 感染源消滅の任務を帯びた少女の存在は忘

れてはならないものであった。その少女のた

めに、フレイヤを始めとする「20世紀派遣部

隊」は幾度となく苦杯をなめてきたのだ。

 「…すでに妙神山に現れたようです」

 「もう現れたのか?」

 声に驚きが混じった。

 「はい」

 「で、どうなった?」

 その問いに、フレイヤはすぐに答えられな

かった。だが、答えない訳にはいかない。

 「申し訳ありません。シグルドが一度、捕

縛を試みたのですが…」

 「また、失敗したのか…?」

 フェンリルの言葉に失意のため息が重なっ

た。無能な部下たちに呆れているような響き

が感じられる。

 「申し訳ありません…」

 フレイヤは頭を下げるしかなかった。握り

しめた拳の震えが、悔しさと口惜しさを表現

していた。

 「…わかった。とにかく、アスラに先を越

されないように気をつけるのだ」

 「全力を尽くします」

 その言葉が終わらない内に、フェンリルの

姿が消え始める。どうやら、超時空通信のタ

イムアイトの時間のようだった。

 「もう、ブラックホールタイムか…」

 フェンリルはやれやれといった感じで、不

便さを愚痴った。

 月と地球の重力波均衡地点であるラグラン

ジュ・ポイントを利用した超時空通信は、軌

道上の誤差が生じた時点で通信に支障をきた

してしまう。通信可能なのは、微妙なバラン

スを保つ僅かな時間だけであった。誤差によ

って発生する通信不可能領域を通称「ブラッ

クホールタイム」と呼んでいるのだ。

 3次元立体投影されていたフェンリルの身

体が揺らめくように乱れ、ノイズにかき消さ

れていく。

 「吉報を待っている…」

 その姿が完全に暗黒に溶け込む寸前に、フ

ェンリルの言葉が響く。

 「……」

 フレイヤが黙礼を返す間に、完全に通信は

途絶えた。ギリシャ石柱のように並んでいた

イエローライトが一斉に消える。

 「…さて…と」

 フレイヤは踵を返し、ゆっくりと超時空通

信室である中央ホールの出口へと向かう。

 「そろそろ、私も出向かなければならない

ようね…」

 そうつぶやきながら、ベルトに挟んでいた

指揮棒を手に取った。手のひらに軽く当てる

と、ピシリと鋭い音が響いた。

 「あの子と決着をつけるために…」

 声には厳しさがあった。その反面、哀しさ

のようなものも含まれていた。過酷な運命を

呪う呪詛のようにも聞こえた。

 そんな言葉を残し、フレイヤは静かに部屋

を出ていく。ウィーンと微かな駆動音と共に

入口の自動ドアが閉じる。

 と同時に、基地空間は暗黒に溶けていった

のであった…。

 

 山梨県北部・妙神山山麓。

 午後5時47分。

 カァカァと鳴き交わしながら、カラスの群

れがオレンジ色から赤紫へのグラデーション

に染まる空を渡っていく。

 すでに太陽は山の稜線を赤く染め、西の彼

方に没しつつあった。やがて、闇が辺りを覆

い尽くしてしまうであろう。

 「夜になる前に距離を稼いでおきたかった

のに…。と言っても、仕方ない…か」

 整備されたハイキングコースを歩きつつ、

アスラがため息をつく。さっきまでの一般的

な服装から、すでにいつもの黒い戦闘服に着

替えている。人の気配が途絶えた山道で、他

人の目を気にする必要はないからだ。

 もう少し早く到着する予定だったのだが、

スクーターが故障したために大幅に遅れてし

まったのだ。

 「ゴミ捨て場の再生利用も考えものね…」

 ゴミとは当然、スクーターのことである。

 アスラのような子供が簡単にスクーターを

購入できる訳がない。「お嬢ちゃん、ダメだ

よ」と店の主人に笑われるのがオチだ。

 そこでアスラはゴミ廃棄場に捨てられてい

たスクーターを修理改造して、使用していた

のである。小学生にしか見えないアスラでは

あるが、その中身は30世紀の優秀なレジスタ

ンスなのだ。ある程度の技術は持っている。

 ましてや、20世紀と30世紀の技術格差は天

と地ほどの開きがある。スクーターレベルの

単純構造機械ならば、現代の子供がゴム動力

のオモチャを修理するようなものだ。

 しかし、部品そのものの消耗度だけは変え

ることが出来ない。元々雨ざらしになってい

たスクーターのエンジンはすでにボロボロだ

ったのである。そんなものを利用しなければ

ならないほどに、現実のヒロインというもの

は苦労しているのだ。

 「そろそろ、脇道に入らないと…」

 アスラはベルトのポーチから、小さな手帳

型のコンピューターを取り出した。蓋を開い

て、画面に周辺の地図を表示させる。

 自分の位置が赤く点滅表示されていた。

 シグルドの持っていた物と同型の30世紀テ

クノロジーが生み出した機械で、軍事衛星の

データを利用したGPS機能を有している。

 GPSとはグローバル・ポジショニング・

システムの略称であり、人工衛星を使用し、

全世界どこにいても現在位置を割り出す測位

システムのことである。地球上空にある24個

の衛星の内、もっとも受信しやすい3個か4

個の衛星からの電波を受信し、緯度・経度・

高度を測る。使用する衛星はいずれも軍事衛

星であり、アメリカ国防総省(ペンタゴン)

の管理下に置かれている。

 アスラやシグルドの持つ機械は、そのシス

テムの改良型で、実に1メートル範囲の誤差

で位置を確認することができるのだ。

 「今はここか…。すると、この先から森に

入った方が最短ルートになるのね」

 衛星写真を基にした詳細地図を確認しなが

ら、アスラは前方の森に目をやった。

 鬱蒼とした森は漆黒の闇に沈み、グリム童

話に出てくる魔女の森を思わせた。最後の残

照にシルエットとなっている森は、曲がりく

ねった枝や幹を空へ広げている。オレンジと

も赤紫ともつかないトワイライトに浮かび上

がる光景が、何とも不気味であった…。

 「ヤな感じ…」

 そうは言うものの、遭難者たちが発見され

た地点に行くには仕方ない。迂回して林道か

ら入る方法もあるが、それでは現場に着く頃

には深夜を大きく過ぎてしまう。

 「仕方ないわね…」

 アスラは胸元の第2ボタンを手で撫でる。

 するとボタンから光が溢れた。超小型のリ

チウム電池を利用したライトである。アスラ

の身に着けている戦闘服には、このような特

殊機能が数多く備わっている。隠密的なゲリ

ラ活動を続けるレジスタンス御用達のもので

はあるが、未来にも007に憧れるような技

術者がいるのかもしれない。

 アスラは光を頼りに、森の中へと足を踏み

入れていった。

 秋の落日は、驚くほど早い。すでに空は群

青に染まり、漆黒の闇がその領域を急速に広

げつつあった。

 ケーッケッケッケ…!

 何処かで山鳥が鳴いた。夜目の効かぬ鳥た

ちが巣に戻る頃なのだろう。

 ガサガサと茂みをかき分け、降り積もる木

の葉を踏みしめながら、アスラは暗い森の深

奥へと進んでいく。

 遠目にチラチラと揺れるライトの光が、や

がて森の茂みに見えなくなっていった…。

 

 「アスラのやつ、どうしたんだろう?」

 レトルトのカレーを頬張りながら、忠夫が

何気なくつぶやいた。

 「心配なの?」

 テーブルの向かいに座っている唯が微笑ん

だ。すでに忠夫が同じセリフを口にしたのは

数知れない。

 「そんなことねぇよ!」

 忠夫が憮然として言う。

 「そうかしら…?」

 唯がからかうように言った。忠夫が心配し

ているのは、隠さなくても顔にしっかりと出

ている。

 「だいたいなぁ。マメに連絡ぐらい入れた

ら、どうなんだよ!」

 「アスラだって、忙しいのよ。全然知らな

い場所で、一人で探してるんだもの」

 「だったら、助けを求めてきてもいいじゃ

ないかよ」

 「誰が助けに行くのよ。私たちには学校が

あるから、行けないでしょ?」

 「……」

 唯の勝ちである。忠夫は答えられなくなっ

て、ガツガツとカレーをかきこんだ。

 「おかわりっっ!」

 無愛想に空になった皿を突き出す。

 「はいはい」

 唯が笑いながら、皿を受け取る。どちらが

年上なのか、分からない。

 「それにしても、お前は心配じゃないのか

よ。アスラのこと…」

 ご飯をよそっている唯に忠夫が聞く。

 「心配に決まってるじゃない」

 「そうは見えないんだよな。今も笑ってる

しさぁ…」

 「悪かったわね!」

 ガンガンとよそったご飯をしゃもじで叩き

ながら、唯が言った。盛られたご飯がペッタ

ンコに固められていく。

 「お、おい!」

 「うるさいわね」

 そう言いながら、唯はカレーをドボドボと

注いだ。アルミパックから肉のないレトルト

カレーがご飯に降り注ぐ。

 「はいっ!」

 「……」

 乱暴に突き出されたカレーだったが、その

迫力に忠夫が黙って受け取る。

 「……」

 唯は黙ったまま、自分のカレーを口に運び

始めた。気まずい沈黙が流れる。

 「なぁ、唯…」

 「……」

 「悪かったよ。でも、アスラから連絡はな

いのをおかしいと思わないか?」

 「…私だって、心配よ。でも、アスラを信

じて待つしかないじゃない」

 「そうかなぁ…」

 「そうよ」

 唯が黙々とカレーを口に運びながら言う。

 「そうだよなぁ…」

 忠夫はそう言って、カチンカチンになった

カレーライスをスプーンで切り崩す作業に入

るのだった。

 「ところで、お兄ちゃん」

 不意に唯が聞く。

 「何だよ?」

 「あれから、新聞に何か出てた?」

 「うんにゃ。一応は目を通すようにしてる

んだけど、何も出てなかったよ」

 「どうしてよ?」

 今度は、唯の声が険しくなる。

 「そ、そんなの知るかい!」

 「新聞っていうのは、私たちが知りたい情

報を全部教えてくれるもんじゃないの?」

 「そ、そうだっけ?」

 忠夫が首を傾げる。

 「そうよ。新聞って、そのためにあるんじ

ゃない。知りたいと思ってるのに教えてくれ

ないなんて、インチキだわ!」

 正解のようだが、正解ではない。新聞は、

そこまで万能なわけではない。

 「そ、そんなの、俺に言ったって仕方ない

だろうがっ!」

 忠夫が怒鳴り返した。それで唯もハッと自

分を取り戻したようになる。

 「ゴメン…」

 唯はおとなしく謝った。そして、ダイニン

グのサイドボードに置かれた写真立てに目を

向けた。アスラを囲んで撮った3人の写真が

その中に収められていた。

 未来人としての証拠を残せないと言うアス

ラに唯が無理に頼んで、アスラが未来へ帰る

時には棄てるという約束で撮ったものだ。

 「ハァ…」

 唯が深くため息をつく。「アスラを信じて

いる」とは言ったものの、かなり心配してい

ることには変わりない。

 「早く食べろよ。冷めるぞ」

 そう言って、忠夫は食事の続きに取りかか

ろうとした。その時、カタンと音がした。

 「ああっ!」

 唯が叫ぶ。反射的にそっちを見た忠夫の目

に、サイドボードから落ちる写真立ての姿が

映る。まるでスローモーションのように、写

真立ては床へと落ちていく。

 ガシャアアアンッッ!

 大きな破砕音と共に、床にガラスが飛び散

る。キラキラとダイヤの砂粒のように、ガラ

スの破片がきらめいた。

 「な…」

 二人は凍りついたように、その場から動く

ことができなかった。砕けた音の余韻がいつ

までも耳の奥に響き続けていた…。

 「な、何したんだっ?」

 ハッとしたように、忠夫は唯を見る。

 「な、何もしてないよ。見てたら、急に写

真立てがグラッと揺れて…」

 唯は半泣きに近い声で言った。

 「そ、そんなバカな…」

 忠夫は砕けた写真立てへと目を戻す。

 何もしていないのに落ちるなんてことがあ

るのだろうか…?

 心の中に、墨汁が水に落ちた時のようにど

す黒い何かがゆっくりと広がっていく。

 「ア、アスラに何かあったのかしら?」

 唯の声が震える。恐らく忠夫と同じように

言い知れぬ不安を感じたに違いない。

 「そ、そんなことあるもんか…」

 忠夫の声も震えていた。震えないように心

掛けても、止められなかった。

 「で、でも…」

 「き、気にするなよ。きっと風か何かで倒

れたんだよ」

 そう言いながら、忠夫は自分の言葉に矛盾

を感じている。窓も開いていない部屋に風な

どが吹くはずもなかった。

 「お兄ちゃん、どうしよう。もし、アスラ

に何かあったら…」

 唯がしゃくりあげるように言いながら、床

に落ちた写真立てを取り上げた。表面のガラ

スが無残に砕けているのが見える。

 写真のアスラをギザギザになったガラスが

襲っているような印象を受けた。

 「こういうのって、良くないことが起きる

前触れだって言うじゃない…」

 「そ、そんなの迷信だよ」

 「でも、靴ヒモが切れるとか、湯飲みが割

れるとか…」

 「大丈夫に決まってるさっ!」

 自分の迷いを断ち切るように、忠夫は大声

を出していた。

 唯は写真を抱いたまま、力なくコクンとう

なずく。そして、ゆっくりと散らばったガラ

スを集めはじめるのだった。

 そんな様子を見ながら、忠夫はフウと大き

くため息をついた。

 (アスラ…)

 心の中で遠く呼びかける

 目を向けた窓の向こうには、先の見えない

夜の闇が広がっていた…。

 

 サク…サク…サク…。

 静寂の中に落ち葉を踏みしめる音が、やけ

に大きく聞こえる。草むらの奥で鳴き交わす

虫たちの声はうるさいほどだった。

 妙神山の山中。

 アスラがハイキングコースを外れてから、

すでに2時間近くが経過していた。

 「ここから、東南東に向かうのね…」

 アスラは手帳型の小型コンピューターに表

示される地図から方位を確認しつつ、先へと

足を運んでいる。そうでもしなければ、道に

迷うことは間違いない。

 暗闇というのは、それだけで人間の方向感

覚を狂わせる作用がある。さらに視界を遮る

樹木の密集地帯であれば、効果は倍増する。

 そのような状況に置かれた人間の心理は恐

怖に圧迫され、正常な判断を失ってしまう。

 結果として、普通なら迷わないような場所

ですらも人間は遭難してしまうのである。

 夜の山での遭難は、そのようにして起こる

のが常であった。正しい道を間違った道と勘

違いし、間違った道が正しいように思えてし

まう。その道の果てが絶望であることも知ら

ずに、人は先へと急いでしまうのだ…。

 「もう、こんな時間…」

 ディスプレイに表示される20世紀日本標準

時は、すでに午後8時に近い。予定よりもか

なり遅いペースであった。

 道なき道を進んでいるのだから、当然と言

えば当然である。だからと言って、悠長に夜

のハイキングを楽しむつもりはなかった。

 「急がないと…」

 アスラは素早く小型コンピューターをしま

うと、灌木の奥へと向かった。

 行く手には、暗い森が広がっている。

 その暗さは、アスラのような強靱な精神の

持ち主にすら恐怖を与えてしまう。

 つまり…、

 木立の奥に何かがいるような気がする…。

 樹上の茂みから何かに見られているような

感じがする…。

 虫の鳴き交わす声が、自分のことを噂して

いるような疑念に囚われる…。

 自分の歩いている場所が、先程通った場所

のように思えてくる…。

 自分はすでに迷っているのではないか…?

 このままでは危険なのではないか…?

 誰かが私を迷わそうとしているのでは…?

 それは何なのか…?

 遭難した人の怨霊かもしれない。

  山の聖域を侵そうとする人間に怒る精霊な

のかもしれない。

  あるいは、山そのものが悪意を抱いている

のかもしれない…。

 思考はとめどなく流れ、あらゆる危険を勝

手に想定していく…。無意識に…。

 恐怖とは常に増殖するものであり、恐怖が

さらなる恐怖を生み出す。広がりゆく恐怖は

人間の理性を狂わせ、自分から絶望の深遠へ

と足を踏み入れさせる。

 すなわち、自滅である…。

 「フウ…」

 夜の森が与えるプレッシャーに耐えつつ、

アスラは茂みの中を進んでいく。こめかみを

幾筋もの汗が伝っていた。

 やがて、アスラは微かな音を耳にした。

 水の流れる音であった。

 「川…?」

 アスラはすぐに小型コンピューターを開い

て、位置を確認する。どうやら、臥竜渓谷の

流れにぶつかったらしい。

 GPSで表示される自分の位置は確かに、

臥竜渓谷の中流にあたる場所をマーキングし

ていた。問題の遭難地点は、ここよりさらに

上流に位置している。

 「後は、この川沿いに上へと向かえばいい

はず。ロスした時間を取り戻さなくちゃ」

 川沿いに進むということは、山や森を進む

行程よりもはるかにロスが少ない。視界も開

けているために、心理的負担もかなり軽減さ

れるはずであった。

 普通なら川沿いは滑りやすくなっているの

と、険しい断崖を形成しているために敬遠し

がちなコースである。一歩踏み外せば、川に

流されてしまう危険も大きい。

 しかし、道なき道を進むような場合は、そ

の論理は逆転する。自分の位置と状況を容易

に確認できる環境の方が、はるかに危険が少

なくなるのである。アスラはこの川沿いを移

動することによって、事件現場への最短ルー

トを確保しようとしていたのだ。

 「よし、あとは一気に…!」

 意気揚々と歩きだそうとしたアスラだった

が、ふと異様な気配に気づいて立ち止まる。

 何かが近くにいるような気配だった…。

 だが、こんな夜の山中に人がいるとは考え

られなかった。

 「まさか…」

 アスラはゆっくりと腰から、レーザーナイ

フを取り出した。サインペンほどの小さな物

だが、芯の部分が高周波レーザーブレードに

なっている。触れれば、一瞬にして対象を焼

き切ってしまう携帯兵装だ。

 もしかすると熊かもしれない。獰猛な肉食

獣を仮定して、アスラが緊張する。

 胸のボタンを押して、ライトを消す。

 自分の位置を教えるほど、バカではない。

 ゆっくりと茂みに身を伏せて、周囲へと目

を配った。

 「……」

 五感を研ぎ澄まし、意識を木立の彼方へと

飛ばす。葉擦れの音に耳を澄まし、闇に溶け

た森へと目をこらす。

 そして、微かな音を耳が捉えた。だが、同

時にアスラの心を戦慄が駆け抜ける。

 「う…、うう…、う…」

 誰かが泣いている?

 まさか、そんなことはあり得ない!

 すでにハイキングコースからの距離は、か

なりのものになっている。ここまで入り込む

ハイカーやアベックなどがいるはずもない。

 だが、暗闇の奥から聞こえてくるのは哀し

げなすすり泣きの声であった。

 「うう…、ううう…、う…」

 押し殺したようにも聞こえ、哀しみを堪え

ているようにも聞こえる。

 アスラの背筋を冷たい汗が濡らした…。

 いきなり自分が異世界に放り出されたよう

な孤独感と恐怖に包まれてしまった。

 「あああ…、ああ…、ああああ…」

 声はさらに哀切の響きとなり、明らかに誰

かが泣いているのだと分かる。

 「そんな…」

 アスラはゆっくりと忍び足で、声のする方

へと向かう。レーザーナイフを握る手にじっ

とりと汗がにじむ。

 「あああ…、ああ…、あああ…」

 すすり泣きは次第に大きくなる。確実に相

手に近づいている証拠であった。

 だが、誰が泣いているというのか?

 こんな闇に包まれた森の奥地で…。

 「あああ…、ああ…、ああ…」

 闇に響く哀しいすすり泣き。これほど、人

に恐怖を与えるものがあろうか…。

 アスラでさえも、それは同じであった。

 「……」

 息を殺すように進むアスラの行く手に、何

か白いものが見えた。

 渓谷に臨む崖の一角に、誰かが立っている

ように見える。だが、その一歩先は切り立っ

た断崖絶壁なのである。

 アスラは用心深く、崖へと追い込むような

位置へと回り込んだ。

 段々と相手の姿が見えてくる。それは白い

着物をまとった少女のようであった。

 「うう…、ううう…」

 その少女は渓谷を見下ろすようにして、哀

しい泣き声を上げている。

 すすり泣く白い着物の少女…。

 完璧な怪談のシチュエーションである。

 身にまとう白い着物が、死に装束であれば

なおさらであった。

 やがて、アスラは少女の後方へと着いた。

 ゆっくりと身を起こし、少女へとレーザー

ナイフを構える。

 「だ、誰なの…?」

 尋ねるアスラの声も心なしか震えている。

 「……」

 すすり泣きが止んだ…。

 「こっちを向きなさい!」

 アスラが叫ぶ。つい大声になってしまうの

は、アスラ自身の恐怖ゆえであった。

 少女は背を向けたまま、動こうとしない。

 「向きなさい!」

 アスラは再度、叫んだ。

 少女がゆっくりと身体を動かす。まるでス

ローモーションの映画を見ているように、少

女はクルリと振り向いた…。

 「キャアアアアッッ!」

 アスラは思わず絶叫していた。戦士ではな

く、一人の多感な少女の、一人の人間の心か

らの恐怖を奏でる絶叫であった。

 振り向いた少女の顔には見覚えがあった。

 そう。それは…、あの渓谷で溺死していた

少女だったのである。

 

                            つづく