プロジェクト・エデン特別篇

「幸福が棲む谷」

 

第6回 帰らざる山

 

 「キャアアアアア…!」

 アスラの絶叫が余韻を引いて、闇に溶けた

妙神山の山系に響きわたる。

 振り向いた少女は哀しげな瞳で、アスラを

見つめていた。涙に濡れた、そして憂愁を秘

めた瞳であった。

 その哀しげな雰囲気が、さらにアスラの心

に恐怖を吹き込む。何しろ、目の前に立って

いるのは、明らかに死んだ人間なのである。

 「そ、そんな…」

 あり得ない現実を目の前にしたアスラの思

考はパニックに陥っていた。

 高沢という新聞記者を追うシグルドと共に

臥竜渓谷の下流へと向かい、そこで引き上げ

られた少女の死体をアスラも見ていた。

 シグルドの放ったテレビバエから送られて

くる画像に映っていた少女の痛ましい亡骸を

その目でしっかりと記憶したはずだった。

 名工の手による白磁を思わせる透き通った

肌に生命の色はなく、その瞳からも生命の輝

きは永遠に失われていた…。もっとも生命を

輝かせる年齢の少女であるがゆえに、その死

のイメージは強烈にアスラの記憶に焼き付け

られている。はかなくも美しく、鮮烈で無機

質な死の記憶として…。

 しかし、その少女は目の前にいる。

 白い着物を身にまとい、真っ暗な森の奥で

哀しげにすすり泣く少女として…。

 この状況、その姿、醸しだす雰囲気。どれ

をとっても、どう見たって亡霊である。

 谷底を流れる渓流に飲まれた我が身をはか

なんでいるのであろうか…?

 それとも若くして消えた命と失われた未来

を嘆き悲しんでいるのであろうか…?

 いずれにせよ、この世に留まらざるを得な

いほどの未練を残しているに違いない。

 その執着が彼女を幽冥の世から引き戻し、

仮初めの姿に留めているのだろうか…。

 そんなことを考えながら、アスラの心臓は

恐怖に鷲掴みにされていた。

 「……」

 少女がゆっくりと前へと動いた。

 それに押されるようにアスラが後じさる。

 少女が動く。まるで滑ってくるような動き

に感じられた。

 「こ、こないで…」

 アスラは震えながら、さらに下がる。手に

したレーザーナイフがガクガクと震えて、光

の軌跡がでたらめに闇に描かれる。

 まるで、暗がりを恐れる子供のようであっ

た。見た目が子供なのだから、間違いではな

いかもしれない。だが、アスラという少女を

知る人ならば、信じられない光景であった。

 相手が人間なら対処のしようもある。生命

あるものであれば、行動の予測も可能だ。

 しかし、相手は死んだはずの人間。さすが

に恐れを打ち消すことはできなかった…。

 「……」

 少女が近づいてくる。

 アスラはその様子から目を離せないままに

後方へと下がるしかなかった。

 「……」

 不意に少女が何かを言いかけた。口が微か

に開くような感じに見えた。

 「え…?」

 少女の表情が驚きと焦りを刻んだのに気づ

いたアスラが、ハッとする。その表情の変化

は生きた人間のように思えたからだ。

 だが、それを確かめる余裕はなかった。

 ザザザザザザザザザッッッッ!

 木々を揺らしながら、突如として何かがア

スラへと押し寄せてきたのである。それは森

が引き起こした黒い津波のようだった。

 「な…!」

 背後に立ち並ぶ木々の間を何かが駆け抜け

てくる。それは無数の黒い影であり、殺意と

狂気をはらんだ禍々しい風となって、アスラ

に襲いかかった。

 「キャアアアッッ!」

 一陣の凶風と化した正体不明の襲撃に、ア

スラは不意をつかれた形となった。慌てて顔

を覆った腕を、何かが切り裂こうとする。

 それは得体の知れない爪であり、牙であっ

た。次々に襲いかかるそれらの爪牙がアスラ

の戦闘服に突き刺さった。

 「くっ…!」

 敵の正体はつかめない。少しでも顔を上げ

ようものなら、たちまちの内に引き裂かれか

ねない猛襲であった。

 ギーッッ! ギャーッ!

 けたたましくも、禍々しい鳴き声が響く。

 その度にガツンガツンとアスラの身体に衝

撃が走る。ダイヤモンド炭素分子を応用した

カーボンナノチューブで織り上げられた戦闘

服が、敵の攻撃を防いでいる証拠だった。

 アスラの戦闘服を作り上げているのは、内

径1ナノメートル(10億分の1M)の超極細

チューブであるカーボンナノチューブだけで

はない。他にも高硬度グラスファイバー繊維

と多層構造になった衝撃吸収樹脂が十分に組

み込まれており、外部からの衝撃や破砕に対

する完全防御を実現しているのである。

 だが、いくら完璧防御を誇るとは言え、次

々に襲いかかる存在にアスラ自身の方が耐え

きれなくなっていた。防戦一方となっている

間に、いつしかアスラはジリジリと断崖の方

へと押しやられてしまっていた。

 「こ、このままでは…!」

 右手のレーザーナイフを振るうも、何の手

応えも返ってこない。相手はよほど身軽な存

在のようである。

 カラリと足元の石が崩れた。すでに完全に

崖っぷちに追い詰められていた。

 崩れた石がカランと音をたてて、漆黒の谷

底に吸い込まれていく。渓流のせせらぎがと

てつもなく遠くに聞こえた。落ちていった石

が渓流に届いた音すらも小さすぎて、耳に届

くことはなかった。

 (どうする…?)

 迷っている時間はない。だが、具体的な対

処方法は見つからなかった。

 困り果てるアスラだが、その間にも容赦の

ない攻撃は続けられている。

 ギイイイィィィッッ!

 一際大きな雄叫びが不気味に響き渡る。

 「え?」

 瞬間的に攻撃が止み、不思議に思ったアス

ラが微かにガードを下げた。しかし、それは

油断を誘う巧妙な罠であった。

 同時にアスラの身体に、何かがすさまじい

勢いで体当たりをかけてきたのである。

 「!」

 ドスンと鈍い衝撃が身体に走り、上体が大

きく揺れた。不意をつかれただけに、耐えよ

うもない。

 「ああっ!」

 致命的であった。バランスを崩したアスラ

の足が岩を踏む。だが、その岩も呆気なく崩

れた。一気に体重が支えを失う。

 ガラガラと崩れる岩と共に、アスラの身体

が宙を舞うように泳いだ。

 「キャアアアアッッ!」

 長い叫び声を残し、アスラの身体は暗い谷

底へと消えていくのだった。

 

 「今、何か聞こえた?」

 シグルドはそばにいる工作員の一人に尋ね

た。聞かれた工作員は黙って、首を振る。

 「そう…。気のせいかしら…?」

 シグルドは首を傾げる。

 確かに悲鳴のようなものが聞こえたはずだ

ったのだが…。鳥の鳴き声を聞き間違えたの

かもしれない。

 「こんな場所だからね…」

 シグルドはフッとため息をついて、周囲を

見回した。深い海の底のような暗さと静けさ

を兼ね備えた闇が広がっている。

 妙神山麓に至る山道の一角であった。

 ゆるやかな勾配の坂道がうねるように続い

ており、もう少し進むと、遭難事故の舞台と

なったハイキングコースへと差しかかる。

 アスラと同じように自分自身の目で現場を

確かめるために、やって来たのである。

 「こんなに真っ暗じゃ、見つかるものも見

つからないわよね」

 と愚痴るシグルドだが、フレイヤからの命

令では仕方ない。凄まじい剣幕で叱責された

ことが骨身に染みていた。

 『アスラに先を越されてはならない!』

 その言葉が甦るたびに、先刻の定時連絡で

のことがシグルドの脳裏にリプレイされる。

 あれほどに怒られたのは、シグルドとして

も初めてのことであった…。

  ×       ×       ×

 「アスラの捕縛に失敗した?」

 モニター画面に映し出されるフレイヤの形

相が般若のそれへと変わっていく。

 「はい、申し訳ありません」

 他に言葉もなく、シグルドは通信モードに

入っているコンピューターの画面に向かって

頭を下げた。

 「謝って、済む問題ではないわ!」

 フレイヤの怒鳴り声に、シグルドはビクッ

と肩を震わせた。

 「シグルド。あなたは与えられた任務の重

要性を分かっているの?」

 「…はい」

 「もし、そこで起こっている事件の原因が

キルケウイルスならば、私たちの計画が根底

から崩れさることになるのよ!」

 「事の重大さは分かっているつもりです」

 「ならば、どうしてアスラを抑えることが

出来ないのっ?」

 フレイヤのボルテージは一言ごとに上昇し

ている。事件の不可解さに対するストレスが

かなり溜まっていたようだ。

 もちろん、それをぶつけられるシグルドは

たまったものではない。

 「油断でした…。まさか、あれほどまでに

アスラ自身に格闘能力があるとは…」

 先刻のアスラとの戦いが思い起こされる。

 子供だと思って、甘く見たことが大きな敗

因であった。まさか、屈強な戦闘エージェン

トである工作員を相手に立ち回りが演じられ

るとは思わなかったのだ。

 「アスラは子供とは言え、レジスタンスで

鍛えられた戦士よ。今さら油断したという言

い訳は通用しないわ」

 「申し訳ありません…」

 シグルドはもう一度、深々と頭を下げた。

 神妙な様子に、フレイヤもそれ以上の怒声

をぶつけることはできなかった。

 「まあ、いいわ。今年の作物の出来を嘆く

よりは、次の収穫を期待する方が建設的と言

えるでしょう…」

 「はい…」

 「では、すぐに妙神山に向かいなさい」

 「みょ、妙神山? 今からですか?」

 シグルドが慌てたように聞き返す。

 すでに日没を迎え、夕暮れは急速に夜へと

変わりつつあった。こんな時間に得体の知れ

ない事件の起きている山へ入るのは、さすが

に正気の沙汰ではない。

 「そうです。私の考えが確かなら、すでに

アスラは妙神山に入っているはず」

 「こんな時間に…ですか?」

 「ええ。間違いないわ」

 「し、しかし…、こんな夜に」

 「事故があったばかりなのに、堂々とハイ

キングコースを外れる訳にはいかないわ。昼

間では、人の目も多いだろうしね」

 「それは、そうですが…」

 なおもシグルドは渋る。

 確かに事故が起きてから、ハイキングコー

スを外れることは禁止されている。昼間は地

元の森林警備員が巡回しており、訪れるハイ

カーたちに目を光らせていた。それを考えれ

ば、夜を選ぶのは当然であった。

 「アスラに出来て、あなたに出来ない訳が

ないでしょ。さっさと向かいなさい」

 叱責に近い鋭い声が飛んだ。

 「了解いたしました…」

 こうなっては仕方ない。シグルドは不承不

承うなずくしかなかった。

 「それと…、工作員には銃火器の携行を許

可します」

 一呼吸の間を置いて、フレイヤが言った。

 「銃をですか…?」

 ただならぬ様子にシグルドは不安を抱く。

 「何か、気になるのよ。用心することに越

したことはないわ」

 「銃を使用しなければならない事態が起こ

りうると…?」

 「何人もの人間が遭難している山よ。それ

に溺死した少女も無関係とは思えない」

 「あれは、事故では?」

 「それを確認するのが、あなたの役目よ」

 ビシッと言い渡された言葉に、シグルドは

背筋に震えを感じた。銃を使用しなければな

らないほどの危険が待ち受けている。それに

戦慄を覚えずにはいられない。

 「…アスラと遭遇した場合も、火器を使用

するのでしょうか?」

 シグルドが尋ねる。それは確認しておかな

ければならないことだ。

 「……」

 フレイヤは黙り込み、しばし考えている。

 「隊長…」

 「…許可します。アスラが何らかの妨害行

為を行った場合は、銃火器を使用しても構い

ません」

 「…了解しました」

 使用許可が出たということは、アスラ抹殺

指令と同じである。最近はアスラや中山兄妹

との馴れ合いが多くなってきたが、本来の任

務とはこういうものなのだ。

 どんな敵も、障害も、実力で排除していく

のがミレニアム軍の鉄の規律であった。

 それは正しい。

 任務の意味としては間違っていない。

 でも…、とシグルドは思う。

 作戦初期の冷酷無比なフレイヤに戻ったの

は任務遂行上、頼もしい。だが、同時に寂し

いような感慨が胸に沸き上がるのを、シグル

ドは抑えることが出来なかった。

 「絶対にアスラに先を越されてはダメよ」

 画面から消える瞬間、フレイヤはそう言い

残した。言葉の余韻は苦い味となって、耳の

奥に残った…。

   ×      ×      ×

 ガチャン!

 硬い金属の響きが、シグルドを記憶の淵か

ら引き戻した。

 金属音は、工作員が手にした銃の遊底をス

ライドさせたものだ。自動装弾システムによ

って、エネルギービュレット(荷電粒子弾)

がチェンバー(薬室)へと送られる。

 X−147荷電粒子ライフル。通称「ニッ

トヘガー」と呼ばれるミレニアム帝国軍の制

式突撃小銃である。高密度のエネルギーを弾

頭に詰め込んだエネルギービュレットを連続

射撃できる携帯兵器であった。形状は20世紀

のドイツで開発されたH&K/G3ライフル

に酷似している。

 「私が命令するまで、発砲は控えるように

するのよ」

 工作員はうなずき、安全装置をかけた。

 それだけでは心配なので、シグルドは銃の

側面にあるセレクターダイヤルを一番左に合

わせる。発射するエネルギー弾のレベルを調

整する部分で、それを最弱に合わせたのだ。

 これなら、当たったとしても麻酔銃のよう

に身体を麻痺させるだけで済む。

 無意味な暴力を振るう必要はない、と思っ

ている。軍人としては甘いのかもしれない。

 だが、シグルドは根っからの軍人になった

覚えはない。あくまでも自分は科学者の一人

だという自負があった。

 情報戦、電子戦、新技術開発のエキスパー

トとして軍籍になったつもりである。自らの

手に死の匂いをつけたくはなかった。

 「使わずに済めば、いいんだけどね」

 そう言って、シグルドは工作員を促した。

 二人はハイキングコースを外れ、暗い森の

深奥へと歩んでいく。

 その姿はやがて、闇に紛れて見えなくなっ

ていった…。

 

 ケーッケッケッケ…!

 甲高い鳴き声が響く。声の主と思われる山

鳥の姿を見ることは出来なかった。

 リーリーリー…。

 草むらの奥から聞こえる虫たちの大合唱が

うるさかった。しかし、その虫を見つけよう

と思っても見つからないのが常だ。捕まえよ

うと近寄った瞬間に鳴き声は途絶え、夜を歌

う小さな歌姫との対面は叶わなくなる。

 深く、暗い鬱蒼とした森…。

 その闇を切り開くように、二つの光がゆっ

くりと移動していく。

 「えーと、ここの座標は…」

 シグルドは手帳型の小型コンピューターを

開くと、衛星電波を利用した座標確認を始め

た。そうでもしなければ、今の自分の位置す

らも定かではない。

 「周囲に気をつけておくのよ」

 キーボードを操作しながら、シグルドは工

作員に指示する。工作員は手にしている大型

マグライトの光を森に這わせた。その光輪の

中に浮かぶ木々の幹は、のたうつ大蛇のよう

に見えた。

 「えっと、空間座標軸を固定して…。それ

から、衛星との起動誤差修正を」

 シグルドは細かく、確実な位置を割り出し

ていく。おおよその位置で判断したアスラと

は、性格的にも違っているのかもしれない。

 何にも必要以上の正確さと緻密さを要求す

るのは、科学者の性癖とも言えた。

 カチャカチャとキーボードを操作する音が

森の中に響く。

 「?」

 マグライトを周囲に向けていた工作員がふ

と耳をすませた。何か別の音を鼓膜が捉えた

ような気がしたのだ。

 「……」

 木々が立ち並ぶ森に気配を探る。

 シグルドの機械を操作する音以外には何も

聞こえなかった…。

 だが、何がいる。確実にそこにいる。

 気配だけはシグルドたちを包み込むように

重苦しい空気となって、漂ってくる。

 「……」

 カチャリと銃を構える。しかし、シグルド

の命令があるまでは安全装置を解除すること

が出来ない。あくまでも慣習的に銃を構えた

だけにすぎなかった。

 だが、この安全装置を解除しないという行

為が致命的になると誰が予想しただろうか。

 「どうかしたの?」

 工作員の様子に気づいて、シグルドが画面

から顔を上げた。

 「……」

 工作員は黙ったまま、チラリとシグルドに

目を送った。それだけでは、何が起きている

のかが分からない。

 「こういう時にしゃべれないのは、困った

ものよねぇ…」

 黙したままの工作員を見て、苦笑するシグ

ルドだった。

 言葉という複雑なコミュニケーションを抜

きに作戦行動を行うことが可能な者こそ、よ

り優秀な戦士であると言える。

 戦いに赴く兵士にとって、最大の障害は自

分の意思を持つことである。自我を有してい

る限り、迷いが生まれ、恐れが生じる。

 これではいざという時に統率された精密な

作戦行動をとることが出来なくなる。

 つまり、兵士としては不適格なのだ。

 自我を表現するのは言葉である。言葉とい

うコミュニケーション手段を有することによ

って、人は自他の情報を交換する。人は外部

から受け入れた情報を基に、自分というもの

を作り上げていく。

 全ては自分の中に存在する、と論じた古代

の哲学者もいたようだが、それは間違いだ。

 人間の有する自己とは、環境によって形成

されるものであり、外部要因によって変化す

るものに他ならない。

 ならば、外部とのネットワークを遮断して

しまえば、自己を持つことはなくなる。

 ……言葉を奪ってしまえばいいのだ。

 ミレニアム帝国では、キルケウイルス感染

をきっかけに大量の優秀な戦士の育成を行っ

た。感染者は自我を喪失しているために、砂

地が水を吸い込むように命令を受け入れるよ

うになる。こうした人間から言葉を完全に奪

い去り、精密機械のような兵士に仕立て上げ

ることは容易だった。

 その結果…。

 全ての言葉を失い、あらゆる命令を着実に

遂行するロボットのような兵士たちが誕生す

ることになった。彼らは帝国のために働く工

作員として、どんな過酷な命令をも受け入れ

る人間であった。

 言葉を持つのは、命令を下す人間だけでい

い。他の人間はそれを受け入れる理解力さえ

有していればいいのだ。両者のコミュニケー

ションに、反論、疑問、確認、躊躇、訂正な

どの単語は要らない。ただ「服従」のみが存

在していればいい。

 ……このような考えに基づいて生み出され

たのが、ミレニアム帝国軍工作員なのだ。

 「何かいるの?」

 森に向かって銃を構える工作員の様子に、

シグルドも不安を感じた。つられるように暗

い木々の彼方に目を向ける。

 確かに何かを感じる。全身の肌を突き刺す

ような禍々しい気配であった…。

 「何なの…?」

 不気味な気配に怯え、そう声を漏らす。

 その瞬間であった!

 ザザザザザザザザッッッ!

 何かが森を渡ってきた。無数の枝が絡む樹

上を、灌木のひしめきあう茂みを、緑の闇を

引き裂くように何かが走ってくる。

 それは黒い津波となって、シグルドたちへ

と押し寄せてくるのだった!

 「う、撃ちなさいっっ!」

 シグルドがたまらずに叫ぶ。

 それと同時に工作員が迫り来る気配へ向け

て、引き金を引いた。だが、安全装置がかか

ったままの銃はカチンと虚しい音をたてただ

けであった。

 「…!」

 エネルギー弾が発射されない事実に、シグ

ルドと工作員の顔が歪む。咄嗟のことだった

ので、工作員の動作が追いつかなかったので

ある。そして、あらためて安全装置を外すだ

けの余裕は与えられなかった。

 ギエエエエッッ!

 不気味な雄叫びと共に、漆黒の影が工作員

を襲う。鋭い爪の一撃が荷電粒子ライフルを

もぎとり、地面へ叩き落とす。

 「な、何してんのっっ!」

 工作員に向かって、シグルドが叫ぶ。

 慌てて銃を拾い上げようとした工作員だっ

たが、影の襲撃はそれを許さなかった。

 ギイイィィィッッッ!

 黒い津波が工作員を覆った。

 クエエエェェェッッッ!

 雄叫びが響き、凶気の爪が工作員を四方八

方から襲った。鋭い爪が、恐るべき牙が、工

作員の身体を切り裂く。

 ザシュッッ!

 布地を引き裂き、肉を切り苛む音が響く。

 ズシュッッ!

 草の香りに、血の臭いが混じった。

 「グゥ……」

 短い呻きを漏らし、ゆっくりと工作員が倒

れていく。ドサリと鈍い音が響き、それきり

起き上がることはなかった。

 「ちょ、ちょっと…!」

 驚いて工作員に呼びかけるものの、それに

対する反応は返ってこなかった。シグルドは

恐るべき敵の渦中に一人で取り残されてしま

っていた。

 ギエエエエーッッッ!

 不気味な雄叫びが森に響きわたった。

 そして、シグルドは自分の置かれた状況を

あらためて知ることになる。

 無数の視線が降り注いでいた。

 無数の爪が鈍い光を放っていた。

 無数の牙が噛み鳴らされる音が聞こえた。

 無数の気配が取り囲んでいる。

 その気配は狂気であり、殺気であり、獰猛

な飢えに満ちた鬼気とも言うべきものだ。

 鬼気を伴う闇が、静かにシグルドを取り囲

んでいる。これからの彼女の運命を嘲弄する

かのように…。

 カチカチカチカチ…。

 微かな響きはシグルドから聞こえる。震え

る歯がたてる彼女の恐怖だった。

 キィィヤァァァ…!

 間延びしたような鳴き声が聞こえた。

 クエッ、クエッ、クエッ!

 笑うような鳴き声も聞こえる。

 …さあ、どうするんだ?

 …怖くて、身体も動かせないのか?

 …どうする? どうする? どうする?

 まるでそう言っているかのようだった。

 シグルドはゆっくりと落ちている荷電粒子

ライフルに手を伸ばした。

 「……」

 静かに悟られないように、ゆっくりと。

 周囲の気配は動かない。静かに成り行きを

見守っているかのようだ。

 指先が銃に触れた。安全装置をゆっくりと

外す。カチャリと音がした。

 (お願い、このまま…)

 そう願いながら、シグルドは銃をゆっくり

と自分に引き寄せる。

 黒い闇は、まだ動かなかった。

 (よし、いける!)

 そう思った。ライフルを急いで拾う。

 空気が動いた。静から動へと。

 バッと構えたライフルの先に無数の闇が蠢

いていた。

 「うわああああっっっ!」

 思わず叫びながら、シグルドが銃を撃つ。

 バシュッ! バシュッ! バシュッ!

 ブルーサファイアの輝きに似た青白い閃光

が迸り、森に吸い込まれていく。

 だが、当たらない。震える手で放つ銃弾が

当たる訳はなかった。虚しく光は森の彼方に

突き抜けていくのみである。

 「あああああ…」

 己の無力を知ったのか、己の運命を悟った

のか、シグルドから哀しい呻きが漏れる。

 それ以上は引き金を引けなくなった。指が

凍りついてしまったように動かない。

 ギエエエエーッッッ!

 大きな雄叫びが上がった。

 闇が動いた。黒い津波となって、闇がシグ

ルドに押し寄せてくる。

 「あああ…!」

 それを為す術もなく、待ち受けるしかなか

った。肺の奥から、悲痛な空気が漏れる。

 ザザザザザザザーッッッ!

 漆黒の奔流に飲み込まれるように、シグル

ドの身体が消えていく。

 「キャアアアアアアアッッッッ!」

 絶叫が響きわたった。それは長く長く哀し

い余韻を引き、やがて消えていった。

 

 やがて、森は静けさを取り戻した。虫の声

が戻り、梢を渡る風の音が戻った。

 そこにシグルドと工作員の姿はなかった。

 

                                                              つづく