悪魔島 横浜

 

                   最終章

 

  雷雲が横浜の空を覆っていた。

 太陽が暗雲の中に隠れ、地上は闇に閉ざさ

れていく。陽光にその花弁を開いていた花は

あわてて閉じ、瓦礫の間から現れた「死美人

草」は夜の訪れを錯覚したかのように、その

死人の手に似た青白い5つの花弁を開いた。

 だが、空には吸血コウモリなどの夜行性妖

生物の姿は一匹も見えなかった。これから始

まろうとしている魔闘の凄惨さを暗示するか

のように…。

 鳴海章一郎を乗せたヘリコプターは、その

暗い空を飛行していた。眼下には、鬱蒼とし

たジャングルと化した山下公園の姿がある。

 横浜公園以上の魔境として知られ、横浜観

光協会が発行している公式ガイドブックにも

「最高危険地帯bP」の称号を与えられてい

る場所であった。

 「横浜警察本部より、ヘリ二〇三号へ。直

ちに山下公園内へ着陸せよ。緊急事態が発生

した。直ちに山下公園へ着陸せよ!」

 不意に無線が叫んだ。横浜警察本部からの

緊急指令であった。観光客が誤って遭難した

とでも言うのだろうか…。

 「相変わらず、山下公園は元気だな」

 操縦桿を握る鳴海は、クスリと笑った。命

令に従って、着陸させる様子は全くない。

 「しかしね…。山下公園の囁きに耳を貸す

ほど、私はバカじゃない」

 そう。今の命令は、山下公園に巣くう怨霊

たちが発した偽の命令なのだ。この横浜特有

の怪現象は、超自然科学の分野ではラウディ

ブ・ボイスとして知られている。

    『ラウディブ・ボイス

  死者の声がカセットなどから聞こえる霊現

象のことである。1959年にスウェーデン

の映画監督が発見し、後にラトヴィアの心理

学者ラウディブ博士によって研究し、68年に

その成果が出版されたことで広く世に知られ

るようになった。

 平気で人を騙し、巧みにたぶらかす公園。

 その声に惑わされ、公園に入りでもしたな

らば、待ち受けるのは「死」あるのみ…。

 「やはり、空路を選んだのは正解だったみ

たいだな…」

 鳴海は最高危険地帯を見下ろしながら、そ

う言った。横浜公園での経験から、山下公園

を陸路で突っ切っていくのは無謀だと判断し

たのである。

 マリンタワーが横に見える。美しいエメラ

ルド色の光が、闇を切り裂くようにタワーか

ら伸びていた。すでに電力は届いておらず、

灯台としての機能は有していないはずであっ

た。それなのに、マリンタワーは夜毎に光を

空中へ投げかける。7つの海を彷徨う幽霊船

たちを横浜へと招き寄せるかのように。

 「さて、そろそろだな…」

 マリンタワーを迂回するようにして、鳴海

のヘリコプターは着陸態勢に入った。

 

 「氷川丸…か…」

 ヘリから降りた鳴海はつぶやいた。

 目の前にはムオオオ…ンン…、と凄まじい

ばかりの妖気に包まれながら、洋上に停泊し

ている幽霊船「氷川丸」の威容があった。

 その上空を中心として、濃密な暗雲が渦を

巻いて停滞していた。時折、暗雲の中に鮮烈

な輝きを見せる稲妻は、重低音の雷鳴を響か

せ、闘いの序曲を奏でている。

 荒れる波間には、半分水没した横浜港遊覧

船の「赤いくつ号」が魔海の波に洗われてい

た。錆びついたブリッジの割れ落ちた窓ガラ

スが虚ろな髑髏の眼窩を想像させた。

 「伯爵め…、やはり此処みたいだな…」

 妖気ふきつける岸壁に立った鳴海は、氷川

丸を見つめながら言った。常人ならば、すで

にこの時点で衰弱死しても不思議ではないほ

どの濃密度であった。

 右舷に傾いた魔船へと伸びるタラップを、

鳴海はゆっくりと歩いていった。

 その時、チカッと光るものが目に入った。

 見れば、氷川丸をデコレーションしていた

電飾にパッパッパッ…と灯が灯っていく。

 「ほお…、歓迎してくれてるつもりか?」

 長いケーブルに万国旗のごとく並べられた

電球に次々と明かりがついていく。まるで空

港の滑走路に誘導灯が輝いていくように。

 窓にも明かりが点いた。海面から立ちのぼ

る妖霧の中に、不気味に朧月夜のような光輪

を滲む。美しい死化粧を施された魔船は、愚

かなる挑戦者をあざ笑うかのように、闇の中

に浮かび上がっていた。

    『氷川丸

  かっては北米航路の定期便として活躍し、

その後は病院船、復員船としても使用された

日本郵船所属の客船である。

 総トン数11652トン、全長163Mの

巨体は岸壁に係留され、船室やエンジンルー

ムの他、船首楼、世界一周室、海底探検館な

どの見学用娯楽施設が設けられた横浜におけ

る名所の一つであった。

 横浜大震災によって発生した高波に直撃さ

れた船体は右舷へと大きく傾き、Bデッキま

でが完全水没した無残な姿を晒している。

 大震災当日、オールナイトで開かれていた

大学生企画サークルの船上パーティーは、こ

の高波によって半数以上が波に呑まれ、残り

も生きて船から降りることはなかった。時々

氷川丸から笑い声や軽快なダンスミュージッ

クが聞こえ、それが一転して悲鳴と怒声に変

わり、再び静寂を取り戻すという怪現象が起

こっているのは、いまだに大学生たちの魂が

船に留まっているからであろうか…。

 「上か…?」

 タラップを登っていけば、上甲板に着く。

 波に洗われ、錆びついたタラップには数体

の白骨が転がり、すぐ近くの波間には巨大な

鮫が泳いでいる。たぶん、体長4Mはある。

 「ここは、上甲板だろうな」

 すなわち旧称で言えばAデッキと呼ばれる

部分に鳴海はたどり着いた。

 「ようこそ、氷川丸へ」

 Aデッキに入った途端、声が迎えた。

 崩れた一等社交室の先、望遠鏡が並ぶ船首

甲板にハーバートが立っていた。

 「パーティーは、まだ始まってないみたい

だな。遅れたかと思ったよ」

 鳴海は不敵な笑いを浮かべて、言った。

 「鳴海くんをパーティーへ招待したつもり

はなかったのだがね。察するに、ケイトは斃

されてしまったのかな?」

 「まあね。招かれざる客が一人ぐらいいた

方が、パーティーは盛り上がるものさ」

 「それもそうだな。ただし、無断参加の代

償は君の命で贖ってもらうことになるぞ」

 「どうぞ、お手柔らかに…」

 鳴海が答えた途端、船首甲板がベキベキと

音をたてて割れた。

 「GYAAAAA!」

 甲板の破片と白骨を巻き上げて、巨大な魔

獣が姿を現した。それは、鷲と馬とライオン

が一緒になったような奇怪な形態だった。

 「な、何だ、こいつは。こんなタイプの妖

獣は横浜にはいなかったはずだぞ」

 「ハハハ…、それはそうだろう。何しろ、

この私が創り出した魔獣なのだから」

 「創っただと?」

 「そう。人は私のことを『デアボリスト』

と呼んでいる!」

     『デアボリスト

  別名を「魔獣創造師」とも言う。死体をつ

なぎ合わせて動死体を作りだしたり、様々な

動植物の遺伝子を合成したりする狂った医学

技術に取り憑かれた者たちを指す。

 「デアボリストだと…。じゃあ、ケイトが

操っていたバンダースナッチとかいう化け物

も、お前が創ったのか?」

 静かな口調で、鳴海が尋ねた。

 「その通りだよ。中々にいい出来だったの

に、ケイトのような愚か者に預けてしまった

のが、非常に残念だよ。そうでなければ、君

に斃されるような事もなかっただろう」

 そう笑ったハーバートだったが、すぐにそ

の笑顔は凍りついた。目の前にいる鳴海を取

り囲む空気が、急速に冷えていくことに気づ

いたからであった。

 「そうか…。ならば、警友病院で殺された

同僚の仇は貴様でもあるということだな」

 「そ、それがどうした…?」

 「ケイト一人に責任を負わせたのは酷と言

うものだな。地獄で彼女に詫びるがいい」

 ゆっくりと鳴海はハーバートへと歩み始め

る。その行く手にいた奇怪な魔獣が、その言

い知れぬ殺気に後じさった。生物としての本

能が危険を察知したのだ。

 「バ、バカな。ヒポグリフともあろう魔獣

が怯えるとは…」

 「動物の本能は、決して自分より強い相手

には牙を剥かないようにするものだ。それが

欠けている愚かな生物は、人間だけだ」

 「く、くだらん。そんなものに惑わされる

魔獣ヒポグリフではないわ。かかれっ!」

 創造者の命令には本能も逆らえなかったの

か、ヒポグリフは奇怪な叫び声を上げて、鳴

海へと襲いかかった。

 ヒポグリフは、16世紀初頭の幻想画家ルド

ヴィゴ・アリオストが描いた魔獣である。鷲

とライオンを合体させたグリフォンに、馬を

加えて創り出された。ハーバートは遺伝子工

学ではなく、古代の錬金術師パラケルススが

発見したとされる万能融化液=アルカヘスト

を応用し、想像上の魔獣を完全な合成生物と

して蘇らせたのであった。

 ヒポグリフの鋭い爪が鳴海へと振り下ろさ

れた。だが、それを鳴海はほんの少し体をず

らしただけで躱してしまう。襲いかかる爪の

軌道を完全に見切っていたのである。

 「その程度では、私は斃せん」

 鳴海の冷たい声が響くや、水の剣「氷雨」

が一閃した。その剣先はヒポグリフの頸動脈

を完全に断ち切った。・・・はずだった。

 だが、ヒポグリフは倒れなかった。

 「フハハハ、バカめ。そのヒポグリフは魔

術によって、アンデッド化してある。そんな

攻撃では傷もつかぬわ」

 ハーバートが言うとおり、切り裂かれた傷

は急速に再生し、傷一つ残っていない。

 「GYAAAA!」

 雄叫びと共にヒポグリフは空へ舞った。鷲

の翼が羽ばたき、獅子の爪が殺意に輝いた。

 次の瞬間には、ヒポグリフの急降下攻撃が

鳴海を襲った。氷川丸の甲板が砕け、破片が

舞い上がる。爪を躱して跳躍した鳴海は、ヒ

ラリとヒポグリフの背後へと降り立った。

 「そうか…。なら、その細胞の一片すらも

残さぬように葬ってみせよう…!」

 鳴海に動じる様子はない。そして、彼の周

囲から沸き起こった霧が、ゆっくりとヒポグ

リフの巨体を覆っていった。

 「フハハハ、何をやっても無駄だぁ!」

 「…そうかな?」

 鳴海は言った。何も知らない子供に手品を

見せようとする手品師のように…。

 「GYAAAAAA…!」

 ヒポグリフが霧の中で苦悶していた。

 「ど、どうしたと言うのだ?」

 ハーバートが驚く。それもそのはず、ヒポ

グリフに与えたはずの不死身の肉体は、霧の

中で白煙に包まれ始めたのである。

 「な、何と…。アンデッド・ヒポグリフを

溶かそうと言うのか…!」

 「その通りだ。例え、再生細胞を有してい

るとは言え、その再生速度を超えるスピード

で溶かされてしまえば意味はない」

 「そ、その霧は何だ。何なのだぁ…!」

 動揺するハーバートが絶叫した。その様子

を見た鳴海は満足そうに微笑むのだった。

 「金星に海があったのは知ってるかな。た

だし、想像を絶する高気圧と高温の世界であ

るために水は分解され、今は存在しない。全

て硫化水素になってしまったのさ」

 「り、硫化水素だと…」

 「そう。金星の海、それはあらゆる生命の

存在を許さぬ硫酸の海なのだ。つまり、その

金星の海を呼び寄せたまでのこと…」

 鳴海の言葉を誰が信じられると言うのであ

ろうか。誰も知らぬ地底の海、誰も近寄るこ

とのない極北の氷の海、誰も潜ったことのな

い超深海、誰も訪れたことのない静謐の湖。

 あらゆる世界の水を呼び寄せ、操ることの

出来る魔人「鳴海章一郎」。だが、彼が地球

の外に存在する水、金星の海までをも操ると

言うのは余りにも信じられない。

 「バ、バカなぁ!」

 ハーバートは当然の抗議を放つ。だが、そ

れに対して、鳴海は答えた。

 「これは、現実だ」

 たった一言だった。だが、それで十分だ。

 鳴海章一郎という魔人の為すことに、疑問

を挟むことの方が愚かだったのである。

 「GYYAAAA……!」

 白煙の中でヒポグリフは消滅していった。

 その不死身の肉体のかけらも残さずに…。

 「あ…ああ…あ…」

 凄まじいばかりの恐怖がハーバートの精神

を灼き尽くそうとしていた。声帯は言葉を失

い、脳は思考する事を止めようとしていた。

   (もう、どうでもいい…)

 ハーバートは後悔していた。そして陶酔し

ていたのだった。鳴海という敵に闘いを挑ん

だことに。そして、鳴海という敵に殺される

ことに…。

 ゆっくりと近づいてくる不可避な死は、余

りにも美しく、そして静かだった。

 目の前に立つ鳴海の手に「氷雨」が光る。

 「さらばだ。ハーバート!」

 凍えるような冷たい声が耳に届いた時、そ

の言葉を脳が認識した瞬間、彼は幸せであっ

た。それが灼熱の激痛に変わり、その苦悶が

精神と肉体を滅ぼすまでの間、彼は恍惚な表

情を崩すことはなかった…。

 「さて、残るは伯爵一人だな…」

 そう言った鳴海は、死闘を終えた氷川丸の

船首甲板を後にした。

 後には何も残っていなかった。

 

 汚れて、表紙の文字も読めなくなった本が

床に散らばる読書室。そこを抜けて、鳴海は

後部甲板へと歩いていった。

 壊れた椅子や机の間に白骨が見える。此処

で行われた大学生のパーティーにおける犠牲

者たちだろう。暗く澱んだ闇には無数の気配

が漂っており、普通の人間ならば確実に凍死

するほどの冷気が渦巻いていた。

 苦しみ、恨み、後悔、生への渇望、哀しみ

と悲しみ。嘆きの声は絶叫となり、この船に

囚われた魂の慟哭であった。

 だが、そんな怨霊たちでさえ、飄然と歩い

ていく鳴海の足を止めることは出来ない。

 やがて、鳴海はオープンステージであった

部分へと出ていた。そこまで行くと、怨霊た

ちの気配はなくなっていた。その代わりに立

ち込めているものは鬼気であった。

 「何処にいる…、伯爵!」

 鳴海は大震災当時の惨状を留める後部甲板

に向かって、言った。

 その回答は、数個の銀色の光となって鳴海

の頭上から襲いかかった。

 「!」

 すばやく察知し、横っ飛びに躱せば、一瞬

前まで鳴海がいた場所を数本のナイフが貫い

ていた。

 「不意打ちとはな。よくそれで貴族だの、

伯爵だのと名乗れたものだ」

 その抗議を聞いたのか、さらに幾つかの銀

光が、鳴海へと飛来した。

 「無駄だっ!」

 鳴海の手に握られた「氷雨」が飛来したナ

イフを一瞬にして、それらをはじき飛ばす。

 クルクルと回転しながら、ナイフたちは甲

板へと突き刺さった。

 「伯爵…!」

 見上げれば、Aデッキの一つ上の階層にあ

たるボートデッキに一塊の闇が立っていた。

 全身から噴き上がる妖気、あらゆる光を吸

収してしまうような漆黒の僧服に身を包んだ

不気味な老人。伯爵であった。

 「よく来たな…。鳴海章一郎…」

 底知れぬ暗黒の響きを持つ声であった。

 「伯爵…」

 「ここまで来るとは、さすがと言わせても

らおう。お前をそこまでさせる動機とは何な

のだ。あの娘に惚れたか…?」

 伯爵の問いに 今度は鳴海が笑った。

 「ハハハ…。貴族を名乗りながら、その程

度の発想かい」

 「違うのか。ならば、聞かせてもらおう」

 「簡単なことさ。私は刑事だ」

 「何…?」

 「伯爵。貴様には色々と容疑がかかってい

る。横浜在住の5人の魔術師の殺人容疑、伊

勢佐木大量殺人の容疑、警友病院における警

官大量殺害容疑、宮崎香澄誘拐容疑、横浜警

察本部内における殺人未遂容疑、他にも騒乱

罪、殺人教唆、ついでに公務執行妨害もつけ

ておいてやろうか?」

 鳴海は一気に言い放った。それを聞いた伯

爵に驚きの色が浮かび、その色は失望の色へ

と変わっていった。

 「フフフフ…。くだらぬ、余りにもくだら

ぬ理由だ。それほどの力を持ちながら、その

ような愚劣な動機の為に使うのか…」

 「それはお互いさまだろ。宮崎さん一人を

奪うために、妖人たちを使役した過去をもう

忘れてしまったのかい?」

 「あのような娘に執心したのではない。儂

が求めておるのは『真理』のみ…」

 「それも愚かな理由さ。そんな存在するか

どうかも判らないモノのために、この横浜ま

で出掛けてきたとはね」

 「小人には、偉大なる真理を求める者の心

は図り知れぬものだ…」

 伯爵は陰々とした声で笑った。

 「じゃあ、その真理とやらは見つかったの

かい?」

 鳴海は聞いた。それによって、香澄の安否

も知れるというものである。

 「…まだだ。まあ、簡単に見つかってしま

うのでは価値もない。お前を始末した後に、

ゆっくりと調べさせてもらおう」

 「宮崎さんの遺伝子をか。それとも同じ因

子を持っていた人々をか?」

 「ケイトが喋ったか…。あの女も失望させ

てくれるものだ」

 「その女を重用した人間の失敗さ」

 「……。儂の考えを聞かせてやろう。真理

とは一人の人間に存在するものではない」

 「どういうことだ?」

 「恐らくは、このカオスに満ちた横浜に住

む人間の遺伝子の中に細かなパーツとなって

いるのだろう。だから、それを集めてしまえ

ばよいのだ」

 「横浜に住む人間全てを殺す気か?」

 「偉大なる真理を得るためだ。その程度の

犠牲で真理を得られるのならば、安い代償と

言うべきではないのかな?」

 伯爵は鳴海を見つめた。遙か太古より人間

が追い求め、得られなかった真理を横浜と引

換えにすることは、果して安いのだろうか。

 人は真理を求め、度重なる戦乱と悲劇を引

き起こしてきた。もし、ここで人類の歴史に

これ以上の闘いを記録しないで済むのなら、

それは安い代償とは言えないだろうか。

 「……無意味な問答だ。私は横浜機動警察

の鳴海章一郎。大量殺戮の予告を聞いて、貴

様を野放しにする訳にはいかない」

 鳴海を取り巻く空気が冷えていった。それ

に気づいた伯爵の声にも鬼気がこもる。

 「逮捕するか、この儂を…?」

 「斃すのさ。それに貴様を斃す最大の理由

は、私が追っていた犯人を目の前で殺された

事に対する報復だ!」

 ああ…、それは関内駅で殺されたエルフマ

ンの事を言っているのか…!

 「愚か者めっ!」

 伯爵が叫んだ。それと同時に甲板に突き刺

さっていたナイフが抜け、クルクルと回転し

ながら空中へと戻っていく。

 「17世紀中頃に活躍した魔女狩りの専門家

であるマシュー・ホプキンスが作らせたナイ

フだよ。『魔女狩りナイフ』と呼ばれている

もので、イギリス全土で数百人の罪もない女

たちの血を吸ったものだ」

 「悪趣味なコレクションだな…」

 「殺戮の怨念に満ちたナイフだ。狙った獲

物は決して逃さぬよ…」

 伯爵の言葉通り、ナイフは空中に静止し、

四方八方から鳴海を狙っていた。

 ヒュオッ!

 風を切る音がして、ナイフが襲いかかる。

 鳴海の剣技は、それをはじき飛ばした。

 それが合図であったかのように、ナイフが

次々に飛来した。それらを鳴海は正確無比に

叩き落としていく。だが、カランと音を立て

て甲板に落ちたナイフは、再びギュウウンと

回転しながら空中へと舞い戻ってしまう。

 「これは…!」

 再び、ナイフは鳴海を取り巻くようにして

滞空していた。その刃先は怨念と殺意に濡れ

光っている。

 「無駄だ。謂われなき罪で殺された女たち

の怨念は、簡単に消えるものではない!」

 「…ならば、その報われぬ魂もろとも消し

去ってやるとしよう」

 鳴海の声は氷点下の冷たさであった。

 その声に弾かれるように、魔女狩りのナイ

フは一斉に鳴海へと襲いかかった。

 鳴海は動かない。正に突き刺さる直前、

 「キエエエエイ!」

 と鳴海が気合一閃、「氷雨」を振るう。

 バキイィィ…ン!と音が響いて、全てのナ

イフは一瞬にして砕け散っていた。

 「な、何だと!」

 余りの出来事に、さしもの伯爵も驚く。

 きらめく破片が輪のように散って、その中

心に立つ鳴海は、氷の微笑を浮かべていた。

 「今、私が持っている『氷雨』に込められ

ている水の成分を変えただけさ」

 「な、何に変えたというのだ?」

 「マグネシアさ…。奇跡の泉ルールドの主

成分となっているものだ。あらゆる病を癒す

ルールドの水ならば、病んだ心をも癒してく

れるだろうと思ってね」

 「マグネシアだと…!」

 伯爵が驚愕する。

 マグネシアとは、古代ギリシャの哲人プラ

トンの著書「シーリア」に出てくる水のこと

で、四大元素から生み出された奇跡の水を意

味している。その製法は秘儀中の秘儀とされ

ており、それを知る者は存在しない。

 そのような水を呼べるとは、やはり鳴海と

は魔人としか言えなかった。

 「お前を見くびっていたか。ならば、この

儂も伯爵の名に賭けて、お前を斃す!」

 伯爵が跳躍した。黒い僧服が風に広がり、

一羽の黒い魔鳥と化した。

 「来るか!」

 鳴海が身構えた瞬間、きらめく白刃が頭上

から襲いかかった。それは「氷雨」と噛み合

い、閃光を発した。

 「クッ…!」

 全身を貫く衝撃に鳴海は顔をしかめつつ、

後方へ跳んだ。その前に、不気味な一振りの

長剣を手にした伯爵が立っていた。

 「ローマの暴君ネロが愛用したという魔剣

ソウルイーターじゃよ。斬った人間の魂を喰

らうばかりか、使用者の命をも削る。危険な

剣だが、お前を斃すには必要だろう…」

 「魔剣ソウルイーターか。『魂喰らい』と

異名を持つ剣を所有していたとはな…。横浜

開港博物館にでも寄付したらどうだい?」

 鳴海は、冷やかに微笑を込めて言った。

 「そんな冗談を言っている余裕が、お前に

はあるのかな?」

 伯爵がそう言うと、指を組み合わせた。

 「暗黒の闇に揺れる地獄の業火よ。古えの

契約に基づき、我が前に現れよ…」

 不気味な呪文と同時に、伯爵の周囲に不気

味な青白い火の玉が出現した。

 「ウィル・オ・ウィプスだ。日本の言葉で

鬼火と言った方が分かりやすいかな?」

 「フ…、氷川丸に囚われている哀れな魂を

触媒にしたな。その鬼火で、この私を焼き尽

くすことが出来るか…?」

 「やってみせよう!」

 伯爵が手を振ると、鬼火が一気に鳴海へと

飛んだ。それはマジック・ミサイルとでも言

うべきもので、確実に鳴海へと飛来する。

 ドッグワアアアン!

 大爆発が起こり、甲板に使われていた船材

が紅蓮の炎と共に飛び散った。その炎をシル

エットに空中に飛ぶ鳴海の姿があった。

 「それで逃げたつもりか!」

 伯爵が叫び、新たな鬼火が鳴海を襲う。

 どのような武闘家であっても、空中では体

勢を変えることは出来ない。地面でも、床で

も、身体を支える何かがない限り、身体の向

きを変えることは不可能なのだ。

 「おおおおっ!」

 伯爵が驚く。鳴海は絶対不可能な状態で身

体を反転させたのであった。鳴海は空気中に

存在する水分を一瞬に凍結させ、氷の壁を空

中に作りだしたのであった。それに手をつく

ことによって、不可能を可能にしたのだと伯

爵に理解できただろうか…。

 「氷礫!」

 空中で鳴海が叫ぶ。と同時に、空気中に存

在する水分は、今度は氷の礫となって伯爵に

降り注いだ。

 「笑止な…!」

 伯爵は僧服のフードを被る。それに当たっ

た氷の礫は虚しく砕け散った。

 「氷柱舞!」

 氷の礫が通用しなかったと判った瞬間、鳴

海は次の攻撃を仕掛けた。それはあのチャー

リーを斃した技であった。海水に洗われた甲

板に残る水分を結集して、巨大な氷柱が伯爵

を襲った。だが、それすらも僧服に阻まれて

粉々になってしまうのだった。

 スタッと甲板へ着地する鳴海に、伯爵はニ

ヤリと余裕の笑みを送った。

 「神聖ローマ帝国の破戒僧シリャスが身に

つけたと言う『負の僧服』じゃよ。これを纏

っている限り、どのような攻撃も通用せん」

 さすがに妖人たちを束ねる伯爵であった。

 その絶大なる魔力は、鳴海の攻撃はことご

とく通用しない。これまで、幾人もの妖人を

葬った鳴海の技がである。

 「……」

 鳴海は黙っていた。何よりも彼自身の体力

が限界に近づいていたのだった。

 「ほお、余りにも冷たく、凍えるような冷

静さを持ったお前にも、息があがるというよ

うなことがあるようじゃな…」

 伯爵は見抜いていた。

 「だが、儂は容赦せんぞ!」

 魔剣ソウルイーターがその刃先に輝きを結

んで、鳴海を襲った。それを躱す鳴海だった

が、その動きはいつものキレがない。

 「グッ!」

 鋭い切っ先が鳴海の右肩を抉り、血の花を

散らした。それでも、鳴海は何とか身を翻し

て、伯爵からの距離を取った。

 「フフフ…。お前のような男でも、血の色

は赤かったようだな」

 伯爵が言うように、右肩を押さえた鳴海の

指の間から小さな蛇が這い出すように、細い

血流が滴っていた。

 「そうだな。自分でも知らなかったよ」

 そう微笑んだ鳴海だったが、急にクラッと

目眩がする。全身を貫く悪寒が、肉体機能の

全てに警報を鳴らしていた。

 「フフフ…。どうしたのかね?」

 そう言う伯爵の姿が、鳴海の視界の中で空

中へと舞い上がる。

 「な、空中浮揚か…!」

 鳴海は言うが、そうではなかった。天地の

全てが逆転していたのだ。海は頭上にあり、

暗雲たれこめる空は足の下にあった。

 「こ、これは…?」

 伯爵の魔力は天地をも逆転させてしまうと

でも言うのだろうか。それほどの魔力を持つ

妖人に勝てると言うのか…。

 「フフフ…。天地が引っ繰り返ったかね」

 伯爵は鳴海の驚愕した表情を見破ったかの

ように笑った。その手に炎の塊が宿り、それ

は次々と鳴海へと襲いかかっていった。

 グワァン!グワァン!グワァン!

 次々と甲板に火球が起こり、轟音が氷川丸

の船体を揺るがした。

 「ハハハハ…、鳴海章一郎よ。この船がお

前を黄泉へと送るカロンの船よ!」

 ギリシャ神話に出てくる三途の川の渡し守

の名を叫びながら、伯爵は勝利を確信した。

 その言葉通り、鳴海は倒れていた。鳴海の

視界の中では空中に、だが感覚は冷たい甲板

を感じ取っていた。

 「そ、そうか…。幻覚だったのか…」

 鳴海は起き上がり、「氷雨」の切っ先を自

らの足へと突き刺した。激痛が脳を灼く!

 「フフフ…、気づいたか。だが、その程度

で幻覚の世界から逃れられると思っているの

かね?」

 伯爵の言う通りだった。激痛を味わいなが

らも、鳴海の視界はそのままであり、平衡感

覚も著しく狂わされていたのである。

 「儂の魔力の恐ろしさを知ったか!」

 万事休すなのか…。

  その瞬間、パリンという音がした。

 「な、何…!」

 伯爵が驚愕した。その目は頭上のボートデ

ッキに置かれていたランプに注がれていた。

 そのランプが砕けた瞬間、鳴海の視界は現

実のものへと復元したのである。

 「バ、バカな…!」

 伯爵が信じられないという表情で言う。

 

   その同時刻・・・、

 馬車道十番館の居間で、ヒルダ・シップト

ンが見つめていた水晶球から目を離して、安

堵のため息を漏らしていた。

 「オレゴニアのランプは壊したよ。あとは

お前さんの仕事さ…」

 ヒルダは疲れた表情で言った。

 矢車草の一種であるオレゴニアの粉末と、

ウップ鳥の血を混ぜてランプに入れ、火を灯

せば、天地が逆転するような錯覚を起こすの

である。伯爵はその魔術を行っていたのだ。

 その悪魔のランプを、ヒルダの念力が破壊

したと、伯爵も鳴海も知らなかった。

 

 「姑息な手を…」

 鳴海がゆっくりと立ち上がった。その目に

は決意と生気が戻っていた。

 「オレゴニアのランプが破壊されたとて、

お前のその身体で、この儂が斃せるか?」

 「斃せるさ!」

 鳴海の全身から、青白い光が揺らめくよう

に立ちのぼった。それは、陽炎のようでもあ

り、天へ駆ける龍のようにも見えた。

 「バ、バカな。これほどのオーラを発する

ことが出来る訳がない!」

 驚愕する伯爵に対して、鳴海は言った。

 「やっと判ったよ。真理とやらがね…」

 「な、何だと?」

 「真理とは、人間から最も遠い存在で、最

も身近にあるもの。ヒルダの婆さんが言った

言葉の意味がやっと理解できたよ」

 「何を言っているのだ?」

 「真理とは、人間の生きようとする力、生

きようとする心、その限りなき力の源こそが

真理だったのさ!」

 鳴海はそう叫び、水の剣を構えた。

 その瞳には強い意思の力が宿っていた。

 「ふ、ふざけるな。そんな他愛もない存在

が、真理だと言うのか!」

 「混沌の中にあるという真理。伯爵、あん

たのやり方は決して間違っていた訳じゃなか

ったんだよ」

 「ど、どういうことだ?」

 「あんたは、霊的均衡を崩し、人々を殺戮

と狂気の世界へたたき込もうとした。その絶

望的な混沌を生み出すことは、真理への一歩

であることは間違いない。そのような絶望的

な状況の中でも、生きようとする心の放つ輝

きとパワーこそが真理だったのだ」

 鳴海は伯爵へと言い放った。

 「そ、そうか…。だからこそ、この横浜と

いう街の人間の中に、幾つもの変異遺伝子が

生まれていたのか…」

 伯爵は呆然とつぶやいた。

 混沌と秩序、生と死、滅びと再生が混在し

ながら、常に死の匂いが立ち込める横浜。

 そのような街にもかかわらず、そこに生き

る人々は活気に溢れている。すぐ隣に迫って

いる死の影を知りながら、彼らは日々を生き

残り、明日の朝日を見ようと頑張っている。

 絶望の中に見出す生への渇望が、横浜に住

む人々の身体を変えていくのだ。過酷な状況

の中でも生きていける人間に。絶望に屈する

ことのない人間に。希望を決して忘れない人

間に。それは一つの進化であった。

 横浜に住む人々は進化する。それこそは、

人間がより高次元な生物へと歩むステップで

あり、新たなる世界の創造へとつながる一歩

であるに違いない。

 混沌=カオスの中から生まれる新たなる秩

序に基づいた新世界=コスモス。

 それこそが、横浜という街であったのだ。

 「そ、それが真理なのか…」

 「ああ。人間は普通、死というものを身近

に感じない。本当の絶望というものを知らず

に生きている。そのような状態では、到底真

理などには辿り着くことも出来まい…」

 呆然としている伯爵に鳴海は言った。

 それに対して、伯爵がつぶやいた。

 「で、では…、人は死の絶望に囚われた瞬

間に、真理に気づくと言うのか…?」

 「いいや。その状況下でも、生きようとい

う強い力が働かなければ、真理は得られない

だろうよ。心の片隅に少しでも死を受け入れ

ようとする感情、絶望に屈する感情が残って

いれば、それは真理に到達することなく、た

だの死を迎えるだけの結果となるはずさ」

 鳴海は記憶の彼方にある顔を思い浮かべな

がら、言った。

 不可避な死を目の前にしながら、決して逃

げることなく立ち向かっていった大石と各務

野という二人の刑事の顔を。

 妖戦車に蹂躪されながら、それでも必死に

闘おうとした伊勢佐木町の住人たちを。

 ケイトに利用された事を悟り、肉体の死と

引換えにして、魂が死んでしまうことを避け

たバルトハウザーと呉蘭の顔を。

 妖獣や怪奇植物、あらゆる怪奇現象に翻弄

されながらも、くじけずに生きていこうとし

ている横浜の人々の姿を…。

 「この横浜という街がなければ…」

 伯爵が喘ぐように言った。その言葉を継い

だのは鳴海であった。

 「人は真理を得られなかった。あるいは、

人を真理に導くために、この街は生まれたの

かもしれないな…」

 鳴海はそう言って、天を仰いだ。

 もし、そこに神がいるのならば、神とは何

と残酷で、過酷な試練を与えるのか…。

 「クククククク…」

 不意に伯爵が笑いはじめた。

 「伯爵…!」

 鳴海が剣を構え直す。伯爵から溢れる妖気

は鬼気と化し、絶大な魔力の膨張を感じさせ

るものとなっていた。

 「わかった…。よぉく、わかったぞ!」

 伯爵の顔は狂気に彩られていた。

 「絶望と死が人間を真理に導くのならば、

儂は人々を真理へと導く預言者となり、人々

を高次元な生命へと進化させる神となる!」

 「何…!」

 「この世の全てを破滅に導いてやるのだ」

 「伯爵、ついに本性を現したな!」

 「フフフ…。先ずはこの横浜だ。儂が築き

上げようとする新世界に、先駆者は必要とし

ない。歴史に名を刻まれるのは、儂だ!」

 そう叫ぶや、伯爵が跳躍した。魔剣ソウル

イーターが鳴海へと襲いかかる。

 ガキィン!

 鳴海の「氷雨」がソウルイーターを受け止

めていた。今度は衝撃波に弾き飛ばされるこ

ともなく、鳴海は立っている。

 「な、何と、真理を得たというのか。鳴海

章一郎、お前は進化したというのか…!」

 「そうではない。私を支えているのは、貴

様の野望の犠牲になっていった人々の無念だ

けだ。横浜の人間としての、貴様に対する怒

りだ!」

 鳴海が思いっきり「氷雨」で伯爵を弾く。

 跳ね飛ばされた伯爵はそのままボートデッ

キへと通じる階段へと突っ込む。それだけの

力が鳴海から溢れだしていたのだった。

 「おのれぇ…!」

 体勢を立て直した伯爵は憎悪の目を鳴海へ

と向けた。

 「どうした、伯爵。その程度で倒れる妖人

ではあるまい」

 「いい気になるな、小僧!」

 伯爵の全身から真紅の妖気が立ち昇る。

 「闇に捧げる血の聖餐杯よ、慟哭する罪深

き怨霊の気に満ちよぉぉ。魔剣に封じられし

魂を贄に、暗黒の契りを新たに結ばん!」

 魔剣ソウルイーターから無数の気が流出を

始める。それは、今までに魔剣に斬られ、吸

い取られた犠牲者の魂であった。そして、そ

れを触媒にした伯爵の魔術は、伯爵自身の肉

体を変貌に導いていった。

 「うおおおおおお…!」

 伯爵の身体を包む真紅の妖気が増大し、そ

の中で伯爵の身体は巨大な妖虎となった。

 「フハハハハ、鳴海章一郎よ。この地獄の

妖虎の牙で貴様を噛み裂いてくれるわ」

 妖虎と化した伯爵が高らかに哄笑する。

 「妖魔と成り果てた貴様にかける情けは、

微塵もない」

 極低温の言葉で、鳴海は宣告した。

 伯爵に対する処刑宣告を…。

 「ほざけえぇぇぇ!」

 妖虎が真紅の妖気を吐き出した。それは灼

熱の吐息となって、鳴海を襲う。

 ドッグワァァァン!

 轟音が響き、紅蓮の炎が甲板を引き裂く。

 素早い動きで炎を避けた鳴海を追いかける

ようにして、次々と爆発が起こる。妖虎の吐

き出す灼熱の吐息は数千度の火炎放射となっ

て、氷川丸の甲板を業火に包んでいく。

 「鳴海ぃぃ、もう逃げ場はないぞぉぉ!」

 後部甲板のギリギリまで追い詰められた鳴

海の前へと妖虎が舞い降りる。

 「さらばだ。鳴海章一郎ぉぉ!」

 妖虎の顎がゆっくりと開き、最後の一撃と

なる灼熱の吐息が放射された!

 「水鏡!」

 鳴海の前に出現した水の鏡は、無敵の盾と

なって灼熱の吐息を跳ね返した。その吐息は

伯爵を貫き、後方にあるブリッジを直撃する

結果となった。紅蓮の炎が噴き上げ、氷川丸

のブリッジは大爆発を起こす。

 その炎の中から、真紅の妖虎が姿を現す。

 ブリッジ全体を吹き飛ばすような爆発の中

ででも、伯爵は生きていたのだった。

 「よ…、よく…もぉぉ…、この儂を…、こ

のような目に合わせてくれたなぁぁぁ…!」

 生きていたにせよ、かなりのダメージを伯

爵は受けているようであった。その事が、却

って伯爵の怨念を増幅させていた。

 「鳴海ぃぃ…、マストを見るがいいぃぃ」

 鳴海は言葉に誘われるままに、メインマス

トの方を振り返った。

 「宮崎さんっっ!」

 メインマストの上方、その十字架のように

なっている部分に香澄が磔にされていた。

 「貴様の助けようとしていた娘だぁ。あの

娘を助けたくば、貴様の手にしている水の剣

を捨てるのだぁぁぁ!」

 ついに伯爵は貴族の仮面をかなぐり捨てて

卑劣な手段へと訴えてきたのである。

 「伯爵、地に堕ちたな…」

 憐れむような眼差しは、氷の視線だった。

 「ほざけぇぇ、どうするのだ。その娘を見

捨てることが出来るのかぁぁ!」

 妖虎とした伯爵は、その口を香澄の方へと

開いた。あの灼熱の吐息を受ければ、香澄の

身体は一片も残さず焼失するであろう。

 「…わかった」

 鳴海の手から「氷雨」が崩れる。ただの水

に戻った「氷雨」は、その大きさからは信じ

られない程の水流となって、甲板を流れてい

くのだった。

 「フハハハハ、愚かな、余りにも愚かなヤ

ツよ。それほどの力を持ちながら、最後に情

に滅ぶか。見た目ほど、冷酷になりきれぬの

が、貴様の弱点だぁぁぁ!」

 哄笑をふりまきながら、伯爵は香澄の方へ

と向かう。香澄の正面まで行くと、その巨大

な顎を開いた。

 「伯爵。それはどういうことだ?」

 「愚か者め。貴様との約束など、守るはず

がなかろう。この娘の中に眠る真理も、全て

儂が喰らってやるわ!」

 「そんなことだと思ったよ。この私がそれ

ぐらいの事を見抜けない訳がないだろう。貴

様に情状酌量の余地があるかどうかを確かめ

たまでのこと…」

 鳴海は淡々と言った。その極低温の響きに

伯爵は一瞬怯んだ。だが、それを打ち消すか

のように高らかに哄笑する。

 「ハハハハ、負け惜しみを言うな。水の剣

を失った貴様に、何が出来ると言うのだ」

 「愚か者は、貴様だ。伯爵!」

 鳴海は冷厳と言い放った。その瞳に冷たい

炎が揺らめく。

 「自分が何処にいるのかを判ってないよう

だな。ここは何処だ?」

 「ひ、氷川丸だろう」

 「氷川丸は何処にある?」

 「横浜の港に決まってい…、ま…まさか、

お前は、この…」

 「そう、横浜の魔海も、水だ。水ならば、

私に操れぬ訳がない…」

 鳴海の言葉が終わらぬ内に、氷川丸を取り

巻く海面が激しく渦を巻きはじめる。

 「な、鳴海ぃぃ、お前はぁぁ!」

 伯爵の声に大きく動揺が感じられた。

 「水王瀑龍陣…」

 凍るような声と同時に、魔海の渦巻く海面

から、巨大な水の龍が立ち上がった。

 「ヒイイイイイ!」

 伯爵が悲鳴を上げた。氷川丸を囲むように

して現れた水龍は、数十メートルの巨体で妖

虎となった伯爵を睥睨したのである。

 「闘う場所を間違えたな…」

 極低温の声がすぐ近くから聞こえた。

 伯爵が水龍に気を取られている間に、いつ

しか鳴海がマストの上に立っていた。その手

には戒めを解かれた香澄が抱き抱えられてい

た。気を失っているだけのようだ。

 「な、な、鳴海ぃぃぃ!」

 伯爵の瞳が絶望の色に彩られた。

 「伯爵…。やはり貴様は真理を得られなか

ったようだな…」

 凍結した声が合図となって、水龍たちが四

方八方から伯爵へと突き刺さった。

 「ギャアアアアッッ!」

 超水圧の奔流の中で、真紅の妖虎は消し飛

び、その中から現れた伯爵の身体も圧潰し、

四散してしまうのだった。

 甲板へと降り立った鳴海に、激しい飛沫が

豪雨となって降り注いだ。

 「終わったか…」

 鳴海がつぶやいた瞬間だった。

 「鳴海ィィィィィィ!」

 凄まじい怨念の叫びを上げて、伯爵の生首

が頭上から襲いかかってきた。

 「地獄への道連れじゃあぁぁ!」

 伯爵の眼は狂気に輝き、大きく開いた口の

中には、もはや人間のものとは思えぬ牙が並

んでいた。そして、それが狙っていたのは鳴

海ではなく、香澄の方であった。

 「ハアッ!」

 鳴海の手が一閃した。その手にはいつの間

にか「氷雨」が握られていた。

 「ギャアアアッ」

 伯爵の顔の中心に朱色の線が走り、次の瞬

間には首は真っ二つになっていた。

 「消え失せろ!」

 鳴海の一言に「氷雨」は超水圧の小さな奔

流に変化して、伯爵の首を押し潰した。微塵

も残さずに伯爵の首は水のベールの向こうへ

と消えていったのだった。

 「終わったな…」

 鳴海はつぶやいた。

 ゴロゴロゴロ…と氷川丸の上空を覆ってい

た暗雲が晴れていく。雲間から太陽が顔をの

ぞかせ、陽光が降り注ぎはじめた。

 その光に浄化されるように、氷川丸を中心

としていた妖気の渦も晴れていくのだった。

 今までの死闘が幻であったかのように、横

浜の海は穏やかな表情を見せ、波は陽光を受

けて虹色の万華鏡のように輝いていた。

 氷川丸はユラユラと波の反射を受けて、美

しくきらめきながら、浮かんでいる。

 ブリッジは徹底的に破壊され、引き裂かれ

た甲板は無残に焼けただれていた。陽光に照

らしだされた姿は満身創痍であっても、もは

や魔船とは思えぬ安らぎと静寂が氷川丸を包

んでいた。

 「……」

 鳴海は香澄を優しく抱きながら、甲板の上

からその様子を見つめていた。

 

   そして、また一日が始まる…。

 

 いつしか、氷川丸の上を妖鳥たちが鳴き交

わしながら舞い始めていた…。

 「う…うん…」

 その日差しの中で、香澄が目を開いた。

 「起きましたか?」

 「あ、あれ…、鳴海さん?」

 まるで居眠りしていたのを起こされたよう

に、香澄はキョトンとした顔で鳴海を見た。

 その余りにも呑気な様子に、さすがの鳴海

もククッと笑わざるを得なかった。

 「あ、あの…、私…」

 自分が鳴海の腕の中に抱かれていることに

気づいた香澄が、顔を赤らめた。

 「大丈夫ですか?」

 ゆっくりと香澄を地面に下ろしながら、鳴

海が尋ねる。

 「え…ええ…」

 自分で立ち上がった香澄は、状況も全く判

らないままにうなずくのだった。

 「それは良かった」

 そう言って、鳴海は微笑んだ。

 とても暖かい微笑であった。

 

 

 

      エピローグ

 

 横浜にいつもの日々が戻っていた。

 空を舞うのは、肉食鳥や大鴉であり、全翼

5Mを超えるビッグバードであった。

 無残に壊れた氷川丸を囲む魔海には、今日

も妖魚や水棲妖生物の影が波間に揺れる。

 福富町の歓楽街では、暴力団同士の抗争が

起こり、小型ミサイルや有線ナパーム弾が飛

び交っていた。

 伊勢佐木町のストリートで観光客を襲った

違法改造のサイボーグが、警官隊の到着前に

地元商店街の人々によって完全破壊される。

 いつもの横浜の街の風景であった。

 ただ、大それた野望に身を焦がした魔術師

が消えた…。

  ただ、それだけのことであった…。

 もう事件を記憶している者はいない。

 過去の惨劇を覚えていられるほど、この街

はのんびりしていないのだ。死の影は常に人

々につきまとい、一瞬でも隙を見せれば容赦

なく闇へと引きずり込んでしまうから…。

 だけど、人は生きていく。

 この街で。この悪魔島・横浜で…。

 

 絶望の果てにある希望。その儚い夢に思い

を馳せて、この街を訪れる人は多い。

 だが、その夢をつかむ人間は少ない。

 しかし、人は教えられるだろう。

 生きていく、ということを…。

 

 横浜見聞録序説に云う。

 「この街は人の住める街ではない。

      だが、人が棲むのに、これほど相応しい街はない」

  と…。