悪魔島 横浜

 

              第六章

 

 宮崎香澄はイライラとしながら、部屋の中

をウロウロとしていた。何をするでもなく、

部屋の端から端を行ったり来たりしている。

 警友病院の隔離病室であった。部屋のドア

はハイパーチタン合金製で、対戦車ミサイル

の直撃にも耐えられると言われているもので

あった。狙われている身としては安心だが、

3次元乱数変換型の電子ロックまでは余計で

あった。無限の組み合わせを持つ電子ロック

を解読するのは不可能に近く、軟禁状態にあ

ると言っても過言ではない。

 「鳴海のヤツ、許さないからぁ…」

 恨み言を言っても、当の相手は部屋を出て

いったきりで帰ってこない。出ていってすぐ

に銃声が聞こえ、何かがあったことは察しが

ついた。だが、それが何であるかは教えても

らえないままに、現在に至っている。一介の

ジャーナリストとしては許せない状況であっ

た。

 「もう、我慢できないっっ!」

 香澄はドアの所へ行くと、インターホンを

取った。ピーッという電子音がして、すぐに

相手が出た。

 「どうかしましたか?」

 真面目という言葉をそのまま表現したよう

な口調で応えたのは、各務野刑事であった。

 「ちょっとぉ、いつまで此処に閉じ込めて

おくつもりなのよ?」

 これまでに何度も繰り返した質問だった。

 「安全が確認されるまでです」

 これも何度も聞いた答えであった。

 「いい加減にしなさいよ。これは明らかに

監禁よ。お巡りさんがそんな事して、いいと

思ってるわけぇ?」

 「市民の安全を守るのが、我々の義務です

ので。今回の場合は、こうするのがベストと

考えております。ご了承ください」

 各務野が抑揚のない声で言った。

 「ふざけないでよ。じゃあ、私の権利はど

うなっちゃうわけ!」

 香澄はついにキレた。各務野の抑揚のない

声が、香澄の神経を逆撫でしたせいもあるの

だが、元々警察官の説得というものは相手を

逆上させる傾向にあるらしい。銀行に立てこ

もっている強盗犯人とかに「君達は完全に包

囲されている。おとなしく武器を捨てて、投

降しなさい」という説得をして、成功した試

しがないのが良い証拠である。

 「市民の権利は尊重しますが、同時に警察

に対して協力する義務が市民にはあると思わ

れますが…」

 香澄の激昂に動揺した様子もなく、各務野

は応えた。抑揚のない声で…!

 「な…、な…!」

 余りにも正論であることと、余りの怒りに

香澄はうまく言葉を続けられなかった。

 「もうよろしいですか? では…」

 各務野の言葉がそう結び、ブツッという音

と共にインターホンは切られてしまった。

 「バカアッ!」

 ガシャアンと大きな音をたてて、インター

ホンの受話器が壁に激突した。各務野に向け

られるはずだった香澄の怒りを全て肩代わり

した受話器は、プラスチックの破片をまき散

らしながら無残な姿で床に転がる。

 「くやしー!」

 香澄はそう叫んだが、それで状況が変わる

わけでもなかった。悲惨なのは受話器だけで

あり、それが文句をいうはずもない。香澄は

仕方なくベッドへと寝ころんだ。

 「あーあ。何で、こんな事になっちゃった

んだろう…」

 病院の白い天井を見つめながら、香澄はつ

ぶやいた。

 「あの妖しい戦車に乗っていた連中は、何

者なのよ…?」

 香澄の疑問に答える者はいない。この病院

に押し込められてから、何一つ情報がない。

 「何も分かっちゃいない…。分かっている

のは、危険だっていうことだけか…」

 これほど、悲惨な状態もないであろう。

  ただ、迫り来る危機に怯えていればいいと

言うのであろうか。

 「こんな所にいてたまるもんですか!」

 香澄は怒ったように吐き捨てると、自分の

バッグをゴソゴソと漁り始めるのだった。

 

 「お嬢さんの様子はどうだい?」

 廊下を歩いてきた巨大な肉体は、隔離病室

の前に立っている各務野にそう声をかけた。

 「別に異常なしですよ。少々、気がたって

いるようですけどね」

 各務野は同僚に対しても敬語を使う。

 「ま、無理もねえだろうねえ」

 と言って、巨大な肉体=大石刑事は手にし

た牛乳パックを投げた。

 「……」

 それをキャッチした各務野が無言で手の中

の牛乳パックを見つめる。無添加だった。

 「差し入れさ。あんパンもあるでよ」

 大石は巨体に似合わぬ人懐っこい笑顔で、

各務野に言った。言われてみれば、手に幾つ

ものあんパンを抱えている。何時の時代にな

ろうとも、刑事の張り込みにおける栄養源は

あんパンと白牛乳であるようだ。

 「…ありがとうございます」

 生真面目に礼を述べると、その生真面目な

顔のままでストローを食わえる。チュウチュ

ウと牛乳をすする姿が、生真面目なだけに滑

稽であった。

 「そう言えば、駐車場の方は片づいたんで

すか?」

 ストローから口を離し、各務野が聞いた。

 「有角犬の死骸は清掃センターの車に持っ

ていってもらったよ。操っていた男の死骸は

検死があるので、隣の分庁舎にある検死セン

ターへと送っておいた」

 大石はあんパンを食いながら、答えた。

 あんパンを食わえているのはいいが、その

手元ではレミントンM880ショットガンに

弾丸を込める作業が続けられていた。赤い薬

莢は、殺傷力の高い九粒弾であろう。

 アンバランスな光景だが、その奇妙さこそ

が横浜の横浜たる所以であった。

 「それにしても、警備のために来たのにゴ

ミ掃除とはなぁ…」

 「どうせ、鳴海刑事は第2鑑識課に行った

のですから、持っていって貰えばよかったん

ですよ。手間が省けますよ」

 「そう気づいたのは、もう鳴海が立ち去っ

た後でね。失敗したなぁ…」

 「残念でしたね」

 各務野が言うと、全く同情しているように

聞こえないのだが、大石は肩をすくめただけ

だった。

 「まあ、いずれにしても…。これで終わり

と言う訳ではなさそうですしね」

 各務野が飲み終えた牛乳パックを握り潰し

た。その目が異様に充血している。各務野の

超感覚が危機を告げる時の反応だった。

 「そりゃあ、そうだろうよ。これで終わっ

ちまったんじゃ、面白くない」

 弾丸を込め終わったM880ショットガン

を手に取り、ポンプアクションでチェンバー

へと初弾を送り込む大石。カシャアンという

心地いい音が廊下に響いた。

 「うむ。さすがにレミントン社製の最新型

ショットガンは違うな。前のM870ブルド

ッグとは格段の手応えだよ」

 大石は満足気に銃身を撫でた。世界のあら

ゆる銃器を自在に操る事の出来る大石刑事は

通称「ガンショップ」と呼ばれている。初め

ての銃でも熟練の技を見せるところからつい

たあだ名であった。

 「さて、お仕事をしますか…」

 各務野が、壁に立てかけてあったG33アサ

ルトライフルを手に取りながら言った。

 「俺が選んでやった銃だ。安心しな」

 G33アサルトライフルは、2008年にド

イツの有名銃器メーカーであるH&K社が開

発した軍用小銃である。優れた命中精度もさ

ることながら、無薬莢炸裂弾を標準装填弾丸

としていることが人気である。何しろ、マガ

ジン一連だけで50発もの収容が可能なのだ。

 「頼りにしてますよ」

 そう大石に笑いかける各務野であった。

 

  同時刻、警友病院の正面玄関へと滑り込む

ように入ってきた数台の車があった。みな同

じように黒く塗装されていた。

 「おい、どういうつもりだ。ここは駐車場

じゃないぞ」

 正面玄関の警備についていた制服警官の一

人が車へと近寄っていった。

 「……」

 制服警官が声をかけても、車内からは何の

返事もなかった。窓ガラスは黒いシールドが

貼られていて、中を伺うことは出来ない。

 「おい。何とか言ったら…、」

 警官がドアの把手に手をかけた瞬間、窓ガ

ラスが轟音と共に砕けた。そこから飛び出し

てきた銃弾は、哀れな警官の眉間を貫通して

病院の壁へ突き刺さった。

 「き、貴様ぁ!」

 命の灯が消えた警官の肉体が冷たい路上に

倒れると同時に、もう一人の警官が拳銃を抜

いた。だが、その身体に無数の銃弾が破孔を

穿って、血の華を咲かせる。

 バアンとワンボックスの後部ドアが開き、

横のドアがスライドした。そして、そこから

黒い僧服に身を包んだ男たちが飛び出してく

る。いずれも銃器を手にしている。

 「おのれ!」

 別の警官が病院の玄関から出てきて、手に

した銃を向けた。M16A1自動小銃から発射

された5・56ミリ高速鉄鋼弾が、黒い僧服の

一人を撃ち斃す。だが、その次の瞬間には警

官は数倍の銃弾の返礼を受けていた。

 ジリリリリリ…!

 非常ベルが病院に鳴り響いた。非常事態を

告げる赤いランプが点滅し、暗い病院の中を

喧騒に包んだ。

  ガラガラガラガラガラ・・・・・・!

 鋼鉄のシャッターが病院の玄関を閉ざす。

 「フフフ…。そんな事をしても、無駄なの

にねぇ」

 黒い僧服たちを従えながら、そう笑ったの

は妖艶な美女であった。

   美しいブロンドの髪が揺れる…。

   ケイト・マクギリスであった。

 ズダダダダダ…。ガガガガガガ…。

 警友病院の正面玄関ロータリーのあちこち

から銃声が轟きはじめた。病院周囲の警備に

あたっていた警官たちが集まってきたのだ。

 「あらあら、こんなにいたの?」

 呆れるような感じにケイトが言う。だが、

車の周囲へと弾着は確実に集中し、すでに数

人の僧服が血に染まっていた。

 「意外に手こずるわね…」

 ケイトは予想外に制服警官たちが善戦し、

被害が増えていくことに舌打ちした。

 ドッグワァァン!

 警官の一人が、M2歩兵用携帯バズーカを

使用したらしい。炎の軌跡を描いて飛来した

砲弾がワンボックスを火球に変えた。

 「早くシャッターを壊しなさい!」

 僧服の何人かが火に包まれて、人型の蝋燭

と化すのを見て、ケイトが言った。

 僧服の一人がうなずき、炸裂手榴弾を投げ

る。轟音と閃光が迸り、シャッターは木っ端

微塵となった。

 「よし、行くわよ」

 ケイトの指示で、次々に僧服が病院の中へ

と進入していく。

 「そうはさせるかぁ!」

 それを見た警官たちも銃を撃ちながら、玄

関へと突進してくる。その光景をケイトは冷

たい視線で受け止めながら、停まっている車

の間を移動していった。

 「うるさい連中ね。あなたたちの相手は、

別に用意してあるわよ」

 ケイトはそう言うと、まだ開いていなかっ

た軽トラックの後部扉に手をかけた。

 「ハーバートが作ったペットがどの程度ま

で、役に立つのか分からないけど。少しは楽

しませてもらえるといいわね…」

 しなやかな指が、重たそうな鉄錠を外す。

 キィィという音をたてて、扉がゆっくりと

左右に開いていった。

 「さあ、出ていらっしゃい」

 開け放たれた扉の奥から、強い獣の臭いと

腐ったような死臭が噴き出してくる。そして

その闇に輝く真紅の双眸…。

 「GYALLLL…!」

 不気味な咆哮がこだました。

 その声を聞いた警官たちが、凍りついたよ

うに立ちすくんだ。一斉に軽トラックの側に

立つケイトの方へと銃口を向ける。

 「女、今の声は何だ?」

 ウージー軽機関銃を突きつけた状態で尋ね

る若い警官にケイトは妖艶な微笑を向けた。

 「ウフフフ…。知りたい?」

 「ふ、ふざけるな!」

 若い警官はバカにされたのかと思い、怒り

に震えた。それとも恐怖に震えたのか…。

 「GYAAAA…!」

 耳をつんざくような雄叫びが響き、黒い巨

大な影が警官たちの目の前に飛び出した。と

同時に、一番前でケイトにウージー軽機関銃

を向けていた若い警官の顔が消失する。

 赤いのっぺらぼうと化した警官の指が引き

金を弾き、銃弾が虚しく地を叩いた。

 「な、何だ、こいつは!」

 残った警官たちが、咆哮をあげる黒い怪物

を見て叫んだ。その全身が黒い剛毛に覆われ

ており、耳まで裂けた口には鋭い牙が見えて

いる。立ちすくむ警官たちを睥睨する双眸は

血の色であった。それでありながら、四肢は

明らかに人間のそれと酷似していた。

 だが、二股に分かれた舌と尾、頭に生えた

触覚に似た突起、恐竜ヴェロキラプトルを凌

駕する鉤爪は、いかなる生物の形状か…。

 まさに魔獣…。そうとしか言えない。

 「ウフフフ…。魔獣バンダースナッチよ」

 「バ、バンダースナッチ…?」

 「ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』

を読んだことがないのかしら。『たけりまく

るバンダースナッチには近づくな』と書かれ

ているでしょ?」

 ケイトは微笑を浮かべながら言った。その

様子は、お伽話を子供に聞かせる母のようで

もあった。ただ、本当のお伽話とは、実に血

生臭いものであることを多くの子供は知らな

いでいる。

 「し、知るものか。そんな事!」

 ウインチェスターライフルを構えた警官が

叫び、その怒りにまかせた銃弾を魔獣にたた

き込んだ。だが、鋼鉄をも貫くはずの鉄鋼破

壊弾は、黒い剛毛に弾き返されてしまう。

 「バ、バカな、」

 うろたえる間もなく、ウインチェスター警

官の首は鋭い爪の一撃によって、胴体から離

れていた。首を失った身体は、血を噴き上げ

ながら倒れていった。

 「GUAAAA…!」

 真っ赤な血潮に全身を濡らしながら、魔獣

バンダースナッチは狂ったように吠えた。

 「あらら、知ぃらない…。『鏡の国のアリ

ス』の中には、こうも書かれてたのよ。『時

を止めるということは、バンダースナッチを

繋ぎとめておくことと同じくらい難しい』と

ね。怒らせちゃったら、もう私にだって止め

られないわね」

 「不思議の国のアリス」で知られる童話作

家ルイス・キャロルが書いたもう一つの傑作

「鏡の国のアリス」に出てくる想像上の魔獣

がそこにいた。そして、ケイトは言ってはい

なかっただろうか。この恐るべき魔獣をハー

バートが作ったと…。

 「さあて、私には大事な仕事があるの。後

はバンダースナッチと遊んでてね」

 ケイトは投げキッスを警官たちに送ると、

病院の中へと足を向けた。そして、その背後

では獰猛な雄叫びが響き、気違いのように撃

ちまくる銃声と、絶え間ない絶叫がいつまで

も聞こえていた…。

 

 グオォォン! グオォォン!

 鈍く重たい銃声が、病院の中に轟いた。

 「ギャアアッ!」

 胸のど真ん中に大きな風穴を開けられた僧

服が悲鳴を上げた。仲間の肉片と血糊を浴び

たもう一人が悲鳴を上げた。

 「ハハハ…。そんな事じゃ、銀の星・横浜

教会の名が泣いちまうぞ!」

 ポンプアクションで、カシャンと薬莢を排

出しながら大石刑事が笑った。巨漢だけに、

笑うだけでも威圧感があった。

 警友病院の6階。隔離病棟へと連結する専

用通路において、銀の星・横浜教会の狂信者

たちの足は停止していた。原因はそこを守る

二人の人間の存在であった。通行料に見合う

だけの血の量はまだ支払われる途中だった。

 「銃ってのはな、こう使うんだ」

 大石の手にしたレミントンM880ショッ

トガンが吠える。それは確実に僧服の数を減

らし、屍の数を増やしていった。

 「あらあら、こんなところでまだ油を売っ

ていたの?」

 揶揄するような女の声が聞こえた。

 生き残っていた8人ほどの僧服が、ビクッ

と身体を震わせた。それは畏怖であり、自分

たちの任務達成度の低さへの叱責を予感して

の恐怖だったのかもしれない。

 「たかが、二人の警官に手間取っていて、

どうするのよ?」

 妖女ケイト・マクギリスは、妖艶な微笑を

大石たちに向けた。その瞳の奥には、殺意の

陽炎が揺らめいていた。

 「大した自信だな、お姉ちゃん」

 大石刑事が人懐っこい笑顔で言った。それ

でもショットガンの銃口をケイトの眉間にポ

イントしているのは流石と言うべきか。

 「そんな玩具で、私が斃せるかしら?」

 「そりゃあ、やってみなくちゃ判らない」

 言うが早いか、大石のM880ショットガ

ンが火を吹いた。予備動作をまったく必要と

しない熟練の技であった。

 だが、ケイトはそのまま立っていた。違う

のは、その右手を目の前に突き出しているぐ

らいのものだろうか。

 「ほお…。やるもんだねぇ」

 大石はヒュウと口笛を鳴らした。

 「惜しかったわね」

 ケイトの掌には、鉛色のパチンコ玉ぐらい

の鉄球が9つ食い込んでいた。ショットガン

から放たれた九粒弾だった。拡散して襲いか

かる必殺の弾丸を、ケイトはその掌だけで受

け止めてしまったのだった。

 「銃は通用しないのかな?」

 「さあ、どうかしらね…」

 「そうかい。だが、あんただって、ここを

通れるとは限らないんだぜ。まず、あんたの

部下たちは通れないだろうがね」

 「そう決めつけるものじゃなくてよ。彼ら

にだって、まだチャンスは残されているわ」

 ザワリと空気が鳴った。

 静から動へと、空気の気配が変わる。

  空気から殺気、あるいは鬼気、または妖気へ…。

 「う…うう…、ぐ…」

 「うぉぉぉ…」

 「ハガッ…、アグググゥ…」

 苦しそうな呻き声が聞こえた。大石ではな

く、苦しんでいるのは僧服たちだった。

 「何をする気だ?」

 大石が目を細めた。その目に苦しみのたう

つ僧服たちの姿が映っている。胸をかきむし

り、或る者は痙攣する舌を突き出し、或る者

は強張る四肢を突っ張らせている。

 「ゾアントロピー(獣化現象)ですね」

 それまで黙っていた各務野がポツリと言っ

た。実験を見守る研究者のように。

 「グオオオッ!」

 「ガアアアア…」

 僧服たちが吠えた。獣の声で…!

 人から人でなき者へ。あり得ない肉体の変

化を無理に行おうとする苦しみが、彼らの精

神を灼きつくす。理性が消し飛び、野性とい

う名の本能が呼び起こされつつあった。

 「ワーウルフか…」

 変身する様子を見て、大石が言った。

 だらしなく開いた口に並ぶのは牙であり、

舌が長く垂れている。耳は犬のそれへと変化

し、全身は黒々とした毛に覆われていく。手

の爪が異様に伸び、鋭く尖る。まさに狼とし

か呼べない頭部に、人間としての四肢を備え

た魔獣が目の前にいた。

 「そう言えば、今日は満月でしたね」

 各務野が思い出したようにつぶやいた。

  ワーウルフ。

  古くからイギリス各地に伝えられるライカ

ンスロープの一種。ライカンスロープとは月

齢やその他の影響で獣人化現象を引き起こす

人間のことである。ワーウルフはウェアウル

フとも呼ばれるが、より一般的な呼称は「狼

男」であろう。満月の夜になると変身し、人

間を喰らう人狼の伝説は余りにも有名である。

  性格は獣人化と共に凶暴となり、好戦的。

  銀の弾丸でしか殺せないと言われている。

 「どう、可愛いでしょう?」

 ケイトがワーウルフたちを従えながら、本

当に愛しそうな微笑みを浮かべた。

 「人間を狼に変えやがったな…」

 大石はケイトが魔術によって、普通の人間

であった狂信者たちを人狼化させたことを見

抜いていた。

 「偉大なる魔術の成果よ」

 クスッと笑うケイトの後方から、さらに巨

大な影が近づいてくるのが見えた。

 「あら、もう下にいた警官たちは全滅して

しまったの。可哀相に、準備運動にもならな

かったわね」

 ケイトの声に魔獣バンダースナッチは耳を

つんざくような雄叫びを上げた。

 「チッ。そんな化け物まで飼っていやがっ

たのか…」

 大石が思わず舌打ちを漏らした。各務野が

やれやれという感じに眼鏡をかけなおす。

 ケイトを中心に、飢えと殺意、殺戮と血へ

の欲望に満ちた魔獣の軍団がジリジリと大石

たちの方へと近づいていった。

 「さて、簡単な問題よ。銃など効かない魔

獣たちを相手に無駄に命を散らすか。おとな

しく娘のいる部屋へと案内するか。どちらか

を好きに選びなさい」

 「私と大石刑事が素直に言うことを聞くと

思っているんですか?」

 各務野がケイトの眉間にライフルをポイン

トしながら答えた。二人に恐れている様子は

ない。不可避な死を目の前にしても、彼らは

あくまでも横浜の刑事であった。

 「それならば、それで楽しい遊びが出来る

というものよ」

 ケイトは笑った。これから始める血の宴に

期待を寄せる悪魔の微笑であった。

 

 数分後、ケイトは香澄が入れられている隔

離病室の前に到達していた。彼女がここへ来

ているということが何を意味しているのかは

言うまでもないであろう。

 「さあ、お姫様。お迎えに参りましたよ」

 ケイトが妖艶な声で呼びかけた。

  それは城の中に匿われた王女を誘い出そう

とする魔女の囁きに似ていた。

 「……」

 部屋の中からの返答はなかった。不審に思

ったケイトがドアの把手に手をかけると、電

子ロックされてるはずのドアはすんなり開い

た。

 「どういうことなの!」

 ケイトは思わず叫んでしまった。

 部屋の中には誰もいなかった。部屋の中を

見回したケイトは、ドアに取り付けられてい

た3次元乱数変換型の電子ロックにコードが

繋いであるのに気づく。その先には、手帳タ

イプのコンピューターが接続されていた。

 「ま、まさか…、あの小娘…」

 どんなプロテクトも破るハッキングソフト

は、横浜情報街の闇マーケットで売られてい

るヒット商品だった。

 「あのバカ娘め…。自分から逃げるとは、

一体何を考えているのよ!」

 怒りに任せて、小型コンピューターを蹴飛

ばすケイト。コンピューターは壁に当たって

無残な残骸と化した。

 「おのれぇ…。何処に行った…!」

 憎悪に満ちた声を漏らしながら、ケイトは

窓の外へと目を向けた。

 横浜の夜の街が見える。そこには暗く果て

しない闇が広がっているだけであった。

 

                                                つづく