悪魔島 横浜

 

                         第七章

 

 警友病院が妖女ケイトに蹂躪されている頃、

関内大通りを馬車道の方面へと疾駆する一台

の車があった。夜の闇に溶け込むような深い

マリンブルーのボディ。鳴海章一郎の愛車、

日産レパード700SXである。

 「こんな時間に訪ねたら、きっと怒るだろ

うなぁ…」

 そうボヤきながら運転する鳴海の目は、コ

ンソールにある3次元レーダーへと注がれて

いた。周囲の地形を立体的に描きだす情報画

面から目を離せば、この場所では命の保証は

しかねるのである。

 「あ、そこの曲がり角は違う!」

 鳴海が画面から目を上げて、前方に叫ぶ。

 関内大通りから、馬車道へと曲がる車の一

台が見えたのである。その車は「関内ホール

前」の交差点を左折したのだ。

 「バカな人だな。あれでは流砂に飲み込ま

れしまっただろう…」

 鳴海は追わない。最高危険地域である「馬

車道流砂」の怖さはよく知っていたからだ。

   『馬車道流砂』

  馬車道を幅50メートル、長さ300メートル

に渡って流れる砂の河。明治初期まで乗合馬

車が走っていた事からこの名がついた通りの

尾上町側アーチから本町通り側アーチまでを、

時速13・2qの速度でゆっくりと流れ続けて

いる。左右の見るからに頑丈そうなビル群と

も調和がとれていたが、今はどのビルも廃墟

でしかない。砂に削られ、呑まれていったの

である。横浜大震災時の地殻、地質レベルで

の分子構造変化が引き起こしたとされる流砂

は、呑み込んだモノを3・2ヵ月の周期で、

再び流れの始点である本町通り側アーチから

吐き出す循環を行っている。

 この砂の河を渡れるのは、ただ一か所しか

なく、それは「相生町3丁目」を曲がる相生

町通りだけであった。

 「誰か…いる…?」

 相生町通りに入り、商栄ビルの廃墟が見え

た辺りで鳴海は前方の馬車道流砂に人影を見

つけた。それは、なんと馬車道流砂の上にい

るように見える。

   「まさか…?」

 鳴海はレパードを急停車させて、すぐに車

から降りた。危険地域のギリギリまで近寄る

と、鬼火がユラユラと燃える流砂の上で対峙

する二つの人影があった。青白い光の不気味

な照明に浮かび上がったその片方の人物を見

て、鳴海は驚いた。

 「ヒルダ婆さん!」

 そう叫んだ鳴海をチラリと見て、流砂の上

に立つ小柄な老婆はニヤリと微笑んだ。

 ヒルダ・シップトン。

  その老婆こそ、鳴海が訪ねようとしていた

「馬車道十番館の主」であったのだ。

 「おやまあ、横浜警察の鳴海さんじゃない

かね。今日はどうしたんだい?」

 ヒルダはのんびりとした口調で鳴海に語り

かけてくる。流砂の上に立つという異様な状

況の中で、茶飲み話を持ちかけてくる老人の

ような雰囲気がかえって不気味だった。

 「ヒ、ヒルダさんこそ、そんな所で何をし

ているんです?」

 「ああ。ちょっと、不作法なお客さんが来

たのでね。ここで老人の家を訪ねる時の礼儀

を教えてやろうと思ったのさ」

 皺だらけの顔でニタリと笑ったヒルダは、

その目を対峙するもう一方の人影に送った。

 「フン。東欧最高の魔術師にして、ポーラ

ンドが生んだ天才的占星術師であるヒルダ・

シップトンの教えを受けるとは、光栄の極み

だな」

 そう言った巨漢も流砂の上に立っている。

 鳴海はそちらにも見覚えがあった。魔列車

でやって来た妖人の一人に違いない。それこ

そは伯爵から魔術師抹殺作戦を命じられたヘ

ンリー・バーラムであった。

 「フフフフ…。そう言う割りには、もうす

でに息があがっているようじゃないか」

 ヒルダが言うように、妖人ヘンリーは荒い

息を吐いて、苦しそうであった。

 「バ、バカな事を。この鬼火が燃える不気

味な流砂の様子に、驚いただけだ」

 「身体の割に肝っ玉の小さい男だね。この

鬼火は、いわゆる物理学的な人魂現象と同じ

理屈のものだよ。流砂に呑まれた死体の燐が

燃えているだけのことじゃないか」

 「う、うるさい。くたばれ、ババア!」

 ヘンリーの巨体の背中がバクンと割れた。

 そこから噴き出した黒い雲は、微細な羽音

をたててヒルダへと襲いかかった。恐るべき

肉食蠅の軍団であった。

 「さっきから何度も同じことを…。無駄だ

と分かってるのに、少しは学習することを覚

えたらどうなんだい?」

 襲いかかる獰猛な肉食蠅の群れは、ヒルダ

を包み込もうとした。だが、ゆっくりと中空

へ差し出したヒルダの左手が開くと同時に、

その手のひらへと吸い込まれていく。

 「な、何なのだ、その左手は!」

 ヘンリーが驚愕と絶望の叫びを上げた。

 「ゲプッ!」

 ヘンリーの問いに答えたのは、下品なゲッ

プであった。しかもそれは、ヒルダの左手か

ら聞こえた。

 「フフフ…。これは『瞑目する手』と呼ば

れる物だよ。古代バビロニアで王に殉死させ

られた偉大な妖術師の顔が人面瘡となって浮

き出ているのさ」

 ヒルダは笑って、その左手を開いた。そこ

には不気味な男の顔があった。その口許が動

いているのは、先程の肉食蠅を咀嚼している

のであろうか…。

 「お、おのれ…。この化け物め!」

 ヘンリーが呻く。その言葉にヒルダの顔が

しかめっつらに変わった。

 「化け物に化け物と呼ばれたくないね。先

程から次のお客さんも待っていることだし、

この辺で終わりにさせてもらうよ」

 ヒルダは両手を合わせて、ムニャムニャと

何やら口の中で唱え始めた。

 「な、何をする気だ。う、うおぉっ!」

 ヘンリーが叫んだのも無理はない。

  見るがいい、ヘンリーの足は黄金色に変わ

り、その輝きは上へと広がり始めているでは

ないか。

 「ヒイイイイイ!」

 「魔術、元素変化…。ちゃんと魔術を勉強

すれば、中世の錬金術師のように大がかりな

装置を使わなくても、黄金なんて簡単に作り

だせるのさ…」

 ヒルダは出来の悪い弟子を憐れむような目

つきで黄金の彫像へと変わり行くヘンリーを

見つめた。

 「ウワアアァァァァ…」

 妖人ヘンリーは最後の苦鳴を残して、完全

な黄金像と化した。そしてその瞬間、揚力を

失ったのだろうか。砂の飛沫を上げて、その

巨体は流砂の中に沈んでいった。

 「お待たせしたね。終わったよ…」

 ヒルダの言葉に、鳴海は呆然と流砂を流れ

ていく黄金の輝きを見送ったのだった。

 「あの黄金が欲しければ、流砂に飛び込ん

でみるんだね。3ヵ月ちょっとで帰ってこれ

ると思うよ。黄金にしがみついた白骨になっ

てだけどね…」

 「遠慮しておきますよ…」

 からかうように言うヒルダに、鳴海は肩を

すくめるように答えたのだった。

 「それにしても、あの妖人をこともなげに

斃すとは驚きですよ」

 流砂の上から戻ってきたヒルダに手を貸し

ながら、鳴海は言った。ヒルダは固い地面に

足をつけると、その感触を確かめるように足

踏みをする。そして、逆に聞いた。

 「そんなに大層なヤツだったかね?」

 「魔法街のセルゲイ・グリハム、ユニオン

教会のウイリアム・ハールマン、中華街の王

元忠など、彼らによって何人もの名だたる魔

術師が斃されています」

 「フフン。グリハムはもう齢を重ね過ぎて

いたし、ハールマン程度は小者だよ。大体、

ハールマンを斃したバランタインとか言う男

はお前さんが斃したじゃないか」

 「どうして…、それを?」

 「王元忠を殺ったのは今、砂の中に消えた

し、ビュルメリングやホフマイスター男爵を

斃したのは奴らの親玉さ。あの程度の手下に

殺られるようなホフマイスターではないと、

横浜に住む人間なら知っているはずさ」

 「は、はあ…」

 この老婆に知らない事はないのだろうか。

 横浜を代表する5人の魔術師が殺された事

件は警察の最高機密であったし、その加害者

などは誰も知らないことである。ましてや、

バランタインを斃したことなどは、つい先程

の事ではなかったのか…。

 誰も知らない事実を知る。

  恐らくは万物創世から、宇宙の終焉までを

見通しているのではないだろうか。だからこ

そ、人は感嘆し、尊敬と畏敬の念を込めて、

こう呼ぶのだ。

 「馬車道十番館の主」と…。

 「さあ、夜風はこの年老いた身体には応え

るよ…。早く、ウチへ帰ろうじゃないか」

 ヒルダはそう言うと、さっさとレパードへ

と乗り込んだ。

 「フフン。最近の車は乗り心地がよくない

ね。やっぱり馬車が一番だよ」

 勝手に乗り込み、シートに身を沈めながら

も愚痴をこぼすヒルダの奔放さに、鳴海は苦

笑した。そして、丁寧にドアを閉めると、自

分も運転席へと向かったのであった。

 

 馬車道十番館は、明治の鹿鳴館を再現した

赤レンガの6階建ての建物である。

 横浜大震災の以前は、1階が喫茶店、2階

が英国風パブ、3階がレストランといった横

浜の味の名所の一つだった。大震災によって

営業は行われなくなったものの、今でも多く

の人々が足を運ぶ。失せ物から尋ね人、未来

の予知までも百発百中のヒルダの言葉を求め

る人々は今も絶えることがなかった。

 その十番館の2階にある部屋。かっての英

国風パブであった場所は、由緒正しそうなア

ンティーク家具で飾られたヒルダの居間とな

っている。

 「おお、寒い。暖炉に火をくべておくれ」

 ヒルダは古めかしい籐椅子に腰を沈めなが

ら言った。

 「はい、ただいま」

 透き通るような美しい声で答えたのは、美

しい少女であった。可愛らしいフリルのメイ

ド服に身を包んだ華奢な身体は、触れれば壊

れてしまいそうな繊細さを漂わせていた。

 「こんばんわ、シェリル。今日も忙しそう

だね」

 鳴海が声をかけると、美少女シェリルは暖

炉に薪をくべながら、天使のような微笑みを

鳴海に向けた。

 「鳴海さんこそ、お元気そうで何よりです

わ。お婆様は、今日来るか明日来るかとお待

ちでいらしたんですよ」

 「それは知りませんでした。もう少し、早

くお伺いできればよかったのですが…」

 「ロンドンから来訪した妖人たちと闘って

いらしたのだから、それも止むを得ないと思

いますわ。ご無事でよかったです」

 クリスタルのハープを掻き鳴らせば、こう

いう声になるのだろうと鳴海は思った。

 「お喋りはそれぐらいにして、お客にお茶

ぐらい出したらどうなんだい?」

 「は、はい。では、失礼します」

 シェリルは優雅に一礼すると、部屋を出て

いった。それを見送って、

 「いやあ。シェリルはいい子ですねぇ」

 と鳴海が言った。

 「お前さんに言われなくても、分かってる

わい。血の通った娘にしてやりたいとは思っ

てるんだけどね。人間に近づけば、それはそ

れでシェリルの善さが消えちまうしね…」

 ヒルダは暖炉の火にあたりながら、ゆっく

りと目を閉じる。

 「人間の醜さだけは、あの子に相応しくな

いと思いますからね」

 鳴海はヒルダの心情を思いつつ言った。

 美少女シェリルは人間ではない。クリスタ

ルガラスで作られた彫像である。イタリアの

フィレンツェに住む彫刻家が、自らの命と引

換えにして彫りあげた傑作だった。その彫刻

家は完成と同時に、自分の醜さに絶望して手

にしたノミで己の喉を突いて果てている。

 それをジェノバの好事家の倉庫で見つけた

ヒルダが魔術によって命を与えたのである。

 その美しさも、繊細さも、人間でないと思

えば納得の出来るものであった。しかし、彼

女自身は常々人間になりたいと願っている。

 「まあ、一杯いかがです?」

 鳴海はジャケットの下から、ウイスキーの

ボトルを取り出した。

 「おお、ボウモアの1960年物だね。し

かも樽出しの逸品じゃないか」

 ヒルダが相好を崩して、身を乗り出す。

 「ヒルダさんは、モルトウイスキーがお好

きでしたからね」

 鳴海が微笑んだ。

 

   パチッと薪が爆ぜた。

 カランと氷がグラスの中で、琥珀色の液体

に沈み、小さな飛沫を上げる。

   「…で、何が聞きたいんじゃね?」

 シェリルに持ってこさせたグラスを手の中

で燻らせながら、ヒルダは聞いた。

 「ロンドンから来た妖人たちの事。そして

彼らの目的についてです」

 「フン…、伯爵か」

 ヒルダはウイスキーで乾いた唇を湿らせな

がら毒づいた。

 「ヒルダさんは、あの伯爵と呼ばれている

男をご存じなんですか?」

 「ああ…、よく知ってるよ。この横浜とい

う街が生まれる前から、ずっとね…」

 「そんなに前から…?」

 「伯爵…。その本名は誰も知らないよ。恐

らくは本人も知らないだろうね」

 「……」

 「20年前、ロンドンの魔術師たちが皆殺し

にされる事件があった。さらにウエストミン

スター寺院を始めとする教会が次々に破壊さ

れていった。やったのは伯爵さね」

 「何故、そのような暴挙に?」

 「ヤツが求めているものを探し出す為には

それが必要だったからじゃよ。伯爵が求めて

いるモノはそんなに珍しいものじゃない。古

くはギリシャの哲人から、名もない教会の牧

師に至るまで、みんながそれを探している」

 「何なんです、それは?」

 「真理さ」

   ヒルダはこともなげに言った。

   鳴海の喉がゴクリと音をたてる…。

   真理…。

   そのようなものを求めていると言うのか。

  古来より、無数の哲学者が、宗教学者が、

厭世人が、探し求めながら、そして果たせな

かったもの。

 それは果して本当に存在するのか?

 「伯爵は、かってはスコットランドの小さ

な教会の牧師に過ぎなかった。だが、ある時

に真理を求める妄執に取り憑かれ、魔道によ

ってそれを成し遂げようとしたのさ」

 ヒルダは言葉を切って、ウイスキーを飲ん

だ。鳴海が新たにグラスに注いだ。

 「それで、どうなったんです?」

 「その男がどうやって絶大な魔力を手に入

れたのかはよく判らん。恐らくは魂を売り渡

したのだろうが、それ以外にも何かあったの

かもしれん。だが、ヤツはその地方領主を殺

し、さらなる魔道を追究した。その頃から、

伯爵と呼ばれるようになった。そして、何時

しか、その名声を慕って多くの妖人たちがそ

の翼下に収まっていった」

 鳴海はジッと聞いている。あの妖人たちが

そのようにして集まったのかという過去に対

する感嘆の念があった。

 「では、何故にロンドンの魔術師たちを皆

殺しにしたり、寺院を破壊する必要があった

のでしょうか?」

   「カオス…という言葉を知ってるかい?」

 「カオス?」

 鳴海は戸惑った。確かに聞いたことはあっ

たが、何だったか。

 「カオス。ギリシャ語で混沌を意味する言

葉さ。完成された秩序ある宇宙、コスモスに

対して、まだ形態、方向性が定まらぬ諸要素

の無秩序な混合を意味している」

 「そ…そうですか…」

 鳴海はようやくそれだけを答えた。

 ヒルダの説明は難しく、哲学の領域に踏み

込んだものであった。それ故に、鳴海でも即

座に首肯しかねる所があった。

 「頼りないねぇ。つまり、ありとあらゆる

混乱と無秩序な物象によって作られた宇宙の

材料みたいなものさ。まだ、何の形にもなっ

ていない…ね」

 「では…!」

 鳴海はようやく気づいた。

 「そう。カオスの中には、まだ誰も知らな

い真理がガスのような状態で眠っていると言

われているのさ。そして、それを手に入れた

者は、諸要素をつなぎ合わせ、新たなるコス

モスを生み出すことができる」

 「コスモス…。つまり新たな宇宙を…」

 「そう。真理を手に入れた者は、自らの意

思によって、どのような宇宙を創り出すこと

も出来る。例え、それが狂った創造者であろ

うともね…」

 「伯爵は神になるつもりなのか…!」

 鳴海は記憶を辿った。かって犬使いを斃し

た時に、確かに奴は笑った。「目的は世界の

破滅か」と聞いた時に…。

 伯爵が狂った神ならば、目的は世界の破滅

ではなく、狂った世界の創造こそがその目的

であったのだ。

 「ならば、どうして香澄さんを…?」

 鳴海は、次に生じる疑問を口にした。

 「本来、人間の中にはカオスが存在してい

るのだよ。あらゆる情報が無差別に蓄積され

ていったデータベースとしてね」

 「DNA…。人間の遺伝子ですか!」

 「そう。この地球に最初に生まれた生命の

遺伝子も、恐竜の遺伝子も、滅びていった未

知なる生命体の遺伝子も、全てが人間の遺伝

子の中に含まれておる。人間が人間でいるの

は、あくまでもその配列の一つに過ぎぬ」

 「人間の中にある混沌…」

 「混沌の世界に生きる人間の中にある混沌

こそ、最も完成された未完成なのじゃよ」

 「だから、ロンドンを混沌の世界に変えよ

うとしたのですね。魔術師や寺院を破壊する

ことによって、魔都の霊的均衡を崩壊させる

ことで…」

 「だが、伯爵にとって、もっと簡単に混沌

を実現させる街がこの世に現れた…」

 「それが横浜か…」

 鳴海が確信していた。

  この横浜ほど、混沌の名に相応しい街は存

在しないのだと…。

 「伊勢佐木で殺された人々たちの殺害理由

もそれだったのですね」

 鳴海は事件の全貌に触れようとしていた。

 「そうじゃ。横浜に名だたる魔術師を殺し

て霊的均衡を崩し、しかる後に収穫を開始す

る。無差別殺人のように見えて、全ては計画

的に進められていたのじゃよ」

 「香澄さんは…?」

 「あの娘はよく判らん。ただ、真理を秘め

た者は、他の者とは何処か違うようだ。彼女

の何かが彼らの興味を魅いたのだろう」

 ヒルダはそこまで話すと、グラスに残って

いた琥珀色の液体を一気に飲み干した。

   「……わかりました」

 鳴海が不意に立ち上がった。

 「どうするんじゃね?」

 ヒルダが興味深そうに鳴海を見る。

 「奴らの目的が何であれ、この横浜におい

てはただの犯罪者です。私は刑事として、奴

らを斃すまでのこと…」

 「そう言うと思ったよ」

 「彼らが横浜を混沌の坩堝にたたき込もう

とするのであれば、それを阻止するのが私の

役目ですから…」

 鳴海はヒルダに黙礼すると、部屋の出口へ

と向かった。ドアの所にシェリルが心配そう

な顔をして、立っていた。

 「鳴海さん…」

 「今度は美味しいお茶を戴きに来ますよ」

 鳴海はそう言って、シェリルの冷たい頬に

そっとキスをするのだった。

 「鳴海よ…」

 ドアを抜けようとした鳴海の背に、ヒルダ

の声が届いた。

 「この私でさえ、真理とはよく判らぬ。だ

がな、それは我々の一番身近にあって、それ

でいて一番遠いもののような気がするよ」

 「ありがとうございます」

 鳴海はそう答えて、ドアを出ていった。

  バタンと扉が閉じ、足音が遠ざかる。

 「お婆様…」

 シェリルが心配そうに言った。

 「お前の気持ちはよく分かる。これまで人

間が生きてきて、誰も見たことがないものを

探し求めようと言うのだ。それが平穏に終え

られるはずもないのだよ」

 「何故、血を流さねばならないのでしょう

か。私には分かりません」

 「それが人間というものさ。お前には、無

縁でいてもらいたいんじゃがね…」

 「お婆さま…」

 「だが、誰も見たことがないくせに、誰も

がその存在を信じている。おかしな話さ」

 そう言って、ヒルダは手にしたグラスを口

許に持っていき、その中身がないことに気づ

いた。

 「すまんね。新しい氷を持ってきてくれる

かい?」

 「飲み過ぎは毒ですわ。お茶になさったら

いかがですか?」

 「飲みたい夜もあるのさ。持っておいで」

 「はい…」

 短く答えて、部屋を出ていこうとするシェ

リルの表情が一瞬翳ったのを見て、ヒルダは

彼女を呼び止めた。

 「やっぱり、お茶にしよう。美味しいやつ

を入れないと、承知しないよ」

 「はい!」

 シェリルの表情が輝くのを見て、ヒルダは

「さっさとお行き」と手を振った。シェリル

が出ていくと、ヒルダは短く息をついた。

 「鳴海章一郎…。あんたも貧乏クジを引い

たもんだよ…」

 そう言って、手についたウイスキーを舐め

るヒルダであった。

 

                                                   つづく