悪魔島 横浜

 

                  第九章

 

爆発せんばかりに震えながら、エンジンが

咆哮する。鳴海の運転するレパードは猛烈な

スピードでアスファルトを疾駆していく。

 元町を通過する辺りで、トンネルの存在を

示す看板表示が見えた。震災当時のままだか

ら、かなり錆びつき朽ちてはいるが、読めな

いことはない。そこには「山手トンネル」と

「第2山手トンネル」の二つの言葉が書かれ

ているようであった。この先で道路は二股に

分かれて、二つのトンネルに通じていく。ど

ちらもが一方通行であるため、元町方向から

進入する場合には「第2山手トンネル」を使

用することになる。

 「クククク…、トンネル表示か。なるほど

ね、このヴァイラスの巨体ならばトンネルに

入れないと計算したのか。甘いねぇ…」

 チャーリーは、鳴海たちの行動を小賢しい

ことだと笑った。だが、妖戦車ヴァイラスの

巨体を考えれば、有効な策には思える。

 「セレフォタル・ゲルベリオリオス・ン・

ケィオガァローム・フィェシエロウァン」

 不気味な呪文の詠唱がチャーリーの口から

漏れ聞こえた。それに合わせるようにして、

妖戦車ヴァイラスの巨体が縮んでいく。妖戦

車は伸縮自在の生体兵器だったのだ。

 「どうだ。貴様らの小賢しい知恵ごときに

動じるチャーリー様ではない!」

 妖人チャーリーをその上に乗せた妖戦車は

さらにスピードを増して、レパードに迫る。

 「第2山手トンネルよ!」

 香澄が指さしながら、鳴海に教えた。

 分岐点を通過したレパードの前方に、山腹

に開いた黒々とした口が見えた。

 「出口なき山手トンネルに突っ込むわよ」

 香澄の言葉に鳴海は冷やかに微笑した。

   『出口なき山手トンネル』・・・山手トン

ネルは根岸、磯子へ通じる本牧通りと元町方

面を繋ぐトンネルである。トンネルは、山手

トンネルと第2山手トンネルの二つがあり、

危険地域に指定されているのは、第2山手ト

ンネルの方である。横浜大震災の後、崩れた

トンネルを復旧したのだが、しばらくしてト

ンネルに入った車が出てこないという噂がた

ち始めた。復旧工事時に48名の殉職者を出し

ていることから霊現象に因るものではないか

と思われ、盛大な慰霊祭が催されたのだが、

効果はなかった。そこで科学技術庁と自衛隊

による合同調査が行われた。その調査時にも

自衛隊のトラックが出てこなくなるという事

件が起こったが、原因だけはようやく突き止

めることができたのだった。

 このトンネル内では空間歪曲現象が起きて

おり、入口は出口へ、出口は入口へ通じてい

たのである。ゆえに入ることは出来るが、出

ることは出来ない。入口はあっても、出口の

ないトンネルになってしまっていたのだ。

 市当局によって封鎖されるまでに確認され

た犠牲者は、自動車台数で約120台、人数

は約200名。比較的早い段階で危険地域に

指定されたために少ない数字で済んだ。しか

し、時折迷い込んでしまう観光客や自殺志願

者によって、その上昇が途絶えたわけではな

い。

 その魔のトンネルへレパードは一直線に向

かっていた。そして、妖戦車も…!

 「や、やめて! 車を戻してっっ!」

 眼前に迫る冥府への入口に、香澄は半狂乱

状態になっている。だが、鳴海はジッと黙っ

たままで車を走らせる。

 「キャアアアッ!」

 入口を封鎖する黄色と黒のダンダラ模様の

制止バーが見えた。「DANGER」や「立

入禁止」の文字がくっきりと読める。

 「今だっ!」

 鳴海が叫んだ。

 シフトギアをニュートラルに入れると同時

にサイドブレーキを一気に引く。さらにハン

ドルを大きく左へと切っていく。

 「キャアアアッ」

 大きく揺さぶられる車体の中で香澄が絶叫

する。タイヤも悲鳴を上げ、火花と白煙を噴

き上げながら、車体を横にしてスライドして

いく。その方向にはトンネル入口が見えた。

 その中で鳴海は運転コンソールに取り付け

られたASSのディスプレイを見ていた。自

動姿勢制御装置の電光表示で表される車体の

向きがディスプレイの中で刻一刻と変わって

いく。それが完全に横になった瞬間、

 「しっかり、つかまってろ!」

 鳴海はサイドブレーキを戻す動作とアクセ

ルを全開にする動作を同時に行った。

 グオオオオォォン!

 フルスロットルのエキゾノーストが轟音と

なって響き渡り、レパード700SXのマリ

ンブルーの車体が飛び跳ねた。と言うよりは

文字通り、空を飛んだのである。

 「キャアアアアア…!」

 余りの急加速にタイヤの接地能力の限界を

超えた結果だったが、それでも姿勢を崩さな

かったのはASSの力であろう。だが、それ

も一瞬のことで、道を外れてしまったレパー

ドは地面へ着陸すると同時に激しく横転し、

道路脇の林へと突っ込んでいった。

 「何ィィィィィィィ!」

 一方のチャーリーも、目前に迫るトンネル

が放つ異様な気配に気づいていた。だが、突

然のレパードの異常な行動に気を取られたの

が、命取りになった。必死にストップしよう

とする妖戦車ヴァイラスだったが、その行動

は余りにも遅すぎた。

 「ウワアァァァ!」

 黄色と黒のダンダラ模様が砕け、宙に舞っ

た。「君、死にたもうことなかれ」と書かれ

た看板がチャーリーの網膜に焼きついた瞬間

に、妖戦車はトンネルへと突入していた。

 ゴオオオオ…!

 凄まじい地響きがトンネルの中に消えてい

くのを聞いた鳴海は、妖戦車ヴァイラスが永

遠のドライブに旅立ったことを知った。

 「次は横浜ガイドブックをよく読んでから

来ることだな…」

 冷たい声で鳴海は弔いの言葉を送った。

 横浜のことを余りにも知らなかった事が自

らの死を招いた者への忠告であった。

 「よくそんな状態で、そんなキザやってら

れるわねぇ…」

 横で香澄の呆れたような声がした。

 「大丈夫でしたか?」

 普段の調子に戻って、鳴海が尋ねる。

 「こんな状態で大丈夫も何もあったもんじ

ゃないわ」

 二人はシートに座ったままである。だが、

二人の頭の上には地面があった。つまり車は

横転し、逆さまになった状態にあった。車に

搭載されたコンピューターが臨終のスパーク

を放ち、白煙がたちこめている。そんな中で

帰らざる敵への別れを告げていた鳴海に呆れ

る香澄の心情も分からないでもない。

 「とりあえず、抜け出しましょう」

 「まともな提案だわ」

 シートロックを外し、二人は粉々に割れて

いるフロントガラスから表へと這い出した。

 「ケガは無かったようですね」

 「あんな無茶やるなんて、信じられないわ

よ。もし、死んでたらどうするの?」

 「生きているのだから、その仮定は意味が

ありません。答える必要もありません」

 「何よ、この冷血漢!」

 香澄はベーと舌を出した。その様子を見て

も、鳴海は相変わらず涼しい表情であった。

 「車は壊れてしまったし、とにかく足を確

保しなければなりませんね」

 完全にスクラップとなったレパード700

SXは木をなぎ倒し、半ば土に埋もれる形に

なっていた。もはや、鉄のゴミである。

 「あ、イタッ…!」

 歩きはじめようとして、香澄が自分の左足

首を押さえた。

 「何処か、怪我をしたんですか?」

 「わかんないけど、ちょっとひねっちゃっ

たみたい…」

 香澄のジーンズをナイフで裂いてみると、

足首が紫色に腫れ上がっている。骨折という

訳ではないが、捻挫しているようだ。

 「署に戻りましょうか?」

 「ダメよ。もし私が戻れば、誰かを護衛に

つけるんでしょう。そうしたら、また死なな

ければならない人が出るわ」

 香澄は必死に拒否した。彼女の言うように

警官が護衛につく可能性はある。そして、彼

らは決して逃げることを許されず、闘わねば

ならないのだ。

 「普通の警官が彼らと闘えば、死は確実で

すからね。ま、そうまで言うのなら、署に戻

ることだけはやめましょう」

 「ありがとう…」

 「では、この辺で治療できる場所を探しま

しょう。そのままでは危険です」

 怪我をして自由に動けないとなれば、横浜

での死亡確率は格段に跳ね上がる。ロンドン

から来た妖人に狙われなくても、飢えた妖生

物や殺人嗜好症の犯罪者、強姦や強盗目当て

のゴロツキに襲われる可能性は高い。

 「確か、この先にフェリスホテルがあった

はずよ。そこなら医療施設もあるわ」

 「フェリスホテルですか。そこまでは徒歩

になりますが、大丈夫ですか?」

 「平気よ。ここでジッとしている方が危険

でしょ?」

 「山手は妖生物の宝庫ですからね」

 そう言って、鳴海は懐から銃を抜くと、い

きなり香澄に向けて撃った。香澄の背後に近

づいていた双頭蛇の頭部が吹き飛ぶ。

 「さあ、行きましょうか」

 鳴海は何事もなかったように言った。

 歩き出してから、十分ほどの間に襲ってき

た妖生物の数は凄まじかった。

 腐汁を滴らせた「ゾンビハウンド」、直径

1Mの甲羅を持つ肉食の陸上亀「ランドター

トル」、コウモリと猫の合成生物「キャット

バット」、青酸毒物の燐粉を振りまく「痺れ

揚羽」などなど。元町3丁目「昆虫街」や、

元町4丁目「妖獣街」が近いために脱走した

妖生物が緑豊かな山手一帯で繁殖しているの

であった。

 「こりゃあ、ヤバいですねぇ」

 立ち塞がった蠍の尾を持つ魔犬「マンティ

コア」の頭部をザクロに変えた後、鳴海が間

の抜けたような声を出した。

 「何かあったの?」

 尋ねようとした香澄の目は鳴海の手に注が

れ、見開かれた。手にしたSIG・P339

は遊底がスライドしたままの状態で止まって

いた。全弾を撃ち尽くしたのだ。

 「ど、ど、どうすんのよ?」

 香澄が慌てた。武器なくして、フェリスホ

テルに辿り着ける訳がない。

 「戻る訳にもいきませんしねぇ…」

 「そ、そんなこと出来る訳ないでしょ。途

中で妖獣に襲われたらどうするのよ?」

 「別に戻る途中じゃなくても、襲われるみ

たいですけど」

 鳴海はチラリと前方にある茂みに目を送っ

た。ガサガサと揺れている。

 「何…?」

 香澄が鳴海の背中に隠れる。途端に、野獣

の咆哮が聞こえて、全身を剛毛に覆われた妖

獣が目の前に現れた。

 「キ、キラーエイプ!」

 キラーエイプとは、野辺山公園動物園で飼

育されていたゴリラが遺伝子変異したものだ

と言われている。類人猿への進化の過程を通

常とは別の形で辿ってしまった猿の成れの果

てであった。性格は凶暴、残忍、…好色。

 その欲情に濡れた目が香澄を捉えた。

 「ゴリラに犯されるなんて、真っ平よ!」

 香澄が身震いした。人間の女に子を産ませ

るという歪んだ繁殖本能に支配された猿に、

香澄は恐怖と侮蔑の眼差しを送った。

 「さて…、どうしますか?」

 弾丸を撃ち尽くしたSIG・P339を捨

てると、鳴海はスラックスを捲くり上げた。

 そこにつけたサイドホルスターから小さな

リボルバーを抜く。コルト・パイソン357

マグナム2・5インチショートバレル。あく

までもサイドアームに使われる銃器だ。

 「何だ、他にも鉄砲持ってるんじゃない」

 「357マグナム弾じゃ、キラーエイプに

は通用しませんよ。それに予備弾丸はありま

せん。装弾した6発のみです」

 だからこそサイドアーム(予備武装)なの

である。こんな小さな武器に生命を預ける程

に横浜の人間は甘くない。

 グオオオオオオ…!

 キラーエイプが胸を叩きながら、勝利の雄

叫びを上げる。香澄だけを見つめながら、ゆ

っくりと歩きだした。

 「ふむ…」

 鳴海を取り巻く気温が下がりはじめた瞬間

に、突如としてキラーエイプの首が飛んだ。

 「!」

 鮮血を間欠泉のように噴き上げて、キラー

エイプの身体はドウと後ろに倒れた。

 「ラ、ラッキー。何、カマイタチにでもや

られたのかしら。ツイてるぅ!」

 「そうでもなさそうですよ。助けてくれた

お礼は後ろの方に言ってあげて下さい」

 「え…?」

 香澄は振り向いた。そして、息をのんだ。

 「生きていたんですねぇ…」

 鳴海がゆっくりと振り返りながら言った。

 「おかげでボクもこんなケガを負わされる

羽目になった。生まれて初めての屈辱だよ」

 憎悪に満ちた子供の声。そこに立っていた

のは、チャーリー・ビクスマンだった。

 顔面が擦りむけて、肉がのぞいている。ブ

ランド品と思われる服は擦り切れて、血に染

まっていた。何よりも右腕の肘から先が消失

していた。

 「残った左腕だけで、あのクレッセントと

やらを投げたんですか。それでキラーエイプ

を一撃で仕留めるとは恐れいりましたよ」

 「あんな猿に貴様らを殺らせる訳にはいか

ないんでね。殺すのは、ボクだ!」

 ブワァとチャーリーの身体から妖気が膨れ

上がった。ザワザワと肌が粟立つほどの憎悪

と殺意に満ちた妖気であった。

 「ここから先に逃げなさい…」

 鳴海は銃を香澄に手渡すと、先に行くよう

に言った。357マグナムを受取りながら、

香澄は鳴海を心配そうに見つめた。

 「大丈夫です。後から行きます」

 香澄はうなずき、場を離れた。

 「ハハハハァ!後を追うのは、お前じゃな

くて彼女だろうなぁ。冥府へとなぁ!」

 「それは、どうかな…」

 鳴海の声が冷えた。人の魂を凍らせるよう

な雰囲気が伝わってくる。

 「あの妖戦車から、巧く飛び下りれたもの

だな…。確実に仕留めたと思っていたのは、

私の油断かな…?」

 「ボクの実力が、貴様の予測を遙かに超え

ていたということさ。ただし、さすがにアレ

はキツかったよ。こんなになるほどにね」

 「では、その実力がどれほどのものなのか

を御教授いただこうか…」

 鳴海の声は静かだった。だが、それは氷に

閉ざされた海の波一つたたない静寂に違いな

かった。

 チャーリーが首に巻いていたスカーフをス

ルリと抜いた。真っ赤なスカーフだった。

 「鳴海章一郎、覚悟しろ!」

 チャーリーが真っ赤なスカーフを投げた。

 「な、何…!」

 それは空中で広がり、鳴海を包み込む。

 「ハハハハ…。スコットランドに伝わって

いた古代語魔術の妖血布さ。これまで逃れた

者は一人もいないよ!」

 鳴海は真紅のスカーフに覆い尽くされた。

 それはピッタリと張り付き、鳴海の口や鼻

を塞ぎ、全ての毛穴を閉ざしていく。

 「こ…これは…、グ…」

 疑問を問う間もなく、鳴海は絶息した。

 「妖血布はね、生後一ヵ月に満たない乳幼

児の心臓から取り出した血液に何度も浸し、

それを121の過程を経て、乾かしたものな

のさ。一度張り付いたら、絶対に逃れられな

いよ」

 「……」

 鳴海は真紅の塊と化していた。身体中の穴

を封じられた上に、全身を砕くように圧力が

加わってくる。それは飲み込んだモノを貪欲

に噛み砕こうとする獣のようであった。

 「数えきれぬ赤子の血を吸った布は、子供

の恐怖と、我が子を奪われた母親の憎悪によ

って魔力を増大させていく。それはやがて、

一種の魔法生物とも言える存在へと進化して

いくのさ」

 鳴海を包んだ真紅の布は血の滑りと鮮やか

さを取り戻していた。それ自体が血の塊であ

るかのように流れるような光沢を示す。

 「もう、聞こえないかな…。それとも、子

供の泣き叫ぶ声と母親の嘆きの声に邪魔され

て、ボクの声が届かないか…?」

 聞こえる。確かに聞こえてくる。

  それは血に染まった布からであった。

   「我が子を返せ…」と…。

   「死にたくない…」と…。

   「助けてください…」と…。

  「呪ってやる…」と…。

 苦しみと悲しみ、呪いの言葉は救いを求め

る言葉を打ち消し、憎悪が哀切を凌駕する。

 「ハハハハ…。呪え、憎め、苦しめ、その

哀しみの全てがボクにとって心地良い音楽と

なる。そして鳴海を食い殺してしまえ!」

 勝利を確信したのか、チャーリーは大きな

声で高らかに笑っていた。

 「一つだけ、聞いておきたい…」

 冷たい声が聞こえた。それは真紅の塊の中

からであった。

 「な、何…。まだ、生きていたか…?」

 チャーリーは笑うのをやめて、妖血布に覆

われた鳴海の方を見た。

 「質問しているのは私だ。答えろ…」

 その声が醸しだす雰囲気は冷徹を通りすぎ

て、冷厳とも言うべきものであった。

 「な、何が聞きたい…?」

 凍りつくような声に気押されたように、妖

人チャーリーは答えた。声帯に霜が下りてい

るような感じがする。

 「何人の子供を殺した…?」

 「何…?」

 「この妖血布とやらを作るのに、幾人の子

供たちの血を吸わせたのか、と聞いている」

 「さ、さあね…。百人か、二百人か、そん

なことを数えたこともないね…」

 「…そうか。救いがたいな、お前は…」

 冷たく突き放したような物言いであった。

 そして、それはチャーリーにとっては処刑

宣告のように聞こえた。

 パキ…、パキパキ…、ピキィッ…。

 何かが軋むような音が聞こえた。その音の

発生源は明らかに鳴海を覆った妖血布からで

あった。

 「ど、どういうことだ…?」

 チャーリーが凍りついた声で言う。その目

の前で、真紅の布は強張っていた。いや、凍

りついていたと言うべきであろう。

 ビキイッと妖血布の表面に亀裂が走った。

 そして、凍りついた物体の限界がくる…。

 パリィィ…ンンン…。

 絶大な魔力によって敵を封じ込めているは

ずの妖血布が割れた。まるでガラスのように

砕けていった。きらめく妖血布の破片は、あ

たかも真紅のルビーのようであった。

 「覚悟は出来ているだろうな…」

 真紅のダイヤモンドダストの中に、鳴海は

立っていた。その周囲に立ち込める殺気は、

氷点下の冷気を伴っていた。

 「バ…バカな…。妖血布から抜け出したヤ

ツなんか、ロンドンにもいなかったぞ…」

 「ここは横浜だ」

  それこそが答えだ。

  それだけが答えだ。

 うろたえるチャーリーに放たれた一言は、

絶対零度の響きであった。それを聞いた瞬間

に、チャーリーは自分の背後で閉ざされた運

命の扉の音を聞いたのだった。

 「や、やられるものか。ボ、ボクは魔都ロ

ンドンでも名を知られたチャーリー・ビクス

マンなんだぞ…」

 チャーリーはその手にクレッセントを握り

しめた。だが、それを投げられなかった。

 「な、鳴海。お前、何をした…?」

 チャーリーは見た。鳴海から自分に向かっ

て地面が盛り上がってくるのを。そして、そ

れは霜柱が地面を隆起させているのだと気づ

いたのだった。

 「ま、まさか…!」

 周囲の木々は凍りついていた。緑の葉には

霜が下り、その表面にあった草露は氷の球と

化していた。白く美しく、そして静かに世界

は凍りついていた。

 「あ…、あ…、ああ…」

 チャーリーは美しさに魅せられていた。

  だが、それは白魔の美しさであった。

 「チャーリー。この美しい世界で死ねるの

が、そんなに嬉しいか?」

 空気はキーンと張り詰めていた。少しの動

きでも壊れそうなくらいに。その静寂の帳の

中で、チャーリーは身動き出来ずにいた。

 「だが、貴様には死すら生ぬるい。その醜

い心のままの、醜い屍を永遠に晒し続けるが

いい…」

 鳴海が言った瞬間、何かが地面から飛び出

した。それは氷柱であった。そして、チャー

リーの身体を貫いたのであった。

 「ギャアアアッ!」

 氷柱に四肢を貫かれたチャーリーはそのま

ま空中に運ばれた。この一帯の地面の中に存

在する全ての水分が氷結し、恐るべき氷柱と

化したのだと彼に理解できただろうか。

 「秘術、氷柱舞…」

 鳴海が言った。それは自らの作品につけた

キャプションであったのだろうか…。

 美しく奇怪なオブジェと化したチャーリー

は、死の苦悶に身を震わせていた。

 「醜い姿と言ったが、少し美しすぎたかも

しれんな…」

 自らの造形に納得のいかない芸術家の囁き

に似ていた。死すらも美しく、その美にすら

戦慄を禁じえぬ鳴海の能力よ…。

 まさに魔人…。鳴海章一郎…。

 やがて、チャーリーの動きが止まった。

  その顔に永遠の苦悶と後悔を刻みつけて。

 「さらばだ…」

 鳴海は一言別れを告げて、その場を立ち去

っていった。自らが斃し、陽光に光の球を結

ぶ妖異な彫像となった妖人の姿を振り返るこ

とは二度となかった。

 

 「宮崎さーんっっ!」

 呼びかける声に答える者はいなかった。

 妖人との死闘を終え、すぐさま香澄の後を

追いかけた鳴海であったが、香澄の姿は何処

にもなかった。

 「あの足で、そんなに遠くまで行けるはず

はないんだけどなぁ…」

 すでにいつもの茫洋とした鳴海に戻ってい

る。

  この辺りに巣くう妖獣や魔虫に襲われたか

とも思ったが、それならば銃声が聞こえても

おかしくはない。

 「あの娘に限って、銃を撃てないなんて事

はないからなぁ」

 S&W/M659自動拳銃を愛用する香澄

である。コルトパイソンの短銃身(ショート

バレル)ぐらいが扱えないとは思えない。

 ならば、香澄は何処へ行ったのか?

 「あれは…!」

 鳴海は途中の地面に落ちている金属物を見

つけた。それを拾い上げる。

 「しまった…。やはり、一人で行かせるべ

きではなかったか…!」

 鳴海の顔に失意と後悔が滑り落ちる。

 それは香澄に渡したはずのコルトパイソン

357マグナムであった。しかも、一発も発

射されていなかった。いや、発射できなかっ

たのだと分かる。

 「ケイトとか言ったか…。あの妖女」

 リボルバーの回転式弾倉を貫くようにして

髪の毛針が刺さっていた。リボルバー拳銃は

弾倉を固定されてしまうと発射不可能になっ

てしまうのである。

 「宮崎さんに射撃の暇も与えぬとは、さす

がに妖女と言うべきか…」

 香澄がさらわれたのは、確実であった。

 鳴海の表情には守りきれなかった自分に対

する後悔と、敵に対する畏敬の念が同時に混

在していた。だが、彼はもう一人の妖人であ

るチャーリーと死闘を演じていたのである。

 それを考えれば、あの時の判断は決して間

違ってはいなかったはずである。

 様々な思いを巡らせている内に、鳴海は近

くの木に白い物がヒラついているのに気づい

た。それは髪の毛針で縫い止められた紙片で

あった。

 「どういうことだ…?」

 彼らの目的は香澄をゲットすることではな

かっただろうか。困惑する鳴海。

 「まあいい。誘われているのならば、その

誘いに乗ってみようじゃないか…!」

 鳴海はクシャリと紙片を握りつぶすと、妖

獣の森を足早に出ていった。

 『横浜公園』

 紙片には、そう書かれていたのだった。

 

                                                            つづく