悪魔島 横浜

 

                            第十章

 

 日本大通りを一台の車が走っていく。

 その進行方向は他の車の流れとは、明らか

に異なっていた。すれ違う人々は思う。

  (何故、そんなに死に急ぐの?)

 そうした人々の思いはこの日本大通りを別

の名前で呼んでいる。

  『黄泉路』と…。

 死の世界へと通じる道。日本の古い神話は

そんな道の存在を繰り返し伝えてきた。

 「ヨモツヒラサカ」と呼ばれた道は、イザ

ナミやイザナギの伝説として有名である。

  黄泉の国へと行った亡き妻を求めて道を行

くイザナギは、そこで腐乱した亡者と化した

イザナミの姿を見て逃げ出す。だが、黄泉の

亡者たちはイザナギを追いかけて襲い、イザ

ナギは九死に一生を得て逃げ帰ったと言う。

 そんな伝説が生きている。

  絢爛たる近代文明の中に、滅びの光に揺れ

る都市の中に…。

 行く手の左を見れば、倒壊した三井物産ビ

ルや横浜朝日会館、朝日新聞横浜支局などが

見える。そして右手には、横浜地方裁判局や

日本銀行横浜支店の廃墟が見えている。度重

なる暴徒や強盗の襲撃を受けた日本銀行は、

多くの血を代償に捧げ、今は営業停止となっ

ていた。

 日本大通り。すなわち黄泉路の行き着く先

に亡者の国はあった。

   『横浜公園』、=「最高危険地帯」。

 車はそこへ向かっていた。

 運転しているのは無論、鳴海章一郎だ。

 山手の死闘の後、横浜警察本部へ一端戻っ

た鳴海は銃器と車の補充を受けていた。

 今度の愛車は日産スカイラインGTXであ

る。昨年にモデルチェンジしたばかりのタイ

プで、排気量4000・、400馬力の怪物

マシンであった。ボディにはチタンと耐熱ア

ルミニウムの合金を使用し、衝撃吸収板を幾

つも貼り合わせた構造になっていた。もちろ

ん武装も充実させてある。

 スカイラインはやがて、錆びついた鉄の門

の前へと到達した。鉄の門には頑丈そうな鎖

が幾重にも巻きつき、無数の護苻や封印が貼

り付けられていた。そして扉の表面に刻まれ

た無数のひっかき傷や噛み跡は人間のもので

はなかった。門の横にプレートが見える。

 そこには「横浜公園」と書いてあった。

「横浜公園」は、明治9年に誕生した日本

初の洋式公園である。面積は約6万平方メー

トルに達し、内部には近代的設備を誇った横

浜スタジアムが存在している。

 かっては散策を楽しむ市民の姿にあふれて

いた公園も、今では鬱蒼とした妖樹や怪奇植

物の繁茂する魔境と化していた。横浜大震災

の際に、災害時の避難指定場所であったにも

かかわらず、園内に生存者なし。立ち込める

霧や園内を彷徨う白い影、聞こえてくる呻き

声や悲鳴、啜り泣きはすでにそこが生ける者

の赴く場所ではなくなった事を示している。

 第3次横浜復興計画において、妖生物掃討

を目的として陸上自衛隊一個中隊が投入され

たが、「我、誤まてり」という最後の連絡を

残して音信途絶。生還者は一人もいない。

 横浜公園の復旧をあきらめた市当局は、公

園外周部をコンクリート壁で覆い、護苻や聖

なる彫像を埋め込むことで、悪霊や妖生物の

流出を防ぐという消極的解決法に出て、此処

を最高危険地域に指定したのだった。

 ドギュウン!

 銃声が轟き、鋼鉄の鎖が千切れ飛んだ。

  それは、魔界への扉の封印を解いたことと

同じ意味を持っていた。

 「さて、何が待ち受けていますかね?」

 と言って、鳴海は把手に手をかけた。

 ギイイイ…と重い音を響かせながら、扉は

開いていく。剥がれ落ちる錆は、ここ数年来

に扉が開かれたことのない事を物語る。

 開ききった扉の彼方は、緑の魔境だった。

 いかなる世紀末芸術も、このような猟奇的

なオブジェを創造し得ないであろう…。

 不気味に枝をうねらせた妖樹。その表面に

浮き出た模様は、明らかに人間の顔の特徴を

備えていた。葉擦れの音は、人の啜り泣きの

ように聞こえる。そして、絡みついた緑の蔦

は、自らの意思を持っているかのように蠢い

ていた…。

 遠くに妖獣のものと思われる唸り声や咆哮

が聞こえていた。くねった妖樹の根に巻きつ

かれた生物の死体には、6つの眼窩と4本の

腕が備わり、これだけは人間とそっくりな2

本の足が見えた。

 「どういう生態系をしているんだ…」

 そうつぶやく鳴海の声は疲れていた。

 全身を捉える疲労感は、公園に入った時か

ら押し寄せている妖気の影響でもあった。

 あるいは風に乗って運ばれてくる嘆きの声

と呪詛のせいなのかもしれない…。

 「とにかく行くしかないな…」

 鳴海は公園の奥へと歩きだした。その姿を

追うようにして、木々の間を何かの妖獣の影

が移動していく。飢えと殺意に満ちた視線が

鳴海の全身を刺し貫いていた。

 「オオオオオ…!」

 不気味な声が聞こえ、妖樹の森の中から異

様な風体の人間が現れた。いや、人間と呼ん

でいいのかは判別しがたかった。

 シャンプリングマウンドと呼ばれる植物人

間であった。菌糸系の植物に肉体を支配され

た人間の末路とも言うべき怪物である。

 「横浜公園に迷い込んだ哀れな拝金主義者

の一人か…。一攫千金を夢見た代償は高くつ

いたものだな」

 怪人を憐れむ鳴海の声は冷たかった。

 この公園内に群生する妖植物の中には、他

の地域では絶対に存在しない希少価値の高い

モノが存在する。それらを類を見ない高額で

引き取る市外の好事家がいるために、危険を

承知で足を踏み入れる者が多かった。彼らが

どうなったかは、目の前の怪物がよく知って

いることであろう。

 「オオオオオオオ…」

 シャンプリングマウンドが鳴海へと手を伸

ばす。青臭い異臭が鼻をついた。

 「あなたと抱擁を交わす趣味はない」

 スルリと植物怪人の手を逃れた鳴海は、冷

やかに言って銃を向けた。

 だが、レミントンM880ショットガンか

ら放たれた散弾は虚しく弾かれてしまう。

 シャンプリングマウンドの体を覆うドロド

ロの皮膜は、腐って繊維質だけが残った植物

が形作る驚異の防御壁であったのだ。

 「ならば、これはどうだ!」

 鳴海は焼夷手榴弾を投擲した。

 ナパーム弾の四分の一の破壊力を誇る殺戮

兵器が紅蓮の炎を撒き散らす。

 「オオオオオ…!」

 地獄の業火に包まれたシャンプリングマウ

ンドが苦鳴を上げた。菌糸細胞による無限の

回復力を持つ植物人間には、炸裂弾でも通用

しない。だが、植物である以上は炎に弱いの

も確かであった。

 「いよいよ、始まったか…」

 シャンプリングマウンドを火葬した鳴海の

前に次なる妖獣が飛び出してきた。そして、

鳴海は次第に濃密となっていく周囲の妖気を

感じ取らずにはいられなかった。

 ゆっくりと這ってくる茶色の巨体は、全長

2Mに達する「ポイズンリザード」である。

 その口が開き、ホスゲン系の毒ガスを吐き

出そうとした瞬間、鳴海のショットガンがそ

の頭部を粉砕する。血飛沫と共に飛び散った

肉片がボトボトと地面へと落ちていった。

 「こんな所で全身麻痺なんてことになった

ら、洒落にもならんからな…」

 フウとため息をつく間もなく、地面から無

数の触手のような物が飛び出してくる。

 屍肉を好物とする肉食ミミズの群れであっ

た。ピンク色の細長い体に見える赤い点は、

恐らく口であろう。キィキィと鳴きながら、

肉食ミミズは首なしのポイズンリザードへと

食らいついていく。ウネウネと蠢きながら、

体内へと侵入していく様子は酸鼻な悪夢とし

か言いようのないものであった。

 横浜において、敗北と死は同じ意味を持っ

ている。そして、敗北者に与えられる慈悲な

どはなく、屍すら残ることはない。

 「これでは、この道は通れないな…」

 鳴海がそう言ったのも無理はない。屍肉を

貪る肉食ミミズを狙って、ヨロイムカデやバ

ジリスクといった妖獣たちが群がり始めたか

らである。妖獣の餌場と化した道を進むこと

は、自殺行為に等しかった。

 鳴海がやむを得ずに迂回ルートへ向かおう

とした途端、行く手を新たな妖獣が塞いだ。

 上半身は明らかに人間の女だが、その下半

身は大蛇のそれであった。遺伝子変異による

犠牲者「ラミア」である。恐らく、産み落と

した母親に捨てられたのであろう。

 人として生きる道を絶たれ、肉親の愛にも

裏切られた彼女の瞳に宿るものは、飢えと憎

悪でしかなかった。

 「キイヤアアァァ!」

 人間の言葉を教わらずに育ったラミアが、

狂気の叫びを上げて襲いかかる。鳴海の手に

握られたレミントンM880ショットガンが

その猛襲を迎え撃つ。

 「ギャアアッ」

 豊満な乳房を散弾によって抉られたラミア

は、血塗れの裸婦像となった。

 死の断末魔に苦悶するラミアに鳴海は慈悲

の銃弾を打ち込む。その瞳が光を失う直前、

鳴海は深い安堵の色を見たような気がした。

 「……」

 血の肉塊と化した哀れな生命の残骸を残し

て、鳴海はその場を走り去るのだった。

 

 妖獣の森を迂回した鳴海は、大きな広場へ

と到達していた。噴水へと通じる広場は、死

の静寂に満ちた墓場であった。

 「ここは、例の場所らしいな…」

 静まりかえった広場を埋め尽くすのは、も

はや動くこともなく、それを動かす者もいな

くなった機械の残骸であった。

 155ミリ無反動砲を搭載した99式戦車は

陸上自衛隊の最新型主力戦車であったが、目

の前のそれはただの鉄の塊に過ぎなかった。

 ATC(自走装甲車両)は横転し、半ば土

にめり込んだ形で停止している。他にも、大

型ミサイルランチャー16門を備えた局地掃討

戦車「ファイアム」、360度回転の全方位

対応の火炎放射戦闘車両「サラマンドラ」、

指向電磁波兵器「ハイプラズマー」を搭載し

た「21式戦略機動戦車」、一人乗りの戦闘ヘ

リコプター「飛燕VF1」などなど…。

 当時の陸上自衛隊の主力兵器の殆どは、こ

の不気味な墓場にその躯を晒している。そし

て、それを操作していたであろう人々も白骨

や腐乱死体となって、その隙間を埋めるよう

にして横たわっていた。

  『自衛隊終焉の地』

  第三次横浜復興計画において、横浜公園内

の妖生物掃討を目的として投入された自衛隊

一個中隊は、その全員が未帰還という結果と

なった。

 最新兵器に全身を固め、意気揚々と乗り込

んだ彼らではあったが、横浜というものを甘

く見ていたのが運命を決めた。無線から流れ

込んでくる作戦本部からの指令が、公園の怨

霊や妖気が演出した偽の指令であると気づい

た時にはもう遅かった。妖獣や怪生物が待ち

受ける場所へ誘い込まれた自衛隊は「我、誤

まてり」という悲痛な電文を残し、全滅した

のである。

 「自衛隊終焉の地か…。一応、同じ公僕と

しては、哀悼の意を表しておかねばならない

のだろうが…。果して、彼らにそれを受ける

意思はあるのかな…?」

 鳴海は不思議なことを言う。物言わぬ躯と

化した自衛隊員たちが、何を不満に思うと言

うのであろうか…。だが、鳴海の言葉はすぐ

に理解の範囲となる。

 壊れた戦車の物陰から、燃え尽きた装甲車

の中から、捩じれたローダーを地面に食い込

ませている戦闘ヘリの残骸の下から、ユラユ

ラと緩慢な動きで現れてくる人影たち。その

誰もがカーキ色の迷彩服を着用していた。

 それは死んだはずの自衛隊員たちだった。

  ゾンビ化した自衛隊員たちが歩いてくる。

 ゾンビとは本来、ハイチの暗黒宗教である

ブードゥーの魔術によって蘇らされた死体を

意味する。だが、横浜の場合は魔術で復活さ

せられたのとは違う。生への妄執、果てない

飢えと憎悪、そして生者への恨みから、自ら

をゾンビ化した恐るべき死体たちなのだ。

 落ち窪んだ眼窩からは眼球が白い糸を引い

て下がり、皮膚は腐り果ててゼリー状に溶け

ていた。飢えた光だけが、暗い眼窩の奥に輝

きを放っていた。

 妖獣たちがいなかったのも、納得である。

 ここは死霊となった自衛隊が守る地獄の駐

屯地であったのだ。

 「見逃してくれと言っても、無駄かな?」

 そう言うが、鳴海のショットガンが死霊自

衛隊の体を吹き飛ばす。転がり落ちた首がニ

ンマリとした笑みを浮かべた。

 「おおおおおお…」

 不気味な声を響かせながら、死霊自衛隊は

緩慢な動きで前進を続ける。一人や二人を失

おうが、何の関心も怯みも見せなかった。

 「君たちと遊んでいる時間はないんだ」

 鳴海はショットガンを撃ち、もう一方の手

でSIG・P339を乱射した。だが、散弾

に身体の真ん中に大穴を開けられた死体も、

首から上を失った死体も、歩みを停めない。

 さらには地面に転がった腕や足、あるいは

蛇のような腸が動き回る様子は、さすがの鳴

海をも閉口させた。

 「しまった…!」

 鳴海の手にした二つの銃の弾丸が尽きる時

が来た。それは死霊自衛隊の前進を阻止する

手段の喪失を物語るのであろうか…。

 「おおおおおお…」

 死霊自衛隊がユラユラと身体を揺らしなが

ら、鳴海を包囲していく。

 「仕方あるまい」

 この状況下で鳴海は面倒臭そうに言った。

 「おおおおおお…」

 久々の人間の肉にありつける喜びからか、

死霊自衛隊は生きていた頃の精悍さや実直さ

を全て忘却した表情で、鳴海を見る。そこに

感じ取れるのは、飢え。そして憎悪。

 死霊自衛隊員の一人が鳴海へと腕を伸ばそ

うとする。だが、その瞬間に彼は自分の手が

動かないことに気づいた。

 「…?」

 周囲に静かに冷気が満ちていた…。

 いつの間にか、死霊自衛隊の腐乱した肉体

は白い球を結びはじめていた。それは氷であ

り、腐った肉体に淀んでいた妖血を固まらせ

ていったのである。

 「人々を守るために死んでいった自衛隊の

勇士たちには酷いかもしれないが、ただのゾ

ンビとなった君たちに『誇りある死』は必要

ないだろう…」

 鳴海がそう言った途端、凍りついた死霊た

ちの身体が砕け散った。鳴海を取り巻くよう

に、死霊自衛隊の全員は細かな破片となって

地面に散乱したのである。

 パチパチパチパチ…。

 不意に何処からか、拍手の音がした。

 鳴海が振り向く。すると、そこに妖艶な微

笑を浮かべながら、ブロンドの美女が立って

いた。ケイト・マクギリスである。

 「ウフフフフ…。お見事だわ」

 「見てたのなら、助けてくれても良かった

のに…」

 鳴海は照れくさそうに言った。

 「それはゴメンなさいね。きっと、あなた

なら大丈夫だと思ったものだから」

 「冷たい人だな」

 憮然とした表情の鳴海であった。

 「あなたに冷たい人なんて言われると、傷

ついちゃうわ。そんなに冷えた瞳をした人は

見たことがないもの」

 と、ケイトは笑った。だが、その目は笑っ

ていなかった。

  目の前に立つ鳴海は、未だ魔人となったま

まだったからである。

 「宮崎さんは何処にいる?」

 「そんなにあの女のことが気になる?」

 「…殺したのか?」

 鳴海の声が一段と冷気を増した。

 「そ、そんなに凄まないでよ。殺すわけな

いでしょ」

 ケイトは慌てて言った。思わず、そう言わ

ずにはいられない程の鬼気を感じたのだ。

 「それは、彼女の中に『真理』とやらが隠

されていると思っているからかな?」

 その問いに、ケイトの顔に驚きが浮かぶ。

 「あなたって、恐ろしい人ね。もうそこま

で、知っていたの?」

 「教えてもらっただけだ。この横浜には、

知らない事などない人間がいるのでね」

 「馬車道に住んでる老婆のことね。おかげ

で私たちも仲間を失ったわ」

 馬車道流砂に消えた妖人ヘンリー・バーラ

ムのことであろう。

 「彼の遺体が欲しければ、砂の河を探して

みるといい。運がよければ、見つかる筈だ」

 「別にヘンリーの死体なんて、欲しくない

わよ。それよりも、ミイラ取りがミイラにな

る方がイヤだわ」

 「ミイラなら、横浜にも沢山いるさ。古代

エジプトのツタンカーメン王の異母兄である

トゥムホテップのミイラだって、横浜開港博

物館の中に置いてあるからな」

 「それは、それは。世界の考古学者が知っ

たら、ミイラになっても構わないからと言っ

て殺到するでしょうね」

 ケイトはため息をつくように言った。今さ

らながらに、横浜の底知れぬ恐ろしさを実感

した思いだった。

 横浜開港博物館は、横浜にいつしか集まっ

てきていた世界中の呪われたアイテムが収集

されているのである。その収蔵点数は数千点

とも、数万点とも言われているのだった。

  「…で、宮崎さんは何処にいる?」

 鳴海は無駄話を終わらせるように言った。

 「私が教えると思って?」

 「教えてもらうさ」

 鳴海が言った瞬間、広場の片隅にあった噴

水から大量の水が噴き出した。横浜大震災に

よって寸断された水道管は、すでに噴水への

水の供給をストップしている筈である。

  …それなのに、噴水は水を噴いた。

 「な、何をする気なの?」

 ケイトが驚く間もなく、噴き出した大量の

水は、巨大な龍のようになって押し寄せた。

 明らかにその水量は、噴水の有する許容量

を遙かに超えたものであった。

 「キャアアッ!」

 思わず悲鳴をあげたケイトの周りを囲むよ

うにして、巨大な水の柱が突き刺さった。し

かし、香澄の居所を教えてもらわなければな

らない以上は警告に過ぎない。

 「教える気になったか?」

 鳴海の手には水の剣『氷雨』が握られてい

る。噴水を通じて呼び寄せた大量の水を封入

した無敵の魔剣であった。

 「あ、あそこよ…」

 ケイトが指さした先には、巨大な円形の建

物がそびえていた。横浜スタジアムである。

 「スタジアムの中か。じゃあ、案内しても

らおうか」

 鳴海は冷やかにケイトを促した。恐るべき

妖力を潜在させているはずのケイトが素直に

応じているのは不思議だったが、鳴海はその

疑念をあえて無視した。

 罠が待ち受けているにせよ、香澄を救出す

ることが最優先であったからである。

 「ついてきて…」

 ケイトを先にして、鳴海は歩き出した。

 正面に見える横浜スタジアムは、大震災に

よる無数の細かな亀裂を全身に留めながら、

魔人たちの来訪を待ち受けていた。

 新たなる犠牲者を招くように…。

 かっての外野席入場券売り場の横を通って

いくと、スタジアムへの入口がある。そこを

抜けて、スタジアム内へと通じる階段を登り

ながら鳴海が口を開いた。

 「それにしても、お前たちの目的は宮崎さ

んを手に入れることにあったはず。それが何

故に、俺を誘い出す道具に使ったのだ?」

 「ウフフ…。もう、あの女の身体は調べさ

せてもらったわ」

 「それで…?」

 鳴海の問い掛けに、ケイトはフッという短

い笑いを漏らした。自嘲のようにも思えた。

 「よく分からなかったのよ。確かにあの女

の持っている遺伝子の中には、解析不可能な

遺伝子が混じっていたわ。でもね、その謎の

遺伝子は、前に伊勢佐木町で収集した細胞の

いくつかにも含まれるものだったのよ」

 「どういうことだ?」

 「分からないわ。私たちの求めている真理

は、唯一絶対の存在のはずよ。それが幾つも

存在しているのは不可解だわ」

 頭を振るケイトが嘘を言っているようには

見えなかった。二人は階段を登り切り、さら

に内野へと通じる業務用通路を歩く。それは

ベンチ裏へ通じるものであった。

 「それは別の解答があるんじゃないか。つ

まり、宮崎さんは違っていたと…」

 「結論は簡単には出せないわ。だから、伯

爵さまはもっと多くのサンプルを集めるよう

に指示を出したという訳」

 「ほお。それで、それを実行する為には、

この私が邪魔になると考えたのか」

 「その通りよ。さあ、着いたわ」

 ギイイと重たそうな鉄の扉を開き、ケイト

は言った。

  そこは一塁側のベンチへと通じていた。

 「宮崎さん!」

 ベンチから見えるマウンドの上に、巨大な

十字架が立っていた。香澄はそこに磔にされ

ていたのである。

 「どうぞ。助けて構わないわよ。勿論、出

来るのならば、という話だけど…」

 ケイトはニヤリと微笑んだ。悪魔の微笑が

意味するものはすぐに分かった。香澄が縛ら

れている十字架に寄り添うようにして、4つ

の人影が立っていたからである。

 「あれは?」

 ベンチからグラウンド内へと歩み寄りなが

ら、鳴海は横を歩くケイトに聞いた。

 「さあ。聞いてみたら?」

 ケイトは揶揄するように言った。鳴海はそ

れには答えず、平然とマウンドへ向けて歩い

ていった。

 「来たか。鳴海章一郎!」

 真っ黒なスーツに身を包んだ男が、その双

眸に憎悪を光を揺らめかせながら言った。

 「誰だ、君は?」

 「貴様に殺されたアクセル・フォン・ホフ

マイスター男爵の仇を討つために、マイカル

本牧の元老院から派遣されたバルトハウザー

と言う。死出の旅に覚えていくがいい!」

 「な、何だと!」

 鳴海は驚いた。いつの間にか、ホフマイス

ター男爵の殺人犯にされているらしい。

 「俺は、中華街から来た呉蘭だ。警察は手

を出さない、という特別自治地区の掟を破っ

た鳴海刑事に天誅を下させてもらう!」

 巨大な方天戟を持った巨漢が言った。

 チャイナ服は武闘家のそれであり、背中へ

垂れた弁髪が特徴的だった。

 「私も名乗らせてもらおう。ネオ・ナチス

横浜支部のゲーレン大尉だ。同志、ビュルメ

リング博士の仇を討たせてもらうぞ」

 黒いナチス親衛隊の制服の男が言う。くっ

きりとした鼻筋、青い目と金髪はゲルマン人

の特徴をはっきりと伝えていた。

 「魔法街のモルナールじゃよ。我が友人で

あり、ライバルであったセルゲイ・グリハム

が無念を晴らせとうるさくてのう…」

 最後の男は、フード付きのマントを身につ

けた老人であった。明らかに魔術師であると

分かる。

 「…これは、どういうことかな?」

 鳴海はうんざりした表情でケイトを見た。

 ケイトはクスクスと笑っている。

 「その女性から、一連の殺人事件は横浜警

察の陰謀であると聞いた。まさに許しがたい

事実としか、言いようがない!」

 バルトハウザーが厳然と言い放った。

 「我等に喧嘩を売るとは愚の骨頂だが、い

ずれ横浜警察そのものにも報いは受けてもら

うとしよう」

 呉蘭が方天戟を頭上でビュンビュンと振り

回しながら言う。その技量は、巨大な方天戟

を軽々と扱っている点からも察しがつく。

 「やってくれたな…」

 鳴海は冷たい視線でケイトを射た。その視

線から逃れるようにして、ケイトは観客席へ

と跳躍する。3M近い距離を一気にジャンプ

して、観客席へと飛び移ったケイトもやはり

妖人と言えよう。

 「高見の見物という訳か…」

 観客席に座ったケイトを見て、鳴海は言っ

た。ケイトはニコニコとしている。

 「鳴海さん。女の子を助けたければ、その

4人を斃すことね」

 「…そうさせてもらおう。だが、その次は

お前だということを忘れるなよ」

 「楽しみにしてるわ」

 そう言って、ケイトは投げキッスを送る。

 それを無視して、鳴海は4人の復讐者へと

目を向けた。

 「どうせ、説得も話し合いも無理なんだろ

うね…」

 それに答えたのは、呉蘭の跳躍であった。

 死の方天戟が真っ向から振り下ろされる。

 その攻撃を鳴海もまた、跳躍することによ

って避けた。その距離は3Mに達する。

 「ほお、さすがは王元忠を殺った男よ」

 地面を切り裂いた方天戟を構えなおしなが

ら、呉蘭が感嘆する。だが、彼が切り裂いた

地面は地割れと表現しても良いものだった。

 「トアアアッ!」

 今度はゲーレンが襲いかかった。その肉体

はビュルメリングによって改造されているの

だろう。人間とは思えぬスピードである。

 それをも鳴海はかわした。と思った瞬間、

ゲーレンの身体から鋭い槍のようなトゲが突

き出た。長さ1M近いトゲは鳴海の身体を貫

いた。と思った瞬間、鳴海の身体が蜃気楼の

ように消える。それは残像であった。

 「私の超スピードをも凌ぐとは、驚いた」

 「そう言うあなたも、皮膚に含まれている

角質を変化させて武器にするとは、大した能

力の持ち主だ」

 鳴海は言った。途端に鳴海の四肢に絡みつ

いた物がある。それは微細な髪の毛だった。

 「ククク…。処女の髪の毛に、コウモリの

羽を煮詰めた油を塗り込んだ物だよ。簡単に

は切れはしないぞ」

 バルトハウザーの魔技「妖髪縛」によって

鳴海の自由は奪われた。そして、笑うバルト

ハウザーの真紅の口腔には、2本の牙が見え

た。彼もまた、吸血鬼であったのだ。

 「もらったあっ!」

 呉蘭が叫び、鳴海の頭上へと飛ぶ。そこか

ら突き出された方天戟は、鳴海へと届く瞬間

に秘技「流星落」の魔槍と化したのだった。

 「おおおっ?」

 鳴海の身体に無数の穴を穿つはずだった方

天戟は、虚しく空を裂いて、地面へと突き刺

さった。鳴海はその四肢を黒髪に絡め捕られ

たままに振り子のように飛んだのである。

 まさに妖戦、魔闘。横浜スタジアムは今、

古代ローマの闘技場のごとき、魔界のコロッ

セオと化したのであった。

 中空を舞う鳴海の身体からダイヤモンドダ

ストに似たきらめきが零れると、絶対に切れ

るはずのない黒髪は小さな断片となって、地

面へと散っていった。極低温に晒された黒髪

はその物質限界に達して砕けたのである。

 「妖髪縛を破ったとて、この私が敗れたわ

けではないぞ!」

 バルトハウザーが飛んだ。跳躍ではない。

 その背から生えているのは、明らかにコウ

モリの翼であった。やはり吸血鬼であった。

 「ソニックデザスター!」

 コウモリが出す超音波は、あくまでもパッ

シブソナーと同じ原理である。だが、バルト

ハウザーの出した超音波は、高周波の殺人超

音波であった。

 「水鏡…!」

 鳴海が漏らしたつぶやきをバルトハウザー

の耳が捉えたかは定かではない。だが、空中

に血の華を咲かせたのは彼の方であった。鳴

海が作りだした水の鏡に反射した自らの殺人

超音波を受けたのだと、彼には理解できたで

あろうか…。

 「ギャアアア…」

 血の帯をひいて墜落するバルトハウザー。

 これだけの魔闘は、鳴海がジャンプしてか

ら、着地するまでの短い時間に行われたもの

であった。

 「魔術、泥地獄!」

 モルナールが言うと、鳴海が着地した大地

は一瞬にして泥沼となった。そして、その中

から無数の腕が伸びて、鳴海を掴んだ。

 「ヒヒヒヒ…。大震災で死んだ犠牲者たち

じゃよ。そのまま、暗い地の底へと連れ込ま

れてしまうがいい…」

 泥の中から現れたのは、死霊自衛隊にも負

けぬ不気味さを備えた亡者の群れであった。

 「オオオオオ…」

 地の底から蘇った亡者たちは、鳴海の身体

を必死に掴む。自分たちと同じ思いを味合わ

せようとする暗い妄執のままに…。

 「それは遠慮させてもらおう」

 鳴海が言うと、魔力によって生み出された

泥沼は瞬時にして凍りついていた。そして、

そこから上半身を突き出した亡者たちも。

 「なんと、儂の泥地獄を破ったか…!」

 「旅立つのは、お前だ…」

 鳴海の言葉は極低温の囁きであった。

 その言葉が生んだものは、ポーランド屈指

の魔術師と呼ばれたモルナールを震撼させる

に十分すぎるものであった。

 「ウワアアッ!」

 モルナールの立つ大地は瞬時にして液状化

し、泥濘という表現を通り越して、完全な水

と変わったのだ。ドボーンという水音がそれ

を証明している。

 「地底にある海の暗さは、冥界の闇よりも

深い…。寂しさに耐えられれば、いいがな」

 大地に大きな波紋を広げて、地面下へ没し

たモルナールへ向けられた送別の辞である。

 どういう原理かは判らぬが、彼は確かに誰

も訪れたことのない地底の海へ沈んでいった

のであった。

 「次は誰だ?」

 冷やかな鳴海の誘いに乗ったのはゲーレン

であった。親衛隊の漆黒の衣装が弾け、鋼鉄

の肉体が見えた。

 「カイザーナックル!」

 瞬速で繰り出された鋼鉄の拳が、鳴海を襲

う。だが、それはまたも残像を貫いた。

 「幻影身か。日本古武道にそのような技が

あったと聞いた。だが、これはどうだ!」

 ゲーレンの肉体が高速回転した。余りの高

速に耐えられないのか、肉体が変形し、その

姿はナチスのマークである鉤十字のように見

えた。魔技「デッド・クロイツ」である。

 「面白い出し物だな。だが、無理な運動を

肉体に要求することの怖さを知らぬらしい」

 鳴海の身体を取り巻くように現れた靄。そ

れは超深海の高圧を備えた無敵の防御膜では

なかったか…!

 「死ねえ!」

 高速回転するゲーレンの肉体は、再び角質

のトゲを生やしている。もし触れれば、どの

ような物も切り刻まれてしまうに違いない。

 だが、それは鳴海を取り巻く靄に勝てるの

だろうか。無敵の矛と無敵の盾が衝突した時

に何が起こるというのか。

  古来、人はそれを矛盾と呼んで忌避してきた。

 グッシャアァァンン…。

 何かが砕けるような音がした。

 「まともに受ける程、馬鹿じゃない」

 鳴海の声だった。ならば、ゲーレンは?

 「絶対零度の壁…?」

 観客席から魔闘を観戦していたケイトがつ

ぶやいた。余りの結果に、思わず腰を浮かせ

てしまっていた。

 ゲーレンはすでに人間の形を留めていなか

った。粉々の破片となって、大地に散ってい

たのである。

 「その通りだ、ケイト…」

 死闘の中でケイトの言葉を鳴海の耳は捉え

ていたのか。恐るべき男であった。

 鳴海を包んでいた靄は超深海の高圧を伴っ

ていたのではなく、氷の海の温度を伴ってい

たのであった。そして、それに突っ込み、靄

に包まれた瞬間にゲーレンの体は凍結し、細

胞の全てを粉砕させる結果となったのだ。そ

れはかって、バランタインが辿った死への道

程と同じものであった。

 「お…、おのれぇ…」

 方天戟を構えたまま、呉蘭が呻いた。彼の

心に言い知れぬ恐怖が起こる。それは彼が生

まれて初めて味わう感情であった。

 全身の毛細血管を破壊され、血の海に横た

わるバルトハウザーはまだ起き上がれない。

 「さあ、どうする?」

 鳴海は呉蘭に問いかけた時、

 「情けないわね。私が力を貸してあげるか

ら、少しは男気を見せなさいよ!」

 観客席からケイトが叫んだ。

 呉蘭が苦鳴を発した。その体の表面を黒々

とした剛毛が覆っていく。そして、それは地

面に横たわるバルトハウザーも同様だった。

 「や、やめてくれぇぇぇ…!」

 呉蘭の意思は無視された。そして、彼は魔

獣へと変貌していったのである。

 「ワーウルフに変えられたか…」

 鳴海は呉蘭へと憐れみの眼差しを送った。

 人間を人狼へと変えるワーウルフマスター

こそが、ケイト・マクギリスの能力なのだ。

 ワーウルフとなって立ち上がる呉蘭。しか

し、無理な肉体の変貌がいかなる苦痛を生む

のか、呉蘭は血の涙を流していた。

 「ガアアアアッ」

 一方、バルトハウザーはより不気味な怪物

へと変貌していた。コウモリの翼を生やした

ワーウルフである。

 「苦しいか…?」

 鳴海の問いをどう理解したのだろうか。

  呉蘭は突進した。

  ワーウルフに変わっても、武闘家としての

本能は残っていたようである。

 手にした方天戟は「龍爪撃」の奥義となっ

て、鳴海を襲った。そして上空からはバルト

ハウザーが急降下攻撃を仕掛けてくる。

 「バ、バカな…!」

 ケイトは思わず叫んでいた。

 鳴海はただ、立っていただけであった。

 絶対不可避の上下からの攻撃は、鳴海では

なく、攻撃を仕掛けたお互いの肉体を破壊し

ていたのである。呉蘭の方天戟はバルトハウ

ザーの肉体を貫き、バルトハウザーの爪は呉

蘭の肉体を引き裂いていた。

 「さすがは誇り高い男たちだ。最後の最後

に己の過ちを己で正したか…」

 ケイトにワーウルフに変えられた瞬間、彼

らは本当の加害者が誰かを悟ったのだ。そし

て、自分たちの始末をつけたのであった。

 「何と、バカな男たちなの…」

 呆然とするケイトだったが、その全身を凄

まじい殺気が貫いた。

 「彼らもまた横浜の男たちだった。その誇

りを汚した罪は、どんな罪よりも重い」

 鳴海の瞳は冷えきっていた。その声は絶対

零度を超える冷気に満ちていた。

 「な、何を…。まだ、私には切り札が残っ

ているわ!」

 ケイトが叫ぶと同時に、香澄を磔にしてい

る十字架の下にある地面が割れた。

 「GYAAAAA!」

 耳をつんざく雄叫びと共に魔獣バンダース

ナッチが現れた。ケイトは最後の罠を香澄の

足元に潜ませていたのだ。

 「どう、魔獣バンダースナッチよ。警友病

院にいた仲間の刑事も、こいつの爪と牙で引

き裂かれたんだから!」

 ケイトの言葉は、魔獣の凶暴さと残忍さを

誇示することによって、鳴海の戦意を喪失さ

せようとするものだった。

 だが、彼女は重大な過ちを犯したのだ。

 「なるほど。ならば、それなりの御礼をし

なければならないな」

 鳴海は静かに言った。その言葉に揺らめく

極低温の炎を感じ取ったのか、魔獣バンダー

スナッチは怯えたような反応を示した。

 「水龍破…!」

 突如として、グラウンドが裂けた。それは

スタジアムそのものの地盤をも切り裂いてい

たのであろう。そして、それは地下水脈にま

で達していたに違いない。

 亀裂を通して噴出した膨大な水は、竜巻と

なってバンダースナッチを包み込んだ。

 「な、何が起こっているの!」

 ケイトが叫んだが、その叫びはスタジアム

を揺るがす轟音の中にかき消された。

 竜巻は龍となって天に上り、その中に閉じ

込められた魔獣の体を切り裂いた。それは八

つ裂きと言うには生ぬるく、一寸刻みという

表現が正しいに違いなかった。魔獣の血に染

まった真紅の竜巻は、肉片と鮮血を振りまき

ながらスタジアムを蹂躪した。

 嵐が過ぎ去ったスタジアムは、崩壊寸前の

状態であった。グラウンドはめくれ上がり、

特徴的な三角形のナイター照明はもぎとられ

ていた。観客席もズタズタにされ、狂った竜

神が荒れ狂った様を示していた。

 「うう…」

 その惨状の中で、ケイトは身を起こした。

 ふと見ると、目の前に人が立っている。そ

れは鳴海章一郎であった。

 「な、鳴海…!」

 そう叫んだが、ケイトは逃げられない。体

が動かなかったのだ。その原因は彼女を射す

くめる氷の眼差しであった。

 「殺すの…? この私を…?」

 「殺すにも、それなりの形がある」

 鳴海の手にあった「氷雨」がきらめいた。

   何かが落ちた…。

 上腕筋であった。大腿筋であった。背筋で

あり、臀筋であり、あらゆる全身の筋肉であ

った。そして、膵臓、肝臓、小腸、大腸、胃

袋、肺、あらゆる内蔵器官であった。

 美しく妖艶なケイトの肉体は解体され、お

ぞましい解剖標本と化していく。

 「ウウウ…」

 その凄惨な地獄絵巻の中で、ケイトは解体

されていく己の肉体を見ていた。血塗られた

顔には眼球が残されていた。脳も、脈打つ心

臓も残されていた。身体中に走る神経繊維も

全て残されているのだった。そして、それだ

けは妖艶な唇も残されていた。

 いかなる魔技の成せる所業なのだろうか。

 どんな天才外科医でも不可能な事を、鳴海

はいとも簡単に行っているのだった。

 血の芸術作品を仕上げていく技巧は、言う

なれば悪魔の技としか表現できなかった。

 眼球からは涙が零れている。

 苦しいのだろう。痛いのだろう。死にたい

のであろう。だが、それは許されなかった。

 全身を解体される苦痛と狂気の中で、ケイ

トは死ぬことも許されなかったのである。

 「さて、聞きたい」

 鳴海は静かに言った。

 「本当の宮崎香澄は何処にいる?」

 鳴海の声は、相変わらず冷たかった。

 バンダースナッチが出現した瞬間、十字架

に磔にされていた香澄の肉体は霧散したので

あった。それはエクトプラズムを使って作ら

れた疑似生命体のようなものであり、明らか

に香澄のダミーであったのだ。

 「……」

 ケイトの唇が微かに動いた。

 「その苦しみから逃れたいのなら、早く喋

ることだな…」

 鳴海は淡々と言った。そこには一片の慈悲

すらも感じられなかった。

 「ひ…」

 ケイトは必死に喋ろうとしている。彼女は

隠そうなどという気持ちはなかった。ただ、

全身を貫く激痛と苦悶が、彼女の意思を確実

に反映させられなかったのである。

 「どうした?」

 鳴海もそれを知っている。なのに、あえて

ケイトを嘲弄していた。それほどまでに、鳴

海は怒りを感じていたのである。そして、生

きたまま引き裂かれた大石刑事と各務野刑事

の苦しみを少しでも多く味合わせようとして

いるのだった。

 「ひ…、ひか…わ…ま、…る…」

 ケイトはそう言った。その瞬間、鳴海の手

に握られた「氷雨」が、ケイトの脳を真っ二

つにした。脳漿を撒き散らして、ケイトはよ

うやく死の安らぎを得られたのである。

 「氷川丸か…」

 鳴海は、ついに最後の決戦をする時が来た

ことを悟った。

 氷川丸。そここそが決戦の舞台となる。

 待ち受ける伯爵と妖人ハーバートの姿を思

い浮かべて、鳴海の瞳には冷たい炎が揺らめ

いていた…。

 

                         つづく