宮部耕三郎調査ファイル

  蛇帯じゃたい

 

     第壱章

 

 白く連なる土塀に、幾つもの花輪が並んで

いた。塀の向こう側から聞こえてくる読経の

声と、微かに漂ってくる線香の香りだけでも

塀の向こうで何が行われているのかは、一目

瞭然だ。耳を済ませば、人々の漏らす小さな

嗚咽が聞こえたことであろう。

 『報泉寺』と書かれた看板が掲げられた大

きな門に、『田口家』と墨書きされた提灯が

下がっている。その門を多くの人々が出たり

入ったりしているのが見えていた。

 グモォォン…!

 不意に、弔問に訪れた人々の耳が異質な音

を捉えた。怪訝そうに顔を見合わせる。

 ガコン、プスン、ガガガガッ…。

 厳粛な雰囲気にそぐわない騒音が近づいて

きている。

 「…?」

 人々が何事かとそちらへ目をやると、一台

の薄汚れた車が来るのが見えた。

 「なんだい、ありゃ?」

 弔問客の一人が思わずそう漏らすほどのオ

ンボロ車である。マフラーからは白煙があが

り、何度もノッキングを繰り返して、今にも

停まってしまいそうであった。

 車は、思いっきり目立つ黄色のフォルクス

ワーゲンである。一昔前のもので、通称ビー

トルと呼ばれているやつである。全体的に薄

汚れているのは、所有者のズボらさを暗に示

しているようだった。それ以上に、まだ走れ

るのかという疑問が先にたってしまう。

 と言うよりも、これほど葬式という場に来

るのに、相応しくない車はなかった。

 「すみませーん、報泉寺って言うのは、こ

こでいいんでしょうか?」

 運転席の窓から顔を出した男が、ノンビリ

とした口調で問いかけてきた。

 「そ、そうですよ」

 弔問客の一人が応える。

 「ああ良かった。どうも方向音痴なもので

着かなかったら、どうしようかと思っていた

んですよ」

 「はあ…?」

 「いやあ、前にも友人の結婚式で、別の会

場に行ってしまったことがありましてね」

 「はあ…」

 「ハハハ…、あれは恥ずかしかったです」

 「はあ…」

 答える弔問客は訳も分からず、惚けたよう

にうなずくばかりである。

 「すみませんね。ちょっと、そこをどいて

もらえますか?」

 「え…?」

 応対していた弔問客が応える間もなく、黄

色いフォルクスワーゲンは寺の門脇の土塀へ

と幅寄せを始めていた。グオングオンという

エンジンの吹かし音がうるさい。

 「ちょっと、ここに停めないでよ。後で霊

柩車も来ることだし、邪魔だよ!」

 腕章をつけた喪服の男が、あわてて門の中

から飛び出してきて、車を停めないようにと

叫ぶ。恐らく葬儀屋の者であろう。

 「え?ああ、そうですか。じゃあ、どうす

ればいいんでしょうか?」

 男はノンビリした様子で言いながら、なお

も車を停めようとしていた。

 「この先を曲がって、少し行くと専用の駐

車場があるから、そこへ停めてくれよ」

 葬儀屋が指で方向を示しながら、大声で説

明する。男は指された方を見て、頭をかきな

がら照れくさそうに笑った。

 「ああ、すみません。じゃあ、そっちに停

めさせていただきます」

 グオオオッとエンジンが妙に大きな音を発

すると、黄色いフォルクスワーゲンは再び白

煙をあげながら、前へと動きだした。呆気に

とられる客たちの前を通りすぎながら、運転

席の男は周囲にペコペコと頭を下げまくって

いた。

 「なんだい、ありゃ?」

 ヨロヨロと曲がり角を曲がっていく車を見

送りながら、弔問客たちは再び顔を見合わせ

るのだった。

 

 数分後、受付に黄色いフォルクスワーゲン

に乗ってきた男が姿を見せていた。

 「あのぉ、田口さんの葬儀会場はここでい

いんですよね?」

 「はあ?」

 男の質問に、受付にいた女の子がキョトン

として応えた。葬式に来ておいて、何を考え

てるんだ、この男は。そういう思いがはっき

りと顔に出てしまっている。

 「あのぉ…?」

 もう一度男が尋ねた。

 「ええ、そうですけど…」

 受付の女の子が応えると、男は頭をかきな

がら笑った。

 「どうも、すみません。さすがに葬儀場を

間違えちゃうと、洒落にならないですから」

 「はあ…」

 女の子が呆れた様子で男を見る。

 一応、喪服を着用しているが、ネクタイは

ヨレヨレだし、スーツ自体もアイロンをかけ

ていないような感じであった。ノンビリした

感じのする顔だちで、丸縁の眼鏡の奥で人な

つこそうな目が優しく笑っていた。

(誰かしら、この人…?)

 受付の女の子は、記帳する男の手元へと目

をやった。筆ペンで書かれた名を見る。

 『宮部耕三郎』

 そう書いていた。古風な名前だと思った。

(四十歳ぐらいなのかしら…?)

 宮部を見ながら、女の子は思った。だが、

それにしては若い感じもする。

 「37歳ですよ」

 不意に宮部に言われて、女の子が赤面して

しまう。この男…、ニブそうに見えて、実は

鋭いのかもしれない。

 「じゃあ、これを」

 書き終えて、宮部という男が香典を手渡し

た時、遠くから呼びかける声がした。

 「おおい、宮部じゃないか!」

 本殿の方から、小太りの男が駆け寄ってく

る。こっちはキチンとした身なりだった。

 「やあ、島村くん。お久しぶり」

 宮部が島村と呼んだ男へと近づいていく。

 「十年ぶりかな。お前ってやつは、ちっと

も同窓会に顔を出さないからな」

 「いやぁ、色々と忙しいもんですから」

 彼のクセなのか、宮部は頭をかきながら弁

解した。

 「とりあえず、こっちへ来いよ」

 島村にうながされて、宮部は本殿へと連れ

立って歩きはじめた。

 「ええと、宮部は今、何処だったっけ?」

 島村がタバコに火をつけながら聞いた。

 「東洋文化大学ですよ」

 「あそこか。結構、良い学校だと聞くな」

 「まあ、僕のような人間に研究費を出して

くれるぐらいなんですから…」

 「ハハハハ…。そりゃ、そうだ」

 島村は豪快に笑った。

 「島村くんは、城北大学でしたっけ?」

 「ああ。しかし、最近の学生じゃ、日本文

学なんてものには、興味もへったくれも無い

からな。寂しいものさ」

 「僕も似たようなものですよ」

 「お前は民俗学だったっけ。それはそれで

人気が無さそうだな」

 「ハハハ…、その方が気楽ですけどね」

 宮部が照れくさそうに笑うが、半ば本気で

言っているようにも見える。

 「で、もう助教授にはなれたのか?」

 島村が紫煙を吐き出しながら、聞いた。

 「アハハ…、まだまだ非常勤ですよ」

 「おいおい、まだなのかよ。まあ、お前は

そういう世渡り的な事には、全くと言ってい

いほど関心が無かったからな」

 「そうですねぇ」

 「でも、少しは先のことを考えておいた方

がいいぞ。いつまでも非常勤じゃ困るだろ」

 「職員になったら、好きに出歩くのもでき

なくなってしまうから、ちょうどいいです」

 「本気で言ってるのか?」

 「ええ、もちろん」

 ニコニコとしながら、宮部が答える。島村

も思わず呆気に取られたほどだ。

 「ま、まあ…、そういう生き方もいいかも

しれないな…。俺なんか、大学内の派閥争い

で気苦労が耐えない日々だしな」

 「僕には向きませんよ」

 「そうだな。好きなことを研究していられ

る時が、一番幸せだよ」

 島村はそう言って、タバコを地面に捨てる

と、足で踏み消した。

 目の前は本殿であった。庭からの真っ正面

に祭壇が見えている。故人の写真を飾る白菊

が華美に映えた。

 「そう言えば、田口先生はどうして亡くな

ったんですか?」

 「聞いてないのか?」

 島村が驚いた様子で言った。宮部はそんな

様子に首をかしげながら、うなずく。

 「…殺されたんだ」

 周囲に気を配りながら、島村は小声で言っ

た。今度は宮部が驚く番であった。

 「殺されたって、本当ですか?」

 「ああ。こんな事、嘘を言っても仕方ない

だろう」

 「どういうことなんです?」

 宮部が聞くと、島村は新たにタバコに火を

点けた。そして、ひっそりと声を潜めながら

説明を始めた。

 田口幸之助は、かって島村や宮部が在籍し

ていた京都大学の教授であった。

 専攻は日本文学であり、その道ではよく名

を知られた人物でもあった。とても教育熱心

な人で、人には厳しい一面も持っていた。

 宮部たちが教えられていた時も、よく田口

教授には怒鳴られていたものである。だが、

それは田口教授の熱意の現れとも言うべきも

のであり、熱意を以て学ぼうとする学生に対

しては懇切丁寧に接していた。そういう点で

は、宮部も田口教授の人柄を慕っていた。

 数年前に定年を迎えた後は、家で本の執筆

などをしていたようだが、息子夫婦との同居

も始め、家庭生活を味わっていた感じであっ

た。大学にいた頃は、ろくに家にも帰らずに

研究ばかりしていたから、夫人への気遣いも

あったことであろう。宮部も温厚そうな田口

夫人は好きであった。

 息子の治男は、普通のサラリーマンとなっ

ていたが、田口教授が定年となったのを機に

同居することになったのである。息子夫婦の

家庭も円満で、二世帯住宅にリフォームした

後は、田口教授たちともうまくやっていたよ

うであった。

 「幸福そうだったんですね」

 話を聞いていた宮部が感想をもらした。

 「ああ。去年には孫も生まれて、田口先生

もかなり喜んでいたらしい。それに加えて、

もっと喜ばしいことがあったんだ」

 島村は紫煙を吐いて、ひと息ついた。

 「もっと、喜ばしいこと?」

 「お嬢さんのことさ。ほら、あそこに座っ

ているのがそうだ」

 あごをしゃくって示した先を、宮部が見る

と、喪服姿の若い女性が見えた。線の細い感

じの美しい女性であった。

 「長女の光恵さんだよ。実は今度、結婚す

ることになっていた」

 「へえ、それはおめでたい」

 素直に喜んだ宮部だが、島村はため息をつ

くと首を振った。その表情には、恩師に対す

る深い同情の色が見えた。

 「だが、先生が殺されたのは、その結納の

前日だったんだ」

 紫煙と共に、重々しい声が流れる。

 「結納の前日…。まさに幸福の絶頂で殺さ

れたと言うんですか?」

 「ああ…」

 島村の手からタバコが落ち、それを足で踏

み消した。

 「可哀相に…」

 宮部は広間に座っている光恵の方へ目をや

りながら呟いた。娘の結婚という華やかで、

もっとも喜ばしい日を前にして死んでしまっ

た田口教授の無念を思ってのことだった。

 「しかしな…。悲劇はそれだけじゃなかっ

たんだ」

 島村がボソッと言った。

 「まだ、何かあるんですか?」

 「宮部。お前はこの葬式の不自然なことに

気づかなかったか?」

 「不自然なことかい?」

 「よく見てみれば、わかる。本堂の中を見

て、何か気づかないか?」

 「…?」

 宮部は本堂の中を見た。白菊に飾られた祭

壇を中心に、両側に座っているのは親族の者

たちであろう。

 先程の長女である光恵。そして横に座って

いるのは息子夫婦と思われた。やつれた表情

をしている男が、長男である治男であり、そ

の横で赤ちゃんを抱いているのは妻だろうと

思われた。彼女の顔にも疲れの色は隠せない

ようであった。

 後は親戚の者だったりするのだろうが、光

恵のそばに近づいて、話しかけている男に気

づいた。しきりに気にかけている様子を見て

いると、恐らくは婚約者ではなかろうか。

 「あれ?」

 そうして見ている内に、宮部は気づいた。

 一人、いなければいけない人間がいない。

 そうであった。必ずいなければならない人

物、それは夫人である。それがいなかった。

 「田口先生の奥様が見えませんね…」

 宮部は島村に目を戻して言った。

 「その通りだ。夫人はここにいない」

 「何処に行かれたんですか。もしかして身

体を悪くされたとか?」

 「それなら、まだいいさ。先生の奥様であ

る芳江さんは…」

 言葉を切った島村の様子に、首をかしげる

宮部。丸縁眼鏡の磨かれたレンズの奥で、そ

の目が、島村の一挙一動を見守る。

 「芳江夫人は警察に連れていかれた」

 島村はそう言って、目をふせた。

 「え…、何でまた?」

 「……」

 宮部の疑問に対し、島村は目を伏せたまま

応えようとしなかった。

 「殺人事件と言うからには、色々と聞かれ

なきゃいけないこともあるでしょうが、葬式

の日に呼び出すことはないでしょ。いくら警

察と言えども、横暴すぎますよ!」

 宮部が怒ったように続ける。だが、島村の

反応は違っていた。

 「違うんだ。夫人は、田口先生を殺した容

疑者として連れていかれたんだ!」

 「何だって?」

 これには、さすがに宮部も驚いた。田口教

授が殺されたということだけでも驚きだった

のに、その容疑者が夫人だとは…。

 「そ、そんなわけはないでしょう…。何故

に夫人が田口先生を殺さなきゃいけないんで

すか?」

 「動機はわからない。事実、夫人は全面的

に否定しているよ」

 「だったら、何故?」

 「夫人の言っている内容が、あまりにも信

じられなかったからだ」

 「どういうことです?」

 「事件のあった夜、横で寝ていた夫人が目

撃した限りでは、田口先生を殺したのは妖怪

だったと言うんだよ」

 「妖怪?」

 宮部のこめかみがピクリと動いた。

 「信じられないだろ。先生を黒い影のよう

な大蛇が絞め殺したと、夫人は証言している

んだから」

 島村の口調も、自嘲めいていた。

 だが、それを聞く宮部の目は笑っていなか

った。むしろ、茫洋とした今までの表情とは

打って変わった厳しい表情へと変化していた

のである。

 「その話は、もっと詳しく聞かなければな

らないようですね」

 はっきりとした口調で宮部が言うのに、島

村も表情を変えた。目の前にいる旧友が、全

く別人のように感じられたからだ。

 「少なくとも、夫人が言っていることを最

初からウソと決めつけるのは良くないと思い

ますね」

 「そうか…。宮部の研究する民俗学は、そ

ういったジャンルが専門だったな」

 「人からは変人扱いされますけどね」

 「妖怪だの何だのを追ってるようじゃ、そ

れも無理ないさ。俺だって、夫人の言ってる

ことを信じられないからな」

 「信じられませんか?」

 「科学万能の世の中だぜ。俺はこう見えて

も、高校までは理数系だったんだ」

 「一見、科学では解明できないような不可

思議な事実が存在することを、昔の人は素直

に認め、それに対する考え方を培っていまし

た。僕が研究している民俗学は、そういった

事実を見つめるための学問ですからね」

 「だけど、現実はそうでもないぜ。確かに

夫人は大蛇が絞め殺したと言ったが、検死の

結果、首についていた窄条痕は明らかに布で

絞めたものだったそうだ」

 「布で絞められていた?」

 「ああ。はっきりとな…」

 ため息をつく島村に、宮部は聞く。

 「それじゃ、凶器は布だったと?」

 「田口先生の首についていた痕だけで判断

するとすればな…」

 「それじゃ、明らかに蛇に絞め殺されたと

言っている夫人の言葉はウソということにな

りますね」

 「警察もそう思っているのさ。だから、強

引とも思える形で夫人を連れていったんだ」

 島村の言っていることは、納得できるもの

である。検死の結果、殺人の凶器に使われた

であろうものは判明している。そして、それ

とは食い違う目撃証言をした夫人。さらに、

その目撃証言があまりにも突飛で、嘘をつい

ているとしか思えない。とどめは、殺人が行

われたとされる時間に、被害者である田口先

生の傍にいたのは芳江夫人一人しかいない。

 これだけの状況証拠があれば、逮捕されて

も仕方ないことであろう。それをしなかった

のは、せめてもの警察の温情なのか。

 「それでも、許せないなぁ…」

 宮部が言った。

 葬儀に参列させないという行為は、どうし

ても許せなかった。

 過去、その人をもっとも愛し、愛されてい

た者が黄泉への旅立ちを見送ってあげずに、

誰が見送るというのであろうか。

 それは報われぬ思いを生み、その魂の慟哭

が生み出してしまった事件を、これまでに何

度となく宮部は見てきたからだった。

 「島村くん…」

 宮部がふいに話しかけた。

 「何だい?」

 「君も、田口先生の奥様が殺したのだと思

っているのかい?」

 「……いや、わからない。そうとしか思え

ないんだが、あの優しそうな夫人が殺すわけ

なんかないとも思う…」

 島村もまた、学生時代に夫人に優しくして

もらった学生の一人なのだった。

 「なあ、宮部。俺も、お前も、あの夫人に

は世話になった身だ。恩義もあるし、義理も

ある。それよりも何よりも、俺たちは先生の

奥さんが好きだった…」

 「ええ、もちろんです」

 「だが…。いや、そういった感情を全部伏

せて…。冷静な目で見た時に…、やはり夫人

が犯人なんだろうか?」

 島村はそう言って、宮部を見る。真剣な、

そして哀しそうな目だった。

 「まずは調べましょう」

 「宮部…」

 「そして、知るのです。常識というレンズ

だけでは見えない事実があることを。何故、

誰が田口先生を殺したのかを…!」

 さっきまでのノンビリとした感じは見えな

かった。島村を見つめる目は、真実を見極め

ようとする冷徹なる学者の目であった。

 「変わらないな…、お前は。そういう頑固

なところは、先生そっくりだぜ」

 「損な性分ですよ」

 そう言って、宮部が笑った時、

 「島村先生」

 遠くから呼びかける声がした。

 知的な凛々しい顔だちの青年がやってくる

のが見えた。

 「おお、柿崎くんか」

 柿崎は島村のそばまで来ると、横にいる宮

部に気づいて、会釈した。

 「こちらは、東洋文化大学の宮部先生だ」

 島村が宮部を紹介する。

 「はじめまして、柿崎幸弘と申します」

 丁寧な口調が、青年の真面目さを感じさせ

た。宮部も丁重に一礼を返す。

 「こんにちは。宮部耕三郎です」

 「彼は私の同期で、同じ田口先生の門下生

だったんだ。優秀だったんだぞ」

 「ちょっと…。こんな所でおだてても、何

も出ませんよ」

 島村の紹介ぶりに、宮部はちょっと慌てて

しまう。懸念通り、柿崎は興味深げに宮部を

見やった。

 「そうなんですか。東洋文化大学では、や

はり日本文学を?」

 「いえいえ、私の専門は民俗学でして…」

 「民俗学ですか?」

 学界の中では珍しいジャンルだけに、柿崎

も目を丸くした。

 「はあ…。まあ、伝奇とか、風習などにつ

いて研究してるんですよ」

 「なるほど、確かに日本文学の1ジャンル

ではありますよね。古事記にしても、日本書

紀にしても、神話や伝説などを避けて通るこ

とは出来ませんからね」

 「ええ…」

 「うん、なるほど。そういった研究も面白

そうですねぇ…」

 「ま…まあ…」

 さすがに宮部も、「妖怪博士」というニッ

クネームまでは言えない。

 「では、その方面の助教授か何かで?」

 「いやあ、まだ非常勤のレベルです」

 「し、失礼しました」

 柿崎は慌てて、頭を下げた。その様子が宮

部には可愛らしく思えるのだった。

 「柿崎君は日本文学を?」

 「はい」

 「柿崎君は、田口先生が辞められた時の最

後のゼミ生なんだ。それ以後は院に進んだん

だが、個人的に田口先生の所に通ってたりし

てたんだ」

 横から島村が補足した。

 「最近は田口先生が取り組んでいた日本文

学史の編纂も手伝っていたんだぜ」

 「へえ…」

 宮部が感心すると、柿崎は照れくさそうな

笑いを浮かべた。そんな様子に、宮部は別の

ことも考えていた。

    (つまり、この青年もこの家に何度か出入

していたという事か。それは間取りも含め

て、家のことをよく知っていた人物でもある

ということだ…)

 宮部の思考は冷静に事実を見つめていく。

 まるで、冷徹な名探偵のごとく…。

 だが、宮部はそんな素振りは見せない。

 「そう言えば、奥様は?」

 ふいに柿崎が聞いた。島村と宮部は一瞬目

を交差させ、それから島村が言う。

 「まだ、警察だ」

 「…最後のお見送りも出来ないなんて。そ

れに奥様が田口先生を殺す訳がないのに」

 「それは、私も同感ですよ」

 くやしそうに唇を噛む柿崎に宮部が言う。

 「宮部先生…。しかし、奥様の言っている

大蛇みたいなモノというのは…」

 「柿崎君。君もあの証言が気になっている

のかな?」

 「はい…。さすがにあれは…」

 「では、田口先生の奥さんが嘘をついてい

ると思っているのかな?」

 「い…、いえ、それは…」

 柿崎は口ごもる。巨大な蛇のような妖怪な

どあり得ないという気持ちと、田口夫人を信

じたいという気持ちの葛藤であった。

 「柿崎君。もし、大蛇の妖怪という証言が

信じられないのならば、答えは二つしかない

ことになってしまいますよ」

 「二つ…ですか?」

 「奥さんが嘘をついている。もしくは、奥

さんは嘘をつかない、という私たちの認識そ

のものが間違っているかです…」

 「……」

 「それも違うと言うならば、三つ目の新た

なる答えを探さねばなりません」

 「新しい答えですか?」

 「そう。夫人は嘘をついていない、という

新たな答えを探し出すしかないでしょう」

 「でも、妖怪が出たと…」

 「それもまた、真実の一つです」

 「そ、そんなことが…」

 柿崎が喘ぐように言う。信じられないとい

った目で島村を見る。

 「できるさ…。こいつにならね」

 島村が笑って、ポンと宮部の肩を叩く。

 その言葉に、宮部は照れたように頭をかく

のだった。だが、それは決して自信の無さと

いう訳ではないようだった。

 「間もなく、出棺でーすっ」

 遠くから声がした。

 「宮部。とりあえず、挨拶だけ済ませてこ

いよ。蓋を打ちつけたら、もう拝顔出来なく

なっちまうぞ」

 「そ、そうでした。急がなくちゃ」

 島村に促され、慌てて宮部が駆けだす。だ

が、すぐに供花を運んでいた係員にぶつかっ

てしまう。落ちて散らばった花を慌てて拾う

宮部だが、慌てているので巧くいかない。

 「やれやれ、あいつはアメリカのコメディ

アンの方が似合ってるな」

 島村がその様子を見て、ため息をついた。

 「ところで、島村先生」

 「何だい?」

 「光恵さんのことですが…」

 柿崎が話題にしようとしているのが、光恵

の結婚のことだろうと島村にも分かった。

 「そうだな。しばらく結納は延期になるだ

ろうが、これで破談というわけでもないだろ

うと思うよ」

 「そ…、そうですよね」

 そう言った柿崎の表情は喜んでいるように

も、残念がっているようにも見えた。

 「柿崎君?」

 「あ、それでは、ちょっと受付の方を手伝

ってまいります」

 島村が首をかしげる間もなく、柿崎は一礼

して、走り去っていく。

 白い菊の花を拾い上げながら、宮部はそん

な様子をじっと見つめていた。

                            つづく