宮部耕三郎調査ファイル

  蛇帯じゃたい

 

     第弐章

 

 薄汚れた白い壁に囲まれた小さな部屋であ

った。小さく開いた窓、部屋の中央に置かれ

たスチール机とパイプチェア。そこに老齢の

女性が、疲れ切った表情で座っていた。

 田口幸之助の妻、芳江である。

 殺人の容疑者である彼女の前には、所轄署

の刑事である大谷が座っていた。今年で50歳

になる男で、ヒラからの叩き上げである。多

くの事件に関わってきたベテランではあるの

だが、かなり融通が効かないところがある。

 こうと思い込んだら譲らない頑迷さと言っ

てもいいだろう。しばしば同僚からも白眼視

される頑固さは、そのいかつい顔だちからも

容易に想像できた。

 その大谷の目から見ても、芳江の憔悴ぶり

は明らかである。取調室の中で過ごした屈辱

と哀愁の日々は彼女から気力を奪い取りつつ

あるようであった。

 「あの人は、もう荼毘にふされたのでしょ

うか…」

 ポツリと芳江が口にした。目は小さな窓の

彼方の空を見つめていた。

 「ああ…、昨日の午後だったかな。葬儀が

営まれたそうだ」

 「……そうですか…」

 消え入るような声であった。

 「奥さん。葬儀に参列させてあげられなか

ったのは同情するが、そろそろ本当のことを

話してもらえませんかね?」

 「……」

 芳江は答えず、じっと窓の外を見つめたま

まであった。火葬場の煙突から流れ、天へと

昇っていった夫を思い馳せているようにも見

える。だが、その目に涙はなかった。

 すでに枯れ果てていたのであった…。

 「奥さん。そうやって、黙っていたって仕

方ないだろう。一体、どうやって御主人を殺

したんだい?」

 「殺してません…」

 「本当のことを喋ってくれよ」

 「殺してません…」

 「実際に、田口幸之助は殺されているじゃ

ないか!」

 「だ…、だから、それは大きな蛇のような

黒い影が…、あの人を…」

 「またか。あのね、そんな事を一体誰が信

じると思ってんだい?」

 大谷刑事の語気は自然と荒くなっている。

 芳江を犯人と決めつけている思考が、いつ

しか自白へと追い込む雰囲気へと変わってい

ってしまうのであった。

 「そ…そんなことを言われても…」

 芳江の声は弱々しい。すでに、彼女の頭の

奥では、『もうどうでもいい』という気持ち

が芽生えていた。愛する伴侶を失った時点で

生きる活力を喪失していたのである。

  ましてや、葬儀にも出られない状況では…。

 だが、その状態にあって、なおも事件につ

いては否認し続けている。その理由は、夫を

愛していたという一点だけは否定されたくな

かったためである。どのような状況にあって

も、譲れない一線がある。愛する人を手にか

けたなどと、決して思われたくないという気

持ちが、この過酷な取り調べに耐えている支

えだった。

 「……」

 再び、芳江が黙り込む。夫を失い、その身

体が灰となってしまったことに、彼女を支え

ている気力の糸も切れかかっているのだ。

 「奥さん…!」

 大谷刑事が詰問しようとした時、不意に取

調室のドアがノックされた。

 「はい、どうぞ!」

 不機嫌そうな声で大谷が答えると、ドアが

開いて、制服警官が入ってきた。

 「取り調べ中に、すみませんが…」

 そう前置きして、制服警官は大谷の耳元に

口を寄せた。ボソボソと内容が伝えられる。

 「何ぃ?」

 大谷が眉をつりあげた。

 「ということで、すみませんが…」

 制服警官はそんな大谷の反応には取り合わ

ず、一礼して大谷を促す。

 「わかったよ」

 大谷は面倒くさそうに立ち上がると、制服

警官に残るように命じて部屋を出ていった。

 残された芳江は、そんな大谷の様子にも無

関心のように、再び窓の外に目を向けるのだ

った。

 

 警察署の廊下は、細くて陰気である。所々

に貼られている防犯ポスターも、一部が剥が

れかかっていた。取調室前の廊下と言うより

は、病院の霊安室の前と言った方が雰囲気に

ピッタリもしれない。

 もっとも、どちらにしたところで、その陰

気さが解消される訳ではないのだが…。

 「お忙しいところをすみません…」

 取調室を出てきた大谷を、廊下に立ってい

る男が迎えた。取り調べ中を呼び出しておい

て、「お忙しいところを…」と言うのも変な

挨拶ではある。

 「あんたかい?俺に用ってのは」

 大谷が不機嫌そうに言う。くたびれた茶色

のジャケットを身につけた男は、その問いに

臆したふうもなく答えた。

 「はい。東洋文化大学の宮部と申します」

 胡散臭そうな目で、大谷はジロジロと宮部

を見る。宮部は相変わらず、ニコニコとした

微笑を浮かべていた。

 「ふん、大学の先生なんかに用はないぜ」

 「そちらには無くても、こちらにはある訳

でして…」

 「俺は忙しいんだよ」

 「取り調べをなさっているとか?」

 「分かってて、呼び出したんだろうが。そ

れに、ここは関係者以外は立入禁止だぞ」

 「知っています」

 「おい、ふざけんなよ!」

 「田口芳江さんの取り調べですよね?」

 大谷の言葉を無視し、宮部は言った。それ

は質問ではなく、確認である。田口芳江の名

を聞いた大谷がホウという顔つきをする。

 「そうさ。婆さんのくせに、中々強情な犯

人でな。いいかげん、参ったぜ」

 婆さんという言葉と、犯人と決めつけてい

るような態度に、宮部がムッとする。

 「犯人と決めつけるのは、早すぎるのでは

ないでしょうか。まだ本人は容疑を否認して

いるのでしょう?」

 「…あんた、何者だい?」

 大谷の目が細くなる。明らかに警戒してい

るようだった。

 「ですから、東洋文化大学の宮部だと、先

程名乗ったと思いますが…」

 「そうじゃねえよ!」

 飄々とした宮部の雰囲気に、大谷の声もつ

い荒くなってしまう。こういう捉えどころの

ないようなタイプを見ていると、イライラし

てきてしまうのであった。

 「納得のいく説明をしてもらおうか!」

 「困りましたね。お気に召すような答え方

が出来るといいのですが…」

 「第一に、何処の大学のインテリだか知ら

ないが、どうして取調室のある所まで入って

これたんだ?」

 「それは、色々とコネがありまして…」

 「第二に。あんたが田口芳江とどういう関

わりなのか、そこを聞かせてもらおうか?」

 「知人です」

 「…ふざけんなよ。そんな答えで通ると思

ってんのか。場合によっちゃ、婆さんの代わ

りに取調室に御招待してもいいんだぜ」

 「田口夫人を自由にしてもらえるのなら、

それも考えないではありませんね」

 「何ぃ…!」

 大谷が凄みかけた時、

 「大谷くん、待ちたまえ」

 そう言って現れたのは、捜査課の大久保課

長であった。

 「課長…!」

 大谷が唖然とする目の前で、大久保が宮部

に会釈する。

 「大久保さん。今回は無理をお願いして、

申し訳ありません」

 宮部が丁寧に挨拶する。それに対し、大久

保はにこやかに手を振る。そんな様子を理解

できない大谷だけが困惑していた。

 「大谷くん。こちらの宮部先生が今回の事

件について、協力したいと申し出ている」

 大久保が言うと、大谷はますます困惑の色

を強めた。

 「何を言ってるんですか、課長?」

 「君も可能な限り、宮部先生に協力してあ

げてほしい」

 「ちょ、ちょっと。民間人を捜査に介入さ

せるなんて、冗談じゃありませんよ」

 「そう言うな。私も昔、宮部先生にはお世

話になっていてな。或る迷宮入り寸前の事件

を解決するのに、非常にためになった」

 「探偵ですか?」

 大谷は疑いの眼差しを宮部に向ける。宮部

はその視線を、ニッコリとした微笑みで受け

止める。

 「そうではありません。ただの学者に過ぎ

ませんが、大久保さんの時は少しはお役にた

てたのかもしれませんね…」

 「法医学か何かかい?」

 「いいえ、私の専門は民俗学です」

 「え…?」

 「主に民間伝承や伝奇、特に妖怪などにつ

いて研究しています」

 「はあ?」

 大谷が素っ頓狂な声をあげた。

  (何、考えてんですか? あんたは?)

 大久保を見つめる大谷の目は明らかにそう

語っており、非難の眼差しとも言えた。さす

がに大久保も困ったような表情を浮かべる。

 「大谷くん。君の気持ちはわかるが…、そ

の…なんだ、今回は、ほら…容疑者がそんな

ことを証言してただろう…」

 「課長。あんな証言、信じられる訳ないで

しょうが。妖怪ですよ、妖怪…」

 「う…うむ、それは…」

 「だいたいね。あんな嘘、今時の子供だっ

て、つきゃしませんよ!」

 そう言って、大谷が憤慨した時、

 「だからこそ、犯人ではない。そうは思わ

ないんですか?」

 宮部が静かに、大谷へと問いかけた。

 「何だと?」

 ムッとした目つきで大谷が見る。

 「子供でもつかない嘘。そんな嘘を犯人で

ある人間がつく訳ないでしょう」

 「そ…それは…」

 「普通なら、ちゃんとしたアリバイとなる

ような事や自分から容疑が外れるような嘘を

つくんじゃありませんかね。それこそ、覆面

をした強盗が庭から忍び込んできたと言った

方が、はるかに説得力があるでしょう」

 「……」

 「真っ黒な影の大蛇が、自分の主人を絞め

殺した。そんな嘘をつく必要が、どこにある

と言うのですか?」

 「そりゃ、犯人の勝手だろう…」

 今度は大谷の方が攻められる番であった。

 淡々と質問を重ねてくる宮部の言葉は、理

路整然としており、反問しようのないものば

かりであった。何しろ、宮部が言っているこ

とは、大谷自身が疑問に感じていたことでも

あったのだ。

 「そうではありません。逆に考えれば、田

口夫人は嘘を言っていない。真実を語ってい

たのだ、とは考えられませんか?」

 「真実を?」

 そう言って、大谷は吹き出した。腹を抱え

て、大笑いしはじめる。

 「ハハハハ…、何を言いだすかと思えば」

 「おかしいですか?」

 「当たり前だろうが。この世に、真っ黒な

影のような大蛇がいる訳ないだろ」

 「……」

 「ここがアマゾンの奥地とでも言うのなら

考えてもいいがな」

 「では、何に絞め殺されたのですか?」

 「犯人にだよ。凶器に使われたのは、恐ら

くは布のような幅広のロープか、それに類す

るものだろう。検死結果は明らかだ」

 「その凶器は何処に?」

 「まだ見つかってねえよ。だから、犯人に

直接聞いているんじゃないか!」

 「奥さんは、犯人じゃありません!」

 宮部が珍しく大きな声になる。そばで聞い

ている大久保が目を丸くするほどだ。

 「じゃあ、先生さんは、あの田口夫人が犯

人ではない、という証拠を持ってるのか?」

 「いえ…、今はありません」

 宮部が言うと、大谷は皮肉な笑いを浮かべ

た。この刑事が笑うと、いかにも卑しい笑い

に見えるのが不思議だ。

 「それじゃあ、どうしようもないですな」

 「夫人が言っていた内容が真実だという証

拠を用意すればいいんですね」

 「ハハハ…、宮部先生。あんたがどんなに

偉い先生だか知らないが、妖怪でも捕まえて

来るとでも言うんですかい?」

 「必要ならば…」

 宮部の顔は真面目である。それを見た大谷

が、ケッというような顔をする。

 「大谷くん…」

 険悪な雰囲気に見かねた大久保が言う。

 「私も以前は、君と同じだった。しかし、

世の中には色々なことがある。自分の知識の

範囲だけで物事を決めつけるのは…」

 「課長。課長は、妖怪が本当にいたとでも

思っているんですか?」

 「そ、それは…」

 「課長だって、信じてないんでしょう?」

 「……。妖怪がいるかどうかは別にして、

私が関わった事件で見たものは、到底信じら

れるものではなかった…」

 「何を見たと言うんです?」

 「……得体の知れない何かだ」

 大久保の表情は強張っている。それは大谷

との口論によるものではない。遠い記憶の彼

方に蘇る何かによるものだった。彼は余程の

モノを見てしまったのだろうか…?

 「大谷くん。だから、君も…」

 「話になりませんな!」

 そう言い捨てると、大谷は取調室へと戻っ

てしまう。後に残された宮部は、フウとため

息をついた。

 「宮部先生、申し訳ありません」

 大久保が丁寧に頭を下げる。大谷を説得で

きなかったことを責任に感じているようだ。

 「いえ、いいんですよ。私の方も、急に無

理をお願いしたのですから…」

 「すみません」

 「それに、いきなり信じろと言う方が無理

だと思いますしね」

 「……。とりあえず、私に出来ることがあ

れば、力になります。そのためにも、少し先

生の意見を聞かせてもらえませんか?」

 「そうですね。私の方も少しでも情報が欲

しいところですから…」

 そう答えると、宮部は大久保と連れ立って

取調室の前を後にした。田口夫人の顔を見れ

なかった、という思いを残して…。

 

 テーブルに置かれたコーヒーカップからは

湯気と共に芳醇な香りが立ちのぼっていた。

 宮部がカップを取り上げ、目をつぶってユ

ルリと香りを楽しむ。ブルーマウンテンのイ

ンスタントだが、それはそれで宮部のお気に

入りである。豆から挽く高級コーヒーよりも

インスタントの方が味わい慣れてるし、マイ

センなどの高級食器よりも、一客三百円の量

産品の方が落ちつけるというものだ。

 「インスタントコーヒーの方が好きだなん

て、相変わらずですね」

 「何しろ、普段から慣れ親しんでいるもの

が一番ですよ。高級品は苦すぎます」

 「ハハハ、宮部先生らしいです」

 大久保は笑って、自分もコーヒーを口にす

る。警察署の応接室の中である。

 「それにしても…」

 カチャリとカップをソーサーに戻しながら

大久保が言う。

 「二年ぶりですか…」

 大久保は遠い目をしていた。過ぎ去った過

去を思い出すような目だった。

 「そうですね。かっての京都での事件で関

わって以来ですから」

 「文車妖妃(ふぐるまようひ)ですか…」

 大久保はボソリとつぶやいた。

 「ええ…」

 宮部がうなずく。その事件が大久保と知り

合うきっかけとなったものであった。

 「あんなことが本当に起こるものだとは思

いませんでしたよ」

 大久保が思い出しながら言った。

 「厳密には妖怪とは言いづらいですが、些

細な事を発端として、何かが生まれてしまう

ものなのです」

 「いや、人の思いの恐ろしさというものを

思い知らされた事件でした」

 「そうですね。あれは一種の鬼ですから」

 「鬼ですか…。私も見ましたが、確かにあ

れは人ではなかった…」

 そう言って大久保は身震いをした。

 

   二年前…。

 京都の嵐山にある高級住宅街で、一家惨殺

という酷たらしい事件が起こった。そして、

その凶行を引き起こした犯人は、なんとその

家族の母親だった。優しかった筈の母親が、

大学に通う長男、高校生の長女、そして、夫

を次々に包丁で血に染めていったのだ。

 逮捕された当時、母親は錯乱状態であり、

駆けつけた警察官にまで重傷を負わせてしま

うほどであった。しかも、屈強な警察官が三

人がかりでも押さえつけられないほどの怪力

を発揮したのである。それだけでも、異様と

も思える事件ではあったのだが…。

 逮捕はしたものの、事件を起こした動機が

全く分からないという状況となる。母親は放

心状態の後、「自分が何をしたか、分からな

い」と繰り返すばかりで、一家全員が死亡し

た事実さえも信じようとしなかった。あまつ

さえ、警察が自分を騙しているとさえ思って

いたぐらいなのである。

 覚醒剤や大麻、あるいはアルコール中毒や

ニコチン中毒、薬物依存症などの可能性まで

を調べたのだが、いずれもシロであった。

 そして、否認する彼女の様子は、嘘をつい

ているようには、とても思えないのだった。

 この事件の捜査担当をしていたのが、大久

保であった。彼は直接に取り調べに当たった

のだが、彼女の言葉を嘘だとは思えずにいた

のだった。しかし、実際に家族を皆殺しにし

たことは確かであり、その現実とのギャップ

を埋められずに苦労していた。

 そんな矢先、第二の事件が起こったのだ。

 今度は、事件の起こった家で現場検証をし

ていた鑑識の職員が、惨殺事件を起こしたの

であった。そして、またしても錯乱状態で暴

れる男を、警察官が五人がかりでも抑えられ

ないような状態だったのである。

 事件を起こした鑑識の職員も、逮捕された

後に自分の行動を何一つ覚えていなかった。

 彼が殺したのは、自分の恋人であった。し

かも、その翌月に結婚する予定だった婚約者

をナイフで滅多突きにしたのである。二人の

関係は人も羨むほどで、誰からも祝福されて

いるようなカップルのはずであった。それが

何故、このような悲惨な結末を迎えたのかを

理解しうる者は一人としていなかった。

 最愛の恋人を殺した犯人自身すらも…。

 連続する「動機なき殺人」に、担当する大

久保は悩み苦しんだ。動機や原因がはっきり

しなければ、第三の事件が起きてしまう可能

性もあったからである。最終的には、幻覚を

引き起こす有毒ガスの存在まで考慮し、京都

大学の研究室にまで依頼をした程であった。

 そこで宮部と出会ったのである。

 宮部は当時、恩師である田口教授に会いに

来ていたところだった。そこで事件の話を聞

きつけ、フラリと大久保の前に現れたのであ

る。

 「この事件の原因は、あの家にあります」

 それが宮部の最初の言葉であった。

 大久保はその言葉を聞いて、怪しい祈祷師

か、霊媒師がやってきたと思った。だが、彼

がれっきとした学者であると知って、さらに

混迷を深めた記憶がある。それだけ、宮部の

印象は学者とは似つかわしくないものだった

からであった。

 「もしかすると、文車妖妃が出たのかもし

れません」

 そう言われた時も、大久保は何が何やら分

からなかった。それが妖怪の名前であると分

かった時には、さすがに宮部を怒鳴りつけた

ほどである。そういう意味で、大久保も大谷

刑事を怒りきれなかった部分があった。

 宮部は江戸時代の文献から、事件の起こっ

た住宅街の辺りで妖怪が出たという記述を見

つけていたのだった。それは「文車妖妃」と

呼ばれる妖怪であった。その記述の内容と、

伝え聞いた今回の事件の概要から、その関連

性と可能性に着目したと言うのである。

 「文車妖妃」とは、江戸時代に鳥山石燕と

云う絵師が描いた「画図百器徒然袋」にも出

てくる妖怪である。目的の相手に渡ることな

く捨てられてしまった文、その中でも特に、

恋文に込められた無念と愛憎の念が鬼と化し

てしまうというものである。執着心から生ま

れた鬼は、対象となる人や土地に祟りをなす

と言われている。

 そして、江戸時代の古文書に書かれている

江戸当時の事件の内容が、今回の事件と酷似

していたのである。「動機なき殺人」、しか

もそれが連続して起こる。この悲惨なシチュ

エーションは、三百年の時を経て繰り返され

ていたのであった。

 「歴史は繰り返す」と言うが、人の起こす

忌まわしく陰惨な事件ほど、その言葉に当て

はまるものはない。哀しく愚かにも…。

 「あの家の下を掘ってみましょう」

 宮部の意見に従って、大久保はその言葉を

実行に移した。信じている訳ではなかったが

藁にでもすがりたい心境であった。

  そして、その結果…。

 なんと、家の真下から、古ぼけた文書箱が

掘り出されたのである。しかも、その中には

封がされたままの恋文が大量に収められてい

たのであった。いずれも、女から男へ、しか

も妻帯者への横恋慕の手紙であった。

 状況は察しがつく。ある一家の旦那に横恋

慕した女が恋文を書いた。それは横恋慕とも

片思いとも言うべきものであり、一方的な愛

情の押しつけでもあった。受け取った側には

何の責任もない。

 まさに現代で言うところのストーカーとい

うやつであった。こうした錯綜した愛情表現

は何時の世にもあるものらしい。

 事情を知った妻は、届く恋文を次々に捨て

去り、さらに焼き捨ててしまったのである。

 その状況を知った差し出し人の女は、男の

妻を呪い、深く憎みはじめていく。

 一方、男の家では段々と脅迫じみてくる内

容に焼くことも怖くなり、最後の方には封も

あけずに箱の中に押し込め、人知れず家の下

に埋めてしまうのであった。

 捨てている様子もないので、届いていると

思い込んだストーカー女は、さらに思いのた

けを手紙に塗り込めていく。だが、その思い

は箱に閉じ込められ、地中深くに埋められて

いたのだった。誰に知られることなく…。

 やがて、破局が来る。押し込められ、蓄積

されていった女の狂った情念は、ついに実体

化し、鬼と化したのだった。それは一種の残

留思念の怪物とも言えた。狂おしいほどの思

いが、一家の妻に取り憑いてしまったのであ

る。それは、もっとも邪魔する者への怨念と

も言うべきものだった。女の鬼気に支配され

た妻は、自らの手で守ろうとした夫や家族を

惨殺してしまったのである。

 「これが、その恋文なのか…」

 古ぼけて、黄ばんだ紙の山を見つめながら

大久保はつぶやいたものだった。

 「そうです。江戸から実に三百年の時を経

て、偶然にも同じシチュエーションが繰り返

されてしまったのです。それが文車妖妃をよ

みがえらせてしまったのですよ」

 宮部は言った。長男へと執拗に届くラブレ

ターを捨てていた母親の姿に、過去の怨念が

憑依したのである。そして、婚約者を狙うス

トーカーからの手紙を捨てていた男にも。

 「全てを灰に帰すしかありません…」

 怨念の籠もった手紙の山に宮部が火を放っ

た時、大久保は見てしまった。燃え盛る炎と

黒煙の中で躍り狂う不気味な女の影を…。

 それはまさに鬼と言うしかなかった。

 怨念から生まれた鬼と…。

 この事件以来、大久保はもう一つの隠され

た世界を知ることになったのだった。

 狂気に彩られた般若のごとき女の顔は今も

網膜に焼きつき、怨念に満ちた哄笑は耳の奥

から消えることがない。知らずにいれば、幸

せだったかもしれないが、その世界に触れて

しまったからには、大久保は死ぬまで忘れる

ことが出来ないだろう…。

 

 「今回もあのような事件と、同じようなも

のなのでしょうか?」

 大久保は過去の記憶の旅から戻り、宮部へ

と聞いた。額にはうっすらと汗が玉を結んで

いる。思い出す度に、そうなのだ。

 「わかりません」

 宮部の答えは簡潔だった。いいかげんな事

は喋らないのが、この男の特徴だった。

 「わからない?」

 「別に田口先生が住んでいたあの土地や家

に因縁はないはずです。田口先生もその方面

には詳しい方ですので、そんな怪しい土地に

は住まなかったでしょう」

 「では、一体?」

 「だから、調べるんですよ。もしかすると

普通の殺人事件であり、私も知らなかった動

機が夫人にあったかもしれない」

 「そ、そんな…」

 大久保が言うのも無理はない。宮部の言葉

は今までと矛盾するものだからだ。身も蓋も

ない言いように、大久保が変な顔になる。そ

れに気づいて、宮部も「しまった」という風

に頭をかいた。

 「もちろん、私は夫人を信じています。で

すが、個人的な思いだけで真実を歪めてしま

う訳にもいきませんから…」

 「真実ですか…?」

 「ええ。どんな理由があるにせよ、真実を

歪めて良かったことはありません」

 「先生はまるで刑事のようですね。いえ、

もしかすると裁判官かも…」

 「私に人を裁く権利など、ありませんよ」

 「ですが、言葉尻だけを捉えるなら、十分

にその資格を持っていると思いますね」

 「要するに学者なんでしょう。分からない

ことや不明の点があると、物の善悪は別にし

ても真実というものを追求してしまう。ある

意味では、掘り起こさない方が良かったもの

さえも、目覚めさせてしまう」

 そう言ったところで、宮部はカップに残っ

たコーヒーをグイとあおった。

 「…つくづく、学者というものは許されざ

る存在だとは思いませんかね?」

 フウとため息をつきながら言う宮部に、大

久保は何も答えることができなかった。

                           つづく