宮部耕三郎調査ファイル

  蛇帯じゃたい

 

     第参章

 

 陽は西の地平に傾き、姿を没しつつある。

 事件の喧騒が過ぎ去った田口の屋敷には、

一種の静けさが漂っていた。現場検証に走り

回っていた鑑識の人間も屋敷を去り、何人か

残っていた刑事たちも今はいない…。

 空を赤く染めながら、ゆっくりと帳を下ろ

しつつある夜の闇に相応しい静けさである。

 だが、その静寂は決して日常の平穏が戻っ

てきたと言うわけではない。屋敷全体が不安

の芽を植えつけられた心に蓋をしている、と

表現した方が正しいのだろう。

 「光恵さん」

 何処かで、ふと呼びかける声が聞こえた。

 辺りを見回すようにして、廊下を歩いてく

るのは、柿崎であった。

 「光恵さん」

 呼びかける声に答えはない。庭に聞こえる

虫の声だけが、耳に届く音であった。

 柿崎は廊下を巡り、やがて田口幸之助が殺

された寝室の方へと近づいていた。そこは今

もロープが張られ、入れないようになってい

るはずである。はたして、そこへ行ってみる

と、予想どおり「立入禁止」の札が下がった

黄色と黒のダンダラ模様のロープが見えた。

 「……」

 感傷という訳ではないが、やはり此処へ来

てみると胸がつまる。お世話になった田口へ

の哀惜の思いに、柿崎は言葉を失くした。

 「……」

 スッとロープの向こうへと黙礼をして、踵

を返そうとした柿崎の目が何かを捉えた。

 「…!」

 声にならぬ悲鳴が喉を震わせる。隣にある

部屋の中で、ジッと動かない朧気な影…。

 まるで幽霊のような影…。だが、恐怖と驚

きは一瞬に過ぎなかった。そのシルエットに

見覚えを感じた時、柿崎の口からは一つの名

前が自然と出ていたのだった。

 「光恵さん…?」

 そこにいた人物は確かに、田口幸之助の長

女である光恵であった。十畳ほどの畳の敷か

れた部屋、夕闇に染まりつつある部屋の中央

に正座し、こちらに背を向けている。

 「光恵さん、どうしたんですか?」

 柿崎は部屋に入り、光恵の横へと近づいて

いった。それでも、光恵は何も答えず、振り

向きもせずに座り続けていた。

 (本当に光恵さんなのか…?)

 (振り返ったら化け猫の顔だった、なんて

ことはないだろうな…)

 脈絡のない不安が、柿崎の心臓の動悸を早

めた。ゆっくりと横へ回りこむ…。

 「光恵さん…」

 そこに座っていたのは正真正銘の光恵だっ

た。だが、光恵は柿崎に気づかぬかのように

前を見つめたままである。

 「……」

 柿崎はふと部屋の奥へと目を向けた。そこ

には、美しい着物が架けられていた。全体的

には桜色で基調を調え、艶やかな花模様を大

胆に構図に取り入れ、金糸と銀糸をあしらっ

た豪華なものであった。京都の有名な呉服屋

にお願いした特注品である。

 光恵の結納のために設えた物であった。

 「光恵さん…」

 柿崎が光恵にもう一度、声をかける。

 「あのね…」

 光恵がゆっくりと口を開く。その様子は、

凍りついていた彫像が動きはじめるような緩

慢としたものであった。そして、紡ぎだされ

る言葉は誰に伝えようとするものでもなく、

自らの心を反芻するかのような震えたつぶや

きであった。

 「お母さんとね…」

 「は?」

 「お母さんとね…。お父さんをビックリさ

せてあげようって言って…、この着物を見せ

ないでいたのよ」

 「……」

 「結納の朝に…、いきなり見せて…、あの

お父さんが『花嫁の父』となって、涙を流す

ところを見てみようって…」

 「光恵さん…」

 「でも、結局お父さんは見れなかった。私

がこの着物を着た姿を見せてあげられなかっ

た…」

 「し、しかし、それは…」

 「一度も見れなかった…」

 「光恵さん…」

 「……早く、見せてあげればよかった」

 ポツリと微かな音がした。見れば、光恵の

瞳から大粒の涙が零れている。その雫は次か

ら次へと溢れ、畳の上を濡らしていく。

 「私…、わ、私…」

 声の震えが増し、それは嗚咽へと変わりつ

つある。肩が小刻みに震え、心の中の激しい

揺れを表していた。

 「私…、お父さんに…!」

 涙がボタボタと畳に音を立てた。光恵の声

は叫びに近くなっている。

 「光恵さんっ!」

 急に柿崎が光恵を抱きしめた。肩を抱える

ように、その震えを抑えるように、心の慟哭

を慰めるように、あたたかな抱擁だった。

 光恵もまた、それを拒もうとはしない。

 むしろ、その腕に身を委ねるようだった。

 言葉による慰めも、ねぎらいも、救いすら

も必要ない。傷つき、疲れ果てた心が求めて

いるものは無条件で受け入れてくれる安息の

場所だけだったのかもしれない。

 「お父さん…、お父さん…」

 柿崎の腕の中で、光恵は泣きじゃくってい

た。幼い子供のように…。

 「……」

 柿崎は黙ったまま、光恵の身体を抱きしめ

ている。伝わってくる温もりと震えと、心を

委ねてくるような安堵感。それらを感じなが

ら、柿崎は光恵の髪を優しく撫でていた。

 「柿崎さん…」

 やや落ちつきを取り戻した声が聞こえた。

 柿崎が髪から手をほどいて、優しく光恵の

背を支えながら、顔をのぞきこんだ。

 「柿崎さん、ありがとう」

 頬に涙の痕を残した顔がニッコリと微笑ん

だ。それを見た柿崎が微笑む。

 「光恵さん…」

 優しく、そして力強く柿崎が光恵を抱き寄

せた。その動きに身を任せながら、光恵は静

かに目を閉じる。

 「……」

 「……」

 重なり合う二人のシルエットが、黄昏に霞

む部屋の中で次第に闇へと溶け込んでいく。

 愛と救いを分かち合う若い二人の姿を周囲

の目から、覆い隠すように。それは隠された

思いそのもののようであった…。

 

 夜になって、宮部は田口家を訪れた。

 宮部は自分が大学を卒業した後も、何度か

田口家を訪れたことがあった。恩師である田

口教授に研究の相談をもちかけることが殆ど

だったが、長男の治男の家庭教師をしていた

こともあった。金に困っている宮部にアルバ

イトをさせてやろうという田口教授の心遣い

だったのかもしれない。そういう経緯もあっ

て、この屋敷は宮部にとっても無関係の場所

ではなかったのである。

 かっては古めかしい木の扉だったが、今は

リフォームされていて、洒落た感じのするド

アに変わっていた。時の流れを感じながら、

宮部は呼び鈴を押した。時の隔たりがもたら

すモノを、やや怖く感じながら…。

  しかし…、

 「お久しぶりです、宮部先生」

 疎遠になっていた年月を感じさせないよう

な挨拶で治男は宮部を迎えた。年月を感じさ

せるのは、社会人となり、父親となった治男

の落ち着きぶりだろうか…。

 「宮部先生、こんばんわ」

 治男の後ろから見覚えのある人物が顔を出

した。柿崎であった。どうやら、事件の後は

この屋敷に泊り込んでいるらしい。

  (弟子とは言え、泊り込みまでするものな

のかな?)

 宮部はそう思ったが、口には出さずに治男

へと目を移した。

 「随分と見違えましたね、治男くん」

 「先生は全然、変わらないですね。いつま

でたっても、お若い感じがします」

 「ハハハ…。いつまでたっても、田口教授

門下の落第生ですか?」

 「い、いえ…、ちがいますよ!」

 「ハハハ、正直に言っていいんですよ」

 「そ、そりゃあ。父も時々、優秀なのに出

世できない要領の悪い生徒がいるとグチって

ましたけど…」

 思わず言ってしまった直後に、治男が慌て

て口を押さえる。さすがに失礼と思ったのだ

が、宮部はそんなことは気にしていないよう

にニコニコと微笑んでいる。

 宮部が不安に感じていた時の隔たりは感じ

られなかった。ジグソーパズルのピースがは

まるように宮部が収まったのも、あるいは田

口教授の人徳だったのかもしれない。

 「その出来の悪い弟子ですよ。相変わらず

出世できないでいますけどね」

 「宮部先生みたいな人が家庭教師だったん

じゃ、僕も要領が悪くなってしまったかもし

れませんね」

 「そこまで学んでもらっては、困るんだけ

どなぁ…。そう言えば、もう古文は苦手じゃ

なくなりましたか?」

 「相変わらずです。そのために、父と同じ

道には進まずに、普通のサラリーマンになっ

てしまいました」

 治男が笑う。その様子を見ながら、

  (ああ言いながらも、実は父親と同じ道を

歩みたかったのかもしれないな…)

 と宮部は思った。

  治男がいかに父親を敬愛していたかを知っ

ているからである。

 「ところで、宮部先生。こんな時間にどう

したんですか?」

 ふいに治男が聞いた。確かに宮部の来訪理

由はまだ聞いていなかった。

 「……」

 宮部はすぐに答えなかった。

 「宮部先生…?」

 その態度に不自然さを感じ取ったのか、治

男は不安げな表情で尋ねる。後方にいる柿崎

の表情にも緊張の色が見える。

 「お母さんのことで…」

 宮部の一言は、和やかな雰囲気になりつつ

あった玄関先を一気に零下の地へと変えた。

 「どういうことですか?」

 表情に暗い翳を落とした治男の問いに答え

たのは、宮部ではなく柿崎だった。

 「治男さん。もしかすると、宮部先生なら

夫人を助けてくれるかもしれませんよ」

 「助ける?」

 「はい。宮部先生なら事件を解決してくれ

るかもしれないと。そう、夫人の仰っていた

黒い影の大蛇の謎も解きあかしてくれるかも

しれないと…。城北大学の島村先生が、その

ように言っておられました」

 「島村先生が…?」

 不思議そうな目で、宮部を見る治男。

 「彼ほど頭も良くないし、要領もよくあり

ません。でも、今回の事件に関しては、私も

何らかのお役にたてるかもしれません」

 宮部はそう言って、治男を見た。治男は丸

縁眼鏡の奥に見える宮部の瞳を見て、その凛

とした輝きから、この人なら何とかしてくれ

るかもしれないと思うのだった。

 

 「今日、警察に行ってきました」

 リビングルームのテーブルについた宮部は

開口一番に言った。前には治男、その妻であ

る直美、長女の光恵、そして柿崎がいる。

 「母には会えたのでしょうか?」

 そう聞いてきたのは光恵だった。取り調べ

の様子が知らされてないようで、心配そうな

表情である。

 「残念ながら、それは…」

 「そうですか…」

 見た目にも、光恵が落胆したのが判る。

 「警察はやはり、母を犯人と見ているので

しょうか?」

 今度は治男だった。

 「そうですね。夫人が例の目撃証言をくつ

がえさない限りは、警察としては信じようと

しないみたいです」

 宮部は芳江に対する取り調べが厳しいもの

であろうことは言わなかった。ただでさえシ

ョックを受けている家族に、これ以上の不安

材料を与える必要はないからだ。

 「母は何故、あのような変な証言をしたの

でしょうか…。警察が信じてくれないのも無

理のないような気がします」

 「治男くん。お母さんの言葉を信じられな

いのですか?」

 「そりゃそうですよ。悲鳴を聞いて、僕た

ちが駆けつけた時、そんな化け物みたいな蛇

なんて何処にもいなかったんですから」

 「何も見なかった?」

 「ええ、何も見ませんでした」

 「その時の事を聞かせてもらえますか?」

 宮部は丸縁眼鏡をツイと手でかけ直しなが

ら、治男に当時の状況を教えてくれるように

頼んだ。

 「はい。あの日は次の日が、光恵の結納で

あることもあって、皆が早めに休みました」

 「何時ごろに?」

 「午後十一時ぐらいだったと思います」

 「あなたは母屋の二階に?」

 「ええ。妻の直美と子供と一緒に、二階を

住居にしてますから。軽く祝杯を上げていた

こともあって、僕はベッドに入るとすぐに寝

てしまいましたよ。あと、妻は…」

 「私は子供がおりますので、もっと早くの

午後9時ぐらいには二階にあがってしまいま

した。子供と一緒に寝ておりまして、十一時

ぐらいになって、夫が戻ってきました。それ

を確認して、あらためて私も寝ました」

 直美がスラスラと言った。恐らく、刑事た

ちにも何度も同じ質問を繰り返されてきたの

であろう。言いながら、ややウンザリした感

じがある。しかし、これだけの事をハッキリ

言えるのは、かなり賢い女性なのだろう。

 「わかりました。光恵さんは?」

 宮部は光恵の方を見た。相変わらず線の細

い感じのする女性である。年齢は29歳という

ことだが、せいぜい24〜25ぐらいまでにしか

見えない。かなり若々しく、そして美しい女

性であった。弟の治男の方が26歳の割りには

老けている感じがするぐらいだ。

 「私は、やはり十一時ぐらいに部屋へ戻り

ました。弟や父母と簡単な宴会をした後のこ

とでした。部屋に戻ってからは、中々緊張し

て眠れませんでしたが、午前1時前には眠っ

てしまったと思います」

 「では、事件のあった午前2時ごろには、

どなたも起きていなかったわけですね」

 宮部の言葉に皆がうなずく。

 「柿崎くんは、この屋敷にはいなかったん

ですよね」

 「そりゃ、僕は田口家の人間ではありませ

んから。別に住み込み弟子という訳でもあり

ませんし…」

 「その日は何処に?」

 「下宿にいましたよ。結構、酒を飲んでて

酔いつぶれてしまっていたと思います」

 「一人で…?」

 「ええ、一人です。それが何か?」

 「いえ、一人で酔いつぶれるほど飲むとい

うのは珍しいな、と思いまして。普段から、

そんなに酒を飲むタイプなんですか?」

 「いえ…。その日はたまたま…」

 そう言って、柿崎は目をそらした。

 「ふむ…」

 柿崎の反応に、宮部は目を細めた。どうや

ら、彼には何か事情があるらしい。一人で酔

いつぶれてしまうほど、酒を煽らねばならな

かった事情が…。

 「まあ、では柿崎君はいなかったとして、

他の皆さんに聞きます」

 宮部は柿崎へのそれ以上の追求はやめて、

田口家の人間へと目を向けた。

 「夫人が悲鳴をあげた時のことを、覚えて

いますか?」

 「一番最初に気づいたのは、家内の方でし

た。僕が聞いたのは、助けを求める母の絶叫

とも言うべきものでした」

 治男はそう言って、妻の直美を見る。直美

がそれを受けて言葉を継いだ。

 「私はたぶん最初の悲鳴だと思いますが、

キャアアという義母の悲鳴で目が覚めていま

す。最近は子供が気になりますので、ちょっ

との声でも目が覚めてしまうんです」

 直美は当時のことを思い出すように言う。

 「なるほど、では最初に聞いたのは夫人の

悲鳴だった訳ですね?」

 「そうです」

 「田口先生の悲鳴は?」

 「聞きませんでした」

 「何か、争うような物音も…?」

 「はい。もし、そんな音がしていたのなら

ば、たぶん起きていたと思います」

 直美の言葉は嘘ではなかろう。幼い子供を

持った母親というものは、常に意識を起こし

ているようなところがある。横で寝ている子

供の微かな変化にも対応できるように、神経

をピリピリとさせている部分があるのだ。

 「そうですか…。そして、お二人が駆けつ

けた時には…」

 「母が廊下に這い出るようにして、うずく

まっていました。そして…、母の指さす先に

は、変わり果てた父の姿が…」

 治男が唇をギュッと噛むようにした。

 当時の光景が目に焼きついてしまっている

のだろう。

 「その時、例の黒い大蛇とやらを見ました

か。そんな気配でもいいんですが…」

 「いいえ。部屋の中には、父しか倒れてい

ませんでした」

 「首に巻きついているものも?」

 「首には何もありませんでした。ですから

首を絞められていると気づいたのは、赤黒い

絞め痕を父の首に見た時です」

 「なるほど、よくわかりました」

 宮部は納得するように何度も頷いている。 

  「宮部先生。これじゃ、まるでアリバイ調

査じゃないですか。私たちの誰かが犯人であ

ると考えているのですか?」

 急に治男が怒ったように言った。慌てて、

宮部が手を振るようにして否定する。

 「とんでもない。そんな事は思ってもいま

せんよ。ただ、全ての可能性を探ってみた後

で残るものが、真実だと思いますので」

 「真実とは?」

 「夫人が見たという妖怪の正体ですよ」

 「それは誰かがトリックのようなものを使

って、母に妖怪のようなものを見せたという

ことでしょうか?」

 「それも考え方の一つでしょうね」

 「宮部先生は、まるで家族の誰かがそのト

リックを仕掛けたように考えているように見

えますが…」

 「とんでもない。誤解ですよ」

 「じゃあ、他にも考えられる可能性がある

と言うのですか?」

 「まあ…」

 「どういう考え方なんです?」

 「本当に妖怪がいた、という考えです」

 宮部がこともなげに言う。皆が唖然として

言葉が続けられないところで、宮部は質問を

再開した。

 「田口先生と夫人は、いつも一緒の部屋で

寝ておられたんですか?」

 「ええ、いつもそうですわ」

 これには光恵が答えた。

 「では、田口先生たちが寝室に向かった時

間も、皆さんと同じ十一時ぐらいですか?」

 「はい、そうです」

 「それ以降、二人の姿を見ましたか?」

 「いいえ。誰も見ていないと思います」

 そう言いながら光恵は治男や直美の方を見

た。二人とも黙って首を横に振る。

 「物音を何か聞きましたか?」

 「母の悲鳴までは何も。この辺りのことは

警察にも聞かれましたが、全員が同じだった

と思います」

 光恵の回答を聞いた宮部は考え込んだ。あ

まり事件と接点を結ぶような情報はなさそう

である。かと言って、このままお手上げとい

う訳にもいかない。

 「あの…、誰かが外から忍び込んだという

のは違うんでしょうか?」

 柿崎が聞いた。宮部は驚いたように柿崎を

見た。もし、その可能性があるとしたら、そ

の最重要容疑者は屋敷の様子をよく知ってい

る柿崎自身となるからである。だが、

 (外部からの侵入形跡はなかったよ)

 警察で大久保から聞いた言葉が、宮部の脳

裏によみがえる。外部から、何者かが忍び込

んだという形跡は皆無だったのだ。

 「その可能性はなさそうですね。もし、そ

うなら、警察が夫人を強制連行するなんてこ

とは無かったでしょう」

 「そう…ですよね」

 柿崎が残念そうな顔をする。宮部はこの青

年が何となく好きになっていた。今時分には

珍しく実直な人間のようである。

 「ま、少しずつ考えていきましょう」

 宮部は重苦しい雰囲気にならないように、

別の話題に切り換えることにした。

 「ちなみに…、これまでに夫人が見たとい

うような黒い大蛇というものを見たことがあ

りましたか?」

 宮部の問いに、治男たちは一様に目を見合

わせた。お互いに確認し合っているようだ。

 「いいえ。そんなものは一度として見たこ

とがありません」

 治男が代表して言った。光恵や直美の態度

にも注意深く目を走らせているが、全員に嘘

をついている様子はない。

 「では、屋敷で何か変わった現象が起きて

いるというようなことには、心当たりがあり

ませんか?」

 「ありません」

 これも同じ反応であった。

 宮部は考え込んでしまう。もし、この田口

家の屋敷に因縁のようなものがあれば、それ

はとっくに何らかの現象として現れているは

ずである。しかし、それはない。

 だとすれば、田口教授を襲った奇禍と、夫

人の目撃したという妖怪は、突如としてこの

田口家に現れたことになる。宮部のこれまで

の経験から考えて、何の原因も無しに結果が

生じることは解せなかった。事件というもの

は、何か原因のようなものがあって、初めて

起こりうるものなのである。

 誰もが見過ごしてしまうような些細な出来

事、誰もが気づかないような微かな異変、あ

るいは誰にも知られない心の奥底の微妙な気

持ちの揺れ…。偶然の悪戯…。

   『たった、それだけのことで…?』

 そんな一言を言わせてしまうような原因が

重大な悲劇を生んでしまうことを、宮部はよ

く知っている。たったそれだけの事を軽視し

たがために、悲しい運命を辿った人達の顔を

よく覚えている。彼らが流した涙の数と重み

を宮部はその目で見、その全身で感じ取って

きたのだった。

 「宮部先生?」

 ジッと黙り込んで考えている宮部の姿が気

になったのだろう。光恵が心配そうな顔で、

宮部をのぞきこんでいた。見ると、他の人た

ちも同じように宮部を見ている。

 「ああ、すみません…。考え込んでしまっ

て…。どうも学者というのは、すぐに自分の

世界に行ってしまう悪い癖がありまして」

 宮部がバツが悪そうに頭をかいた時、

 ピンポーン!

 不意に玄関のチャイムが鳴った。

 「誰だろう?」

 治男が立ち上がって、玄関へと向かう。

 皆も同じ思いで、顔を見合わせていた。殺

人のような出来事があっただけに、突然の来

訪者に対して神経質になってしまうのも無理

がないような気がする。

  少しして、

 「姉さん。達彦さんだよ」

 そう言いながらリビングルームへ戻ってき

た治男の後ろから、一見優男タイプの男が足

早に入ってくる。着こなしたスーツは一見し

てブランド物の高価な品だと判る。ネクタイ

に光るタイピンはプラチナであろう。

 「光恵さん。ご機嫌いかがです?」

 男が言って、光恵の手を握った。こんな時

に『ご機嫌いかが?』もないもんだが、男に

はそんな気遣いはないようだった。

 「五十嵐さん…。わざわざ来て下さったん

ですか?」

 「当たり前さ。君のためなら、いつでもど

こでも…」

 光恵の問いに、わざとらしいポーズと笑顔

で五十嵐達彦は答えた。その歯の浮くような

セリフに、宮部は思わず苦笑してしまう。

 「あ、宮部先生。この方は…」

 光恵があわてて紹介しようとするのを、宮

部は手ブリで制した。

 「光恵さんの婚約者の方でしょう。どうぞ

よろしく、宮部耕三郎と言います」

 彼には見覚えがあった。葬儀の時に、光恵

の傍に座って慰めていた男である。その後で

島村から聞いた話によれば、大学教授仲間推

薦の見合い結婚だとのことであった。どうや

ら、ある電機メーカーの社長令息らしい。

 「どうぞ宜しく。今度、光恵さんと結婚さ

せていただく五十嵐達彦と申します」

 差し延べられた手を宮部が握る。そつのな

い男だが、どうも恰好つけすぎるところがあ

るようだ。と、宮部は思った。

 「何処かでお会いしましたか?」

 「いいえ。私の方が葬儀の時にお見かけし

ただけですよ」

 「そうでしたか」

 素っ気なく言うと、五十嵐は宮部から光恵

へと視線を戻した。

 「光恵さんも少しは元気になって良かった

よ。…ところで、結納のことなんだけど」

 登場にしても、話題にしても、突然という

言葉が好きな男のようである。

 「あ…、あの…」

 光恵は慌てたように言葉を探す。さすがに

結婚話をする気分ではないのだろう。

 「五十嵐さん。今はそれどころじゃないで

しょう。少しは光恵さんの気持ちも考えてあ

げてください!」

 大声をあげたのは治男ではなく、柿崎だっ

た。その激昂した様子に、宮部は彼の意外な

一面を見たような気がした。

 「柿崎くん。君に言われるまでもないよ」

 いきりたつ柿崎に、五十嵐はフフンと見下

すような態度で応じる。

 「光恵さんの気持ちは考えている。それも

君以上に考えているつもりだ」

 「なんだと?」

 柿崎の語気もつい荒くなってしまう。

 「何故、こんな時期に。そう君は言いたい

んだろう?」

 「そうです。あんな痛ましい事件があった

ばかりなのに…」

 「いや、こんな時期だからこそ、結納を済

ませてしまおうと思うんだ」

 「どういうことです?」

 「誰よりもこの結婚を望んでいたのは、田

口先生だったはずだからさ」

 「しかし、光恵さんのお母さんは警察に連

れていかれたままでしょう。その状態で、結

納を済ませるのは…」

 「それだよ。もし、このまま結納を延期す

れば、まるで事件のゴシップを気にしたかの

ように思われてしまう。そうではなく、光恵

さんを愛しているのだと示さなくてはいけな

いと思うんだ」

 「あなたは、世間体のために光恵さんと結

婚するんですかっ?」

 柿崎が怒る。とても他人とは思えない怒り

ようである。

 「わかってないな。事件のことで結婚が駄

目になるんじゃないかと恐れているのは、他

ならぬ芳江夫人だと思うんだ。だからこそ、

結納を済ませて安心させてやりたいのさ」

 「だが、それでお父さんに続き、お母さん

までもが光恵さんの結納を見ることが出来な

くなってしまうじゃないか」

 「光恵さんの幸福が最優先だよ」

 五十嵐の言うことは理屈が通っている。例

え、その行動が巷の風聞を恐れたものであっ

たとしても、彼の言うことは正しいだろう。

 「五十嵐さんのお気持ちは嬉しいです。で

も、お母さんの気持ちも本当に聞いてみない

といけないと思うんです」

 光恵が、話を割って入る。婚約者の気持ち

を組んだと言うよりは、まるで柿崎を庇った

ように感じられた。

 「それは、そうですが…」

 五十嵐が口ごもる。

 「では、私が夫人にお伺いをたててくるこ

とにしましょう」

 この辺が潮時と思った宮部が口を挟む。こ

んな所で言い争っていても、益はない。

 「お願いできますか?」

 治男も同感らしく、すぐに話に乗る。

 「お任せください」

 宮部がニコリと答える。

 「五十嵐さんもそれでいいですか?」

 「……」

 返事はないが、承諾したのは確かだ。話が

区切られてしまったことで、反論する機会を

失くしてしまったのだろう。

 「じゃあ、部屋まで送ろう」

 五十嵐が光恵の肩を抱くようにして、立ち

上がった。

 「今日はこちらに泊まっていきますか?」

 治男が五十嵐に尋ねる。

 「いえ。私は明日も大事な仕事があります

ので、しばらく光恵さんの部屋で話をしたら

帰ることにします」

 「そうか。泊まってくれた方が姉さんも喜

ぶでしょうに…」

 「私としては、あんな事件のあった家から

早く光恵さんを連れだしたいんですよ」

 その一言で治男たちがムッとする。

  何しろ、治男たちの一家はここに住んでる

のだから…。

  (一言、多いヤツなんだな…)

 宮部も、そう思わざるを得ない。

 だが、喋った当人は場の雰囲気に気づいて

いないようだった。あるいは故意に無視して

いるのかもしれない。

 「さ、光恵さん。行きましょう」

 光恵が促されるように、五十嵐に連れられ

て行く。リビングを出る時にチラリと柿崎を

見たような気がしたのは、宮部の気のせいだ

ったのだろうか…。

 「フウ…」

 治男が深いため息をもらす。

 「五十嵐さんもかなり強引だが、今の鬱な

気分の時には好ましく感じるな…。少しでも

明るい話題があった方が、気が紛れるという

ものだ…」

 治男は二人が遠ざかったのを確認して、そ

う言った。本心からの言葉なのであろう。

 それは田口家の人々の心を代表しての感想

であったのかもしれない。その証拠に、誰も

が黙ってうなずいたのであった。

 「そろそろ、寝ませんか?」

 直美が言う。健全な提案だった。治男も妻

の言葉にうなずきながら、立ち上がる。

 「では、宮部先生も今日はこちらにお泊ま

りください。部屋はありますから」

 「よろしいんですか?」

 「ええ、先生さえ良ければ。それとも、別

にホテルか何かを予約されてましたか?」

 「いえ…。こんな事態になるとは思いもよ

らなかったものですから」

 「では、是非お泊まりください」

 「そう言っていただけると、ありがたいで

す。何しろ、貧乏学者ですから」

 治男の言葉に、宮部が答える。実際にホテ

ルなど、用意もしていなかった。下手をすれ

ば、オンボロワーゲンの中で一夜を明かす覚

悟でもあったのだ。

 しかし、この屋敷に留まる最大の理由は、

事件の手掛かりになるような何かを見つける

ことを期待してのことであった。

  (何かあるとすれば、夜だろうな…)

 そう宮部には確信があった。夜という闇の

中でこそ、妖しい者たちは蠢く。人が眠りに

ついた時、別の何かが支配する時間が始まる

のだ。それを宮部は長年の経験から、感じて

いたのである。

 

 遠くで犬の遠吠えが聞こえた。深い夜の静

寂の中に、それはハッキリと聞こえた。

 サワサワサワ…サワサワ…サワ…。

 微かな葉擦れは、風の音であった。

 チッチッチッチッチッチ……。

 細かなリズムを規則的に刻む時計の音が、

いやに大きく聞こえる。深い夜の闇に包まれ

た世界では、聴覚に飛び込んでくる音だけが

唯一の表現者なのであった。音こそが、現実

の世界と眠りについている人々をつなぐ微か

な糸でもあった。

 もし、その音が途絶えたとしたら…。

 それは、もう一つの世界が現実に融合を果

たそうとしていることに他ならなかった…。

 二階にあてがわれた一室で、宮部は眠りに

ついていた。客人用に設えられた部屋はきれ

いに整頓されており、シーツも真新しいもの

になっている。いつでも、誰かが泊まれるよ

うに準備を調えていることは、故人となった

田口幸之助の日頃の人柄を偲ばせた。

 そして、一日を歩き回ったせいか、柔らか

なベッドの感触はすぐに宮部を夢の世界へと

誘ったのだった。

 ザザ……。

 木々を風が大きく揺らした。その音を最後

に、シンと夜は音を消した…。

 カチ…カチカチ…キキキ…。

 夜の闇の中に不釣り合いな音が聞こえた。

 何かを金属がこするような音。ガラスを爪

でひっかくような音。密かに、静かに、何か

が忍び寄ってくるような微かな音だった。

 「……?」

 深い海の底から浮かび上がるような感覚で

宮部の意識は眠りから覚めつつあった。全身

を包む気だるさの中で、ゆったりとしたまど

ろみの奥で、宮部はその微かな音を聞いた。

 カチ…キキ…キキキ…。

  (何の音だろう…?)

 まだ意識はハッキリとしていない。

  だが、生物の持っている本能のようなもの

が、その音への集中を示唆している。聞き逃

してはならないと呼びかけている。早く目覚

めよ、と警告を発していた。

  (いけない…!)

 心の警報に、宮部は急速に目覚めた。

 シュッ!

 宮部が跳ね起きるのと、それが風を切り裂

く音は同時だった。暗い部屋に光が走る。

 「うわっ!」

 宮部が飛びのいた直後、彼の頭が置かれて

いた枕をそれが貫いた。ザクッと鈍い音をた

てて突き立ったものは、銀色の鋭利なきらめ

きを放つ大きな裁ち鋏であった。

 「これは…」

 つぶやきながら、宮部は暗い部屋へ目を走

らせた。闇に何かが浮かんでいた。

 ペーパーナイフだった。その形には見覚え

がある。田口教授愛用の品であった。

 果物ナイフもあった。包丁もいた。いずれ

も一階のキッチンに置かれていたものだ。

 工具箱の中にあったものだろう。プラスの

ドライバー、マイナスドライバー、錐、千枚

通し、どれも鋭い切っ先を向けている。

 その光景は宮部から眠気を吹き飛ばすに十

分であった。むしろ、夢であってほしいと願

いたいぐらいの悪夢のような光景だった。

 シュッ!

 小さな音と共に宮部の頬をかすめ、壁に突

き刺さったのは、アイスピックだった。

 「応接室のサイドボードに置かれていたや

つだな…」

 すでに覚醒した宮部は冷静だった。取り乱

しもせずに、自分を狙う凶器の群れを注意深

く観察している。ジリと右へ動けば、凶器た

ちも一斉に切っ先を動かす。左に移動した場

合にも、それは同じであった。その一糸乱れ

ぬ統率された動きは滑稽でもあり、この上な

い戦慄でもあった…。

 「今度は私が狙いか…。どうやら、付喪神

とは違うみたいだが…」

 付喪神とは、古くから伝えられる器物の妖

怪の総称である。九十九年の間を使われた器

物には魂が宿り、粗末にされて後に化けると

言われているものだ。箒神、化け草履、釜な

り、琴古主など、多くの妖怪が書物には残さ

れている。これらの説話は「物の大切さ」を

子供に伝えようとした道徳的観念に基づいて

創作されたものだとも考えられている。

 宮部が中空に浮かぶ凶器の群れを見て考え

たのは、第一に付喪神の可能性だった。しか

し、全てが統一された行動を取る様子から、

そうではないと判断したのだ。むしろ、何者

かによって操られていると考えた方が妥当で

あった。

 「ならば、操っている奴は何処にいる?」

 宮部は部屋の中に目を走らせる。だが、何

処にも怪しいものは見えない。そして、部屋

中に漲る殺意はどんどん膨れ上がり、まさに

弾ける寸前にまで高まりつつあった。

 「来るか…!」

 宮部は言った。別に誘っているわけではな

いが、何気なく出た一言だった。だが、それ

が合図であったかのように、一斉に凶器たち

が動いた。

 シュウッ!

 シャッ!

 空間を切り裂くような音をたてて、次々に

飛来する凶器たち。ペーパーナイフが、包丁

が、マイナスドライバーが襲いかかる。

 「うおおおおっっ!」

 宮部は思わず叫んだ。素早くひるがえした

身体をかするようにして、果物ナイフが壁に

突き刺さる。それに続くようにして、マイナ

スドライバーとプラスドライバーが同じよう

に壁に突き刺さった。

 「やああっ!」

 ベッドの脇にあった電気スタンドをつかむ

と、宮部は思いっきり振った。まさに正面か

ら向かってきていた二本の包丁が弾かれる。

 ガキィンッ!

 激しくぶつかり合う音が響き渡った。

 一本の包丁は床へ突き立ち、別の包丁は宮

部の頬をかすめて、背後の壁に突き刺さって

いた。まさに一瞬の差で宮部は刺殺されるの

を逃れたのだ。

 「そう簡単には殺られんよ…」

 ハアハアと息を切らせながら、宮部はつぶ

やいた。目の前には、まだペーパーナイフや

錐、千枚通し、果物ナイフなどが浮かんでい

る。それらはピタリと空中に止まったままの

状態である。しかし、その殺意に濡れた切っ

先だけは宮部を確実にポイントしている。

 宮部を牽制するかのように、ツツツ…と右

へ左へと揺れ動きながら…。

 「俺の出方を気にしているのか…」

 宮部は額に吹き出る汗を手で拭った。

 「フウ…」

 一息ついた瞬間、その間隙をぬうように錐

や千枚通しが動いた。尖った針のような先端

が近づいてくるのが、まるでスローモーショ

ンのように見える。極限の恐怖の中で、人間

の動態視力は最高にまで高まるのだろうか。

 「うおっ!」

 かわした宮部は無様に床に転がる。

  元々、運動神経がいい方ではない。

  だが、なりふりかまっちゃいられないのが

本音だった。

 カッ、カカッ!

 その証拠に、宮部がいた場所に正確に錐と

千枚通しは突き刺さったのだ。そして、床に

倒れこんでしまった宮部を狙って、ペーパー

ナイフと果物ナイフが襲いかかる。

 「うわああっ!」

 宮部は思いっきり手を振った。飛来する刃

物を手で落とそうなどとは、無茶な話だ。

 「グウッ!」

 ガシャアアンッッ!

 ペーパーナイフが宮部の右腕を貫いた。し

かし、必死の反撃は果物ナイフを弾き飛ばし

ていたのだった。弾かれた果物ナイフは、そ

のまま窓ガラスを突き破って、外へ消える。

 人間、必死になれば何とかなるものなのだ

ろう。もし、手を振っていなければ、果物ナ

イフとペーパーナイフは宮部の肉体に突き刺

さっていたに違いない。それが腕の怪我だけ

で済んだのだから、幸運である。

 「今は助かった…。だが、今度はそうもい

かないようだな…」

 宮部は床の上で、悔しそうに呻いた。

 宙にはまだ幾つかの刃物が残っており、逃

げられないような無様な状態で倒れている宮

部に対し、最後の一撃を加えんとしていた。

 「さて、どうしますか?」

 見えない操演者に宮部は静かに問う。

 その答えは鈍い殺意の光だった。

   その時、

 「どうしたんだ?」

 「何の音だ!」

 「二階よ。二階でガラスの音が…!」

 階下から、ざわめく人の声とバタバタとい

う足音が聞こえてきた。さすがにこれだけ大

騒ぎしていれば、寝ている人だって起きてし

まうのは当たり前であろう。階段を駆け登っ

てくる足音が聞こえる。

 「…!」

 その途端、糸の切れたマリオネットのよう

に、残っていた凶器たちが一斉に落ちた。床

へと高い音をたてながら、転がっていく。

 「……」

 宮部はキョトンとして、物言わぬ暗殺者た

ちの残骸を見つめるしかなかった。

  (どういうことだ…?)

 無秩序だった情報が宮部の頭の中で、一つ

にまとまりかけた瞬間、

 「先生、何事ですかっ!」

 バタァンッと大きな音をたてて、ドアが開

き放たれる。飛び込んできたのは柿崎だ。

 「宮部先生っっ!」

 腕にナイフが突き刺さっている宮部の姿を

見て、柿崎が悲鳴をあげる。その後ろには、

治男や直美の姿も見えた。

 「心配ない…。大丈夫ですよ」

 ペーパーナイフを腕から抜きながら、宮部

は言った。ナイフが抜けた傷口から血が吹き

出し、絨毯に紅い染みを作った。

 「大変っ…」

 直美が駆け寄って、そばにあった枕カバー

をはぎ取ると傷口へと押し当てる。白い表面

瞬く間に紅く染まっていく。

 「大丈夫ですか?」

 「ええ、ありがとう」

 この辺りの機敏さは、宮部も感心するほど

だった。単なる賢いお嬢さんという訳ではな

さそうだ。

 「どういうことなんです?」

 治男が震える声で、宮部に聞いてくる。

 無理もない。

 部屋のいたる所にナイフやら、ドライバー

やらが突き刺さり、まるで忍者が手裏剣を投

げ合ったかのようだ。畳がめくれあがったり

していれば、さぞかし完璧だったろう。

 「襲ってきたんですよ」

 直美の手当てを受けながら、宮部が言う。

 「誰がですかっ?」

 さすがに治男と柿崎が血相を変える。いな

いのが判っていても、思わず部屋の中に犯人

の姿を探してキョロキョロしてしまう。

 「誰もいませんよ」

 フウと深い息をもらして、宮部が言う。

 「だ、誰もいないって…?」

 「そこらに突き刺さっているナイフなんか

が、ひとりでに動いて襲ってきたんです」

 「そんなバカな!」

 「事実です」

 淡々とした言い方は、どんな説得よりも効

果があった。誰もが黙ってしまう。

 人間は本来、言葉に対する防御本能を持っ

ている。それは判断とか、理性とか,あるい

は常識と表現されるものだ。無秩序に聞かさ

れる情報の中から正しいものを選択し、自ら

の不利益になるものを排除する。その際に、

もっとも判断基準となるのは「自分の目で見

たことを信じる」というものである。

  古来、百聞は一見にしかず」という言葉は、

そのためにこそ存在するのである。だが逆に、

目で見なければ信じられないという頑迷さを、

人々に植えつけてしまった功罪は看過しえな

いものである。見えなくとも存在する真実と

いうものは、少なからずあるのだから…。

 そんな宮部の感傷をは別に、人々は惨状に

息をのむばかりであった。

 あまりにも異様な事態を目の当たりにして

しまったがために、そこにいる人間の誰もが

言葉を失っていたのである。その時、

 「あの…、どうかしたんですか?」

 と言いながら、光恵が姿を現した。寝てい

たのであろう。淡いピンクのパジャマの上に

薄いカーディガンを引っかけている。

 「……」

 誰も答えなかった。答えるまでもなく、宮

部の腕は血に染まり、部屋中の壁には不気味

にナイフなどが突き刺さっているのだ。

 「!」

 光恵が声にならない悲鳴をあげて、口を手

で押さえる。目は恐怖に怯えていた。

 「今頃になって…。何をしてたんだ?」

 治男が聞いた。光恵は首を振る。

 「ね、寝てました。あの…、熟睡してて、

あまり物音とかに気づかなくて…」

 「寝ていた?」

 光恵の言っている様子に嘘はないようだっ

た。それを察したのだろう。治男もそれ以上

の追求はせずに、フッとため息をもらす。

 そんな二人のやり取りを宮部は見ていた。

 「……まさか…」

 宮部がふとつぶやいた。一番最後に現れた

光恵の行動に、何かが頭をよぎったのだ。

(彼女は遅れてきた…)

 ナイフが落ちた時点で、彼女を除く全員が

宮部の部屋に集まってきていた。

(それまで、光恵は熟睡していた…)

 あの物音の中で光恵は寝ていた。そして、

その間もなお、ナイフたちは攻撃態勢を取り

続けていた。

(最初の事件の時も…)

 光恵は最後まで寝ていたと言う。

  そして、その間に惨劇は起きたのだった。

 「寝ている間にか…」

 怯えている光恵を、一生懸命に柿崎が支え

ている。そんな光景を見ながら、宮部の脳裏

に一つの考えが浮かび上がっていた…。

                                                            つづく