宮部耕三郎調査ファイル

   蛇帯じゃたい

 

     第四章

 

 戦慄の夜が明けた。

 朝を迎えた田口家のダイニングキッチンに

人々が集まって、朝食をとっていた。

 直美が用意した朝食は、ご飯に味噌汁、玉

子焼きと簡単な煮つけである。純和風な朝食

は、田口教授のお好みだったらしい。

 「いや、このぬか漬けは絶品ですね。自家

製でこれだけのモノは、中々お目にかかれま

せんよ」

 宮部が箸でキュウリを持ち上げて言った。

 「……」

 誰もが無言であった。カチャカチャという

食器の触れ合う音が、妙に大きく聞こえる。

 少しでも会話を求めようと思ったのだが、

タイミングが悪すぎたようだ。宮部は仕方な

く小さくポリポリとかじるしかなかった。

 みんな、昨夜の事件のことが頭から離れな

いのであろう。経験や常識では判断しえない

現実を見てしまった時、人はそれに対する術

を失う。それは行動のみならず、思考とて同

じことである。だが、考えることをやめてし

まった時、それは敗北を意味する。現実から

逃避した挙げ句、さらなる悲劇を招いてしま

った例を宮部は知っている。そして、その悲

劇に対し、人々は諦めたかのように従順にそ

れを受け入れてしまうことも…。

 「今日は、夫人にお会いしてきます」

 宮部は食べおわった茶碗を置きながら、そ

う切り出した。皆の食べる手が止まる。

 「そして、結婚式のことについて伺ってく

るつもりです」

 言いながら、宮部は光恵を見ていた。光恵

の表情は、心なしか強張っているようにも見

えた。ただ、それが昨夜の事件のショックに

よるものなのか、別の要因なるものかは宮部

にも判別しがたかった。

 「お手数かけますが、よろしくお願いいた

します」

 治男が丁寧に頭を下げる。直美も倣うよう

にして、頭を下げた。しかし、光恵はボウと

したままである。

 「姉さんっ…!」

 治男が小声で光恵を呼ぶ。

 「あ…、よ、よろしくお願いします…」

 光恵が消え入るような声で言った。

 「大丈夫です。安心なさって下さい」

 宮部は優しく声をかける。光恵は黙って、

頭を下げるだけであった。まるで、宮部が夫

人に会ってくることを望んでいないような雰

囲気がある。それは、結婚そのものを望んで

いないということなのだろうか?

 「先生?」

 あまりに光恵を見つめていたのだろう。治

男は不思議そうに声をかけてくる。

 「あ…いや、では…」

 と誤魔化し、ドアの方へ行きかけて、

 「あ、そうだ。いけない、忘れてた!」

 急に思い出したように、宮部が言った。

 「どうしたんですか、先生?」

 治男が聞く。

 「いやあ、困ったなぁ…」

 宮部は頭をかきながら、つぶやいている。

 「我々にお手伝いできることがあれば…」

 「いえ、そうではないんです。ちょっと、

別の用事で行かなければならない所がありま

してね」

 「今日でなければ、いけないんですか?」

 「そうなんです。でも、そっちの用事に関

わっていると、夫人には今日中には会えなく

なってしまうなぁ」

 言いながら、困った様子で頭をかく宮部。

 「わかりました、先生。そちらの用事を優

先なさってください」

 「しかし、それでは…」

 「いいですよ。先生には先生のご都合があ

るでしょうし、こちらのことは気になさらな

いで下さい」

 治男はそう言うと、直美も笑顔で頷く。

 早く結論を出してしまいたいのが本音なの

だろう、ややぎこちない笑顔だった。

 「本当に申し訳ありません。なるべく早め

に用事は済ませたいと思うのですが」

 「別にここ一日や二日を焦っても、そんな

に結果は変わらないと思いますよ」

 治男は言った。確かにその通りであった。

 昨日の五十嵐の訪問がなければ、そんな話

は、元々なかったものなのだ。

 「まあ、今日の間に用事を済ませて、早け

れば明日の朝には夫人と会えるでしょう。後

で、警察にいる知り合いには連絡しておきま

すから…。それで、明日の昼ぐらいには、こ

ちらへ戻ってこれると思います」

 「はい。それでいいです」

 治男はそう答えて、直美を見た。直美もす

ぐにうなずいた。

 「それでは、明日になってしまっても構い

ませんね?」

 宮部は光恵の方にも、確認する。

 「どうぞ…。先生の用を最優先になさって

ください…」

 光恵はそう答えた。静かな声だった。

 「じゃあ、申し訳ありませんが…」

 宮部は深々と頭を下げると、テーブルから

離れた。別に自分の責任ではないのに、こう

した低姿勢の態度になってしまうのが、宮部

の性格だった。そうでありながら、大学の中

では世渡りがうまくない。研究しているテー

マの問題もあるだろうが、ある局面において

は異様なほど頑固であることも確かだ。

 ある事象の究明に当たっている時である。

 その時は地位も名誉も関係なく、真実のみ

を追い求めてしまう。場合によっては、他人

のことなど考えない行動すらしてしまう。

 そんな学者としての探究心が、宮部の欠点

とも言えるだろう。いずれにしても、目に見

える態度が全てではないと言うことだ。

 「あ、そうだ」

 玄関の方へ行きかけて、宮部が振りむく。

 「すみません、柿崎くん。悪いけど、一緒

に来てくれませんか?」

 「は?」

 急に言われて、柿崎がキョトンとする。

 「いや、ちょっと京都大学の方へ資料を取

りに行くんですが、その後にも私は別の所へ

行かなければならないんです。もし良ければ

それをこちらへ運んでおいてもらえないでし

ょうか?」

 「あ、ああ、はい。かまいません」

 柿崎は答えながら、立ち上がった。

 「申し訳ありませんねぇ」

 頭をかきながら、宮部はペコリとする。

 「いえ…」

 そう答えながら、柿崎は宮部を見る。相変

わらず、つかみにくい人物だと感じた。飄々

としているのだが、何を考えているのかが底

知れない部分を秘めているようにも思える。

 (こういう人を何て言ったっけ?)

 ふと頭の片隅に浮かびかかった言葉を、柿

崎は探した。昔から、こういうタイプの人間

をどう表現したのだろうか…。

 (そうだ。昼行灯…)

 柿崎が探していた言葉を見つけた時、すで

に宮部の姿は玄関を出るところであった。

 

 けたたましい音をたてながら、黄色い車が

道を走っている。疾走という言葉には程遠い

様子で、マフラーからは白い煙がモクモクと

吹き出ていた。宮部の愛車であるフォルクス

ワーゲン・ビートルである。

 「しかし、先生。今時、よくこんな古い車

に乗っていますね」

 助手席に乗っている柿崎が大声で言った。

 エンジン音がうるさすぎて、それに負けな

いような声で喋らなければ聞こえないのだ。

 だからだろうか。柿崎の言葉も感心してい

ると言うよりは、半ば呆れているようにも聞

こえる。

 「ハハ…、心配ですか?」

 「急に途中で分解する訳じゃないし、心配

なんかはしていませんけど…」

 「わかりませんよ」

 「ほ、本当ですか…?」

 思わず腰を浮かせる柿崎の様子を見て、宮

部はプッと吹き出した。

 「冗談ですよ。見かけよりはしっかりして

るんですから」

 「脅かさないでください!」

 柿崎は顔を真っ赤にしていた。

 「何にしても、乗り慣れていることが一番

ですよ。新しい車は色々とボタンがくっつい

ていて、よく分からないんです」

 「そういうものなんですか?」

 「どんなにポンコツに見えても、この車と

私は相性がいいんですよ。古いから乗り換え

るというのは、余り好きじゃなくて…」

 宮部は照れくさそうに言っているが、この

車を気に入っていることはよく分かる。

 「物を粗末にすると、化けますか?」

 柿崎が、ちょっとからかうように言った。

 宮部の専門が民俗学と言うよりは、妖怪学

だと島村から聞かされたからだった。

 「器物、九十九の齢を経て、あやかしのも

のと化す。昔の人はそう言って、祟りを恐れ

ましたけどね。逆に情をそそげば、きっとそ

の気持ちは伝わると思いますよ」

 宮部は真面目に答える。

 (この人には、かなわないなぁ…)

 そんな宮部の態度に、柿崎は素直にそう感

じてしまうのだった。

 例え、それが常識はずれであっても、自分

の研究しているテーマには誇りと自信を持つ

こと。それは学者の大前提だ。それを茶化そ

うとした柿崎は、自分が学者の真髄を得てい

ないのだと思えたのだった。

 「ところで、柿崎くん」

 宮部がギアをセカンドからサードに入れな

がら、不意に言った。

 「はい。何でしょう?」

 「今回の光恵さんの結婚について、少し聞

きたいことがあるのですが…」

 「はい。ボクに分かることであれば…」

 「まず、今回の結婚話を持ち込んだのは、

田口先生だったのですか?」

 「そう…ですね。確か、大学の教授仲間か

ら話を薦められたのだと聞いています。田口

先生が、見合い写真を預かってきたのが最初

だったと思います」

 「柿崎くんは、その場にいたんですか?」

 「ええ。ちょうど、日本文学史のゲラ校正

をやってた時で。田口先生はとても上機嫌で

持ってきたのを覚えています」

 柿崎は記憶をたどりながら、答えた。

 「その時の光恵さんの反応は?」

 「別に…。お父さんがせっかく紹介してく

れたのだから、と言ってました。余り乗り気

ではなかったのかもしれません」

 「乗り気ではなかった…?」

 「あ、いえ。そ、それは、ボクがそう思っ

ただけのことです。み、光恵さんが、そんな

風に思っていたかどうかは知りません」

 柿崎が慌てて弁解する。宮部はそんな彼の

様子をチラリと見て続ける。

 「でも、君がそう思ったのには、何か根拠

があるでしょう。光恵さんが嫌そうな顔をし

たとか、あるいは彼女が嫌がる別の事情を知

っていたとか…」

 「い、いえ。そうじゃありません。あ、あ

くまでもボクがそう思っただけなんです!」

 かなり言葉が強くなっていた。柿崎自身の

心に激しい動揺があるようにも見えた。

 「…わかりました。では、別のことを聞き

ます。柿崎くん自身は、彼女が見合いするこ

とをどう思ったのですか?」

 「…!」

 見るからに、柿崎が動揺するのが分かる。

 それもかなりの激しいものであった。彼の

呼吸が荒くなり、こめかみを汗が伝うのが見

えた。

 「ど、どういうことでしょう…?」

 柿崎が聞き返す。心の中の動揺を必死に押

さえようとする態度が明らかであった。

 「君の光恵さんを見る目が違っているのは

気づいていました。だから、彼女が見合いの

話を受けた時、どのように思ったのかを知り

たいのです」

 「べ、別に何も…」

 「光恵さんを好きだったのでしょう?」

 「そ、そんなことはありません!」

 「柿崎くん。別に君を責めてる訳ではない

のですよ。ただ、皆が本当の気持ちを偽って

いる限り、この事件の真実は見えてこないの

です。わかってください」

 「そ、そんな…」

 柿崎は絶句し、下を向いてしまう。

 「光恵さんを好きだったんですね?」

 宮部が優しい声で尋ねた。

 「せ、先生!」

 「答えてください」

 「……」

 しばしの沈黙の後、柿崎はコクリとうなず

いた。それは小さなものだったが、確かなも

のであった。

 「で、でも、ボクはそんな…!」

 うなずいてしまったことを弁解するように

柿崎は慌てて言う。それを宮部は静かに指で

制した。

 「君の思いが悪いと言っていません。人を

好きになるという感情は、ごく自然なものな

のですから」

 「で、ですが、非常に恩のある田口先生の

お嬢さんを好きになるなんて…」

 必死に弁解する柿崎を見て、思わず宮部は

笑ってしまった。

 「ハハ…、君も意外と古風な人ですね。恩

義ある人の娘さんだから、好きになってはい

けないと言うんですか。それじゃ、昔の封建

社会のようなものですよ」

 「か、からかわないでください」

 真っ赤な顔で下を向きつつ、精一杯の声で

柿崎が言う。まるで同級生に初恋を見破られ

た小学生のような反応だった。

 今の時世に珍しいほどの純情である。宮部

はコホンと咳をついた。

 「すみませんでした。ところで、光恵さん

の方はどうだったのでしょう?」

 「えっ」

 「あなたの気持ちは分かりましたが、光恵

さんの方は同じ気持ちだったのですか?」

 「……」

 「あなたの片思いだったのか、それとも光

恵さん自身もあなたのことを…」

 「……」

 柿崎は黙ったままだった。しかし、その手

は細かく震えている。屈辱ではない。それは

禁域を侵したことに対する恐れにも見えた。

 その沈黙と態度こそが、答えであった。

 「なるほど…」

 宮部は短く言って、ため息をついた。

 「宮部先生。でも、光恵さんは…」

 「わかりませんねぇ。どうして、光恵さん

は見合いの話を受ける気になったんでしょう

か。もし、柿崎くんのことを少なからず思っ

ていたのなら、変ですよね」

 宮部は本当に不思議そうな顔で言う。

 光恵と柿崎が互いを思い合っていたのなら

ば、見合いをする必要はないのだ。もし、父

の世間体を考えたとしても、それを結婚まで

持っていく必要はないはずであった。

 「それは、田口先生のことを思ってのこと

だったと思います」

 柿崎がポツリと言った。

 「どういうことです?」

 「先生は光恵さんの婚期が遅れていること

を気になさっていました」

 「あの田口先生が?」

 「知っての通り、光恵さんは二十九歳とい

う年齢です。すでに同年代の多くが結婚して

しまっています」

 「まあ、そうでしょうね」

 「そのことを光恵さんは気にしていて、田

口先生もまた気にかけていたんです」

 「遅いかもしれないが、今時はそんな晩婚

も不思議なことではないと思うけどね」

 むしろ、三十歳までは自由に暮らしたいと

思う女性の方が増えている時代である。二十

代の内に結婚してしまうのを早計だと考える

風潮すらある。

 「確かにそうですが、田口先生にとっては

心配だったのでしょう。事あるごとに、光恵

さんに『いい人はいないのか?』と聞いてい

ました」

 「彼女にとっても、それはプレッシャーだ

ったでしょうね」

 「はい。しかし、それは自分自身の境遇に

対するコンプレックスと言うよりは、両親に

対する申し訳なさ、だったようです」

 「ふーん。まあ、両親の反応としては良く

ある話のようにも聞こえますが…」

 「田口先生は、光恵さんの婚期が遅れてい

ることを気になさっていました。それで、自

分の身体が老いる前に何としても、光恵さん

の花嫁姿を見たいと願っていたんです」

 「それは変ですよ。相手が五十嵐さんであ

る必要はないでしょう。はっきり言えば、君

が光恵さんと結婚すれば良かったのではあり

ませんか?」

 「ボクが光恵さんと結婚するなんて…。そ

んなことは、絶対無理です!」

 柿崎が叫んだ。それは満たされぬ思いの叫

びであるようにも聞こえた。

 「何故です?」

 「だ、だって、ボクはまだ院生で、勉強中

の身だし…。就職だって、どうなるかも分か

らないんですよ。仕事もないのに、結婚なん

て出来るわけないです!」

 「別に未来はどうなるか分からない。そん

なことは、結婚の妨げにはならないと思いま

すよ。彼女が少し待てばいいだけのこと…」

 「でも、それでは…。田口先生が見たがっ

ていた花嫁姿が…」

 「田口先生を喜ばせるためだけに、結婚を

するのですか?」

 宮部は厳しい目で柿崎を見つめた。

 「……」

 柿崎は黙ってしまう。

 「そんな結婚を田口先生は喜んだのでしょ

うか?」

 「……」

 「婚約するだけでも良かったのではないで

すかね。君たちの気持ちを素直に打ち明けて

さえいれば、そんな事を気になさるような先

生ではなかったと思いますね」

 「そ、それは…」

 「君は、自分の自信のなさを先生の責任に

転嫁しようとしているに過ぎません。許され

ない結婚だと思い込むことによって、踏み切

れない自分の弱さを正当化しているだけなの

でしょう」

 「……」

 「そんな理由で、田口先生を貶めないでく

ださい…」

 宮部が言うと、柿崎は言葉を失ってしまっ

た。黙ったまま、ジッとうつむいてしまう。

 自分が慕っていた田口教授のことを、自分

自身こそが理解していなかった。そのことを

柿崎は宮部の言葉から悟ったのだった。そし

て、宮部がいかに田口教授を信頼していたか

ということを。とどのつまり、柿崎自身が田

口教授を信じられなかったことを、彼は思い

知らされたのだった…。

 「やれやれ…」

 宮部はクシャクシャと頭をかいた。どこと

なく、やりきれない思いが残る。

 「でも…」

 柿崎がうつむいたまま、ボソリとつぶやい

た。宮部がウン?と彼を見る。

 「でも、少なくとも光恵さんは、お父さん

を喜ばせようと思ったのです…」

 「花嫁姿を見せてあげることで…?」

 「はい。自分のことを心配してくれている

父親に対するせめてもの恩返しだったのだと

思います」

 「親孝行ですか…」

 宮部はそこに光恵の屈折した愛情を見たよ

うな気がした。

 自分自身を殺すことで、他人の願望に合わ

せようとする。一見、自己犠牲的な印象もあ

って、それは美徳のようにも思える。

 だが、宮部に言わせてみれば、それは単な

る自己陶酔であり、欺瞞に過ぎなかった。

 誰しも結婚というものに対して、臆病にな

ってしまう部分を持っている。それは結婚直

前の女性が陥る「マリッジブルー」という言

葉にも表れている。まして、ろくに恋愛経験

も持っていなかった光恵にとって、それに踏

み切るかどうかは大問題だっただろう。

『柿崎くんを好きなの?』

『結婚してもいいほど?』

『一生、愛することが出来るの?』

『後悔しない?』

『本当に幸せになれるの?』

 それぞれの問い掛けに、YESという解答

が与えられ、同時に疑問符が添えられる。

 無限の迷路にも似た不安と疑問の中で、彼

女は出口を見失っていたのかもしれない。

 悩んだ彼女は、父のために結婚するという

免罪符を手に入れることで、自分で判断する

ことを避けたのだ。あるいは、彼女もまた、

柿崎と同じように二人が結婚することは不可

能だと思い込んでいたのかもしれない。

  (似たもの同士だったんだな…)

 宮部はそう思わずにいられない。

 柿崎も、光恵も。それぞれが自分が踏み出

してしまうことを恐れ、素直になれない自分

に苦しみ、その原因を境遇に求めることで解

決しようとした。それが生み出すものは、哀

しい憎悪でしかないことを、彼らはきっと気

づいていないに違いない…。

 余りにも真面目で、余りにも未熟であるが

ゆえの誤解とすれ違い。それと悟った宮部の

心にも、大きな疲労感が漂っていた。

 「しかし、困ったもんですねぇ…」

 宮部はフォルクスワーゲンを道端に寄せる

ようにして停車させた。

 「宮部先生。でも、今話していたことが事

件と関係しているんですか?」

 柿崎が困惑した表情で聞く。宮部はハンド

ルにもたれるようにして、言った。

 「関係も何も…。私の推測が正しければ、

恐らくはそれが今回の事件の始まりだったの

でしょう」

 「ど、どういうことなんですかっ?」

 「人の気持ちというものは、そう簡単に割

り切れるものではなかった。と言うことだと

思いますね」

 「?」

 怪訝な表情をする柿崎。それを見た宮部は

ジャケットの内側から携帯電話を出した。

 「さて、いよいよ始めますか…」

 宮部はおもむろにナンバーをプッシュする

と、携帯電話を耳に当てる。

 「もしもし、京都東署でしょうか。私は東

洋文化大学の宮部と申しますが、捜査課課長

の大久保さんをお願いします」

 「先生?」

 柿崎が驚くのを、宮部はチラリを見る。

 「あ、大久保さん。先日はお世話になりま

した。夫人の取り調べはどうでしょうか?」

 宮部が警察署に電話している様子を、柿崎

は固唾を飲んで見守っている。

  「・・・・そうですか。ところで、これか

らそちらに窺ってもよろしいですか。今回の

事件のことで、大事な御相談があるんですけ

れども……はい。…はい。…では、過ぎに向

かいますので、よろしくお願いします」

 宮部はそう結んで、電話を切る。そんな様

子に柿崎は唖然とするばかりであった。

 「先生…。今日は急用があって、行かない

と言っていたのでは…?」

 「そうでしたっけ?」

 飄々とした宮部の様子に、柿崎はようやく

気づいた。別に急用があった訳ではないとい

うことに。全ては柿崎を外へ連れだし、話を

内密にするための宮部の作戦に他ならなかっ

たのだ。

 そんな柿崎の表情に気づいた宮部はバツが

悪そうに頭をかいた。

 「騙したことは謝ります。しかし、あの家

にいたのでは、話をしたくても出来ませんか

らね。すみませんでした」

 「これから、どうするんです?」

 「聞いての通り、警察署へ行きます。しか

し、夫人に会うためではありません。彼女を

守るために行くのです」

 「ま、守るため…?」

 柿崎がさらに驚愕する。夫人の身に何か危

険が迫っているとでも言うのだろうか?

 「私の考え通りなら、田口教授を殺害した

と思われる異形の存在は、今夜にでも夫人を

狙ってくるはずです」

 「ま、まさか…」

 「いずれにしても、急いで行くことにしま

しょう。色々と準備しなければならないこと

もありますので…」

 そう言いながら、宮部はエンジンを再始動

させた。ブロオオンと大きな音を立てて、車

は動きだした。それはこの事件の終局へと向

かうスタートでもあった…。

 

 その頃、田口家には大きなベンツが停まっ

ていた。五十嵐達彦の車である。

 宮部と柿崎が出掛けてから、しばらくして

五十嵐が田口家を訪ねてきたのだった。

 「さあ、一緒に行こう!」

 外にまで聞こえる大きな声であった。

 リビングルームでは、五十嵐が光恵の手を

引っ張って、外へ連れだそうとしていた。

 「ちょ、ちょっと待ってください!」

 光恵は訳もわからず、必死に抵抗する。

 「駄目だ。ボクと一緒に、この家を出よう

じゃないか」

 来訪した五十嵐が急に光恵を連れだそうと

し始めたのだ。それと言うのも、昨夜の宮部

に起きた事件を聞いたからである。

 「ナイフや包丁が勝手に飛び回って、人を

襲うような家に居させられる訳ないじゃない

か。さっさとこの家を出るんだ!」

 「お願い、乱暴しないで!」

 「だったら、おとなしくボクの言うことを

聞いてくれ!」

 五十嵐が光恵を肩をつかみ、抱き抱えるよ

うにして連れだそうとする。その様子を見か

ねた治男が止めようとするが、五十嵐は治男

をも乱暴に振り払ってしまう。

 「治男くん。あなたたち一家も、この家を

出た方がいいと思う。こんな化け物屋敷にい

るなんて、信じられないよっ!」

 乱暴に振りほどかれて、尻餅をついてしま

った治男を見下ろすように五十嵐が言う。

 「……」

 それに対し、治男は何も言えない。出来る

ことなら、治男自身も逃げだしたかったから

である。しかし、思い出のつまった家屋敷を

守らねばならなかったのだ。彼女の母親が帰

るべき唯一の場所を…!

 「とにかく、光恵さんは連れて行きます」

 五十嵐がそう宣言して、光恵を外へと引っ

張って行く。光恵のあらがる声だけが、響い

た。その時、

 「待ちたまえ!」

 張りのある声が、響いた。

 「嫌がる女性を無理やり連れ去るのは、男

のすることじゃないぞ」

 「誰だ?」

 玄関へと通じる戸口に立ちはだかった男に

向かって、五十嵐が警戒の目を向ける。

 「島村先生!」

 五十嵐の問いに答えたのは、治男だった。

 戸口の方からゆっくりとした足取りで近づ

いてくるのは、島村であった。

 「島村先生、どうして此処に?」

 起き上がりながら、治男が驚いた顔で尋ね

る。それをチラリと見て、島村はギョロリと

した目で五十嵐を睨む。

 「宮部の奴に頼まれて来たんだが、ちょう

ど良かったようだな…」

 低く威圧感のある声に、五十嵐が怯んだよ

うな様子を見せる。金持ちのお坊ちゃんには

及びもつかないような迫力が、島村にはあっ

た。宮部の友人らしく、この男もただの学者

ではなかったようだ。

 「そこをどいてください。ボクは彼女を助

けなければならないんだ」

 精一杯の威勢をはった態度で五十嵐が言っ

た。だが、島村はどこうとしない。

 「彼女を助けるだと…?」

 「そうです。こんな化け物屋敷に一秒だっ

て、彼女を置いておく訳にはいかない!」

 「それが本当に彼女を救うことにはならな

いと、君は気づかないのか?」

 「何ですって?」

 「ただ逃げるだけでは、何も解決しないと

いうことだ。君はそれで満足かもしれんが、

田口家の人々は誰も救われんぞ」

 「私が助けたいのは、光恵さんです」

 「自分の家族を見捨てることで、彼女が幸

福になれるわけがないだろう。そんなことも

分からんのか、君は!」

 激しい叱咤に、五十嵐が身をすくませる。

 「とにかく、この屋敷からは動かないでい

てもらいたい」

 「この家にいたからと言って、何が解決さ

れると言うんです?」

 「解決の糸口は見えている!」

 島村が言うと、そこにいた人々に言葉にな

らないような驚愕が走った。

この事件が解決される…?

 誰もが信じられないといったように顔を互

いに見交わしてしまう。

  「ほ、本当ですか? 先生!」

 驚きの余りに、聞き返す治男の声も震えて

いる。

 「とは言え、私が解決する訳ではないけれ

どね…」

 「では…?」

 そう言いかけて、治男はハタと気づいた。

 「宮部…、宮部先生が…?」

 島村がゆっくりとうなずいた。

 「解決の糸口は見えている。今朝の電話で

宮部がそう言っていた。そして、そのために

は、皆がこの家にいる必要があるらしい。私

はそれを伝えるために来たのだ」

 「この家にいなければならない?」

 「よくは分からんよ。宮部も田口の屋敷へ

行けと一方的に言ってきただけだからな」

 島村は、早朝に宮部から電話があったこと

と、この家に一晩泊まってほしいと言われた

ことなどを、簡単に説明した。

 「でも、今日は別の用事があるって…」

 光恵が朝の記憶を思い起こして言った。

 「それは、よく判らんが…。まあ、何にし

ても必要なことなんだろう。あいつが任せろ

と言っている以上、俺はあいつを信じる」

 島村のキッパリとした言葉と態度に、そこ

にいる誰もが何も言えなくなってしまう。

『宮部耕三郎を信じる』

 これといった理由もなく、そこにいた人々

の脳裏にその言葉が浮かび上がる。

 頼り無い風貌も、飄々とした態度も、ノン

ビリした口調も、どれも信じられるものでは

ない。しかし、丸縁眼鏡の奥で輝いている瞳

だけは信用できるものであった。

 あの全てを見通しているような輝きなら、

誰にも見えない真実を暴き出してくれるかも

しれないと…。

 「それにしても…」

 と口を開いたのは、治男だった。

 「島村先生までもが、この屋敷に留まるよ

うに言われているのは何故なんでしょう?」

 不安そうな表情でそう尋ねる。

 「…何でも、私が明日まで、この家にいる

必要があるらしい。そして、誰もこの屋敷か

ら出さないで欲しいと頼まれている」

 「ど、どういうことなんでしょう?」

 「分からん。だが、彼の指示に従ってもら

いたい」

 最後の言葉は、五十嵐に向けられたもので

あった。それには、有無を言わさぬ態度が込

められていた。

 「……」

 苦虫を噛みつぶした表情で、五十嵐は光恵

の手を放した。すぐに光恵が五十嵐のそばを

離れて、島村のそばへと駆け寄る。

 「み、光恵さん…」

 五十嵐の口から、落胆した声が漏れる。確

かに彼は真剣に光恵を愛していたのだろう。

 だが、島村のもとへ逃げる姿を見た時、自

分から心が離れていることを悟ったのだ。

 哀れなまでに落ち込む五十嵐の姿を見て、

島村は静かに目を伏せた。彼もまた、この事

件の犠牲者だったに違いない…。

 「光恵さん。だいじょうぶかね?」

 島村は光恵へと目を移した。

 「はい、先生。ありがとうございます」

 光恵はきつく握られた手首をさするように

しながら、疲れた笑顔を島村に向けた。

 「先生、本当に解決できるんですか?」

 光恵が恐る恐るといった感じに尋ねた。

 その疲れた瞳の奥に、微かな希望と大きな

不安が宿っているのが分かる。

 「うむ。宮部を信じようじゃないか…」

 そう言って、島村は優しく光恵の頭を撫で

たのだった。

                               つづく