宮部耕三郎調査ファイル

   蛇帯じゃたい

 

     第伍章

 

 白と黒に色分けられた車体が並ぶ駐車場へ

黄色いフォルクスワーゲンが入ってきた。

 京都東署の駐車場である。ガコンガコンと

いう大きな音をたてながら、フォルクスワー

ゲンはパトカーの間へスルリと駐車する。

 「ちょ、ちょっと、ここは一般人は立入禁

止だぞ。外来者用の駐車場へ持っていってく

れなきゃダメだ!」

 警察署の入口に立っていた警官が、慌てて

駆け寄ってくる。

 「え、そうなんですか?」

 ウインドウを開けながら、宮部はヒョコッ

と顔を出した。

 「当たり前だ。ここは緊急車両の出入口な

んだから!」

 「でも、ここへ停めていいと言われて来た

んですがねぇ…」

 宮部がボリボリと頭をかきながら言う。

 「そんなバカな…。誰だ、そんなことを言

ったのは?」

 腹をたてたように警官が言うと、

 「すまんね。言ったのは、私なんだ」

 急に後ろから声がした。

 「なにぃ…?」

 文句を言いながら振り向いた警官は、その

人物を見て、はじかれたように敬礼をする。

 「お、大久保課長!」

 「いや、申し訳ない。その人は私が呼んだ

人でね。悪いが、そこに停めさせてあげても

いいかね?」

 大久保が申し訳無さそうに言う。

 「だ、大丈夫です。私の方で、車両整理は

やっておきますので…!」

 「すまんな。よろしく頼む」

 「了解しました!」

 直立不動の状態で敬礼し続けている警官の

肩をポンとたたくと、大久保は車から降りて

きた宮部のところへと向かった。

 「大久保さん。無理を言ってすみません」

 宮部は、近づいてきた大久保に丁寧に頭を

下げた。

 「気にしないで下さい。それよりも、事件

解決のメドがたったのですか?」

 大久保が焦ったように言う。彼にしてみれ

ば、挨拶なんかよりも、そっちの方が重要な

のである。

 「まあ…、たぶんですが。ただ、解決する

ためには、もう一幕残っています」

 「もう一幕…。では、また何らかの事件が

起きると言うのでしょうか?」

 「そんなところです。それには、少し協力

していただきたいこともありますので…」

 「電話で言っていた相談のことですね。私

に出来ることであれば、何なりと」

 大久保は宮部を全面的に信じている。それ

は常識の枠を越えた部分で、事件を共通体験

した者同士に生まれた友情であった。ある意

味では極限の果てにある戦友意識と呼べるの

かもしれない。

 「それで、あの…」

 「何ですか、先生?」

 「例の刑事さんは、まだ取り調べをしてい

るのでしょうか?」

 「大谷刑事ですね。はい。田口夫人が黙秘

に入ったために、かなりイラついてはいます

けれど…」

 「黙秘…ですか?」

 宮部は、夫人の行動は黙秘ではないと思っ

た。黙秘というのは、自分に都合の悪くなる

ことを言ってしまわないように黙ることを指

している。だが、夫人の場合は違う。どんな

に言っても信じられない境遇に失望し、喋る

言葉を失ってしまっているのだろう。夫人が

見たことを有りのままに言っているのなら、

それを信じてもらえない以上、他に言うべき

言葉など存在しないからである。

 夫人を救うには、やはり真実を見せつける

他ない。宮部はそう確信した。

 「夫人の証言は、やはり真実です」

 宮部の言葉には、決意がこもっていた。

 「真実ですって?」

 余りにハッキリ言われたので、さすがに大

久保も驚いたようである。

 「で、では、やはり巨大な大蛇が絞め殺し

たと言うのですか?」

 「うーん、そうとも言い切れないんですが

ね…。まあ、大蛇と言えば大蛇だし…」

 「どういうことです、それは?」

 「難しいですね。大蛇とは似て非なるモノ

だというのが正しいでしょう。いずれにして

も、不可思議極まりない異形の存在であるこ

とだけは確かだと思います」

 「そ、それは一体…?」

 「細かいことは、後で説明します。とりあ

えず、ここで話すのはなんですから…。署内

の方へ行きませんか?」

 「そ、そうですね。どうぞ、こちらへ」

 大久保が先に立って、宮部を署の方へと案

内する。柿崎は狐につままれたような表情で

それに続いた。

 もう一人、狐につままれたような表情の人

間がいる。それは、敬礼したままの警官だっ

た。彼は署内へと消えていく三人の姿を見送

りながら、敬礼を続けていたのだった…。

 

 「課長、またですか?」

 取調室から呼ばれた大谷は、明らかに不快

そうな顔で言った。彼にしてみれば、部外者

の言葉に従う大久保が信じられないといった

様子である。

 「大谷くん。とりあえず、宮部先生の話を

聞いてみてはくれないか?」

 「話? 何を聞けと言うんです」

 大谷は露骨に嫌そうな表情で、宮部へと目

を向けた。それを受けて、宮部が口を開く。

 「大谷刑事。あなたが信じられないのは無

理もないと思いますが、夫人の証言している

ことは真実です」

 「はぁ…?」

 大谷が素っ頓狂な声を出す。

 「夫人は嘘をついていません」

 「ハ…ハハハハハハ…!」

 思わず大谷は笑いだしてしまう。それは、

とても皮肉な笑いに聞こえた。

 「何か、おかしいですか?」

 ちょっとムッとした感じに宮部が聞く。

 「おかしいも何も…。あんた、妖怪を見た

なんてことを信じるのかい?」

 「ええ」

 「はっ。そりゃ、映画やアニメの見すぎだ

よ。冗談にもなりゃしないぜ」

 大谷は、まったく取り合おうとしない。

 「大谷くん。失礼すぎないか?」

 さすがに見かねた大久保が口を挟む。しか

し、大谷の態度は変わる気配もない。

 「課長。どんなに偉い学者さんか、知りま

せんがね…。今は大層な仮説を聞いてるヒマ

なんかは無いんです。俺に必要なのは、証拠

ですよ。証拠っ!」

 「ならば…」

 静かな声が響いた。大谷が宮部を見る。

 「その証拠を見せればいいんですね?」

 凛とした声であった。そして、大谷を見つ

める眼差しは静かでありながら、強い意思の

光を宿していた。

 「証拠を見せるだとぉ…?」

 大谷はペッとツバを吐き捨てる。

 「先生さんよ。それは、あの婆さんが言っ

ている妖怪とやらを、俺に見せてくれるって

ことかい?」

 「それが、一番早いでしょう」

 「学者ってのは、頭のネジが飛んでるのと

違うかい?」

 「あなたも刑事なら、本当のことを見てみ

たいとは思いませんか?」

 「ああ、見てみたいね」

 「百聞は一見にしかず、です。では、私の

言うことに協力してもらえますね?」

 宮部は大谷を見据えて、言った。こういう

タイプには、いくら説明しても無駄だという

ことが判っていた。自分の目で見なければ信

じられないタイプなのだ。だからこそ、宮部

としては挑発してでも、最後の舞台に引き釣

り出す必要があったのである。

 「いいだろう…。だが、あんたの言う真実

とやらが見えなかったら、どうする?」

 「その時は公務執行妨害でも、詐欺罪でも

適用すればいいでしょう」

 宮部も珍しく、強い態度である。

 「……」

 「……」

 「…解った。で、どうすりゃいいんだ?」

 宮部の挑戦に、大谷は応えた。

 「全ては夜です。その時が来れば、きっと

分かるでしょう…」

 宮部は言った。それは予言ではなく、確固

たる自信に裏付けられた言葉であった。

 

 寝静まった街を照らしていた月が、ゆっく

りと雲に隠れていく。青白い輝きに包まれて

いた情景を、静かに闇が覆っていった…。

 赤いランプが光る警察署。眠る時を知らぬ

警察でさえも、今は静寂に沈んでいた。

 午前二時…。

 人は古来、その時間を「丑三つ時」と呼ん

で、魔物たちの時間と恐れてきた。特に京都

では、百鬼夜行が歩く時刻として、外を見る

ことすら忌避していたものである。鞍間山の

鬼門が開き、夥しい魑魅魍魎が跳梁跋扈する

闇の時刻として…。そして今、時計はその時

刻を示そうとしていた…。

  ピピッ!

 冷えたコンクリートの空間に、デジタルア

ラームの音がいやに大きく響いた。

 「午前二時です」

 押し殺したような声で、柿崎が言う。

 「そろそろですね…」

 宮部がゆっくりとうなずきながら応えた。

 周りは灰色のコンクリートの壁に囲まれて

いた。細く長い廊下の両脇には、冷たい鉄格

子で閉ざされた牢屋が並んでいる。正確には

留置場とでも言うのだろうが、どんなに呼び

名を変えても意味は同じである。人を閉じ込

め、自由を束縛する鉄の檻。それ以下でも、

それ以上のものでもなかった。

 京都東署の地下にある留置場。宮部たちは

今、その中でジッと息を潜めていた。

 「おい、いつまで待てばいいんだ?」

 イライラとした口調で、大谷が聞く。一応

は気を使っているのだろう。それなりに小さ

い声での問いである。

 「間もなくだと思います」

 宮部は、そんな大谷の様子に微笑しつつ応

えた。不器用な優しさを、大谷刑事に感じた

からである。頑迷すぎる部分はあるが、彼も

実直な刑事なのだろう。

 「奥様…」

 柿崎が、痛ましそうにつぶやいた。

 彼らの前には、芳江が入れられた留置場が

見えている。向こうからは死角になっている

が、こちらからは様子がよく分かる。留置場

の看守が待機するスペースの一つであった。

 そこに宮部と柿崎、大谷と大久保の四人は

隠れているのである。そして、彼らは芳江の

いる監獄に目を注いでいた。彼女以外には、

今日はどの監獄にも人はいない。

 取り調べに疲れたのか、毛布にくるまった

芳江は熟睡しているようだ。ゆるやかな寝息

が聞こえている。だが、安眠というには程遠

い環境であることは間違いない。

 「やれやれ…」

 大谷はため息まじりに、クシャクシャのハ

イライトをくわえた。百円ライターで火を点

けようとするが、こすってもカシュカシュと

音をたてるだけであった。

 「チッ…」

 小さく舌打ちした時、横からスッと火が差

し出される。宮部であった。

 「…すまねぇ」

 大谷は短く礼を言って、タバコに火を移し

た。たっぷり紫煙を吸い込んで、フウと吐き

出す。宮部は微笑してライターをしまった。

 「それにしても、先生…」

 ふいに柿崎が言った。

 「どうしました?」

 「先生は、田口先生の奥様が見たものを何

だと考えておられるのですか?」

 「……恐らくは…」

 宮部はちょっと自分の推理を確認するよう

に考えてから、徐に口を開いた。

 「蛇帯、だと思っています」

 「じゃ…、じゃたい?」

 「蛇の帯と書いて、『蛇帯』。妖怪学のバ

イブルと言われている鳥山石燕の『百鬼夜行

画図』にも出ている妖かしの存在です」

 「蛇帯…ですか。それは、一体どのような

ものなのですか?」

 横で話を聞いていた大久保が、口を挟む。

 「女の秘められた情念や嫉妬が形になった

ものだと言われていますが、私も実際に見た

ことはありません」

 宮部の答えに、今度は柿崎が驚く。

 「女の情念や嫉妬ですって?」

 「ええ。少なくとも、古い書物ではそう伝

えられています」

 「そんな感情を誰かが抱いていたと…。ま

さか…、まさか、先生は…!」

 激しく動揺する柿崎に、宮部は答えない。

 彼が頭の中に浮かべている名前と、宮部が

言わんとしている名前は、きっと同じもので

あると二人には判っていたのだ。

 「ジャタイだか、ジャノメだか知らんが、

そんなものがいるわけないだろ」

 大谷が呆れたように口を挟む。

 「刑事さん。あなたはまだ…!」

 つい大声になりかけた柿崎を、宮部がシッ

と手で制した。そして、そのまま黙るように

目で指示する。

 「ど、どうしたんです、先生?」

 「シッ…!」

 「……」

 「……」

 宮部の緊張した様子に、自然と皆が黙り込

む形となった。静まりかえった世界に、4人

の息づかいだけが聞こえる。

 いや、もう一つ。別の音が聞こえていた。

 シュル…シュルシュル…シュル…。

 何かが滑るような音だった。

 サワサワサワ…サワ…サワサワ…。

 微かな葉擦れの音のようでもあった。

 サ…シュウ…シュシュウゥゥ…。

 まるで蛇の吐息のようにも聞こえた。

 4人が耳に神経を集中する。音は確実に、

この留置場の中を動いている。それは凄まじ

い戦慄となって、理解できた。

 「な、何…」

 大谷が小さく喘いだ。何の音だ?、と言い

たいのだろう。だが、異様な気配の中で、言

わんとするものは言葉とならない。

 シュルシュルシュル…シュルル…。

 音は続いている。近くのようでもあり、遠

くのようでもあった。目の前を過ぎていくよ

うでもあり、周りを徘徊しているようにも感

じられた。

  何かがいる…!

 それだけが共通意識として、皆の心を支配

していた。例えようのない不気味さと、確実

な恐怖となって…。

 「何処だ…。何処にいる?」

 宮部は周囲へと目を走らせるが、何処にも

音の原因を見つけ出すことは出来ない。

 ひたすらに聞こえる音だけが、異形の気配

を伝えているのみであった。

 「く…、くそ…」

 大谷が懐から、拳銃を取り出した。日本警

察に制式採用されているニューナンブのリボ

ルバー拳銃であった。38口径のゴツイ黒光り

のするピストルである。

 武器を手にしたくなる気持ちは十分に納得

できる。見えない恐怖、音だけの恐怖。その

プレッシャーの中で、自分の身を守ろうとす

る気持ちが、人に武器をとらせるのだ。

 「大谷刑事…!」

 宮部が拳銃を握った大谷の手を押さえる。

 こんな狭い空間で発砲すれば、コンクリー

トの壁に跳ね返った弾丸によって、思わぬ怪

我人が出てしまうからである。

 「す、すまん…」

 慌てて、大谷は拳銃を懐へとしまう。

 普通なら気づくであろう基本的なことなの

に、大谷はやや冷静さを欠いてしまっていた

ようであった。無理もないことだろう。

 宮部がホッとした瞬間、

 「グゥッ…」

 押し殺したような苦鳴が聞こえた。

 「し、しまった!」

 宮部が弾かれたように、廊下へ飛び出す。

 一目散に芳江のいる牢屋の前へと走ってい

く。苦鳴はそこから聞こえたのだった。

 「みんな、急いでっ!」

 宮部が大声で呼びかけながら、鉄格子の前

へと駆け寄る。

 「…!」

 そこへ着いた途端、宮部は息をのんだ。

 驚きに声も出ない宮部の所へ、遅れて残り

の3人もバタバタと駆けつける。

 「ど、どうしたん…!」

 言いかけて、大谷も絶句した。大久保の顔

も一瞬にして青ざめてしまう。そして、恐怖

と驚愕に目を見開いた柿崎が叫んだ。

 「お、奥様ぁぁぁ!」

 鉄格子の向こうには、異形の存在がいた。

 いや、それこそが妖怪なのかもしれない。

 何かが闇の奥で蠢いている…!

 シュルシュルシュル…。

 微かな衣擦れに似た音をたてながら、田口

夫人である芳江の身体に巻きついているモノ

があった。

 ギリギリギリ…。

 芳江の身体を絞める音が、不気味に響く。

 それは暗い留置場の中で、巨大な漆黒の影

となって存在している。影のように薄くも見

えるし、陽炎のように儚げにも見える。それ

は確かに影としか表現できないような異形の

モノであった。だが、それは明らかな意思を

持って、芳江を絞め殺そうとしていた。

 そして、その漆黒の影を見た全員の中に一

つの統一されたイメージがあった。

  

 それは確かに漆黒の大蛇にしか見えなかっ

たのである。

 「こ、こんなバカな…。ほ、本当にこんな

大蛇が…?」

 口をパクパクさせながら、呆然とした表情

で大谷がつぶやく。常識を超えた光景に、脳

の思考が麻痺してしまっているのだ。

 「グ…ウウウ…」

 漆黒の大蛇に絞められている芳江の口から

苦しそうな声が漏れた。空気を求めるような

ヒュウヒュウという喘ぎも聞こえる。

 「いけない!早く鍵をっ!」

 そう叫んで、宮部は大久保からひったくる

ようにして、留置場の鍵を奪う。だが、暗い

せいと、慌てているせいもあって、ガチャガ

チャと音をたてるばかりで中々開かない。

 「明かりだ。電気をつけろ!」

 大久保が叫び、柿崎が廊下の壁にある電気

スイッチへと走る。そしてスイッチを押した

瞬間、バシイッと音がして、点くはずの蛍光

灯は次々とショートしていく。

 「な、何だっ?」

 驚く柿崎の顔がショートする蛍光灯の火花

の中に浮かび上がる。と同時に、

 「あ、あれは…?」

 と大久保が絶句した。

 きらめく放電のフラッシュの中に、繰り返

し浮かび上がる牢屋の中の光景。その中で、

大久保や大谷は見てしまったのだ。

 芳江の身体に巻きついている巨大な蛇の姿

を…。それはニシキヘビのように艶やかな模

様をしており、艶めかしくも不気味だった。

 だが美しい姿の奥には、疑いようのない闇

の息吹が漂い、死が息づいていた。

 「こ、こんな…。こんな化け物のような蛇

がいるなんて…」

 喘ぐように大久保が呻く。

 「いや、蛇じゃない?」

 横にいた大谷が驚いたように言った。

 次のフラッシュに浮かび上がった時、それ

は蛇ではなく、まるで薄っぺらな布のように

も見えたのだ。

 「いや…、蛇かっ!」

 しかし、次のフラッシュの中には、やはり

美しくも妖しい蛇の姿を見たのだった。

 「な、何なんだ、この化け物は!」

 大谷は困惑したように叫んだ。点滅するフ

ラッシュの中での幻影とは思えなかった。

 繰り返す白と黒の明暗の中で、異形の存在

は大蛇のようにも見え、薄っぺらな布のよう

にも見えた。ただ確実に言えるのは、やはり

それは異形の存在であるという事だけだ。

 「く…くそっ」

 鉄格子の前では、宮部が必死にカギを開け

ようとしていた。暗闇だけならともかく、網

膜を刺激するような放電のフラッシュの中で

思うようにカギ穴に差し込めないでいたので

ある。ガチャガチャと音だけが響く。

 「先生、急げっ!」

 大谷が叫ぶ。そう言われなくても、宮部に

だって時間に猶予がないのは判っていた。

 シュウウ…シュシュウ…シュゥゥ…。

 草擦れのような蛇の吐息があざ笑うかのよ

うに響き、それに混じって夫人の苦しそうな

喘ぎが聞こえている。一つの苦鳴は、それこ

そが死へのカウントダウンであった。

 「先生っっ!」

 大谷が叫ぶ。もはや一刻の猶予もないこと

がその叫びに表れていた。

 「開いたっ!」

 不意に宮部が叫び、牢内へと飛び込む。

 すでに中にいる芳江はヒュウヒュウという

喘ぎしか漏らさず、その手足はピクピクと痙

攣を繰り返すばかりである。まさに絶息寸前

と言えた。

 「宮部先生、早く彼女を外へ!」

 それを見た大久保が、慌てて叫んだ。

 「分かってます!」

 芳江を絞めあげている大蛇を引き剥がそう

と駆け寄った宮部だったが、大蛇は芳江を捕

らえたまま避けるように動く。

 「奥様っっ!」

 戻ってきた柿崎が、絶叫しつつ駆け込む。

 芳江の身体は、大蛇に巻きつかれたままの

状態で空中へと運ばれている。人間一人を中

空に捕らえたまま、大蛇はその鎌首をもたげ

て、宮部たちを睥睨していた。

 「くそおっ、奥様を放せ!」

 無謀とも思える行動で、柿崎が大蛇へと飛

びつく。その尾をつかんで、芳江から引き剥

がそうというのである。

 「…な、何?」

 大蛇をつかんだ柿崎が驚いたように叫ぶ。

 その手に伝わった感触は、蛇のそれではな

く、明らかに布のようなものだったからだ。

 だが、その行動が功を奏したようだ。

 芳江の身体に巻きついていた大蛇が、その

締めつけを解いたのである。結果として、支

えを失った芳江は床へと落下する。

 ドサッ!

 鈍い音がした。それは芳江の身体がコンク

リートの床に叩きつけられた音ではなく、す

べりこむように飛び込んだ大谷が受け止めた

音だった。床に打ちつけてしまった腕の痛み

に大谷が顔をしかめる。

 「大谷さん、お見事!」

 ファインプレーを見た宮部が言った。

 「先生、そんな事言ってる場合じゃねえだ

ろ。さっさとあの化け物を何とかしてくれ」

 大谷が必死の形相で叫ぶ。

 「わかってます。任せてください」

 そう応えて、宮部は大蛇へと目を移した。

 相変わらずのフラッシュの中で、ニシキヘ

ビのような艶めかしさと、振りそでのような

艶やかさを見せながら、大蛇は鎌首をもたげ

ている。それは蛇のようにも見え、布のよう

にも感じられた。

 「先生っ!」

 大蛇を睨みつけつつ、柿崎が指示を仰ぐ。

 「柿崎くん。ここへ来る前に渡しておいた

ガラス瓶は何処にある?」

 「そ、外のデイバッグの中に…!」

 柿崎の指が、廊下の隅に置いてある濃紺の

デイバッグを示す。宮部がそれへと走った。

 急いでジッパーを開けて、中を探った宮部

の手が小さなガラス瓶を取り出す。それの中

には透けた茶色の液体が詰まっていた。

 フォルクスワーゲンの燃料タンクから移し

取っておいたガソリンであった。蓋を開けた

途端にツンとした揮発性の香りが漂う。

 「よし…!」

 それを持って、宮部が牢内へと駆け戻る。

 大蛇はまさに獲物を狙うように、柿崎へと

その首を向けていた。だが、すぐに飛び掛か

ろうとはせずに、やや躊躇しているような気

配が感じられた。一方の柿崎は、まさに蛇に

睨まれた蛙のように立ちすくんでいる。

 「柿崎くん、そこをどくんだ!」

 宮部の声にはじかれたように、柿崎が飛び

すさった。それが合図だったかのように、大

蛇も柿崎へと襲いかかる。

 だが、その首が柿崎へと届く寸前に、宮部

の手からガラス瓶の液体が大蛇へと振りかけ

られていた。液体を浴びた大蛇がのたうつよ

うに暴れる。だが、それすらも濡れた布がピ

シャピシャと跳ねているように見えた。

 「これで、終わりだ…」

 ボッと宮部の手に明かりが灯る。

  それは、ライターの火の輝きであった。

 宮部がゆっくりとした動作で、それを放り

投げる。空を飛ぶライターの炎が、皆の目に

スローモーションのような残像として焼きつ

いた。そして、それは静かに落ちていく。

 ほんの数秒のことだったのだろうが、それ

が床に落ちるまでの時間は永遠と思えた。

  カシィィンンンッッ!

 ライターが床に跳ねた瞬間、全ての時の流

れは元に戻った……!

 ボオォォォォォンッッ!

 光が弾けた。

  炎が膨れ上がった。

  重々しい音が留置場の中に響きわたる。

 キシャアアアァァ!

 紅蓮の炎が立ちのぼり、その揺らめく真紅

の龍に絡みつかれた大蛇がのたうつ。

 「やったぁ!」

 柿崎が喜びの声をあげた。

 火の粉が舞う留置場の空間に、巨大な蛇が

苦悶の舞踏を踊る。それは妖しくも美しい幻

想のようにさえ思えた…。

 炎に包まれた大蛇が、まるで焚き火の中に

投じられた着物のように、こまかい煤を噴き

上げながら崩れていく。そして、

  キャアアアアァァァァァ……

 細く長い女の悲鳴が、そこから聞こえたよ

うな気がした。いや、そこにいた誰もが確か

にその叫びを聞いたのだった。

 余りにも不気味で、余りにも痛ましく、そ

して余りにも悲しげな悲鳴であった…。

 その痛哭を最後にして、炎の中へと大蛇が

没していく。

  黒い影が次第に消えていった。

  ジリリリリリリリ……

 炎を探知した火災報知器がけたたましく鳴

り響いた。天井にとりつけられているスプリ

ンクラーから、ブシュッと水が噴き出す。

  ザアアアアアアァァァ……

 スコールのように叩きつける水。そして濛

々と垂れ込める水煙の中で、炎は段々と小さ

くなり、やがて消えていった…。

 炎が消え、再び世界は闇に包まれていく。

 暗い中に水音だけが激しく響いていた。

  そして人々は、ただ立ち尽くしていた…。

 「終わったな…」

 宮部は静かにつぶやいて、降り注ぐ水の中

をゆっくりと大蛇の残骸へと歩み寄る。

 そして屈みこんで、その手に何かを拾いあ

げるのだった。

 「……」

 宮部はそれを持ったまま、しばしそれを見

つめていた。顔には、何故か悔やんでいるよ

うな苦渋が滲んでいる。やがて、おもむろに

立ち上がると、その何かを手にしたまま柿崎

のもとへと歩み寄っていった。

 「先生…?」

 沈痛な表情で近づいてくる宮部を見て、柿

崎が不思議そうな顔をする。

 宮部は黙って、その手を差し出した。

 手の上には焼け焦げた布のようなものが、

乗っけられていた。

 「…?」

 柿崎がそれを覗き込んだ瞬間、彼の喉から

声にならない悲鳴が漏れた。

 「これが、田口先生を殺した犯人です」

 宮部が淡々と言った。あくまでも事務的に

言った口調は、柿崎の心情を慮ってのことで

あろう。

 「せ、先生…、これは…」

 柿崎には、その焼け焦げた布のようなモノ

に見覚えがあった。いや、それは確かに焼け

焦げた布そのものだったのだ。

 「ええ。これこそが蛇帯なのです…」

 宮部はそう言って、目を伏せた。

 「ウ、ウアアアア…」

 柿崎が意味もわからぬ叫びをあげた。それ

は痛哭とも言うべき叫びであった。

 宮部の見せた焼け焦げた布…。

 それは、光恵が結納で着るはずだった振り

袖の帯だったのだ…。

                             つづく