宮部耕三郎調査ファイル

   蛇帯じゃたい

 

     第六章

 

 赤色灯が回転し、けたたましいサイレンを

響かせながら、京都東署の駐車場へと救急車

が滑りこんでくる。

 留置場から救い出された芳江は、首を絞め

られたために意識不明となっていた。命に別

状はないものの、精密検査を受けさせる為に

病院へと移送する必要があった。

 「一体、何があったんですか?」

 芳江をストレッチャーから救急車内へと移

しながら、白衣の救急隊員が聞く。それは無

理もないことであろう。宮部を始め、大久保

や大谷も全身をグッショリと濡らし、その顔

には途方もない疲労が刻まれていたからだ。

 ましてや、芳江の首には明らかに首を絞め

られたであろう窄条痕がついている。警察署

内で何があったか、それは当然の疑問だ。

 「何でもない。彼女を頼む…」

 大久保はそれだけ答えた。いぶかしげな表

情を隠せないまま、救急隊員は芳江を寝台へ

乗せると、病院へ向かって出発した。

 ピィィポォォピィィポォォ…。

 再びサイレンを鳴らしながら、救急車は警

察署を出ていった。その赤い点滅が遠ざかっ

ていくのを見送りながら、柿崎がコンクリー

トの地面にヘタリと腰を落とした。

 「大丈夫ですよ…」

 宮部がそっと声をかけると、柿崎は力なく

うなずいた。彼の心には、先程の焼け焦げた

着物の帯が重くのしかかっているのだろう。

 「大久保課長、何があったんですか?」

 何人かの制服警官が署内から出てきて、救

急隊員と同じような質問をする。警察署内で

火災警報が鳴り響き、地下留置場がスプリン

クラーで水浸しになり、さらに拘置されてい

た容疑者が意識不明で病院へ運ばれたのだか

ら当然であった。だが、大久保はそれらの質

問には答えず、留置場への立ち入りを禁止す

ることだけを伝えた。

 「ど、どういうことですか?」

 その指示にさらなる疑問を抱く警官たちに

一喝を加えたのは大谷だった。

 「ガタガタ言ってないで、言われた通りに

すりゃいいんだっ!」

 普段の大谷を知っているだけに、集まった

警官たちはそれ以上の追求を断念した。

 「大谷さん。ありがとうございます」

 署内へと戻っていく警官を見ながら、宮部

が礼を述べた。留置場内への立入禁止を希望

したのは、宮部だった。留置場内にはまだ、

焼け焦げた着物の帯が残っている。宮部はそ

れを他の目には触れさせたくなかったのだ。

 「いいってことよ、先生。それよりも今夜

の事件のこと、そして田口幸之助殺害の真相

について説明してもらえないか?」

 「もちろん。では、ここではなく署内の方

で御説明いたします」

 宮部が皆を見回しながら、言った。

 

 警察署内の一番奥にある会議室。

 そこに宮部、柿崎、大久保、大谷の4人が

集まっていた。大久保の計らいで、ここへは

近寄らないように他の警官には指示が出され

ている。大久保の細かな配慮だった。

 プラスチックの使い捨てカップに入れられ

たコーヒーが4つ、テーブルの上で湯気をた

てている。その横には、例の焼け焦げた着物

帯の切れ端が置かれていた。

 テーブルを囲むようにして、宮部たちが座

っている。ギシッとパイプチェアを軋ませて

大谷が腰を沈め、クシャクシャのハイライト

へ火を点けた。思い切り吸い込んで、フウと

紫煙を吐き出す。留置場の事件から2時間が

経過しているが、その間に彼は一服もしてい

なかった。ヘビースモーカーの大谷にしては

珍しいことである。それすらも忘れるほどの

大変な夜だったのだ…。

 「では、今回の事件について、御説明しま

しょう」

 大谷が一息ついたのを見計らって、宮部は

話を切り出した。

 「まず、今回の事件で田口先生の奥さんで

ある芳江さんは犯人ではありません」

 「そんなことは分かっている。俺が間違っ

ていたのは認めるよ。だが、さっきの蛇みた

いな化け物は何だったんだ?」

 大谷が二口ほどしか吸っていないタバコを

灰皿にもみ消しながら言った。それが先程か

ら気にかかって仕方ないのである。

 「あれは、蛇帯と呼ばれるものです」

 「じゃたい?」

 「そうです。蛇の帯と書いて、蛇帯です」

 「さっきもそれは聞いたけどよ。そ、その

ジャ…、ジャタイとか言うのか…。そりゃあ

一体何なんだい?」

 「簡単に言えば、妖怪の一種と思っていた

だいて結構だと思います」

 「よ、妖怪…」

 あまりにもあっさりと答えた宮部に、大谷

が目を白黒させた。いまだに信じられないよ

うであった。だが、見てしまったものを否定

も出来なかった。

 「妖怪と言いますが、それはどういうもの

なんですか?」

 今度は大久保が聞いた。

 「蛇帯とは、江戸時代の有名な妖怪画家で

ある鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』という本に

描かれている妖怪です。正しくは、中巻であ

る『霧の巻』に出ていますが…」

 「鳥山石燕…?」

 宮部の答えに、大久保が首を傾げる。

 「江戸時代に活躍した画家で、今我々がイ

メージとして抱いている妖怪の姿は彼が描い

た絵に基づくものがほとんどなのです」

 「そ、その…、一つ目小僧とか、ろくろ首

とかいうお化けも…?」

 「そうです。彼が描いた百鬼夜行シリーズ

の画集の中に収められた妖怪画が原点となっ

ています」

 「はあ…」

 大久保はそれだけ言った。よく考えてみれ

ば、誰も見たことがない妖怪の姿を我々は共

通したイメージで思い浮かべることが出来て

いる。一つ目小僧と言えば、顔の中央に巨大

な目を光らせた寺の子坊主の姿だ。そして、

ろくろ首と言えば、屏風の向こうへと首を伸

ばしている着物姿の女を想像することが出来

る。それらは日本人の大人から子供までが統

一したイメージで想像できるものであり、考

えてみれば恐るべき浸透力である。全ての日

本人に共通のイメージをもたらす絵、それだ

けでも驚嘆に値するであろう。

 それらの原点が一つの本にあったと言うの

は、新鮮な驚きとして十分だった。

 「で、宮部先生。その偉い画家が描いたと

いう蛇帯とは、どういうものなんだい?」

 今度は大谷が聞いた。彼にしてみれば、誰

がどんな絵を描こうと関係ない。知りたいの

は、問題の蛇帯である。

 「博物誌にいわく…」

 宮部はそう切り出した。

 「人帯を敷きて眠れば、蛇を夢む。されば

妬める女の三重の帯は、七重にまはる毒蛇と

もなりぬべし」

 「な、何なんだ、それは?」

 「鳥山石燕はそのように、絵にコメントを

書いています。博物誌とは、古代中国の晋と

いう国で書かれた書物の名前です。恐らく、

蛇帯というのは古い中国の書物に紹介されて

いた妖怪だったのでしょう」

 「古代中国の妖怪ですか…」

 柿崎が感心したような声を出す。

 「まあ、博物誌というのは古今東西に伝わ

る説話や民間伝承を集めたカタログのような

ものでしてね。蛇帯というのも、何処かの土

地に伝わっていた話なんでしょう」

 宮部がそう説明した時、

 「も、もっと分かりやすく言ってくれ」

 大谷が頭を抱えるように呻いた。

 「そうですね。例えば、愛媛県では『着物

の帯を枕元に敷いて寝ると、蛇の夢を見る』

という迷信が残っています。博物誌に書かれ

ていることも、それと同じようなことだと思

ってください」

 「えーと、それは正月の初夢に七福神の絵

を敷いて寝ると、幸運の夢が見られるという

のと同じでしょうか?」

 柿崎が思い出しながら、口を挟んだ。

 「随分と古いことを知ってますね」

 宮部が微笑む。今時、そんなことを知って

いる若者は少ない。

 「ウチのおばあちゃんに教わったんです」

 柿崎が照れたように言う。

 「そうですね。まあ似たようなものだと思

ってください。しかし、鳥山石燕によって、

蛇帯について書かれている内容は、もっと恐

ろしいものです」

 宮部の顔が再び、真剣なものに戻る。

 「宮部先生、それは一体?」

 「蛇の夢を見るという部分については、今

柿崎くんが言ったことと同じような意味だと

思ってください。着物の帯を寝所に置くと、

蛇の夢を見てしまうとね。ただし、その夢を

見る者が深い妬みのような思いを抱いた女性

であった場合に、着物の帯は巨大な毒蛇に化

けると書いているのです」

 宮部はそう言って、皆を見た。誰も一言も

発しようとしなかった。

 「つまり、嫉妬や満たされぬ情念を抱いた

女性の思いが、着物の帯を巨大な毒蛇に化け

させると言っているのです」

 宮部はもう一度、繰り返した。

 「そ、そんなことが…」

 大谷が「起こるわけない」と言おうとして

口をつぐんだ。留置場で見てしまった巨大な

漆黒の蛇の姿を思い出したからである。網膜

に焼きついた光景だけは消しようがない。

 「…起こってしまったのです」

 宮部は短い言葉だが、はっきりと言った。

 「では、先生。田口教授を殺害したのは、

この帯だったのですね」

 大久保がテーブルの上の焼け焦げた帯に目

をやりながら言った。

 「そうです。夫人が見たという黒い影のよ

うな大蛇、そして殺された田口先生の首に残

されていた布による絞め痕。このつながらな

いような二つの事実を結ぶ答えは、それしか

ありません」

 「なんてこった…」

 大谷が頭へ手をやりながら、呻いた。

 「この着物の帯が巨大な蛇のようになり、

田口先生を絞め殺してしまったのです」

 宮部は事実を再確認するように言った。

 「そんな事、いくら鑑識で調べても判る訳

がありませんよ」

 大久保も唸る。科学捜査では、凶器が帯で

あったことしか判らなかった。それが殺意を

抱いた蛇に変身したなど、判るわけがない。

 だが、それは事実であり、動かしようのな

い真実であった。

 「人の科学の限界か…」

 大久保はそう呟いて、肩を落とす。自分た

ちの捜査が真実に及ばなかったことを悔やん

でいるようだった。

 「そうではありません。知識というのは、

蓄積されるものです。それを生かすも殺すも

人間次第なのです」

 宮部は落胆する大久保に言う。

 「現代の人々は、妖怪やお化けなどを存在

しないものとして決めつけています。ちょっ

と調べれば、ちゃんと本に記されている事で

も、それは嘘だと思ってしまいます。それが

誤解を生み出してしまうのです」

 「……」

 「昔の人が今の科学の本を見れば、そこに

書いてある事をウソだと思ってしまうでしょ

う。あるいはインチキな流言を振りまく存在

として、書いた人間を魔女裁判にかけて焼き

殺してしまうかもしれません」

 「……」

 「でも、書かれていることは真実です。そ

れ以外の何物でもありません。信じられない

のは、読む人間に信じようとする気持ちも、

信じるだけの知識の蓄積もないからです」

 宮部の言葉に、ウーンと大谷が呻く。

 言っていることは正論だと判っていても、

それを認めるのは至難のことなのだ。

 そんな大谷の様子を見ながら、宮部はさら

に言葉を続けた。

 「昔の文献に残されている事柄が、いくら

奇異なものであったとしても、それを解答を

導き出す情報の一つとして認めればよかった

のです。鑑識の調査で凶器は帯のようなもの

だと判明しました。そして、事件の目撃者で

ある夫人の証言は、巨大な蛇のような妖怪が

田口先生を殺したというものでした。この二

つをしっかりと結び付け、その二つともが満

たされる解答を探すことが必要だったのだと

思います」

 「宮部先生。そうは言っても、中々…」

 大谷が困ったように言う。

 「わかってます。すぐにそれを理解するの

は難しいでしょう。だが、今回で大谷さんも

もう一つの世界を知ったはずです」

 「ま、まあ、確かに…」

 「知ること。それが大切なのです。見たこ

ともないモノを信じろと言っても、それは無

理な話です。ですが、知ることすら拒否して

しまったら、真実はいつまでも見えません」

 宮部はそこまで言って、熱弁してしまった

自分に照れたような表情を浮かべた。

 「まあ。そういう時のために私のような人

間がいるんですよ…」

 そう言って、宮部はコーヒーを手にとって

口にした。苦みのある濃厚な味が口の中に広

がり、宮部はフウと息をついた。

 隠された闇の扉を開けるのが彼の仕事であ

り、そこに封印された真実を見つけ出すのが

彼の存在理由でもあった。

 だが、その真実を見た達成感と同時に、常

に疲労感も味合わずにはいられないのだ。

 「…ところで、先生」

 一息ついたところで、おもむろに大久保が

言った。

 「今回の事件が、その…蛇帯という妖怪に

よるものだとして…。先程の話では、それを

生み出した人間がいるはずですが…」

 それを受けて、宮部はコーヒーをテーブル

に戻した。そのゆっくりとした動きの中に、

宮部の苦悩のようなものが感じられた。

 「そうですね…。それを明らかにしなけれ

ば、この事件は終わりませんよね…」

 そう言って、宮部はテーブルの上にある焼

け焦げた着物の帯を手にした。

 「これは、田口先生の長女である光恵さん

の結納に使われるはずだった着物の帯です」

 宮部の表情は暗い。暗いを通り越して、沈

痛さまで感じさせた。

 「私がガソリンをかけて焼いた蛇帯が消え

た痕に、これが残っていました。と言うこと

は、留置場で見た大蛇は、これが化けたもの

だったということです」

 宮部の確認にみんながうなずく。

 「そして、この着物の帯は当然ながら、田

口の屋敷内にあったわけです」

 そこまで言って、宮部は言葉を切った。

 次に語られるべき言葉を言ってしまうのを

哀しんでいるようにも見えた。気まずい沈黙

が部屋の中に漂った。それが示している事実

を誰もが暗黙の内に理解していたのだ。

 「つまり…だ。先生はこう言いたいんです

よね」

 大谷が宮部の代わりに、言葉を継いだ。

 「この着物の帯は、田口の屋敷の中にあっ

たものだ。すると、この帯を蛇に化けさせた

のは、屋敷内で眠りについていた女性という

ことになる…と!」

 「そ、そんなバカな…!」

 抗議の声をあげたのは柿崎だった。

 「そうだろ。つまり、身内が抱いた恨みに

よって、田口幸之助は殺されたと…!」

 「ま、まさか、ありえない!」

 柿崎は必死に抗弁する。だが、その言葉に

は強さはない。ただ感情のみによる抗議に過

ぎないと自分でも判っているからだ。

 「理由はどうあれ、宮部先生の言ってる事

が真実なら、そういうことになる。そして、

それに該当するのは女性だともな…」

 「そ、それは…」

 柿崎が呻く。

 「そう。そして、それに該当する人物は屋

敷に3人いた。夫人である芳江、それに治男

の妻である直美。そして長女の光恵だ!」

 大谷はそう言い切った。

  それに対し、誰も反論しようとはしなかっ

た。いや、出来なかったのである。

 「大谷さんの言っていることは、もっとも

だと思います」

 静かに宮部が口を開いた。

 「そして、留置場で襲われた芳江夫人は除

外してかまわないと思います」

 「ああ、確かにそうだな。それなら、残り

は直美と光恵の二人だ。先生は、この二人の

内のどちらだと思ってんです?」

 大谷の質問に、宮部は一瞬黙り、それから

柿崎の方をチラリと見た。柿崎は泣きそうな

表情で宮部を見ている。その訴えるような目

を受け止めた後、宮部は静かに言った。

 「恐らく、光恵さんでしょう…」

 その一言は、雷鳴のごとく柿崎の上にたた

きつけられた。

 「先生っっ!」

 たまらずに柿崎が叫ぶ。怒りを含んでいる

ようにも思えた。

 「柿崎くん。聞いてください」

 吹きつける怒気を真っ正面から受け止めな

がら、宮部は諭すように言った。

 「蛇帯というのは、人が眠っている間に動

くものだと考えられています」

 「そ、それが…?」

 「私は先程、蛇帯のことを妖怪だと言いま

したが、厳密には違うと思っています」

 「ど、どういうことです?」

 「私が襲われた時のことを思い出して下さ

い。家の中にあるナイフや包丁が、私を襲っ

た時のことです。もし、蛇帯が単なる蛇の妖

怪ならば、それは変でしょう」

 「は…、はい」

 柿崎がうなずく。確かにあの事件は、蛇帯

とはうまく当てはまらない。

 「あれは、一種のポルターガイストのよう

なものだと思っています」

 「ポルターガイスト?」

 横から、大谷が疑問を挟む。

 「ポルターガイストとは、ドイツ語で『騒

がしい霊』という意味です。部屋の物が勝手

に飛び回ったり、動いたりする怪奇現象のこ

とをそう呼ぶのです。ですが、これは霊によ

るものではなく、人間の潜在意識によるもの

だと考えられています」

 「人間の仕業…ですかい?」

 「ええ。テレキネシス…、簡単に言えば念

力でしょうか。一種の超能力のようなものが

物を動かしてしまっているのです。最近の研

究では、そう考えられています」

 「超能力ねぇ…」

 「信じられませんか? 人間の脳の9割は

まだ未知の領域です。その中に、そういう力

が備わっていても不思議ではありません」

 「いや、疑ってませんよ。あんな化け物を

見ちまった後じゃね」

 と、大谷が慌てて弁解する。

 「先生。そのポルターガイストと蛇帯が、

どう関係していると言うんです…?」

 柿崎が尋ねる。

 「ポルターガイストが起きるのは、子供の

いる家に多いのです。まだ自制心が未熟な子

供の情緒不安定な潜在意識が、それを引き起

こすと考えられているのです」

 「わがままなガキのヒステリーみたいなも

んってことですな」

 大谷がウンウンとうなずくように言う。

 「それで…?」

 柿崎の声は乾いていた。大谷の反応など、

目に入っていないようであった。

 「蛇帯も似たようなものだと思っているの

です。ただし、全く逆のケースですが…」

 「どういうことでしょう?」

 柿崎の問いに、宮部は答えた。

 「蛇帯とは、自制心が強すぎる人の抑えつ

けてしまった感情が爆発してしまった結果だ

と私は考えます」

 「自制心が強すぎる…?」

 「普段は抑えてしまっている感情や欲望で

も、眠っている間は無防備です。溜まりに溜

まった感情が、眠っている間に抑制を離れて

暴れはじめてしまう。それも恋愛感情のよう

なモノほどね。そして、そういった情念を強

く持っているのは女性の方が多い。だから、

蛇帯は女性の情念が化けるのだと、古くより

言われてきたのだと思います」

 「…!」

 柿崎が絶句した。宮部の言わんとしている

ことを理解したような感じだった。それと同

時に、「この人はどこまで知っているのだ」

という不安がありありと浮かぶ。

 「柿崎くん。あなたなら分かっていると思

います。何故、光恵さんが蛇帯を生み出して

しまったのか?をね」

 「……」

 柿崎は答えなかった。答えられなかった。

 宮部は、そんな柿崎を哀れに思う。彼の気

持ちは痛いほど伝わってきている。

 だが、それを敢えて明らかにしなければな

らない。そうでなければ、事件は終わること

がないからであった。

 「光恵さんは、今回の結婚について乗り気

ではなかった…。いえ、はっきり言えば、嫌

だったのです」

 「それは、無理強いされた結婚ということ

なのでしょうか?」

 話を聞いていた大久保が聞いた。そこへ大

谷が割り込む。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺も光恵の

婚約者って男は知ってる。確か、五十嵐とか

言うやつだよな」

 宮部は無言でうなずいた。

 「関係者の事情聴取の時に会ったんだが、

あいつは地位もあるし、財産もある。それな

りにいい男でもあったぜ。それなのに、結婚

を嫌がってたのか?」

 大谷の意見に、宮部は静かに首を振る。

 「光恵さんは、そんな条件には興味のない

女性です。むしろ、そんなタイプの人間には

かえって靡かないでしょう」

 宮部は光恵の面影を思い浮かべながら、そ

のように言った。聡明すぎるほどの美貌と、

その裏に秘められていたであろう狂おしいま

での情熱。軽薄な愛などには靡かない強い意

思を持った女性の姿を…。だが、その強固な

心に澱んだ感情が渦を巻いた時、そのエネル

ギーは何を生み出すのだろうか…。

 「そんなもんですかねぇ…」

 大谷の声に、宮部は現実へと戻った。

 「まあ、それはともかく…。彼女には、別

に好きな男性がいたのですよ」

 「へ、それなのに五十嵐って男と婚約した

と言うんですかい?」

 「事情は色々とありますが、そういうこと

になるでしょうか…」

 宮部が答えると、大谷は「そんなもんか」

としきりに首をひねっている。

 「じゃあ、彼女の好きな人とは…」

 大久保が聞きながら、目を柿崎の方へと向

けた。話の前後の状況から、おのずと察しが

つくのは無理もない。

 「ええ。光恵さんが愛していたのは、そこ

にいる柿崎くんだったのです」

 宮部は柿崎を見つつ、答えた。

 「ほ、本当なのかっ?」

 大谷が驚いたように柿崎を見る。大谷はこ

の方面には鈍感なようで、気づいていなかっ

たらしい。

 「……」

 柿崎は黙って目を伏せた。それこそが明確

な回答であった。

 「何てこった…」

 大谷が天を仰ぐように言った。恩師の娘に

恋してしまった弟子。その弟子を愛してしま

った娘。そして、その思いを隠して別の男と

の婚約をしてしまった娘…。昼のメロドラマ

の一本ぐらいは出来るかもしれない。

 「そもそもの始まりは、この婚約から始ま

ったのです…」

 再び、宮部が話を始める。

 「今回の結婚は、光恵さんにとっては望ん

でいないものでした。しかし、彼女は父親や

母親への義理立てから、この見合い結婚を承

諾する形になってしまったのです」

 「好きな男がいるのを隠して?」

 柿崎をチラと見て、大久保が聞いた。

 「恩師の娘とは結婚できない。いや、恋愛

感情を抱くことすら許されない。柿崎くんは

そう思っていたようです」

 「なんちゅう、古いやっちゃ!」

 大谷が呆れたように、お手上げというポー

ズをする。柿崎は黙ったままだ。

 「そうした柿崎くんの思いは、光恵さんに

も分かっていました。光恵さんもまた、この

恋は実らないものだと思い込んでしまったの

です。そして、ちょっとピントのずれたロミ

オとジュリエットが生まれたのです」

 宮部は言葉を切って、コーヒーで唇を湿ら

せた。そして、話を続ける。

 「ですが、そんな押し込められた思いがさ

らなる悲劇へと歩み始めたのです。人間の心

とは、そんなに簡単に割り切れるものではな

かったのですから…」

 柿崎はそれを聞いて、ギュッと唇を噛む。

 それは彼自身の心の問題でもあったのだろ

う。彼もまた、心を殺していたのだから。

 「結婚が近づくにつれて、その思いは次第

に鬱積し、やがて強い憎悪へと変わっていっ

たのです」

 「憎悪…ですか?」

 大久保が聞く。

 「光恵さん自身は自覚していない憎悪だっ

たと思います。しかし、それは確実に存在し

ていました。そして、育っていったのです」

 宮部の言葉は、次第に核心へと近づいてい

く。それと同時に淡々とした調子へと変わっ

ていった。むしろ、そうすることが光恵や柿

崎への配慮なのだろう。

 「憎悪は、自分に望んでもいない結婚をさ

せようとする人間に向けられました」

 「田口先生が進めていたわけではなかった

はずです!」

 いままで黙っていた柿崎が叫んだ。宮部は

その激情を静かに目で制する。

 「確かに、田口先生や夫人がこの話を無理

強いしたわけではありません。しかし、歯車

が狂ってしまった心には、そんな道理は通用

しなかったのでしょう。むしろ、自分が最も

愛する人であるがゆえに、裏切られたという

感情に変わってしまったのかもしれません」

 「……」

 柿崎がガクリと肩を落とす。信じられない

といった感じに、首を強く振った。

 「理由はどうあれ、膨れ上がった憎悪は結

婚を阻止しようとする方向へと動き出してし

まったのです。この結婚話を持ち込んできた

父親さえいなくなってしまえばいい、という

ヒステリックな感情へと…」

 宮部はそう言って、目を伏せた。娘の幸福

を祈ったことで、理不尽な死を迎えた父親の

ことを思っての黙祷だった。

 「そ、それは明らかな殺意ですか?」

 大谷が聞く。刑事の習性が、動機の存在へ

と注意を誘ったのだ。

 「違います。光恵さんの潜在意識…、いえ

無意識の領域での話に過ぎません。光恵さん

自身は全く気づいていないはずです」

 宮部は光恵の殺意を否定しながら、さらに

事件の絡み合った糸をほどいていく。

 「誰も気づかないままに…。そう、本人さ

えも知らないままに、恐るべき妖怪が生み出

されてしまったのです。昔から女の狂ったよ

うな情念は邪心と呼ばれ、ある意味では蛇の

心だとも言われてきました。その執心が、寝

ている間に自分が着ていた着物の帯に乗り移

り、帯は七重にも回る長い毒蛇と化して、思

う相手へと襲いかかっていく…」

  「そ、それが…?」

  「そう。これこそが、蛇帯なのです」

 「それは、光恵が操っているわけではない

のかい?」

 「違います!」

 宮部は大谷に対し、はっきりと否定する。

 「蛇帯が行動している間、本人は深い眠り

に落ちています。決して、光恵さんが蛇帯を

コントロールしている訳ではないのです。邪

心が乗り移った段階で、帯は一匹の妖怪とな

り、自らの意思で動いていたのです」

 「眠っている間に…か…」

 大久保が横で腕を組むようにして言う。

 「ええ。私が蛇帯の存在を確信したのも、

自分が襲われた時でした。あの時、光恵さん

が眠っている間にだけ、事件が起きているこ

とに気づいたのです。そして、単なる蛇の妖

怪ではないということにも…」

 「なるほど…」

 「光恵さんの意識が覚醒すれば、怪現象も

また消滅する。それこそが彼女が意識的にコ

ントロールしている訳ではない証拠です」

 「そ、それは光恵の邪心ではないのか?」

 横から、大谷がしつこく食い下がる。

 「そう…ですね。光恵さんの心であり、光

恵さんの心ではなかった。言うなれば、鬱積

した感情が生み出したもう一人の光恵さんだ

ったと思ってください」

 「もう一人の光恵か…」

 大谷はそう言いながら、留置場で聞いた女

の悲鳴を思い出した。燃え上がる蛇帯から聞

こえた細く哀しい女の悲鳴を。

 「そして、あの留置場の中で蛇帯が燃えた

時、もう一人の光恵さんは死んだのです。そ

の狂おしいまでの思いと共に…」

 「では、もうあの蛇帯という妖怪は?」

 大久保の問いに、宮部がうなずく。

 「もう二度と現れないでしょう」

 そう言葉を結んで、宮部は話を終えた。

  「……………」

 しばし、誰も言葉がなかった。

 宮部が語ったことが真実ならば、それは余

りにも哀しく、余りにも悲惨な事件と言える

だろう。たった少しの気持ちのすれ違いが、

この恐ろしい事件を引き起こしてしまったの

だから…。

    『もし、あの時に…』

 その言葉を誰も言えなかった。それを言っ

てみたところで、砂時計の砂は決して戻らな

いのだ。消えてしまった命が、二度と帰らな

いように…。

 だが、人はいつも思う。長い時の流れの中

で、常に人は後悔を繰り返してきた。そうす

ることで、次の悲劇が起こらないことを祈り

続けるのである。

 「しかし…」

 沈黙を破るように、大谷が言った。

 「田口光恵の責任はどうなりますかね。無

意識であろうが、あるいは別の人格であろう

が、彼女の心が蛇帯とか言う妖怪を生み出し

たことは確かでしょ。そして、それが殺人を

犯したのだから…」

 「責任の追求は不可能でしょうね」

 宮部は答えた。

 「今、田口の屋敷には私の友人である島村

くんが滞在しています。田口夫人が襲われた

時点での光恵さんのアリバイは、彼が証言し

てくれるでしょう」

 「そ、それは…」

 さすがに大谷が驚く。そこまで、宮部が用

意周到に考えていたとは思わなかったのだ。

 島村を田口家に行かせた理由は、ここにあ

った。全くの第三者にアリバイを証言させる

ことによって、光恵に責任の追求が及ぶこと

を阻止したのである。

 「眠っている光恵さんの魂が遊離して、蛇

帯を操った。まさか、そんなことが裁判で認

められるはずもないでしょう。例え、それが

真実であったとしてもね…」

 宮部はニッコリと笑って、大谷を見た。

 「ハ…、ハハハハハ…!」

 呆気にとられたように口をアングリと開け

ていた大谷が、不意に笑いはじめた。

 「ハハハ…。先生、こりゃ一本取られまし

たよ。確かにそんなことで起訴は出来ません

な。ハハハ、こりゃ参った!」

 大谷は豪快に笑いながら、言った。その言

葉に、皮肉などは微塵も感じられなかった。

 「すみません、大谷刑事。それに大久保さ

んも…」

 宮部が申し訳無さそうに頭を下げる。

 「いえいえ、宮部先生…。私たちも誰が犯

人だったかを追い詰めるだけが全てではあり

ませんから…」

 大久保が言った。それに宮部が答える。

 「すみません。一番、大事なことは二度と

事件が起こらないようにすることですから」

 「わかってますよ、先生!」

 大谷がそう言って、宮部の肩をバンバンと

叩いた。豪快な叩き方に、宮部がムセる。

 「これで、事件は迷宮入り…。全てが終わ

ったという訳ですね」

 大久保がフウとため息をつきながら言う。

 事件を迷宮入りさせる、という言葉が、今

後は誰に対しても追求をしないということを

暗示していた。大久保はそう言ったことで、

この場にいる人間の心に全てを秘そうと語り

かけたのだった。

 「いや…。まだ終わってねえよ…」

 突然、大谷が言った。

 「な、何を言いだすんだ?」

 大久保が驚いたように言う。やや、ムッと

した感じが見受けられた。せっかく全てが終

わろうとしているのに、まだ何かを蒸し返そ

うと言うのか…。そんな気持ちが出ていた。

 「光恵の責任を問わない…。と言うよりは

責任を問えないと言った方が正しいか。しか

し、この事件では少なくても人が一人死んで

いるんだぜ。それを闇に葬りました、では済

まないと思うがね。どうだい、先生?」

 「大谷刑事の言うとおりです。まだ事件は

終わっていません」

 宮部が答える。

 「ならば、どうする?」

 大谷が静かな口調で問いかけた。

 「先程も言いましたが、一番大事なことは

このような事件が二度と起こらないようにす

ることです。犯人を逮捕することも、罪を償

わせることも、全てはそこにあります」

 「その通りだよ、先生」

 大谷が我が意を得たりとばかりに言う。

 「この事件を本当に終わらせるには、柿崎

くんに約束してもらうことがあります」

 宮部はそう言って、柿崎を見た。

 「み、宮部先生。何ですか?」

 柿崎が困惑した表情で宮部を見る。

 「あなたの本当の気持ちを皆に打ち明け、

光恵さんを大事にすることです」

 宮部の言葉に、大谷がニヤリと笑う。

  それを見た宮部もニコリと微笑んだ。

 「私は蛇帯が二度と現れないだろうとも言

いました。しかし、それは光恵さんの心が満

たされることが不可欠です。それが出来るの

は…。柿崎くん、あなただけなのです」

 「宮部先生…」

 柿崎が迷ったような表情を浮かべる。いま

だに柿崎の心には、いささかのこだわりが残

っているようであった。

 「思へども、へだつる人や、かきならん。

  身はくちなはの、いふかひもなし…」

 不意に宮部がそう口ずさんだ。

 「宮部先生、それは…?」

 柿崎が不思議そうな表情で聞く。

 「鳥山石燕が蛇帯の絵の横に書き記した和

歌ですよ。思っても届かない思いが、蛇帯を

生み出すのだという意味です」

 「先生…」

 柿崎がうつむく。それにたたみかけるよう

に宮部は続けた。

 「もし、あなたがこのまま光恵さんへの思

いを隠し、光恵さんもまた同じようなことを

すれば、再び蛇帯が生まれてしまうことでし

ょう。それでは、今回のような事件が繰り返

されるだけです」

 「そうだ、その通りだ!」

 横から大谷が同意する。

 「刑事さん…」

 柿崎は大谷を見て、それから大久保へと目

を移した。大久保も黙って、うなずく。

 「柿崎くん。約束してくれますね…?」

 宮部が優しく、もう一度問いかける。

 「…はい、わかりました。先生」

 柿崎が笑顔で答える。その目には、うっす

らと涙が光っているのが見えた。

 「全く、もどかしい男だぜ。こんな男のど

こが良いのか、俺には分からんよ…」

 大谷が、やれやれといった感じでタバコを

くわえた。すると、横からスッとライターが

差し出された。宮部である。

 「…すみませんな」

 大谷はタバコへと火を移すと、ゆっくりと

煙を吸い込み、うまそうに吐き出した。

 「宮部先生…。これで本当に終わったとい

うことですな?」

 大谷はニヤリと宮部を見て、言った。

 「ええ。終わりです…」

 宮部はニッコリと微笑みながら答え、窓の

外へと目を向けた。

 いつしか、会議室の窓から朝の光が差し込

んできていた。事件の謎を解明している内に

夜が明けてしまったらしい。

 暗い夜が明け、輝く朝が来る。その夜明け

は、閉ざされていた心が開かれたことを意味

しているようにも感じられた。

   夜明けのこない夜はない…。

 それを信じられなかった者たちの凍てつい

た思いを溶かしていくように、暖かな陽光が

窓から差し込んでいた。

 その穏やかな朝の輝きの中で事件は、その

幕を下ろしたのだった…。

 

 

 

        終章

 

 京都の事件から、数カ月が過ぎた。

 芳江も翌月には退院しており、今では屋敷

で治男や直美と普段の生活に戻っていた…。

 事件については、やはり妖怪の仕業であっ

たと田口家の人々には説明され、その妖怪も

宮部によって退治されたと語られた。

  但し、そのことは他言無用とされた…。

 大久保たちは強引に捜査本部を解散し、公

式見解も発表しないままに、事件そのものを

迷宮入りさせる形にしてしまっていた。

 真実は最後まで語られることはなかった。

 

 「皆、残念がってたぞ」

 東京にある城北大学近くの喫茶店で、島村

はタバコに火をつけながら言った。

 「どうも、結婚式とかは苦手で…」

 宮部は頭をかきながら、言った。

 宮部の手には一枚の絵葉書があった。数日

前に送られてきたものであった。絵葉書には

小さな教会の写真がプリントされており、そ

こにはウエディングドレスを着た光恵と白い

タキシード姿の柿崎が並んでいる。

 「ようやくですか…」

 宮部は葉書を見ながら、つぶやいた。

 「ああ、身内を中心にしたささやかな結婚

式だったよ。お前も来れば、良かったのに」

 「電報は打ちましたよ」

 「そういうもんじゃないだろ。宮部先生は

来ないのか、と残念がってたぞ」

 島村が呆れたように言う。宮部は肩をすく

めるような仕種をして、テーブルの上にある

チョコレートパフェに手を伸ばすのだった。

 「ところで、あの事件は本当に妖怪の仕業

だったのか?」

 島村は声を潜めて聞く。島村には、妖怪の

仕業としか説明していなかったのである。

 「そうですよ」

 宮部はあっけらかんと答える。

 「本当か?」

 「本当ですよ」

 宮部はパフェをスプーンですくいながら、

飄々と答えた。

 「しかしなぁ…。事件のすぐ後に五十嵐と

の婚約破棄、そして柿崎との結婚。事件その

ものは迷宮入りだろ…」

 「信じないんですか?」

 スプーンをくわえながら、宮部は上目づか

いに島村を見た。

 「わかったよ…」

 島村は苦笑しながら、タバコを灰皿へと押

しつぶした。

 「ところで、宮部…」

 「何です?」

 「本当に妖怪は退治できたんだろうな?」

 島村の問いに、宮部はくわえていたスプー

ンを置くと、絵葉書を手にした。

 「そうですね…」

 そう言いながら、宮部は写真に目を落とし

た。

  そこには幸せそうな光恵の笑顔が写っていた。

 「二度と現れないでしょう…」

 宮部は微笑みながら、答えたのだった。